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証言

タイトル 「教育はピープルのものだ」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第5回 教育~”知識”か”考える力”か~
氏名 大田 堯さん 収録年月日 2015年11月20日

チャプター

[1] 地域の人々と創り上げた「本郷地域教育計画」  17:30
[2] 激変した価値観  05:17
[3] 「ピープルが、子どもの自発性を助ける教育」を目指して  05:11
[4] 「本郷地域教育計画」の限界  12:27
[5] 「“生活綴方”に惚れた」  04:59
[6] 2006年の新教育基本法  05:07
[7] 教育のこれから  11:25

再生テキスト

「日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択 第5回 教育 ~「知識」か「考える力」か~ 」より

占領下、教育の民主化が次々と進められて行きます。 1947年、教育基本法が制定されました。 教育の目的は、「人格の完成」であり、「個人の価値」をたっとぶ、という、戦前にはなかった教育理念がうたわれました。 教育委員会制度も発足。教育の基本方針を決める教育委員を、住民が投票で選ぶ仕組みでした。 地方分権の教育が、目指されていきます。

戦後、地域や学校にゆだねられた新しい教育。それはどんなものだったのでしょうか。 広島県の農村地帯・三原市本郷地区。 新たな社会科の授業に取り組んだ本郷小学校です。

地域を巻き込んだ新しい教育内容・カリキュラム。 中心となったのが、当時東京帝国大学の研究者だった大田堯さんです。 大田さんは、故郷本郷のため、片道一日かけて汽車で通い詰めました。

地元本郷の暮らしを考える4年生の授業。 子どもたちが持ち寄った土で、教室いっぱいにまちの地形を再現。 GHQが視察に訪れるほど注目を集めます。

*****

Q:(軍隊から)戻ってきたのは昭和20年の。

21年の。1年遅れまして21年の6月に帰ったので、軍隊生活は丸4年間。一兵士として、兵長まで出世しましたけども。4年間兵隊だった。

Q:帰られたらすぐ教職の場に入られた。

郷里にまず帰ると。郷里が一時大阪に移っていたので大阪かと思って大阪に帰ったら誰もいない。みんな郷里に疎開してるっていうんで、広島県の郷里に帰ったですね。そして郷里に帰りましたら、早速小学校の先生が、今度社会科という教科ができたけど何とか教えてくれないかという話で、僕はもちろんソーシャルスタディについては、アメリカで行われていることを知ってますので、大体の見当はついた。一部ですけれど、私の生まれた郷里もその本郷町、小学校の先生たちと、今度はもう中央集権の教育じゃなくて、国家支配のもとじゃなくて、地域でやるべきやと。地域の住民そのものの自治によって、学校というものを生み出せないだろうかという、とてつもない計画を持ってね、地域教育計画(「本郷プラン」の他、各地で地域が主体の教育が模索された)をやったんですよ。先生たちも一生懸命、まったく自由なんですから、お上の命令じゃないんですから、自由に自分たちの学校をつくろうと、そのためには地域の人の了解を得なければならないと、地域の人をいろいろ集めましてですね、意見を聞くというようなことをやりまして。それがね、教育委員会の原流なんですよ。結局地域で相談をして、どういうふうにやりましょう、社会の勉強どうしましょう、っていうようなことをやった。自分じゃ気がつかなかったけど、教育委員会というのは全然知られていませんでした。また行われてもいませんでしたけど(日本の教育委員会制度は1948年に発足)、今から見るとそれが教育委員会だなと。実に真に意見を述べてくれて、先生たちも本当に珍しい話を聞いてね。ああこれを社会科の中に盛り込もうと、こういうことで、夜を徹してと言うと言い過ぎだけど、夜遅くまで本当に活動されましてね。それは働かされてるんじゃなくて、自分の時間を持っているというか、自分自身の時間の中に自分の存在があるというね、そういう体験を先生たちはなさったと思うんですよ。ただ問題は、僕は東京から情報を持ってきて、計画を立てて、計画の宣伝ということになりましたのでね、僕自身の判断としては、大きな間違いだった。教育は計画にはなじまないと。やっぱり自然に土地から生み出していくのを助けていくというならいいいけど、こうやれああやれというような形の、僕のイメージで、計画で社会科を進めたって、これは間違いであった。これは非常に大きな過ちというふうに言うんですが、先生たちは本当に自分の時間と存在をそこで見出した。そういう意味では大変大きな経験をなさったので、今でもそういうことは語り草になっています。

Q:それまでの皇国教育から一転して、GHQのもとの新しい教育方針で動き始めたと思うんですが、皆さん大きな違いを感じていたということですか?

そうですね、その典型が社会科だと思いますね。社会というようなものは視野にはなくて、お上から何が来るかということが問題だったけれど、来ないですよ。結局自分たちでやらなくちゃならないという時期だったんです。だもんだから、僕のところへ相談にみえて、内発的で、それこそね、知りたい、やりたい、そういうふうな思いの雰囲気がそこで出てきたかなあと思うんですよね。これはやっぱりあけぼのの時代の一つの特徴かなというふうに思ってますけど。

Q:社会っていう概念そのものがそれまではあり得なかったと。

社会という言葉自体が危険な言葉で。社会主義と結びつけられて、それが今度は教科の時間になるということですから、学校の先生も慌てたわけで、何をどうやっていいのかってまったく見当がつかない。そういうふうな状態だったんですよね。

方々で自主的な実践が行われて、それぞれのところで、いろんな種類のことが起こったわけです。何何プランとかね、そういうようなことが方々でありますけど、そんなプランと名付けなくてもね、例えば当時物が不足していて貧しかったですから、やはり盗人というか、品物が無くなるとことがあるわけです。その場合にその無くなったのは誰かという、犯人捜しをしちゃぁならないと。そうじゃなくて、どうしてこういうことが起こるのか、ということについて議論をしようということでね、2日も3日もその議論を続けた学校があるということが後で分かりましたけどね。

そういうふうにかなり自由にやっていたところもあるという。そういう意味ではやっぱり、内発的な授業というものは芽を吹き始めたかなぁとは思っています。

意外な部分もあるんです。たとえば国が出しました社会科の教科書がありまして、この社会科の教科書というのは、新しい教科であるだけに、文部省の中に新しい人物が入ったんですよ、でなきゃできないんですから。その人たちにね、かなり良心的な人が含まれていまして。そこで教科書が作られて、『土地と人間』という題の教科書とか、その他何種類かの社会科の教科書が出来たんですよ。それでね、社会科の教科書に、あとがきがありまして、この教科書はまだ未熟なものです、他のものも参考にして下さいとかね。この教科書を順々に読んで説明するということはやめて下さい、こういうことが書いてあるんですよ。ところが、大部分の先生はあとがきを読まないで、やっぱりやってるわけですよね。だから講演かなんかでそこを読むと、ウワーと、ああそうなのかと、ウワーと返ってくる経験を、私は講演をするたびに感じましたけどね。ああそうだったのか、参考書として使えばいいのか、そして自分の村のことをむしろ勉強しながら本とつなげればいいんだなというようなことが少しずつ分かりかけてくる、こういう面があったと思うんですね。上からくるものもある段階ではそういうふうな側面をもってたわけで。それだけにあけぼのの輝きがですね、僕らには固く残ってるわけで、

Q:民主主義というのはどういうふうに教育の現場で。

それはですね、封建制克服というか、封建制はいかがなもんだということが口々に言われる時代なんですね。封建制はいけない、封建制はいけないという、何が封建制なのかということを問うには至らないけれども、封建制はいけないと。民主主義で行かなくちゃいけないんだと。民主主義というのはやっぱり、こう、何て言うのか農地改革なんか行われましたから、地主様の言うとおりやってるんじゃなくて、女性も参政権を獲得していましたから、みんながそういう権利を持つようになって、不平等が乗り越えられたんじゃないかと。農地改革なんて大変な改革でね、日本人の政治家では思いもつかないようなことだったんじゃないかと思います。そういう雰囲気が封建制を克服するということに感じとられて、意味は分からないけど、雰囲気としての封建制反対、民主主義と、こういうふうな雰囲気はあったと思うんです。

本当に夜明けの時代というか。それまでにも兵隊を、戦争をやめて、そして兵隊たちが余暇の時間の間に故郷に帰ったら何を食べるかとか、女房を抱くことができるとかね、そういう話を生々しく話して、とにかく生きることができるようになったっていう。いわゆる今までの将棋の駒のように動かされていた生活、自分の時間というものもなければ、自分の意思も通じないというような状態から解放された世界というのは、兵隊たちの憧れの的だったわけですね。ですから、戦争中というものは、やらせ時間がほとんどですね。将棋の駒のようにやらされる時間、ということは逆に自分が存在しないということだと思うんですね。それが全国的にあったわけですから。それがある意味で部分的に解かれ始めたということで、封建制を乗り越えて民主主義へと、こういう雰囲気に行ったのかなあと思いましたね。

僕のやってる広島県本郷の小学校の実践をGHQから見に来たりしました。自由な村づくりを、模型を作るとかいろんなことを自由に教科書を外れてやってるのを見て、これはいい教育だと見て帰っていくというような状態だったですからね。そういう意味の自由というのはあったと思うんですけどね。そうじゃないところは、やっぱりあとがきにあっても、順々に読んで説明するという授業は大部分のところで行われていた。講演かなんかで指摘されて初めて、はあっと皆声を上げるようなあとがきなんですよね。そういう雰囲気だったかなと思うんですよね。

まず憲法ですよね。だって戦争がなくなるっていうのは。戦場から帰って来た生々しい人間がね、もう散々に苦労をしてね、いわば将棋の駒のように身体を動かされるばっかりでしょ。そんなふうな中に、自分は一体どういう意味でここにいるんだというね、存在意義が分からなくなるわけですよ。だけど、相当俺は歴史も学んだし、いろんな学問もやって来たはずなのに、一体あれは何だったんだと、こうね。今まで学んだ学問の意味っていうものがね、全然見えなくなるわけです。戦争というものはね、そういうものなんですよ。一人一人の人間を解体して駒のようにしていって、そしていわゆる力でしょう、銃だとか。そういうものの集団に変えられるということになるんですから。人間的な性格はもう失われるというふうに言ってもいいと思うんです。ですから自分が見えなくなるっていうことは人間喪失。自分を見失うということですから。この状態がずっと続くんですよね、軍隊生活の中でね。そして今までの我々の教養観、学問観が全然意味を持たないということになっている。人間破壊という状態が起こったんじゃないかと思ってますがね。だからそういう状態の中で戦争がなくなったと。兵隊にならなくていいというようになったと。もうこれ万々歳ですよね。こんな開放感なんていうのは、もう本当に出た者でなければ、間違いないようなものだと思いますよ。その上、憲法が出来たっていうことが、まぁどっちかといえば知識階級だから、情報が入りやすい。憲法というものが出来て。憲法はこれは本来アメリカが作ったりなんかをしているけれども、しかし民主主義によるものであると。いわゆる今までのような国家支配ではないという方向を持っていると。

戦争はなくなる、武器は捨ててしまう、この平和を目指していくという。これはやっぱりね、いい時代になるぞっていうね、あけぼのの感覚というものは、そこでつくづく感じられましたですよね。従って、僕たちのその時以来の、今でもそうだなんだけど、信念は、永遠の終戦なんですよ。

六三制というようなものについてもですね、みんな大賛成ですよ。何で大賛成かと言えば、中学校へも行けるようになったと、今までは小学校までだったと。今度は中学校まで行けるようになった。この興味というものは、日本全体を覆うぐらいに強くて。憲法は知らなくてもね、それは賛成という意味で。教育への関心というものは、非常に強かったという時代でもあるというふうに思うんです。ただし、地域でそれをやらなくちゃならないもんですから、お金がかかる(教育にかかる人件費などは国が負担したが、校舎の建設費などは、地元で出さなければならなかった)。 そこで村長が自殺するとかいうような悲劇的なことも起こってくるのは、民主主義の矛盾なんですよね。つまり上からのものを否定しちゃって民主主義のつもりでいるけれど、上は保障してくれないというような状態で。だから矛盾の中で村長の自己、自分自身を殺すというようなことが起こったと。こんなことがあったというふうに思ってますので。そこがひとつ心残りだったというふうに思っています。

今度は我々ピープルが教育を創らなくちゃいけないんだというのが、地域教育計画の(「本郷プラン」の他、各地で地域主体の教育が模索された)発想なんですよ。だから本郷町の人々に集まっていただいて教育の内容や問題を聞いて、それに基づいてカリキュラムを組むという。そういう方法で、たまたま上から社会科という予定もしなかった教科が出来たから、そこへそれを盛り込んでいくと。

教育っていうのは、国家のものじゃないんですよ。教育というものは、公共のものなんですよ。公共というのはパブリックということなんです。パブリックをOED(オックスフォード英語辞典)などを引いて調べますとね、鍵になる言葉はピープルで。ピープルによるピープルのためのピープルのものというのがパブリックです。公園なんていうのはパブリックでしょ。同じように教育はパブリックなものなんです、本来。国家のもんじゃないんですよ。パブリックなもので、道路と同じなんですよ。みんなが世話をしなきゃいけない。道路はお上が作ったというので物をほっぽり投げたりしますけど。道路っていうのは僕らのものやからね。僕は掃除しますよ、自分の家の周りをね。私たちの物なんだということです。

パブリックっていうのはそういう人々のものなんだ。ここんとこを、民主主義の根本原理ですからね。これはしっかり定着させなきゃならないと思ってね。

本当のエデュケーションとはどういう意味なのか。それは自己の内面を表現して、自分自身がユニークに持っている力で、しかるべき出番を社会でもって社会貢献ができる。こうなればいちばんいいんじゃなかというふうに思うんですよね。

国が教育権を持つか、人民が教育権を持つかではなくて、何よりも大事なのは子どもというものの学習権というものがあると。この子どもが、自己表現をして自分を育てていくという根源的な自発性というものがあるはずなので。そこを大事にするということが大事なんで。国家が教育を独占すべきものでもなければ、教師が教育の権利を独占すべきものでもなく、親が独占すべきものでもなく、みんなが学習権を協力して励まして行くというような雰囲気をつくっていく社会。そこが大事なんだと、こういふうに考えて。教育の目的は人格の完成、これで十分やと思う。どんな重い障がいがあっても、その重い障がいの中で精一杯できることがあればね、それを一生懸命にやっている姿を見た時にね、これが人格の完成だと。そういうふうに僕は感じたんですけどね。だからそういう問題が含まれていますので、両者の対立の中に、いちばん中心に一人ひとりの人間が持つ、自らを変えていく力、あるいは根源的な自発性、そういうものが軸なんだと。それを周りの者が助けましょうと。国も助けてもいい、財政的に助けるとか。あるいは親も実際、心の中を打ち明け合って育ててもいい。先生は知識を与えてもいい、協力しましょうと。こういうふうな方向へ持っていくっていうのが僕の目指したことなんですけどね。

子どもたちが親のところへ行ったりして勉強するということもやりましたから、そういう意味では、これは社会科の勉強としても本物に触れて社会を知るというね、教科書を通して以上の、非常にいい成果を上げたということはできると思うんですよ。そういう関係で教えてもらうと、親からね。こういうことが親やいろんな、大工さんとかいうような職業から学ぶという、そういう点においては、僕はある意味を持ったというふうに思ってます。

聞きに行った子ども自身が、子どもだから子どもなりの受け止め方をして来て、これを報告をするということにはなった。そういう場面はあったと思いますよ。ですけれど、全体から言うとですね、社会科のカリキュラムっていうのは第一章を何にするか、その次に何するかとこうなって、指導案を作るんですよ。これが大変教師の苦痛でね。本当に夜11時ぐらいまでかかって作っていくというような苦労をやるわけ。そういう苦労は結構なんだけどね、そういうことをやっていくことでエネルギーが使われてですね、一人ひとりの子どもに触れるという機会が、むしろ奪われるというようなことが起こってね。指導案をどう作ったらいいかと。こういうふうにやっぱり教えるための指導計画というようなものにとらわれすぎると、実際上、上から下へ、こう考えていくというのが実情だったと思うんですよ。で、私の評価した部分っていうのは、むしろ親たちに学校の教育に対して何を要求するか。こういうこともありますよというような、農業ではこうなってますっていうようなことを、両方を提供してくれる。これを僕は、教育委員会などがちゃんとやるべきことをやっていたと思うんです。だからその意見を聞いて、先生がカリキュラムを作るという、そこの過程だけは少なくとも教育委員会の名が存在したと。ここは評価されても、全然僕はそれはそのとおりだと思うんですよ。ただ出来たプランを教えるっていうのに、プランに時間を使って、一人ひとりの子どもに触れて、子どもの声を聞きながらやったかというとね、それはそこまでいかなかったと思う。どうしても教える方へ力がいって。これは失敗だと、僕は評価をして。こういうことやってたんじゃね、教師を疲れさせるばっかりだし。上からの指示によってプランを作るなんていうような状況が出て来ますのでね。これはイカンと思ったですよね。

僕自身は現場と言っても、大学の現場ですよね。大学院の学生で帰ってきたら、僕は特別研究生というね、地位が用意されてありまして。これは助手と違って研究すれば月給はもらえるという、非常に恵まれたものですので、常に本郷に行っていろいろ自由に調査をしたり、研究をしたりして帰っていく。また東京の状況から教わったものを伝えに行く、とこういうことやってましたので、現場の教師としての感覚というのを、僕としてはちょっとそういう立場にはなかったと思うんです。それだけにね、外から持ち込んだという、教育の計画を外から持ち込んだというのはこれは命の原則に反する、という強い反省を持ったから、あとで村の中に入って行って若者たちと勉強するとか、いろんなことをやらなきゃならなくなったわけですね。

日本の教育っていうものは非常に学歴が高いんですよ。これはもう徳川期からヨーロッパの水準にも負けないくらいの高い学歴を持っている。特に武士は持っていたし、寺子屋は普及してた。そういう意味で教育への関心というものは、特に支配者の教育への関心というものは非常に高いものがあったわけ。従って学歴も高かったわけで。ところがですね、まさにそのことが逆にですね、民主主義の教育というものを捉えることが全然おろそかになって。そして端的な話で言えば、自分たちの出世のための手段としての学歴っていうのは大変重視したけれどもですね、民主主義という観点から見るというと、教育はお上が与えてくれたものを受け止めて、学歴を高めるという意味の教育観ですからね。したがって民主主義の立場から言うと、非常に水準が低いわけです。教育はお上のものだと、こういうふうな考え。それから上から与えられてくるものだという考えが強いわけです。だから教育への関心は強い。学歴への関心は強いが、民主主義の感覚というのは非常にレベルが低くて、お上に依存するという、こういう状態から出発をするのが日本の教育関心の始まりなんです。明治に入って近代化したと言いますけれども。

国を中心に富国強兵というものが中心になって。一人の聖人を、天皇を頂いて、万民は全て民であるというふうな関係ですから。そういう人間関係というものの中で近代が出発するわけです。ヨーロッパの近代は自由とか博愛であるとか平等であるとか。あるいはアメリカの独立革命であるとか。そこから近代というのに対して、日本はまるで逆で。上からのお上の力による、その教育というものが出て来るわけなんです。そこがその日本人の教育認識がですね、今だにもって民主主義的な教育認識というものは著しく弱いという。だから高学歴、低民主主義と。こういうふうな関係にあって、1945年(敗戦の年)が来るというふうにお考えいただきたいと思うんですよ。だからそこで、にわかにね、これは東洋的な遺伝ともいってもいいようなもので。中国でも朝鮮半島でもですね、教育の学歴主義は高かったんですよ。儒教があったりしてね。儒教なんてのは全部、政治の手段として、もうフルに使われてきたわけですから。教育というのはお上からくるもんだという考えが強かった。朝鮮半島も同じ儒教の影響が強かった。だから日本も韓国も中国も、教育に対する関心は個人的には強くても、民主主義の観点からいうとずっとレベルが落ちると。こういう状態から1945年(敗戦の年)が出発するわけです。

この個人的な立場からの教育への関心の強さと、民主主義というものに対する考え方というものの低水準という、この問題は教育勅語によってますます強化されますから、ずっと戦争中を通じて、ずっと我々の中入って来てるわけで。いわば東洋的伝統というものが我々の体質の中にハマっていて。僕自身の中に、すぐ教えたがると。こういうことを子どもに教えると、こういうふうに。お上じゃないけど、自分が教えたがるという気持ちがあったわけだから。そこが僕の後の反省点なんですよ。だから「本郷(地域)教育計画」は失敗したんだというふうに言うんですけど、僕が言うのは。しかし形としては、本郷プランだと言うんで、地域で教育をやったというんで、みんな教育指導の中で評価が出て来るけれどもですね。僕の意識の中では実はそうじゃないんでね。これを何とか反省してですね、そうでない教育に変えなくちゃならないというふうに確信をする。その確信の機会になるのが生活綴方(つづりかた)」。

(本人注/戦前の生活綴方は、教育に対する強い国家統制のもと全教科国定教科書とされる中、現場の教師によって行われた唯一の国語科作文。子どもの自己表現を足場として、それを全教科の基礎にすえようとした。高知県出身の教師であった小砂丘忠義らの発想で全国の小学校教師を点と線で結んだ運動となったが、戦時下に弾圧され、300名に及ぶ教師が検挙された。)

「生活綴方(つづりかた)」っていうのは、お上の言うことに従うんじゃなくて、自らの意志を表現する。自分の生活を創っていく。自己表現っていうところに教育の根幹を置いてるわけ。それを励ましていくのが教育だというふうに、ごく少数の教師たちがそういう考え方というものをもってですね、実践をしていく。それにほれたんですよ。コレだ!って。俺がやってることは、何か上から立派な計画、民主主義計画をやってるように見えるけれどね、全然違うんだと。あれは上から下への鳥観図といって、子どもを上から眺めているだけであって。子ども自身の内面からの噴出物というものを大事に大事にするのとは全く違うんだと。民主主義っていうものは一人ひとりの内面から噴き出すものを、それを力として寄せ集めて社会を創り、憲法を創り、そして国家を創り上げるという、こういうふうな形になって。お上がつくったものであるわけだけど、本来の教育というのは、ピープルのものなんです。つまり人民自身のものであり、人民自身の自己表現というものであると。このことを「生活綴方」の一部の教師が懇切に。まぁ私がそういう理解をしまして。これはもう大変な教育実践だと。ひょっとすると(戦前の綴方は)あの天皇制絶対主義の下で、しかもなお個々の子どもの内面からの表現を大事にするのが教育なんだという考えはね、あの天皇支配の下で行ったというのは世界遺産ではないかと。それぐらい重要な教育実践ではないかと。評論家はいろいろ日本の社会を批判をしたりするけれど、教師は生の子どもの内発性を大事にするという、非常に根強い確信を持った実践をやっていると。で国定教科書からちょっと外れても罰則になるという時代の中で、子ども自身の方言を含んだ。

自己表現をやっているというのを評価をしたということ。これはもうちょっと他の国のね。いわゆる後で途上国で行われる学習があるじゃないですか。それにも非常にいい筋のものはあるけれども、全国の教師が連絡を取りながら、そういう実践をやって、子どもたちが変わっていくのを助けていくというね。そういう知恵を分かち合ったという運動は、これは世界遺産じゃないかと。他のところであんまり例を見ないものじゃないかと。これが僕の主張なんです。

何よりもでかいのは教育基本法の改定です。これぐらいでかい改定は無いです。はっきりここで国家が支配するということに、2006年ですけれど、これははっきり国家教育に変わったと言ってもいいと思うんで。再生教育だなんて言いますけれどね、国家教育に変わったんです。ピープルの手から国家の手に完全に切り離されたと言ってもいいぐらいの状態だと思っています。

ご覧になれば一目で分かるわけでね。第一次の教育基本法は長い前文が付くんですよ。それがなんで長い前文が法律に付くんだって、みんなは不思議がったんだけど。それは教育勅語があったから、これからの教育は教育勅語じゃありませんよと。あんなふうに、こういう志を持てなどということが出るような法律は許されませんと。そうではなくて、憲法の精神によって我々はこれから生きるんですよと。こういうふうなものが前文には付いて、キチッとまとまって、本当にコンパクトに、コンパクトに憲法の精神を前文に書いてある。そこへ(新教育基本法は)国家主義を加えたり、郷土愛を加えたり、勝手に政権がやるっていうのはね。もういわゆる憲法改正の何て言うかね、足掛かりみたいなもの(本人注/重大な改定であり教育をとおし国家支配強化をめざすもの)をされるだけならいいんだけど、第一次(の教育基本法)は10条しかない(補足を含めると11条)。10条の一番最後の締めくくり条項はね、どうあったかというと。国がもっぱら、教育行政というものは条件の整備に精を出しなさいと、こう決めていたわけ。内容へ入っちゃいけない。条件の整備にと。(2006年の改定で)これを完全に削っちゃった。不当な権力の支配に属することなくやれと。この教育の条件を整備するのが、これが政府の目的ですよと10条がキチッと決められてたんですよ。そいつを完全に消しちゃったんですよ。そして18条まで作って。あとは全部国家はこういうものができる、国家はこういうものができるという、何でもできるようにしてしまった。いわば元への回帰というか。残念ながらそういう方向へいっちゃったんで。僕の言いたいことはね、そういう大きな仕事はね、国民があんまり関心を持たない。メディアも関心を持たない。報道の自由については関心を持つけれどね、精神が抜き取られるということについてはね、知らんぷりで。教育っていうのは心っていうものを育てるものですが、そういうものには知らんぷりで。

ただその時に忘れてならないことはね、私ども自身の中にね、やっぱり教えたがるという心が、親にもあるし僕にもある。まして国家権力も持つんですよ。だからそこをチェックするっていうこと。そうじゃなし、相手の(一人ひとりが)持っているDNAのユニークさ。これが自らを変えていくのを周りから励ましてあげていくという、こういう立場に我々はあるんだという認識が必要なんじゃないかと思ったですね。

人間の社会の孤独化を問題にしなきゃならないと思うんです。これは戦後の新しい状況です。と言うのは、古い共同体が壊れていっちゃって、人々は営利を目的とした、お金と物の関係で、古い人間関係を解いてバラバラになっていくと。便利で必要なものはそこへ行けば手に入る、お隣の世話にならなくたってそこで頼めばいいと、こういうふうな状況になって、だんだん孤独さが深刻化していく。これが子どもにとって決定的な問題点です。子どもがけんかをするとか、いじめとか言いますけれど、ことは大人たちが全部バラバラになってるという孤独化社会でしょう。そういう中で育っていけばね、どうしても孤独化するわけですよ。そうすると何かに同調すれば気が楽ですよ、いちばんね。自分のユニークさは出さないで、同調すれば気が楽だと。こういう方向へ今の子どもは行きがちになるのは、我々大人の生き方が孤独化しているということが根本の原因なんです。しかも緑が失われてしまっていて、一つ一つの本物に触れて考えるというね、感覚の訓練がないですよ。トンボならトンボとかね、いろいろな虫を経験する、植物を経験する、こんなこと一切ないんですからね、都会の子どもの場合は特に。そういうふうな状況の中で、他方に、孤独化現象があり、大人がバラバラで、友達の関係も疎遠になっていく。自然の中で一緒に、「ああ、こういう物見つけたよ」と同感を分かち合うというような、そういうことの中で知恵が出来るんですよね。そんなことがほとんどできない状況になっていくわけで、今の子どもの育つ、人なる環境というものはね、ひどく厳しいものだと思っています。ここを思い切って、緑を、お金をかけても緑を入れるとかね、ぐらいの政策、あるいは命を大事にすると、お金の代わりに。お金の使い方としては、そういう方向に向かなきゃいけない。お金と物で取り巻かれてしまって、これがやっぱり戦後の新しく現れた状況だと思います。ここのところは教育としては無視できないところじゃないかと思います。

教育っていうものがなかったら、政治もなければ経済もないんですよ。教育があるから我々のこの生活が組み立てられてるんでしょ。だから教育っていうのは、もう根源的な存在機能なんで。その根源的な存在機能を全てのピープルが持って分かち合って大事にし合うという、こういう状況を創り出すというのでなかったらね、これはもう生きがいはないということになると思うんで。それが逆の方向へいってるので今心配をしてる、というのが現実です。だからぜひそのプログラムを通じて、教育はピープルのものだ。ここんところをバーンっと、こう出ればね、僕は満足しますけど。

(日本国憲法第26条に)すべて国民は教育を受ける権利を有する(すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する)という言葉があるわけ。すべて国民は教育を受ける権利を有するっていうね、曲りくねった言い方っていうのは間違ってるんですよ、これは。これはね、我が国の状態を反映してると、僕は思うんですけど。すべての国民は教育権を持つというふうに書くんなら書いてもいいと思うんですが。しかし教育権と書いてくれなくてよかったんですよ、すべて国民は学習権を持つと、こう書くのが憲法改正(改定)の、僕の。改正論者ですから、憲法の。第26条だけはね、あれはダメ。だからすべて人間は学習権というものを持つべきものであると、こうやらなきゃ。その学習を助けるものが教育なんだと。パブリックな教育なんだと。こういうふうに考えていったほうがいいんじゃないかと思うんで。

内面から子どもたちの持ち味を引き出していくというね、そういうものでよい仕事について社会に役に立つようになるのは人格の完成だという、そういうふうな方向への雰囲気で楽しい学校にしてほしいし、楽しい社会にしてほしいというふうに僕は思うんですがね。もう1つは自然の回復だよね。自然って言うと、そうですね、これはもう大自然が与えてくれたものであって、人間の手の及ぶことではありませんね。いつ火山が噴火しても、いつ津波が起こってもしかたのないことなんで、そういう自然の摂理というものを我々は背負っているわけですよ。その動かすことのできない自然の摂理というものを背景において、その場合はどうするかということを考えるのはそれは当然の話で、自分たちの命を守るためには命を大事にする、第一にする。機械じゃない、物じゃない、金じゃない、命を大事にするための防波堤というものを作っていく。

教育というもののいちばんの根本は、まず本物に触れるということです。五感を大事にするということです。五感によって本物に触れるということがあって、ここから学習が起こってくるわけですから。これがいちばん確実な情報です。その次に言葉というようなものとか、音楽だとかいうようなものが入ってくるんでして、その大元の本物と触れるという五感による獲得、ここをいちばん大事にしなきゃならないんですよ。そういうことが全くおろそかになってね、試験のための、テストのための準備なんていうのはね、五感と何の関係も無いでしょ。そんなところで沢山の時間を使ってね、同じような試験の準備をやっているんですよ、学校じゃ。今度出るかもしれないというのを。そんなことでね、まともな時間が使われないという形になる。一人一人の面倒というのはほとんどできないような状態になっているんですよ。だから一人一人と付き合って子どもを励ましていく、そのユニークなDNAを励ましていくなんてできるわけがないでしょ。そこへもっていかないと教育じゃないわけですからね。

PISA(経済協力開発機構=OECDによって3年ごとに行われる15歳児の学習到達度調査)の試験を見てもですね、日本のレベルは非常に高いですよね。 あれは全然あてにならないんですよ。PISAの成績などどいうものはね、学力とほとんど関係がないわけで。というのは、その子その子のことはひとつも分かっていないんですよ。どういう過去を持ったか、どういう未来を持つかという可能性などは見ないで、一瞬の一時間の間(そのとき)の成績でもってね、それで順番を付けるなどということで、うちの学校が上がったとか下がったとかね、そういうふうなことで一喜一憂しているわけ。校長などはね。そんなことは教育の内実と何の関係も無いわけです。だから僕は数値に変えられるような学力の学科というのはね、数学でしょ、それから国語でしょ、読み書き、それからせいぜい社会科の一部とか。こういうようなものを、そんな数値になるようなものを中心学科にしちゃいけないと。 そうじゃなくて、自己表現の教科を中心教科にしなさいと。絵を描いたり、自分を表現したり、あるいは自分で生活創造を仲間と一緒にやったりするような、工作なり、そういう創り出すというような自己表現が中心教科だと。それを助けるために周辺教科があってもいいと、いろんな知識が必要だと。そういうスタイルに学校はむしろ変わっていくべきではないかと。そうすると、学校は非常にロマンに満ちてくるわけですよ。無味乾燥でなくてね、かえってロマンが生きてくるということになるんじゃないかと思うんです。そういう教育はアートであると、これが僕の結論みたいなものなんですけれどね。

プロフィール

敗戦直後の日本で、GHQは戦前の軍国主義を一掃し、民主主義教育を進めていった。
教育委員を地域住民が投票で選ぶ仕組みができるなど地方分権の教育が目指されていく。
大田さんは、復員してすぐ故郷の小学校社会科のカリキュラム作りに取り組んだ。
地域を巻き込んだ新しく実験的な教育内容は注目を集め、「本郷地域教育計画」と称した。
それから70年間、大田さんは教育のあり方を問い続けてきた。

1918年
広島県豊田郡船木村(現・三原市)生まれ
1939年
旧制広島高等学校(文科)卒業
 
東京帝国大学文学部教育学科繰上げ卒業
1941年
太平洋戦争が始まる
 
東京帝国大学文学部教育学科繰上げ卒業
1942年
大学院に進む
 
陸軍に招集される
1946年
復員
 
故郷である広島県豊田郡本郷町(現・三原市)の小学校社会科カリキュラム作りに取り組む(本郷プラン)
1949年
東京大学教育学部助教授
1956年
文部省の長期在外研究員としてイギリスへ
1965年
東京大学教育学部教授
1977年
都留文科大学学長
2001年
故郷の広島県豊田郡本郷町(現・三原市)に「ほんごう子ども図書館」を開設
 
東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授、日本子どもを守る会名誉会長
 
北京大学客座教授
 
広島県三原市名誉市民
 
自宅で学習会・サークルを続けている
 
『学力とは何か』『教育とは何か』『子どもの権利条約を読み解く』『大田堯自撰集成』ほか著書多数

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