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証言

タイトル 「司馬遼太郎とノモンハン事件」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
第4回 二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~
氏名 半藤 一利さん 収録年月日 2014年6月24日

チャプター

[1] 「坂の上の雲」を引き継ぐ作品を模索  09:02
[2] ノモンハン事件  08:58
[3] 「統帥権」という名の魔法の杖   06:54
[4] 責任不在の参謀本部  07:22
[5] 反骨の連隊長  07:45
[6] 作品とならなかったノモンハン  03:15
[7] 司馬遼太郎が遺した言葉  07:06

再生テキスト

Q:坂の上の雲が終わったときに、半藤さんはそれでは足りないと日露戦争については司馬さんもあとがきで書いていらっしゃいますけれど、もう少し続編なりもう1冊書かなければいけないんじゃないかと思われたと。その思われた理由っていうのはなんですか?

それは思っただけじゃなくて、司馬さんにも直接お話しする機会があったときに、「司馬さんあれはあそこで終わっちゃいけないんじゃないんですか」と。言う事は言って、「もう1冊とにかくきちんとお書きにならないと本当の日露戦争を書いた事にならないんじゃないんですか」と言った事があるんですよね。ですから司馬さんは「それは俺も実は私もそう思ってはいるけども、でもあの小説はあれで完結しているんだから、あれ以上は手がつけられない」というような言い方でお答えになっていましたね。要するに何でそういう事を言ったかというと、司馬さん自身も書いていますよ。実は『坂の上の雲』のあとがきとかですね、他のエッセイなんかで。要するに日露戦争に勝った後の日本というのをしっかりと考えないと、いわゆる近代日本の、特にまた昭和という時代を理解するためには、あそこから時を起こしてこないと、本当の日本は出てこないというような事は書いていますよ。あの時代から大変日本の国は日露戦争が終わったあとから日本人がだんだんだんだんと、うぬぼれのぼせた自分たちがそれこそ世界に冠たる国民であるというような、中国の言葉では夜郎自大的な、いい気な民族になっていったと。それが昭和の時代に最も悪い形で出て来たんだという事を司馬さんが書いてますよね。エッセイとか何かで。だから司馬さんご自身はそれを自分でも分かっていたと思いますが。ただ『坂の上の雲』の続編として書こうとするのは無理だという事は、私にも言っておりましたね。それは一応確かに読んでいると「雨の坂」っていちばん最終章の書き方で暗示はしているんですよね。『坂の上の雲』上り詰めたあとには何だろうと言うのを暗示はしているんですけど、でもあれ以上やるとくどくなるんだろうなっていう事は分かりますよね。それであれはあれで終わったんですが。あとはエッセイとか何かでその後の日本というものを少しでも読者に知らせようというので、おやりにはなっていましたけどね。 ただ私も実は最近になって今年になってやっと『日露戦争史』っていう、こんな厚い本を3冊の日露戦争を書いたんですが。 私も実は司馬さんにそういった手前があるからね。日露戦争後というやつをきちっと書かなきゃいけないっていうんで、初めはそう思っていたんですよ。ところがね、終わりというか、ポーツマス条約で一応停戦協定を結んでですね、講和条約を結んで日露戦争が終わったというところまで書いていくとね、本当にくたびれちゃうんですね。やっぱりね、おもしろいもので、こっちも一緒に戦っているような気分ですからね、書いているという事は。ですから“終わったー”という感じになっちゃうんです。あ、そうか、司馬さんも恐らくこれは『坂の上の(雲)』のあれだけの大著ですから、お書きになっている間はご自分も一緒に戦っていたなと。それが“終わったー”と。とにかく一応勝利という形をもって終わったというのはね、“はーっ”と。そうなるんですね。ですから司馬さんにかなり無理を言ったなと。自分でやってみて分かりました。結局私もきちんとして書かなきゃいけないと自分で言っておきながらやめちゃいましたけどね。

Q:それで司馬さんがまだ書かなきゃいけない、でも日露戦争、『坂の上の雲』の続編としてではなく、その次ですね。昭和について書こうという意志を示されていて、書こうとしていらっしゃったのはそういう事実はあるんですか?

私の耳に入ったのはですから、日露戦争後の日本をやっぱりきちんとやらなければいけないというので、参謀本部というこれは陸軍ですがね。参謀本部の歴史というような形でこの日本の近代史をつまり昭和にかけて、お書きになるという事をはっきりと言われたんですよ。「それはすごい事ですからお手伝いしますよ」と言って、かなりそのときは司馬さんにお会いするたんびにそういう話をしていましたよ。いわゆる日露戦争後の大正から昭和にかけてのいわゆる満蒙をめぐっての日本陸軍の構想って言ったらおかしいですけど、戦略ですね。戦略とかそういうものがどういうものであったかというような事を。それとその裏側にある海軍が太平洋を巡ってアメリカと段々対峙していくのが後ろにあるわけですから。そういう事の話をですね、司馬さんと随分やっていましたよ。司馬さんもかなりそのために準備をされて。いろんな本を読んでいましたね。そのうちに2年ぐらいたちましたかね、半藤君、参謀本部の歴史といっても参謀本部っていうのはそれこそ明治の10年代にできるんですから、それからずっと昭和20年まで書くんじゃ、これは大変な、それはもう私も大変だと思ってましたからね。だからこれは大歴史になっちゃうから。やっぱりそれは無理だと。やっぱりいちばん典型的に日本の参謀本部っていうのは何であったかという事は、要するに日本の戦前の日本の国家というものは一対なんであったかと考えるためには、ノモンハン事件という昭和14年の5月から始まって、9月に終わったわずか短い期間しかなかった戦闘ですけど、これをきちっと書く事によって、ある程度全部出ると。昭和というものの時代がですね。だからそっちにするよと言われたのがね、何年頃でしたかね。昭和四十何年頃でしたかね。40年代の真ん中ぐらいでしたかね。ちらちらと言われるようになったんですよね。それでそれはまたね、すごいところに目をつけましたねと、ノモンハン事件というのは、それまにもないわけではないんです。五味川純平さんが『ノモンハン』を書いていますしね。いくつかはあるんですけど、そういうでっかい視点からのノモンハン事件というのはありませんから。だからそれはすごい構想だから。つまり参謀本部の歴史の1つとしてのノモンハン事件なんですが、それをガンとそこだけ取り出すっていうんだからかえっておもしろいと思いましてね。じゃあうんとお手伝いしましょうって言って、かなり手伝うようになったんですよね。

インパールとかそれからレイテとかっていうのは、もう太平洋戦争始まってからの戦争ですから。あれはもう、ごちゃごちゃごちゃごちゃして、つまりあの、本当にそこだけポンと抜き出して、これで日本のいわゆる国家が考えていたものが何かというようなことはですね、ノモンハンがいちばんいいんですよ。あれ何もないんですから。何もないとこに、もちろん日中戦争はあるんですが、あれはもうあの、昭和14年ごろは、あの泥沼戦争で、要するに戦争らしい戦争してないで、ただごちゃごちゃやってるだけですが、だからそこへポーンと日中戦争の戦場から離れた、満蒙のあそこへポーンと出たわけですよね。だから、これはいちばん絶好なんですよね。

Q:そのいわゆる、参謀本部が何やったかとか?

関東軍とはなんであるかとかね。そういうのを考えるのにいちばんいいんですよね。

原型があるってことで。つまり、昭和史っていうのは結局いろんな理屈をつけられますけども、満州というものの権益を巡って、日本が世界の各国を敵に回して戦わざるを得ないとこに、自らが追い込んでいったっていうのが、昭和のいちばんの原型ですから。つまり満州というの、は何であるかということを考えなきゃいけないのが大事なとこですから、これは日露戦争の終ったときに、満州というのが、それまではロシアが、当時は帝政ロシアですが、帝政ロシアが清国と協定を結んで、その満州の権益を全部自分たちが持てたわけですよね。大連とか旅順を使う権益とか、いわゆる後の満鉄と言われているあの鉄道線を、自分たちが押さえる、検閲とか、っていうの、みんなロシアが持ってたわけです。ところがそれを日露戦争が勝ったときに、ポーツマス条約で、条約を結んだときに、日本に全部譲渡すると、譲るというんで、日本がボンともらったわけですよね。つまり満州というものの権益を。で、日本の国からすれば・・満州というものは何かというふうに考えると、これはつまり日本の国防を考えるためには、日本の国はこういう細長い国ですから、国防というんで、日本の本土で守ろうとしたら、ものすごい海岸線が長いですから、どっから敵が攻めてくるか分からないから、これは膨大な軍隊を貼り付けなきゃいけないですよね。

そこで日本の指導者が、外で守ろうとしたんですよ。つまり、日本の国土では、本土では守れないから、外側で守ろうとしたのが朝鮮半島なんですよ。で、朝鮮半島で守る、今と違いまして昔はミサイルとかなんかがありませんから、あの、要するに海軍と陸軍ですから、まあ空軍はあってもそれほど力がありませんから、だから要するに外で守ろうという。で、朝鮮半島で守ろうと、国防の生命線としての朝鮮半島だったわけですよ。ところが、朝鮮半島を日本が併合して、まあ日本領土としてみると、まだ不安でしょうがないから、もういっぺん外側の満州で守ろうと。だから満州が生命線になったわけですよ。だから、満州は国防的に言えば生命線だし、で、満州の権益は、またこれ日本の産業的に見れば、新しいバネになる、産業発展させるための本拠地になるわけですよね。だから、いろんな見方、日本がどんどんどんどん狭い国土に人口が増えて増えてくるから、その人口のはけ口としての満州っていうのもありますし、それから農業というものを、満州は荒野がすごいですから、日本の農業を満州に植えつけて、日本の食糧その他いろんなものの生産基地として満州というのもある、というような形で、満州ってのが、この、近代日本のいちばん焦点っちゃおかしいですが、大事な生命線であり、あの、利益線であるわけですよね。そういうふうに考えてくれば、満州っていうのがいかに大事かっていうことが当然分かるわけで、そこの満州で起きたのがノモンハン事件ですよ。ですからまあノモンハン事件っていうのは、単なるあそこの国境線の、事件そのものは実にくだらない事件ですよね。ハルハ川、あそこの流れてるハルハ川っていう川が国境だと。蒙古と満州の国境だというのが日本側の主張です。ところが向こう側は、それよりもハルハ川越えた、そこにノモンハンって町があんですが、5キロくらいあるんですか、そこをこういうふうにしたところが、国境線であると。と言って、ハルハ川を越えて、この満州の、このノモンハンというところの土地の草を食べに、牧羊とか牛が来るわけですよね。で、それが国境を越えて来たというんで、出てけと。だから要するにノモンハン事件っていうのはつまんない話で、国境がどこかというだけの、あの、大戦争になっちゃったわけですよね。だけど実際は根本的には、満州をいかに守るかということの、ノモンハン事件ってのは、いざというときに本当に戦争になったときに、満州をいかに守るかというための、いわゆる代理戦争っちゃ予備戦争なんですよね。で、ですから現実的には、ノモンハン事件が終ってから、太平洋戦争始まるまで、ノモンハン事件は昭和14年の9月に終わるんですが、15年の9月、それから20年の9月、・・・16年の9月、大体2年とちょっとしかないんですね。その間のあの、今でもノモンハン行くと分かりますけども、ソ連はすごいですよ。ものすごいあの防衛陣地を作ったと。あの、穴を掘って。ものすごいあの、いざというときのために、ノモンハン事件終わった後ですよ。作った跡が今でも残ってますよ。残ってる・・・私見たわけじゃないんですが、あの、そういう写真を見たことありますけどね。っていうことは、ソ連もあそこのあの一帯が、あの、いざというとき日本と本当に戦争するための大戦場であるっていうことは承知してるから、向こうも作ってるわけですよね。だからノモンハン事件っていうの、後でソ連側はあそこへものすごい防御線陣地を作ってますから、いざというときはまたここから日本は攻め入ってくるというのは知ってるわけですよね。

Q:しかしすごく象徴的な意味としてものすごくいろんな意味含んでる・・

みんな、すごい意味が全部含まれてるわけですよね。ですからそれはそういう意味でノモンハン事件を見れば、あの、確かに司馬さんがこれをひとつにまとめてみれば、日本という国がどういう、あの、つまり国際的な考え、まあ国防も含めて、国際の中の、あの、大きな、世界の中の日本というのをいかにいくべきかというその戦略的なですね、日本の国策が浮かび上がってくると、そういうふうに思ったのも間違いないですよね。それは非常に正しいと思いますよ。

Q:そのときに、司馬さんがその中のひとつの要素として書こうとした、その参謀本部ってあるじゃないですか。何が問題だと言っておったんですか? その・・

つまり簡単に言えば、陸軍が考えている戦略というものが、日本の国の国策、いわゆる政治を引っ張っていけるんだと。つまり、陸軍の方針のもとに、日本の国策というものを、どうにでも引っ張っていけるもんだということを、陸軍は非常に強く狙ってたわけですよね。だから産業にしろ何にしろ、産業にしろ、それから報道にしろ、まあ何でもいいですよ、教育にしろ、全て日本のいろんな問題を、陸軍の方針のもとに引っ張って、その方向に作っていけるんだと、国家をつくっていけるんだというふうに参謀本部は思ってるんじゃないかというのが司馬さんの基本のあれですよね。でもそこまで思ってたかどうかてのは難しいですけどね。

Q:そのときにその、ひとつキーワードとして、“魔法の杖”と呼んだ。

まあ司馬さんね、司馬さん自身がお考えになって、考えに考えた、なぜそんなに陸軍っていうのが日本の国の政治をですね、あの、自分たちの思う通りに引っ張っていこうとしたのかというのは、司馬さん本当に考えたと思いますよね。で、考え付いたのがその統帥権と。統帥権というものを、統帥権っていうのは言葉が非常にきつい、あの、何て言うんですか、厳かだから、何かすごいもんだと思いますが、そんなことない、簡単なことで、軍隊指揮権なんですよね。軍隊指揮権ですが、つまり軍隊指揮権ですが、統帥権というものを、これは政治とは関係なく独立してるんですよ。軍隊の指揮権っていうのは。これは日本の国の、前の憲法によっても定められているように、日本の国というのは政治外交というものと、軍隊指揮というものとは、あの、関わりないんですよ。はっきりと分かれてるんです。だから、政治が軍隊に対して、軍に対して、お前たちのやってることはけしからんからやめろ、なんてことは言わせないんですよ。関係ないんです。で、軍隊の方はまた政治とは関係なしに、自分たちの思う通りの構想でこの国を引っ張っていくという方針を貫こうとするわけですよね。で、そこでまあ問題が起きるわけですけど。でも少なくとも軍隊は、日本の国の政治とかそういうものによって左右されて、自分たちの意見を変えるというようなことはする必要がないというふうに思っているのが統帥権の独立の思想であって、それを振り回すことによって、魔法の杖のように振り回すことによって、軍隊は政治の上を行くことができたと。それが日本の国を滅ぼすような形になったんだと、まあ簡単に言えばですよ、いろんな要素がありますけど、それを司馬さんが明らかにしようと思ったんじゃないですか?で、それが統帥権のまあ独立というものであり、統帥権が軍隊によって盛んに振り回されて、で、この国を滅ぼしていったんだと。というのは、司馬さんの考えついた・・。僕はね、その点について司馬さんとはずいぶん議論したんですよ。この点については、「それはちょっと司馬さん違うんじゃねえか」と。それは確かにそういうふうに見られるけども、統帥権が悪いんじゃなくて、統帥権を振り回す参謀どもが悪いんであって、統帥権そのものが悪いっていうことじゃないんじゃないですか、というんでね、司馬さんと議論したけど、司馬さんはね、かなりキチッとした考え方を持ってましてね、それはお書きになってもいるから、はっきりとまあ、「統帥参考」(陸軍大学の教本で、統帥権が行政権から独立していることを説いていた)というあの、司馬さんの文章(『この国のかたち』司馬遼太郎)の中に出てきますよね、「統帥参考」というものを見れば、半藤君そうじゃないじゃないかと。我々はその、政治・・・の外側にちゃんと俺たちはあるんだと。俺たちの好きな方策でやっていけるんだ。だから、国家の中に国家をつくってるんだと。というのは司馬さんの、ね。だから、明らかにこれは統帥権をあの、悪用してるんじゃなくて、統帥権そのものにね、そういう要素があるんだよ、というのは、まあこれ難しい話ですけどね。

当時の政治が、ノモンハンで何がどういうふうに起こって何なってんのかってのは、ほとんど知らないですよ。ですからね、当時の政治は、昭和14年ですが、当時の政治やってんのはあの、平沼内閣なんですが、やってるのは何かって言ったら、日独伊、特にドイツですが、ドイツとの防共協定を、それあの、昭和11年にもう結ばれてたんですが、それをさらに強化して、軍事同盟まで持ってって、軍事、日独伊防共協定というやつを日独伊軍事同盟に持っていこうということで、政治の方はそれとばっかりやってるんですよね。それで、ノモンハンなんていうようなとこで、あの、ソ連軍と日本の関東軍が真っ向から撃ち合って戦争してるなんていうのは、ほとんど知らない、全然知らないことはないですよ、ほとんど知らされてないですよ。それを見ると、いかに軍隊っていうのが勝手に自分たちの理屈で国家の運命を賭けて大戦争をやってるかっていうのを、ぞっとするような話になるわけですよね。

もう一つ私ね、こっちの参謀本部の作戦課長に取材を司馬さんがされたときも付き合っているんですよ。

Q:稲田正純さん?

稲田正純。

Q:そうですか。

あれは料亭でやったんですけどね。

Q:天ぷら食べながらって書いていますもんね。半藤さんがいらっしゃったんですか?

それでくそみそに司馬さんが出てきてね。「何も語らない」と。「薄っぺらなあんな話だけじゃ、ああいうのが作戦課長だなんてとんでもない」なんて怒っていたのは覚えていますよ。それは覚えていますけどね。

稲田正純のあれは不快に思っていたみたいでしたね。またね、ツルツルツルツルね、つかみどころのない返事をするんですよ。かなり突っ込んで司馬さんが聞くときに。

Q:半藤さんが横で聞いていてもそう思いますか?

何人かが聞いてましたけどね。だいたい軍人ってそういうところありますけどね。ツルツルツルツル何て言うんですかね、しっぽをつかまれないような。うまい答弁をするんですよね。結果的には「知らなかった」って言えば、「いや記憶に無いなぁ」なんて言えば済んじゃいますからね。

Q:で、もちろん司馬さんとしてはその統帥権のことを聞こうと?

聞こうとしてましたね。

これがなかなかね、ちょっともう記憶に無くなっちゃっているから、それほど明確に答えられないんだけど、要するに司馬さんの聞きたいのは、参謀本部というのは関東軍に対してどういう指揮と指導とそれから政略といういろんな言葉がありますが、できたんですかやったんですかっていう事ですよね。ところが稲田正純は「もちろんそれは関東軍は参謀本部の指揮下にあって、だから参謀総長がやめろと言えば、これは関東軍はその指揮に従わなければならないんだから、当然指揮はできるんです」なんていう事を言う。 じゃあそれをなぜああいうね、悲惨な戦闘になるまで引っ張って行って、勝手に関東軍が作戦を練って、それで突撃して行って沢山の人を殺しているのを黙って見過ごしたんですかとか聞くと、それは黙って見過ごしていませんよ、ちゃんと指導していますよって。だけど全然関東軍が言う事を聞かないじゃないですかと。こういう質問じゃないけどね。分かりやすく言えば。それは関東軍が悪いんであって我々じゃないんだ。なーんていう調子ですよ。ですから何を言ってもツルツルッとすべってくるんですよね。自分たちに責任は無いんだってところに最後は来るわけですよね。でもそういうものなんですよね。日本の軍隊というのは、参謀というのは責任が無いんですから。指揮官は責任がありますけど。だから参謀本部の参謀総長には責任があるでしょうけど、作戦課長なんていうのは、これは要するに参謀でしかないんですから。 責任は無いんですよ。・・というのはね、これは特に、だからノモンハン事件が終わった後で、こんなふうに戦争拡大して、そしてやらなくていい戦争をやって、それで沢山の人を殺して、傷つけてですね、そういうような事をやった事に対する責任はどこにあるのかという事は問われるわけですよね。当然問われるわけですよね。それを問うていくと、関東軍司令官と参謀長だけで終わりですよね。それでいちばん肝心の服部卓四郎、それから辻政信、それ以下の関東軍の強硬派が戦闘をがんがんやっていった連中は、責任は特に取らされないで、移動はされますよ。ちょっとね。服部卓四郎も飛ばされましたよね。辻政信も飛ばされましたけど。

Q:たかだか1年とかですね。

たかだか1年ですよ。それでたかだか1年どころじゃなくて、今度は帰ってくるときには参謀本部のあれですよ。作戦主任で帰ってくるんですよ。何か中央に帰ってくるんですよね。

Q:関東軍から参謀本部に帰ってきたって事ですか?

早い話が関東軍からちょっとよそ道をしたけど、参謀本部に帰って来たって事ですよね。つまりそれが日本の陸軍のものすごいあれですよね。考えるのはちょっと私は一般には考える事ができないような人事でそういう構造になっているんですよ。それはじゃあ文句をつけられないかって、それは文句はつけられない。統帥権は独自なものなんだから。「他の者が余計な事を言うな」ですからね。それがですから「統帥参考」(陸軍大学の教本で、統帥権が行政権から独立していることを説いていた)なんて読むとそう書いてあるんですよね。だからこの連中は国家の中に国家をつくって、自分たちの好きな国家をつくって、自分たちの好きな事をやっていたんだと。みんな無責任なんだという事を司馬さんはどうしても書きたかったんじゃないんですか。

ですから司馬さんはどうしてもそれが国家というか、日本の昭和というものをこんなに悪いものにして、そして国家を滅ぼした元凶なんだというふうに司馬さんは思っていたと思いますよ。

Q:取材を始めるまでノモンハンの事を書こうと思っていた司馬さんが取材をやった結果そういう無責任な人たちを。

もっと分かったと思いますよね。もっと分かったと思いますよ。だから予想していた以上にこの連中は陸軍の中央部にいる連中あるいは関東軍でもいいですけど、こういう連中がいかに勝手な事を考えて、勝手な事をやっていたかという事はもっとよく分かったと思いますよね。

司馬さんのお書きになっているのは、河井継之助でも坂本龍馬でもどなたでもいいですけど、誰でもいいですがね、みんな爽やかな人ですよ。少なくとも自分で自分の人を不幸にするような事を平気でやるような人間じゃありませんよ。みんなね。困難に向かってちゃんと正面から立ち向かって行って、切り開いていくようなそういうさっそうたる人たちばっかりですよね。どなたも。ですから己の美学によって生きていくと言いますか、そういう人たちが司馬さんの書いている主人公でしたよね。だから司馬さんの小説ていうのはある意味では明るさがあったんですけど、ノモンハンに出て来る連中の中で、そういう連中は一人もいないんじゃないんですか。多分一人もいないと言っていいんじゃないんですかね。一人だけいたのが須見連隊長だと思いますよ。この須見連隊長という方が26連隊でしたか、他の連隊長が次から次へとみんな亡くなっていますけど、あるいは自決してますけど、この方は最初から最後までノモンハン事件に参加して、それでしかも上に対する批判をどんどん言いながら、それでまた命令には忠実に戦った方ですよね。ですからある意味では司馬さんのお書きになろうとしたノモンハンの主人公にふさわしい人間かなというところはあるわけですよね。ちょっとかたくななところはありましたけど、ある意味では昭和の人間的なかたくなななところはありましたけど、でもまぁきちんと自分の立場というものを上には恐れずに言いますしね、さりとて命令違反とするような事はしないで、やるときは本気になって戦っていますから。 そういう人ですから、あるいは須見さんを主人公にして、お書きになるのかなと思っていましたけどね。

Q:半藤さんも司馬さんと須見新一郎さんが会って話される場面に立ち会ってはいらっしゃるんですか?

1回だけあるんですよ。

私も一緒について行ったんです。ついて行ったって、別にただついて行っただけで。取材をしたわけじゃないんです。司馬さんの取材のそばにいただけです。

そのときは初対面のときでしたからね。だからそれほど話ははずまなかったですけどね。でもその後知り合ったから、司馬さん今度は独自で行かれたんでしょうかね。2回か3回お会いになっているんじゃないんですか。私は1回だけ。初対面のときに。

いや、あの、それは戦闘の状況とか、ノモンハンの地形がどうであるとか、そういうのはもう全部いちばん知ってるわけですから。例えば、日本軍はノモンハンの平原にこういるわけですね。で、ソ連軍及び蒙古軍は、台地にこういるわけですよ。だから、日本軍から見るとソ連軍は高いとこにいる。ソ連軍の方から見ると日本軍は真下にこう、見えるわけですよね。だから、地形的な不利はもう日本軍に断然あるわけですが、だからその感じっていうのは、あの、なかなかつかめないじゃないですか。と、それをその、今ちょっと思い出すのは、「地形、どういう感じでしたか」ってこうなると、須見さんが、「そうでしたね、丁度東京のあの(まだ高速道路とかなんかができてない頃の)靖国神社の九段坂の上から、神保町を見たような感じだと思えばいいんじゃないですか」というような話があったような気がしますよ。

だから上からボカンボカンとやられた感じですね。こっちからは見えないから、なかなか敵の陣地に、飛行機の上で見りゃあいいですが、砲弾が行かない。というのは、非常に不利な形で戦闘したわけですよね。それはね、そういうような、まずはそういうような基本的な話から聞くわけですよ。まあそれだけはちょっと憶えてるのは、靖国神社の、九段坂から神保町を見たような感じですよって。

Q:その、半藤さんから見て須見さんっていうのはどういう人物に見えましたか?

うん、非常に硬骨感といいますか、きつい感じの人だと思いましたね。

まあ後からですよ、で、私も私なりに考えてるうちに、あ、そうか須見さんを主人公にする、これ私が勝手にそう思ってるだけであってね、本当に司馬さんがそう思ったかどうか知りませんよ。ただ私に司馬さんが、最後に。

須見さんの手紙を見せてくれたことがあんですよ。司馬さんのおうちで。ええ。それは私も書いたことですけれども。

Q:どんな手紙だったんですか?

だから要するに、司馬さんが文芸春秋の何年の新年号でしたか、瀬島龍三と対談をしてるんですよ。で、その対談が載ってますよ、文芸春秋。対談、まあどちらかというと、まあ新年号ですから、和やかな、和やかなっておかしいけど、というような、まあ気をあんまりねえ、読む人の気を逆立てないような、実にいい対談なんですよね。敬意をちゃんと司馬さんは、瀬島龍三というひとりの人間に敬意を表しているのがよく分かるようなね。で、向こうの言ってることに、若干賛同してるようなところも見えたようなところもある、ってが載ってるんですよ。それを須見さんが読んだんでしょうね。それで要するに、あなたを私は信じて、信じてじゃなかったな、あなたを信頼して、か。信頼してなんでも取材に応じてお話したけども、あなたが国賊というような人間と、国を滅ぼした大責任者というような人間と親しく心打ち割って話してるのを見て、あなたという人を私は、要するに、絶望しましたとは書いてなかったな。要するに、気持ちの中で許せなくなりましたってなことですよね。簡単に言うとね。

Q:司馬さんはそういう取材を続けながらどういう思いを抱いているように見えましたか?

作家っていうのはおもしろいもので、司馬さんだけじゃなくて、いろんな方に私は付き合っていますが、やっているときは滅多にしゃべらないですけどね、その事は。だけど深く考えているっていう事はよく分かるんですよね。だから本当に考えていたんですよ。

何て言ったらいいでしょうね、司馬さんは一応小説家ですから。歴史家じゃないですから。資料を並べればいいというものではないんですね。あの方は。ですからやっぱりある程度読者というものがどういうふうに理解してくれるかというためには、物語性を持たなきゃいけないでしょうから。という事は司馬さんの言葉を借りれば、「空」だっていうんですよ。「空」の中につかみ取ってきて、こねくりまわしているとね、結晶が出てくるんだって言うんですよ。司馬さんの言葉ですよ。それで「よし、書ける」という事になるんだと。だから書くまでは「空」なんだと。それを一生懸命こねくりまわしているんだと。それで結晶が、「空」の中から結晶が出て来るんだそうですよ。それが出てきたら、初めてこれは書けるなという事になるんであるから、それでこれは司馬さんがいちばん最後の頃に「もうノモンハンは書かない」と言われ出してね、私なんかしつこい、司馬さんに「そんな事言わないでせっかくここまでおやりになったんだから、お書きになっていただいて」なんて言うと、そのとき司馬さんが言った言葉ですよ。今の話は。「半藤君な、私たちの仕事っていうのはいわゆる“無”なんだよ。“空”なんだよ」って。事実はあるよと、事実はあるけど、ただ並べただけじゃいけないから、これをどういうふうにして、事実をもっと分かりやすく伝えるとか何かいろいろな事を考えて、ほとんど「空」なんだと。それをこねくり回していて、司馬さんがそのとき言った言葉で、「これはもう無理なんだ」と。「僕の体力的にも気力的にも。もう無理なんだ」と。「もう、それができなくなったから書かないって言っているんだ」と。「自分でできると思えば書くよと。だけどできなくなったから書かないと言っているんだから、これ以上何も言うな」と。「それ以上書けという事は、俺に死ねという事だよ」と。とまで言いましたよ、最後は。それからもう私、言わなくなりましたけどね。

司馬さんが亡くなる1年前に、ちょうど1年前の2月に、お亡くなりなる本当に1年前でしたね。2月にある2人で対談の仕事をやって・・残っていますけどね、対談は残っていますが・・そのあとバーでホテルのバーで12時半ぐらいまで一杯飲みながらいろんな話をしたんですよね。そのとき司馬さんはオウム事件とか、それから阪神大震災とか、ああいうでかい事が起きて、さっきもちょっと言いましたけど、体も相当悪かったんじゃないかと私は思いますけどね、でもね、「戦後の民主主義というか、私たちがこれがいちばん正しい事じゃないかと思って築いてきた国家の基盤と言いますかね。平等であり、差別が無しでしかもみんなが同じ大地の上に立ってというような、こういう国家を相当丁寧につくってきたと思ったのに、これの私たちが一生懸命やってきた国家づくりの努力というのは、あまり強くなかったのかね」と、「結局私たちが一生懸命こういういい国家をつくろうとした基盤というのはね、そんなに強くなかったのかね」という事を盛んに言っていましたよ。ちらちらっといろんな事でね。土地問題を考えただけでもそうでしょ、そうだろう。なぜ、先祖伝来の、みんなしてきちんと大事にしなきゃならない土地を商売のお金儲けの対象にして、みんなして・・これ、ま、彼の最後の頃の一番頭にきてた問題でしょうけど、「こんな馬鹿な事ないじゃないの」とかね。それからある意味では司馬さんは戦後民主主義というか、戦後の平和な国家づくりというものを、本当に本気でやっていたと思いますよね。それがむなしかったという思いがちょっとしていたんじゃないかと思いますよ。だから、私に最後に言った言葉、これは私も方々で書いていますけど、「ここまで来たときにどうしようもないと言って、我々が手を放り投げちゃいけない、最後の努力でもいいから、我々がやろうじゃないか」と私に言うんですよね。「何をですか」と言ったらね、「1億の国民がいるが、1億の国民がみんなが1億、全部が同意するような事はできない」と。「でも、8千万ぐらい、80%ぐらいの人たちが何しろ7千万、70%の人たちが同意できるような事があるんじゃないか」と言うんですよね。「そんないいことはありますか」と言ったら、「これ以上自然を壊さない」と。「ここまで日本が来ちゃって、これを元に戻せっていうのは無理だけど、ここまで来ちゃった事は認めて、だけどこれ以上は自然を壊さないという事を私たちはみんなに呼びかけて、これを同意してもらって、みんなしてこれ以上自然は壊さないという事にしようじゃないか」と。「そうすると日本は随分よくなるよ」というのが司馬さん最後の。「私たちの孫とかひ孫たちに、美しい川を残さない、それからはげ山ばっかり残すなんていう事じゃなくて、また美しい魚釣りができる、あるいはトンボとりができる野原をそのまま残すような形でこれ以上自然を壊さないという事だけは70%の人は同意するんじゃないか」と言うんですよね。だから司馬さんね、それは私がすぐ同意しまして、「いい案だと思いますから明日からでもやりますけど、でも70%の同意取れますかね」と言って、「なんでだ」って言うから、「自然を壊さないという事は、これ以上人間が欲望を広げないという事ですよ。欲望を広げないという事に人間は同意できればなるほど日本人はみんなして自然をこれ以上壊さないようにして、何とか今のかろうじて残っている美しい国家をそのまま存続できるかもしれませんけども、だけどこんなに欲望が肥大しちゃったね、民族が、お前今更やめろよと言う事に同意できますか」と言ったんでね、そうしたら司馬さんが「いや、同意できると思う」と。「まだ間に合うと思う」というのは司馬さんの最後の言葉でしたよ。

Q:人間を信じていたんですね。最後まで。

まだ最後まで信じていましたね。「同意できると思う」と。「7割の人は同意すると思う」って。だけどそれから1年後に亡くなっちゃったんだけど、司馬さんの遺言と思って私はその事は機会があるたびに言いますけどね。ただ、人間の今私たち現代人の人たちの欲望は制限できないぐらい。どんどんどんどん広がってるね。

Q:戦争とかも結局そうですもんね。

ですから司馬さんが最後まで人間に対して信頼感を、日本人に対して信頼感を置いていましたけど、言葉としてはね、非常にいい案だと思うしいい言葉だけど、無理なんじゃないかと思いましたけどね。でも私は言っていますけどね。

Q:司馬さんは日本人を最後は信頼していた。

と、思いますね。「できると思う」と言ってましたからね。

プロフィール

昭和史の第一人者として知られる作家の半藤さん。文藝春秋の編集者として、司馬遼太郎の間近に接した。特に、司馬が昭和の軍部やノモンハン事件に関心をもち、取材を進めている頃には、昭和前期の日本について司馬の話を聞く機会に恵まれた。「ノモンハン事件について書いてほしい」と何度もお願いしたが、ついに司馬が書くことはなかった。

1930年
東京に生まれる
1953年
東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社
1960年
司馬遼太郎に初めて会う(司馬の直木賞受賞インタビュー)
 
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、顧問などを歴任
 
昭和史の第一人者として著書多数

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