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タイトル 「レイテに残された傷病兵」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
氏名 松戸 義勇さん(第1師団 戦地 フィリピン(レイテ島)  収録年月日 2008年7月

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チャプター

[1] チャプター1 レイテ決戦へ  08:16
[2] チャプター2 リモン峠の57連隊  12:14
[3] チャプター3 「死の谷」  07:24
[4] チャプター4 肉弾攻撃  06:03
[5] チャプター5 転進という名の退却  05:52
[6] チャプター6 残された1,800人の将兵  03:56
[7] チャプター7 戦争を伝える  05:02

提供写真

再生テキスト

これはね、僕がフィリピンのレイテ島に行ったというので、当時の森総理大臣だ、これ。森さん。森喜朗か。喜朗さんが感謝状(公務傷病に対する慰労状)をくれたんですよ。感謝の意を表するというようになってますけど。軍属じゃない、私は軍人ですから、これは森さんがくれたんです。森喜朗って名前が入っているでしょう?

Q:やっぱり誇りですか? 戦争に行ったというのは。

まあねえ。今度のレイテ決戦、レイテはね、決戦という言葉を使ってるんですよね。大本営でも決戦という言葉を使ってますし、現地の指揮官がみんな「レイテ決戦」と。だから日本が勝つか負けるか、このレイテで決まると。それだけにレイテ決戦というものを重要視したんですよね。

僕のね、写真がありますよ。初年兵当時の。

Q:これはお幾つのときのですか?

僕はね、昭和11年に出たんですよ。昭和11年。あなた方は知らないだろうけど、二・二六事件というのが、昭和11年の2月26日。大雪の日にね、二・二六事件というのが東京で起きたんですよ。二・二六事件が起きたために第1師団は、けしからんということで、満州へやられて、満州の国境警備をやったんです。そうこうしているうちに4~5年たって、山下大将が“覆面将軍”としてフィリピンへ行ったんですよ。山下さんは、関東軍は世界最強であると。世界で一番強い兵隊であるという自慢をしておったと。その第1師団を呼んだんですね。自分の指揮下に入れようと思って。それで僕らは山下大将の後を追って、上海集結したんです。上海を。上海で集結して、そして上海からバシー海峡を横切って、フィリピンに行ったんですよ。そのとき私は・・・これは私が軍曹当時です。軍曹当時。誰か撮ってやって。軍曹の肩章。これは軍曹の肩の印です。肩章と言ってましたね。

Q:お幾つだったんですか?

えー、21でしょう、これ。21歳。

Q:21歳ですか。このままフィリピンに行かれたんですか?

ええ。佐倉57連隊の酒保の班長をやってたんですよ、私。酒保。酒保ってのはご存じかな?

Q:ええ、分かります。ええ。あの・・・。

57連隊の酒保の班長をやっていて。兵隊さんのタバコだとか、ヨウカンだとか。それからアルコール類・酒類、そういうものを販売してたんですよ。だからこのときも、57連隊の酒保品をこん包して、輸送船に積み込んで、戦地で酒保品を兵隊さんに分配してやる仕事をしていたんですね。

Q:まず松戸さんがレイテ島に向かうことになったとき、どんな気持ちで向かったんですか?

私どもは二・二六事件が終わってから、満州の国境警備隊ということで行ったんでございますが、大東亜戦争が始まって、山下奉文の指揮下に入っておった関係から、フィリピンの方面へ関東軍も進出したほうがよろしいという山下さんの薦めによって、我々は上海を経由して、フィリピンのマニラへ直行したわけです。ただ我々が直行したときには、まだ米軍は必ずしもレイテ島に上陸するということではございませんでした。米軍の北上が遅れたために、私共は沖縄に行く部隊が急きょレイテ島へ回されたといういきさつがあります。

Q:レイテ島に行くときに、やっぱり勝てると思って行ってたんですか?レイテ島に向かってたときは、やっぱり勝つぞという気持ちで行ったんですか?

ええ。もちろん山下さんや大本営の言う、日本最強の軍隊は関東軍であると。しかも世界で最強は日本陸軍であるということを言われていたので、私共はまさか戦争に負けるという考えは毛頭ございませんでした。

Q:実際レイテ島に上陸して、初めて米軍の攻撃というか、米軍を見たとき、どんな状況だったんですか?

私共が戦闘に参加したのは11月の1日が上陸の日ですから、11月の5日が我々が戦闘に参加した日でございます。当時、飛行機は日本はあまり優勢でなかったので、アメリカの飛行機しか見なかったのですが、当時アメリカの飛行機は今考えますと、ロッキード(P38戦闘機)という飛行機ですが、胴体が2つあったんです。胴体が。日本でそういう飛行機は見たことございませんで、我々兵隊も「あ、胴体が2つ、あれはアメリカだ」と言って、非常にアメリカの飛行機というものは恐ろしかったですね。ドラム缶をたたくような音で機関銃で射撃されました。ちょうどドラム缶をたたかれるような悲鳴をもって。我々はアメリカのロッキードというものの非常に恐ろしかった記憶がありますね。

私たちはね、第一線は佐藤さんという第3大隊。連隊の編成を見ると、連隊本部があります。そうすると連隊本部と第1大隊と第2大隊と第3大隊。連隊は3個大隊ですよ。3個大隊だけど、1個大隊ずつ投入されますから。3個大体全部一緒に戦ができればいいんですけど、連隊本部があれば誰か守ってやらなくちゃしょうがないから、連隊本部に1個大隊ぐらいが、連隊本部を警備するために守るためにいるんですよ。私たちが5日の、4日の晩は、第2大隊が連隊本部を守るための、第2大隊が警備をしていたんですよ。第3大隊が第一線に出て、佐藤さんですよ、佐藤大尉がね。そしてアメリカの兵隊さんと、撃ちあいを演じておったと。そしたら日本の陸軍が優勢でね、当初は勝ち戦ですから。当初は追撃に移ったんです。追撃に移ったところが、待ち伏せを食って、アメリカの兵隊に狙撃されて、佐藤大隊長はそこで戦死したんです。リモン峠の、ちょっとくるぶ所で、カリガラっていう所で、カリガラ湾っていう湾の入り口ですね。そこで佐藤さんは戦死されて。相当の兵隊がそこで亡くなってるんですよね。従って、これはもうダメだと。ちょっと下げようというわけで、それから500メートルくらい下がった所へ、恒久な陣地を作って、そこで対抗したわけです。

私たちが一番嫌な思いをしたのは、アメリカ軍が使った火炎放射器っていうのがあるんですよ。火炎放射器といって、このぐらいの長さの先に、ガソリンか何かを噴霧器で噴霧するような。ガソリンがシャーっと出るようなあれがね、ああいうふうな物で、火炎放射器ですから陣地が燃やされちゃう。日本の兵隊はみんなタコツボに入ってるのに、アメリカは50~30メートルの所からシューっと火炎放射器で。レイテ島の芝が燃えるんです。夏は暑いのにガソリンで火をつけるから燃えちゃう。すると兵隊は熱くて入っていられないでしょ、壕の中に、タコツボの中に。従って、それを円ぴで消しながら戦争をしたというのが苦労でしたね。それからやっぱり50~100メートルくらいの近距離での戦争ですから、お互いに手りゅう弾の投げっこですよ。30~40メートルくらいしか行かないんだけどね、手りゅう弾。手りゅう弾っていって投げてボンボンと爆発するやつがあるんですよ。あれをお互いに投げ合いながら戦争をしたと。ただ日本の有利なのは、日本が上にいてアメリカは下から攻めて参りますから、だから投てき量(距離)、投げる量(距離)は日本のほうがたくさん出ますよね。アメリカは30メートルしかいかないのに、日本は50メートルいくと。上から投げるわけですから。そういう有利な点もありましたけど、とにかく勇敢なのは日本の兵隊のほうが勇敢に戦ったと。

Q:さっきアメリカ軍は火炎放射器使って、スコップで消しながら応戦したとおっしゃっていましたけど、松戸さんたちはどんな気持ちで火を消しながら戦ってたんですか?

雨がしょっちゅう降ってましたから、せめてもの救いですね。雨はね。雨よ降れ降れと。レイテの雨で非常に苦しんだという反面、火炎放射器で燃やされるような心配もありましたから、雨よ降れ降れなんて、やったもんですよ。ただ、まあ火炎放射器は恐ろしいのは、火ですからね、レイテは兵隊のひざくらいまである草ですから、一面の。それが燃えるんですから。だからね、熱くて戦争するったって、撃てないんですよね、熱いから。だからずいぶん火炎放射器というのには悩まされましたね。火炎放射器とね、それからね、木の枝にペッと触発信管と言ってますけど、木の枝に触っただけでボカーンと爆発するんですよ。触発信管を使って爆弾が爆発する、その爆弾。それからもう1つ怖かったのは、タコツボを掘ってるこういう傾斜の所を、斜め傾斜のところをタコツボが掘ってあるんですから、そこに入って狙って撃つんですから。だからそのタコツボを埋まるんですよね。ボーン、ヒューッと(砲)弾が来ます。ダダーンと落ちて、内地の地震のようですよ。グラグラグラっと揺れですよ。そうするとタコツボですから、雨は降ってるし埋まるんですよ。砂が、水だからね。だから触発信管と、芝が燃えるような火炎放射器と、それから触発信管。木の枝に当たってバーンと。普通爆弾は下からバーンとくるんですよ。触発信管は上からべーっとやりますから。壕の中に入ってる兵隊はみんなケガしちゃうんですよね。上からバーンとやられるから。アメリカの兵器は、やはりアメリカはすごいなあという感じは持ってましたね。日本の兵器よりアメリカの兵器はすごいと。それから補給の力。生産力。

Q:タコツボの中の日本兵が埋まったという話を、もうちょっと詳しく説明していただけますか?

ああそうですか。私もね、爆弾を持ってきて研究したわけじゃないんですが、とにかく日本のてき弾筒のような、1メートル弱の筒のようなところに入れて、スポーンと撃つようですよ。そうするとデーンと向こうへ落ちて、地震のように地盤が揺るがす。そうすると砂と水ですから埋まるんですよ。埋まるたびに兵隊は円ぴでまた元のように掘りながら、その労力が大変だったですよ。腹が減ってくるし、食べるものも満足にないですから。だから塗炭(とたん)の苦しみというか、ああいうのはね。塗炭の苦しみでしょうよ。私たちはまだ知らないだけ元気ですから、どうやらこうやらしのいだけど、もう死ぬほどの苦しみを、負傷した者なんかは動けないですからね。動けないところへもってきて、そういう爆弾に、そういうものにやられたらね、もう円ぴで消すのがやっとなんですよ。消して消してね。それすらできないのが実情だったですね。消すこともできない。掘り直すこともできない。雨とともに自分の命を縮めていく。だから私らも死ぬのは覚悟の上ですから。もう日本には帰れないと。とてもじゃないが帰れないと。我々は死ぬんだと。この島で死ぬんだと。だから1分先、今死んじゃうのか。5分後にこいつが死ぬのか、それは分からないですよね。お前が死んだら俺が線香を上げてやるよと。俺が死んだらお前が線香を1本でも上げろと。お互いにそんなことを冗談混じりに言って、戦争をしていたんです。1分早いか1秒早いかの違いですから。いつかは死ななくちゃならないですから。

Q:そんな中、日本軍の兵隊さんたちはどうやって対抗したんですか、アメリカ軍に?

結局日本は肉弾戦。日本の兵隊さんは肉弾戦ですよね、最後は。さっき死の谷の話もしましたし、命を投げ出してやってんですから。肉弾。「弾が来なけりゃ、人間の魂を持って当たれ」というぐらいに、日本の兵隊は訓練されましたから。だからアメリカが新兵器を持って対抗してくれば、日本も切り込み隊か何かを作って、将校下士官で10人ぐらいのグループを作って、山の中に入っていって、爆破するんですよね。斬り込み隊と言いましたけど。だから組織戦闘というのは・・最後は何でしょうね、そういう肉弾戦でアメリカに対抗するしか方法はなかったんじゃないですか。

毎日雨ですね。雨。雨に悩まされました。毎日が雨ですから乾く暇がないですよ。だから軍衣袴といいます、衣袴の縫い目にシラミがたかって、お日様がピカっと光るたびに裸になって、襦袢(じゅばん・下着)を脱いでシラミ取りをやったものですよ。シラミは真っ白で、真っ白いシラミを1匹ずつ潰しながら、風呂も入れないんですから、苦労した経験がございますね。雨と食糧、それと何ですね、オルモックから泥濘(でいねい)、道が泥だらけですよ。雨ですから。それで、兵隊の、軍靴で歩きますから、もう田んぼと同じような状況の中で戦争したわけですから。これはもうどう説明して良いか、筆致(ひっち)に尽くせないという現状ですね。とてもじゃないが、話だけでは理解できないと思いますよ。

Q:理解できないかもしれないですけど、レイテの雨、台風はどれだけすごいんですか?

雨そのものはすごくないんですが、毎日が雨ですから。タコツボの中へ水がどんどん押し込んできて、兵隊は小さい池の中で戦争しているような状況で、膝から下は水ですから。塹壕(ざんごう)を掘りますから、タコツボですから、そこに水が流れてくるわけですよ。従って、腹は減るし水で悩まされるし。夜も眠れないような状況ですから、水で。しまいには立っていられなくて、背のうを土台にして、背のうの上に腰掛けて寝たこともありました。それだけ毎日の雨がすごかったですね。大きな雨じゃないけど、しとしと降る雨で、毎日の雨ですから、積もり積もってね、膝ごろまでなっちゃうんですね。
それからもう、亡くなる兵隊さんは、人間誰でも亡くなるときは水が欲しくなるもんですが、水を欲しがったですね。だから我々はオルモックに上陸して、リモンの峠で戦争になったんですが、リモンの峠の下にはリモン川という川が流れていて、川の所に兵隊さんが水欲しさに降りてきて、そこで腹を膨らませて亡くなってるんですね。従って「死の谷」というあだ名がついたわけです、そこが。日本の兵隊さんが、水欲しさに谷に降りてきて、1杯の川の水を飲みながら亡くなっていったというのが現状ですね。

Q:松戸さん自身も、その川を通ったりしたことがあるんですか?

ええ、我々はそこが連絡路になってます。第一線と補給線・・要するに後ろには輜重(しちょう)さんが米だとか乾パンだとか食糧を持って、いるんですよ。その第一線とその輜重の間は、我々が連絡道として使ってたんです。そこに降りてくんですよね、兵隊さんが。だからどうしても私は、我々はそんな丁寧には・・戦争中ですからね、かたせませんけど、1人2人で担なっちゃ、道を開いて第一戦へ物を運んだという状況がございます。だから屍(しかばね)を乗り越えてということわざがありますけど、もったいなくて乗り越えられないんです。本当に、思い出しただけで泣けてきます。もう25~26のみんな若い連中でしょう。その人たちが、こんな腹を膨らませて水欲しさに降りてきて亡くなるんですから、見ただけで泣けてくるんですよ。

Q:今でもその光景が目に付いて離れないですか?

まあ、何ですね、よく本や何かに、筆致、筆舌に尽くしがたいとか筆致に尽くしがたいとかというのがありますが、本当にどういう表現で話したらいいか、話の持っていきようがないです、かわいそうで。25~26ですよ。これからの青年がみんな亡くなっていくんですから。しかもウチにいれば懇ろに弔いをされて、お父さんお母さんに懇ろに線香を上げてもらって他界するんでしょうけど、戦場ですから、泥水の中で腹をこんなに膨らませて死んでいくという状況は本当にかわいそうでした。

日本の兵隊はね、日本へ帰るというのは1人もおらんですから。最後は自分の肉体をもってアメリカにぶち当たろうと。要するに肉弾ですよね。ええ。そして、日本の国というものをね、有利に導いていこうというのが日本の兵隊の考えですよ。だから肉弾ですよ。ところがね、あなた方もよくご存じのようにね、もうそういう戦争はできませんよ。肉弾、肉弾なんてのはもうできませんね、これからは。これからはやっぱりね、科学戦ですよ、科学戦。

Q:あの、肉体をもってぶち当たるっていうのはどういうことですか?

結局まあ、日本で盛んにいう大和魂。日本人には大和魂があると。だから兵器やなんかで負けたって、我々は魂でもってぶち当たっていくと。要するに肉弾だよね。肉弾で、自分の五体で、自分の肉をもって敵を制するという風な気習がね、日本の陸軍の教育目標にあったんだからね。だから日本の兵隊は強かったんですよね。

Q:それは例えばその手りゅう弾とか持って体ごと突っ込むような攻撃のことなんですか?どういうことなんですか?

肉弾戦っていうのは突っ込むですよ。もう弾も尽きたと。あの、爆弾もないと。残ってるのは自分の肉体だけだと。その肉体をね、敵にぶつけて、それで敵を困らせて、そして戦争を有利に導こうというのが日本の考え方ですから。だからね、まだ撃つ弾がある、爆弾があるうちはまだまだ余裕がありますよ。何にもなくなったと、あと残ってるのは肉体だけだと。その肉体すら敵にぶつけてやろうというのがね、日本の軍隊ですから。だから肉弾っていうより肉体って話したほうが話しいいかな。肉体。自分の肉体をぶつけていくのよ。

Q:あの実際、松戸さんご自身は斬り込みに参加したことなんかあるんですか?

ありません、私は。

Q:それはないですか?

ええ。私は機関銃ですから。重機関銃ですからね。軍隊の編成というのは重機関銃と歩兵砲はね、歩哨に立たないですよ。機関銃隊はね、配属になるの。だから、“第4分隊は機関銃を持って、第2大隊の一番右のほうへ行って戦闘しなさい”と。そういう風なこと言われるでしょ。だから、自分が、命令で上から来ますからね。だから自分の意志で、そっち行ったりこっち行ったりすることはできないよね。だから私はね、斬り込み隊にいっぺんも行けなかったの。

ただね、弾薬の管理をやらせられましたよ。歩兵、歩兵にね・・私だってよ、じゃあ“6000発の小銃弾があるから持って行きなさい”と、戦闘司令所からもらって、それで配るでしょ。だから私だって弾がなくなっちゃうんですから。だから私の分だけくださいと。5000発なら5000発くださいと。自分の部下に配らせて。だからね、本当にね、補給ですね。戦争っていうのは消耗作戦ですから。消耗ですから。

補給が思うようにいかないっていうのはね、あの、アメリカの潜水艦、あれがね、みんな・・だってバシー海峡、我々はね、上海からね、台湾経由でフィリピンに行くときに、あのバシー海峡の沿岸でね、アメリカの潜水艦が張り付いてんですよ。日本の輸送船が通るたびに出てきて、バカーンバカーンと魚雷を発射する。そうすると日本の輸送船はそこでみんな。日本へ10杯(隻)油を積んで行けばね、どこの作戦がやれるというのにね、途中でボカチン食っちゃうでしょうよ。そうするとそれがバツになっちゃうんだから。足らなくなっちゃうんですよ。そうするとね、その作戦ができなくなっちゃうの。ラバウルならラバウルへ3杯・・だから補給戦っていうのは怖い。消耗、消耗作戦ですから。

レイテでね、約7~8万の兵隊が死んでるでしょ。だからもうあきらめなさいと。レイテ決戦という話があったけども、あきらめなさいと。それで隣のセブ島へね、転進という言葉使った、転進。転進というのはね、転がして進むと書くのが転進っていうの。昔の退却ですよ。昔なら。ところが日本の軍人はね、退却という言葉を使わないの。それで私らはね、カンギポットって山がレイテにあるんだけど、カンギポット。そこへ私ら集結したんだけどね。パランポンっていう港がある。パロンポンを攻撃するんだという建前で。パロンポン攻撃ということでね、その、カンギポットの山を下りたんですよ。そうしたところが、セブ島へ転進したんです。だから、あそこら辺が僕らも分からないよ。転進っていう言葉使わなかったですよ。最初は。転進っていうことはね、悪く言ったら退却ですよ。もうここは不利だから捨てて、他へ移動しようというのが退却ですからね。だからセブへ我々が行ったということは、レイテ島あきらめて、レイテはしょうがないと、でセブへ我々は転進したというのが実情ですね。だから、私らが転進したのはね、昭和19年の12月の20日ごろだったんだよね。セブ、レイテを捨てて、セブへ転進したのは。それは上からの命令ですよ。我々が個人個人に、転進したんじゃないんですよ。とにかくもう組織戦闘はできないと。レイテではできないと。だからレイテは捨てなさいと。捨ててもよろしいと。その代わり部隊はセブ島へ集結しなさいと。それで集結して。

Q:松戸さんが、リモン峠がもうダメだって思った瞬間とかってあるんですか?

うーん、私たちは戦況の大部分が分かりませんからね。ずっと偉い師団長とかね、軍司令官なら分かるけど、我々じゃね、もうレイテはダメだとかセブへ行くとか、我々は分からんからね。ただね、私はね、“ああ、これ、戦争もこれで終わりかな”と思ったのはね、カンギポットって山があるんですよ。険しい山がね。そのカンギポット集結、西海岸ですからね、それはね。東海岸へアメリカが上がったんですから。それで、我々西海岸ですから。西海岸へ、カンギポットっていうのは西海岸にあったですからね、カンギポットへ集結しなさいというのは、西海岸へ集まれということですから。レイテはあきらめなさいねと。

Q:リモン峠からもう撤退を許されたわけですよね、ある意味“転進”って。その撤退を許されたときに、どういう気持ちになりましたか?

ああ、まあ、あんまり気持ちよくなかったね。負け戦だなぁという気持ちだったね。負けるかなぁという気持ちが一層強くなりましたね。それで、だってパロンポン攻撃、パロンポンを攻撃しないでね、不利になって大発(大発動艇・小型舟艇)に乗ってあんた、隣のセブ島へ転進しちゃったんだから。戦争しないんだもの。パロンポン港、パロンポンっていうのは港町でね、そこにアメリカのね、アメリカのその、大発、大発かなんだか警備艇がね、たくさんいたんですよ。それを攻撃するということでね、パロンポン攻撃で、船で行ったんだよ。そしたらパロンポンへ行かないであんた、海ん中、セブ島へ行っちゃったんだから。だから、こりゃあね、これは負け戦かなぁというように嫌な気持ちでしたね。レイテのようなああいうね、勇敢な気持ちからね、嫌な気持ちでしたよ。レイテを捨てるということに関してはね。レイテ捨てちゃったんですから。本当の日本軍ならね、3000でも5000でも日本の兵隊が血を流して死んでるんだから、そこを捨てていかないですよ、普通なら。そこを捨ててね、隣の島へ行くっていうのはね、これは戦況がよくないからですよね。だから私はね、これはダメだと。あんまりいい気持ちじゃなかったね。ことによったら、これは日本は負けるかもしれないよと。

我々が行くときにはね、のろしを上げたりなんかして合図をしておった人がいて、みんな残っちゃったんですよ。レイテ島へ。そういう人たちはね、どうしたのかなぁと。おそらくね、弾は最後まで取ってあったんだろうけどもね。おそらく無残な死に方をしたんじゃないかと思いますよ。2000人くらい残っちゃったんですから。レイテへ。我々はセブ島へ行って、セブ島へ上陸するときには、レイテの方へ向いて手を合わせて。そして、まあ、武運長久を祈って、我々はセブへ上陸したんですから。そしてセブへまたアメリカが追いかけてきて、セブでまた戦争やりましたけどね。それでセブ島で我々は終戦になったんですから。

Q:あの、レイテに残してきた仲間たちに対する思いとかってありますか?

うん、だから私たちはね、私らは佐倉(千葉県)の連隊ですから。歩兵連隊は軍旗があるんです。軍旗が。団結の象徴だけど。で、軍旗を、その軍旗をね、佐倉へお返ししようと思って持ってきたんだ、我々は。もう苦労して、その、タバコのケースぐらいのね、大きさにみんな房を切り取ってね。マスコット。マスコットという触れ込みでね。アメリカはね、マスコットって言うと取らないですよね。そういう、だから、宗教的なそういうあれを利用してね、ここにぶらさげて来たんだ。それで浅草の旗屋に持っていって、旗を作ってもらった。それで佐倉へ持っていって、佐倉に引き取ってくれと言ったらね、佐倉の市会議員がね、軍国主義のそういう物は引き取れないと。しょうがなくてね、靖国神社の前、あれは何だ、陸軍省のようなとこがあったんだよね。そこへ持ってったんですよ。

レイテ島にはね、我々が建てた慰霊碑、忠霊塔か、そういうものがね、5か所くらいありますよ。まずリモン峠。リモン峠、57連隊、49連隊静岡。我々が一緒に行って建てて。リモン峠に1つあります。それからガンギボット。ガンギボットの山のすその、井戸がある、その井戸でね、ずいぶん水もらって潤したもんだ。その井戸が懐かしくてね、その井戸のところへ、やっぱり忠霊塔作ってあります。だから、レイテに思いを残すということはね、我々の力じゃどうしようもないと。だからあとはもう、仏に頼ってということでね、坊さんの格好をした人を石に刻んでもらって、残してあるんですよ。レイテ島に。

実は佐倉にね、ふれあい公民館というのがあるんだよ。ふれあい公民館。公民館ですが、そこへ私と長嶺さんが呼ばれて30分間くらい講演会やったんだよ。最後にね、その、2500名の佐倉の兵隊さんはね、164名帰ってきたんです。164名しか帰ってこれんですよ。164名帰ってくるだけしか残れないような戦闘をね、勇敢に戦ったんですと。佐倉の市民に報告しようと思って言ったの。そしたらね、スイと立った若者がね、「164名の中にあなたは入ったんですか?」と。入ったも入らないも、だって生きてきてんだからね。入ったんですよね。だから「どうして入ったんですか?」と。「これはね、神様じゃなきゃ分かりません」と。私に聞いても分からない。みんなね、千人針を持ったしね、神社のお守りを持ったし、みんな持ってるんですよ。いっぱい。だけどね、生ある者と生ない者とね神さまじゃないと分からない。そこで分かれてね、死んだ者もいる。生きて帰ってきた者もいるね。栄養失調で亡くなった者もいるしね。それはね、説明できないですよね。どうして生きてんだって言ったって。だから「それは神様じゃなきゃ分かりません」と、そう答えるほかはないの。だから、あんた方の、そういう生きて帰ってきてどうですかって言われてもね、本当、気の毒のほかないんだよね。
ところが我々が、いくら生きて得だってことがあったってよ、実際に亡くなった人と生きてきた者と、現実におるんですから。両方比べてみればね、これはあれだ。「なんで生きてきたんです」って言われたって分からないよ、これは。

昔の武士のね、武士が戦争で負けてきた、「負け戦のことは話すな」という諺。だから我々がフィリピンで戦争に負けて、まあ帰ってきたんだけども、緘口令(かんこうれい)を敷いたわけでもなんでもないですよ。それだって兵隊さんはね、ちゃんと知ってんだよ。誰もね、負け戦のことなんか話しませんよ。ただ我々がフィリピン、フィリピンじゃねえ、沖縄へ行ったときに沖縄の学生から、「なぜ日露戦争の人たちは、明治の人たちは、いろんな手柄話を聞かせてくれたけれども、今度の昭和の人たちは、大東亜戦争の話をしてくんねえじゃねえか」と。そういう話を聞いたもんだから、「あ、これはやっぱり話すべきだ」と。負けても勝っても、戦争の悲惨な状況を話すべきだと。そして二度と再び戦争しちゃいかんという考えをね、国民に植え付けなきゃダメだという結論になったんだよね。今はね、話しますよ。

二度とこういう悲惨な戦争はすべきじゃないということをね、徹底して若い者に、子供からね、若い者に教育するということが重要じゃないですか。もう犯したものはしょうがないですからね。やっちゃったんですから。だからこれから、戦争なんか再びやらないと。それじゃないとね、宇宙に対して申し訳ない。地球上にいろんなものが、この人間に有利な太陽光線にしてもね、雨にしてもね、人間が生きるために、ま、うまく。それを人間がが壊してちゃいけないもんね。だからよ、戦争は二度と再びあっちゃいかんと。これだけは私は強く言いたいね。

出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール

1915年
千葉県千葉市出身
 
佐倉・歩兵第57連隊へ入隊
1944年
フィリピン・レイテ島へ
1945年
セブ島で終戦を迎える
 
戦後は公務員

関連する地図

フィリピン(レイテ島)

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