| [証言記録 兵士たちの戦争] 硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~ | |||||
| 向江 松雄さん(鹿児島・歩兵第145連隊) | 日本(硫黄島) | 2009年8月11日、2010年3月15日 | |||
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| [1] | 新婚で召集 | 05:10 | |
|---|---|---|---|
| [2] | 硫黄島へ | 03:32 | |
| [3] | 穴掘りが戦争だった | 02:57 | |
| [4] | 米軍上陸 | 05:21 | |
| [5] | 持久戦 | 04:17 | |
| [6] | 追い詰められる兵士たち | 04:03 | |
| [7] | 精鋭部隊・145連隊 | 01:49 | |
| [8] | 最後の総攻撃 | 04:03 | |
| [9] | 総攻撃のあと | 05:48 | |
| [10] | 火攻め・水攻め | 04:00 | |
| [11] | 投降 | 03:50 | |
| [12] | 家族との再会 | 03:28 |
それはもう、何ちゅても、「来たかなぁ」と思たですよ。どうせ戦争が悪化したから、どうせ来ることは思とったけど、「とうとう来たねぇ」と思ったですよ。田んぼにおったんですよ。田んぼに。赤切符が来たときは。「とうとう来たかね」ちゅっせえな、昔は絶対服従やしたでな。そいくさ、今んごとやっせえ、いやちゅうことも言わならじ、そいくさ非国民で罪に落ちおったんですよ。行かんと言ったら。今の世の中はよかどん、そん頃は、まだ軍国主義でな、絶対服従。国賊ち言いおったの。ほで、やむなく、人間だから行きたくはなかったよ。ホント、本心を言えば。そいくさ、親子、親は年寄りやいし、家内は今、結婚したばっかし。その気持ちはもう、ホント、何とも言われんです。何て言えばいいか、当たった者なかや分かりません。
Q.向江さんはおいくつだったんですか?
わたしは25やったかな。25やったか。25じゃね。27じゃ。あいから帰ったときが25やったで。そうや、20やったであ。かあちゃんが20。わたしは7やった。
Q.若い、新婚、結婚したばっかり…
新婚ホヤホヤでよ。
Q.若いやっぱり奥さんを残して行くちゅうのはどんな気持ちだったですか。
それもなぁ、もう、飛び越えて、何ともいえません。無言の一言でした。なんと話していいか、涙も枯れて出ませんでした。あとは頼むからねち、老人と、そいくさ、親とあや(兄弟は)頼むからと出ましたから。妹がおったですけど、まだ学校に出いおったから、中学に。
Q.向江さんが衛生兵になったいきさつですね、その辺をちょっと教えて頂けませんか?
なろうとしてなったもんじゃなかったですよ、そいくさ。さっき語ったごっ。召集兵が、召集して、ずーっと並ばして、ほして、わたしの前までは、小銃隊を全部採って、こっから衛生隊を採らんないかんちゅて、わたしの前からピッシャッち、採ったんです。そいで衛生隊になったんですよ。
Q.で、その衛生隊になったことがまあ…
運の尽きやったですよ。それで助かったろうち、わたしは思う。そいくさ、中隊に、担架隊やっても中隊におったらダメやったかもしれんです。中隊も担架隊だったですから、北地区におったんですよ。わたしは野戦病院付きで、それも生きたあれなったかなぁち、考えております。
Q.漁船で硫黄島に着いたときは、どげな感想を持ちましたですか?
ああ、「こら小さい島やなぁ」ち。船が着くようなとこじゃないですよ。「港じゃないし、こら変な島に来たなあ」ち、そんときな考えた。「変な島やなあち。こまい(小さい)島で」。
そん当時から、空襲ばっかり。B29がね、時間を切って、日に1、2回。もう戦争が始まる前は、もう毎日。ほて、1週間ばっかい前は、晩も一晩中きてな、一つも寝せんやったですよ。神経衰弱ならした。兵隊を眠らせじんな。神経衰弱なかした。ほいて、前から言うごっ、食料は何にもなかし、みんなやせてな、戦闘力もなかしたと。元気なやつはおらんとやっで。やせたとばっかし。がいこつが歩くごたったです。あんなになってから、戦闘ができるもんね・・・もう、病院なんか、ホント、サネコッ(がいこつ)が歩っごたいごしたど。もう、病人にあれも、食べ物もなかしな。内地から行かんじ、もう、兵隊はいろんな人がおるからな。漁師がおるから、自給自足で、魚なんかをとって、野戦病院な食べさせおったです。
Q.上陸当初は、食料はあったわけですか。
行った当時は、大概、順調に来れば、降ろしがなりおしたどんな、そこの港に着いたやつを降ろさならんたっであ。今、日本のSB(輸送船)が着いたから、ちゅっせえ無電の打てや、もう空襲が来て、焼けとった。降ろした米を揚げがならんたいもん。ほいで、大分来たけどな、そこで全部、焼けて、ほで、船の残骨が、そん当時は多かしたど。来ればやられる。
Q.それはその、電報が、無電が盗聴されてると?
ああ、奴ら、潜水艦から打ちおったんでしょうな。今、SBが入ったから、すっと、もう空襲が来るんですよ。
穴掘りは大変よ。人間ばっかし。発破をかけちゃ、それを担いで泥を出しおった。もう穴掘りばっかり。何にも戦闘訓練はできん。穴掘りが戦争といっしょやった。ちっとでも穴を、一日でも早く完成せないかんと。それがもう一番。ほいでまだ1か月来んな、硫黄島を全部、師団司令部からずっと続くつもりやったどんから、1か月早かったんですよ。
Q.向江さんも、相当、穴を掘られました?
掘った。掘らんこてしょうがない。一日でも掘らんこてな。
Q.穴を掘るときはどういう気分でしたですか。
自分の隠れ場だからなあ、頑丈に早く、一寸でも早く掘らんにゃいかんと思て。そら真剣なもんですよ。自分の身を隠す穴でしょう。何にも力が。
地熱は。5分間も入っちょはならんですよ。ところによってやんであ。ところによっちゃ、長いところもある。ところによれば5分間も入っちょはならん。ちょっと掘るったら、熱があっとが分かるから、そこはやめましたよ。熱のないとこを見つけて掘ったですよ。
Q.ガスも結構あったと・・・
ガスもあっと。深くなればな…ほいで、一方をやっぱい、抜け穴を作らんなだめ。掘いこっばかいじゃ、ガスがたまる。抜け穴を、窓を作ったりして、掘ったんです。
Q.普通そういうのちゅは、工兵の人たちがやるんですよね。
そうそう。兵隊は全部、全部が穴掘りやったの。どこの兵隊も、歩兵やろうが何やろうが、航空隊じゃおが、全部、みんなが穴掘り。自分の身を隠すとが、全部、硫黄島に行った者は全部掘ったですよ。上の将校ん衆なんか掘らんかったな。指揮だけするけど。あとは全部自力、掘ったんです。
2月の16日の午前6時やったかな。6時ごろあった。そん前から、1週間ばっかいや、一つも寝せんとやっでやな。ほで、朝、見てみたら、遠くの海を見たら、ゴマをふったようにな、海がしおったではんな。ほで、ちょっと、やっぱい見ちょったら、ピカッ、ピカッち光りでけた。もう弾が島に飛んできたもん。それから戦争が始まった。それが最初の撃ち出し。とうとうきたなと。ほと、トンボんご(みたいな)、赤トンボんご、艦載機が飛んできて飛んできてな、艦砲は艦砲、800隻の船がグリーっち周ったの。あのこまい島を。ホント、ゴマふったごたしだど。ほで、なんで勝てるもんね。「あんだけたいたら、赤ちゃんでも上がってくるわい」と、語ったと。
Q.それを見たときに、そのときは、向江さんはどこにいたんですか?
わたしはやっぱい、病院の穴(壕)におったで。穴の警備を。交代で歩哨に立たんないかん。上に。それでやられた人も多かったと。あとな、あとはもう、やつらが来れば、晩な本隊に帰りおったどんはんな、最初んころは。今度はもう、やっぱい分かったんでしょうな。こん中にあい(兵士)がおると。
段違いですよ。アメリカの兵器つわ、ほんと。ようあんな国に向かったなぁち、ほんと思いましたよ。1発こっちから撃てば、何千発っち来るんだから、そんだけ違うもんだ…ほいて、艦砲なんかも1発ここで撃てば、トトトトっち向こうまで飛んでいくの。1発受けたら。弾着を決めて、決まったら今度は、ずーっと伸ばしてやっでや。そら、それで参ったの、みんな。ほいと、飛行機のなあ、飛行機はグラマン。グラマンが海すれすれい来て、急に…そらレーダーに入らんのよ。レーダーに入らんの。そいがもう、そらひで、双発の、こうして両方付いたロッキードちゅっせえな、海すれすれ、こうやってくる。それ、レーダーに入らんじゃっと。それがもう来て機関銃を撃つ。1人、人でも撃つんだから。
毎日、空襲で死んでいきおったで。死なん日はなかたっで。人が。
Q.みんな、どういう死に方が多かったですか。
もう爆弾、爆弾の破片とかのないでお。B29が来ん日はなかっじゃっでお、恐らく。1回も来ん日は、なかったんですから。始まる前はもう、1週間も2週間も前から、一晩中来たの。一日も寝せんとやっで。壕を掘るうちも、「ほら来た」つっせえ、やめごったと。B29はな、ちっとこう、避くればよかどんな、見えとれば、ちっとこう、避くれば、まっすぐ落ちてくる。ほいどんから、艦砲はどこに来いか、わからんと。艦砲つは。船から撃つやつは。避けどっがなか。どけ落ついか分からん。ほで、艦砲には参ったですよ。弾着が悪りければ、伸ばしてやっであ。艦砲の多いこと、船、軍艦が多かこっがはんな。800隻ちゅがな。ホント、真っ黒しおったど、島は、周りは。
ほとんど、もう、死におったからな、もう。死ねば、外に出して、埋けもならんし、外に放り出しじゃ。ほで、晩に、夜、水とり、食料取り行けば、死体に手を突っ込んごったと。死体の腐ったやつに。ほて、水はないし、泥水でこうして、こすって、しおったでや。水が一番、思いましたな。水さえあればと。水が一番のあれやった。
Q.水を欲しがって死んでいった人もいっぱいいるんじゃ…
おりますよ。小便の飲んだ人もおるんだから、負傷して。一升瓶に入れちゃれば、それを飲んだ人も、負傷した人は。水かと思て。のどが湿りさえすればよかっじゃっち…
まあしかし、アメリカのおかげやったですよ。アメリカがあいせんな、日本な無残なもんじゃったであ。
Q.ケガをして助からないというような方、そんまま、もう、何の治療もできんかったわけですよね。
もうそんな人は、戦争前はもうおったよ。何十人かな。ほで、さっきも一度語ったけど、薬を飲まして、死なした。足手まといになるからちゅて。戦争はできんからち。「でくっだけのことはしますから…」ち言うた人もおった。
Q.薬を飲ましたちゅうのは、何の薬を飲ましたんですかね?
軍医が、病院が、飲ました。
Q.向江さんはその現場を見ちょいやったんですか。
うんにゃ、わたしは見ちゃおらんどん、聞いたんです。
Q.どういうふうにして生き延びたですか。食べ物、水はどうして確保したんですか?
もう、食べ物はホント、死に物狂い。食べ物取りに行けば、ほとんど、10人行けば3人ぐらいは死んで帰りおった。敵を追い払わんにゃ、食べ物は取らならんかったですから。敵を追い払って。もうそら、機関銃で、(米軍は)ピアノ線ち張っとる。一番前に。ほいで、それに触ったらもう、青い火が手の辺につけば、青い火が燃えてな、ほで機関銃でバーっと…奴らのことはもうホント、陣地も近寄やならんかったですよ。もう最後なったら、そんピアノ線を張いごなったら、全然、食べ物を盗いけ行きゃならんごなしたであ。
手りゅう弾の2発は持っちょったの。ここ2発。自決用やち。1発は投げてもよかどんから、1発は持っとる。自決。あれ、やっときゃ、自決せえち。自決した衆も多かったよ。頭が狂ったようになあ、もう。自決した人も。そんなに早まらんでいいがち、わたしなんか言うたどん。「どうせ死ぬんだからち、敵をやっつけて死なんないかんよ」ち。
やっぱい、頭がもう、あげんなっと、人間の質じゃけどな、そんなに頭にくるんでしょうな。もう、ああねや、頭にきそうだよ。自分なんかもそう思たですよ。もう、ホント、頭は神経になりますよ。神経質を飛び越えて・・・
おったですよ、手りゅう弾をこう(胸に)やった人が。手りゅう弾な、こう抜いで、鉄かぶとに、石にでもこうやれば、ほて、1、2、3で投げんにゃ爆発すっと。握っとれや。1,2,3で投げんな。ほと、2、30メートル行きますからね、これくらい。2発こうぶら下げて、剣な、帯剣な、さやは抜いて、音がするから、さやは抜いで、剣身ばっかい腰に差して、ごそごそはって毎晩出ましたよ。ほいで、着物も洋服もぼろぼろ。戦争が始まったとん、後は新しいの夏服に着替えて、いつも夏服やった、あっちゃ、常夏やったから。気候はな、ちょうどいい気候のところやった。
Q.ホント、しかし、想像ができないんですけどね。今から死ぬちゅう・・・
想像もできませんよ。ホント。よう生き延びたねと、そいくさ、自分で自分をいつも考えてますもん。「弾の中におって、生きたが」と思てな。
Q.しかし、人間ですから、いくら死ぬことを決めたとはいえ、親のことやら残してきた奥さんのこと考えるち思うんですけど。
もうそんときゃ、頭にないよ。実際そんなときなったら、家のことなんかもう全然思う暇がなかった。頭が、「死ぬ死ぬ」、そればっかしなる。奥さん、親のことなんかも、平時なら思うけど、そんな戦争んときは全然考えられん。考える余地がないがな、頭は。頭はその「敵をやろうやろう」ちいつも、それ一本立てや。
強かったかも、元から強かったことは、わたしたっが、行ったころより強かったんですよ。精鋭部隊ちゅうか、日本じゃな。大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな、鹿児島はもう、日本でも優秀なあれやったじゃっどん。ほいで、最後の防波堤に、硫黄島のやったんですよ。ほで、硫黄島がだめやったら、日本なおしまいち、最初から決まっちょったの。最後の防波堤にする。ほで、強か兵隊を備えたんですよ。
Q.145連隊ちゅは、何で強かったんですかね?
ま、それはま、人間のあいでしょう、根性が、鹿児島県になあったんでしょうな。根性が強か、精神力が強かったんでしょう。
Q.中国のその大陸の戦争と、硫黄島を比べたらどうですか?
いや、そらもう、問題にもなりませんな。人間の撃ち合いやったけど、鉄砲の撃ち合いやったけど、もう、今度の戦争は、全然、人の戦争じゃなくて、機械の戦争です。武器の戦争。
わたしなんかもう、連絡は全然、取れなかったからな。隣の隊とも全然、連絡は取れんやったから。戦争が始まったら。今んご、こえな携帯でもあればな、何でも語るけど、何にも、あいが、硫黄島に、師団司令部にあいがあったばっかしやっで、何にも分からん、内地のことも。
もうバラバラなったですよ。統制が取れんごっなったでしょう。みんなが壕ばっかしでしょう。もう統制が取れなかったでしょう。戦争が始まっても、もう、最後の斬り込みも、統制は取れんなったでしょう、ほとんど。わたしなんか、命令受領行っちょったけど、もう、帰るのに「お前たちゃ、無電を今日は壊すから、これまでやったから、もうお前たちゃ自分の隊に帰ってあんせえ」ち言われたから、「一生懸命、武闘せえ」ち、言ったから、2人やったから、もう、帰るのにも苦労しましたよ。
もう最後だから、無線を壊すんだから、日本と連絡は取れんからち。「無電を壊すから、お前たちは自分の隊に帰って、思う存分戦え」ち。
Q.そう言われたときは、どういう気分だったですか。
もう、「恐らくもう、だめじゃ」っち。「しょうがない」がち…
Q.そして命令をもらって、どうやって帰ったちゅうのは覚えてますか?
まあ、ゴソゴソはって帰ったりな、もう、どうして帰ったも、もう想像できんごたった。2人やったから、とうと2人とも帰ったこちゃ帰ったどんな、オノウエちゅとと。
Q.オノウエさん。
うん。
Q.そん命令を、衛生隊に持って帰ったときは、隊長はなんちおっしゃったですか?
ほわも…「日本なダメだねえ」ち。
Q.命令受領から帰って、衛生隊としてはどういう、その後はどうするちゅうことになったわけですかね?
もうそん後から、「どうもこうも、しよんなかったね」ち、思った…「考げられん、もう。」
Q.師団司令部はまだ人がいっぱいおったんですか?
おったと。ダメだから壊すちゅっただから。ほで、そんときもう、決まっちょったんでしょう。最後の無電を打ったんだから。ほで、栗林中将が、あいやらを書いて、詩なんどを書いて、日本に送ったと。あれにも書いてあります。
もうあとはバラバラで、あすこの壕に1人2人ちおるだけでな、戦闘力も全然なかったんでしょう。その後はもう。もう、居っても、食料盗り行って死んだりなしたりして、ほとんど死んだでしょう。そん当時は、まだ、余計、居ったでや、居ったはずやっど。わたしん隊も、盗りに行って死んでるちゅうのが多かったから。
Q.実際、向江さんも危ない目に遭ったことはありましたか、食料盗りに行って。
ほわ、ありましたよ。敵と向かいあったこっもあった。もう真っ暗ない、黒人がほとんどやったからな、5対1で白人な1人しかおらんなった、前言うたっご。後は黒人ばっかし。真っ黒やから、白いところはないから分からんのよ。そばにこう行くまでな。ほで、「山」・「川」ちゅっせえ、合言葉をつけおった。「山」ちゅて、「川」ち言わんと、撃つ、手りゅう弾の投げるの。そんときか、手りゅう弾しか持たんなったから。
Q.実際、そのもう、米兵のそばまで行ったちゅうことも何度もあったわけですね。
うんそう。
やつらは、陣地、陣地辺な、余計持っちょいごったではんな。鉄の携行缶、あれをな、奴らは、海の水をろ過しおったから、機械で。海岸のほうでお。それを持って来ちょいやっちょたどん、それを見つけたら、もう、喜んだど。携行缶の見つけたら。やっぱい、そいで、兵隊を引き寄すためにそんち置いちょったかもわからんですよ。水がないち分かっちょったから。
Q.おとりにしたちゅうこと?
おとりにしたじゃせんどかいち、わたしなんか思た。まさか毒どは入れちゃおいめねちゅっせえ飲みおったから。
Q.向江さんが居た壕は、みんな元気な人だったんですか?
ま、元気やしたど。大概元気。毎晩、出おったから。ほで、出て死んだ人が多かったのよ。食べ物探しに出て死んだのが、ほとんど、元気な人ばっかいやったと。
そん代わり、やせとったのよ。何キロ、今、そえん思方。何キロあったもんじゃおかい、30キロあったどかいち、思う。
Q.70キロの人が35キロになったち言いますからね。
30キロあったろかいち。あたいや62キロばっかいしかあったっがっじゃ。30キロあったろかいち思方。ほで、戦闘力もなかったと。
Q.そえんなれば、立ってるのものさんですよね。
ああ。病院でも歩いとるが、こうして歩けば、ホントサネコっが、がいこつが歩くごちゃった。
Q.骨と皮ですね。
骨と皮。あんなやせたちゅた見たことなか。しゃばで、今な。ほいで、こうせ、ハエが止まったとを追う元気がなかっじゃっで、こう。芝葉でこうせえち、芝葉を握らすったっどん、こうする元気がない。ほいでもう、ハエが口は開かんごっ、止まっ。またハエが多かも多か。あんなハエつわも、真っ黒。口は真っ黒なっと、ハエで。ハエが集って集って。かわいそうなもんお、ホント。かわいそうどこじゃなかったであ、戦争やったらもう、あんなことはもう、戦争なかったら、みんな助けてくるっとやっどん、戦争だから、どうもでけんかった、もう…
ああもう、人が死んでも涙も枯れましたよ、ホント。もう涙も出なくなった。最初死んだときだけやったな。ああ、またやられたねえち、あとんたもう…どうせ我々も死ぬんだから、あんまり…生きて帰るなんて夢もないも、考えなかったから。
火攻めつは、人間が負らってるのは、(火炎放射が)50メートル行くのよ。そいから、戦車のた100メートル行くんです。それで、ジャージャーやるの。それが一番怖かったね。
Q.そいにやられた人が多かったですか。
多かったでしょうな。そんときかわたしなんか、やられたこちゃないけど。ほいで最初、戦争が始まってすぐ、それでやられたですよ。100メートル行くやつでよ。近寄らならんと。戦車なんか、近寄らならんとじゃっで。
Q.水攻めちゅうのはどういう…
水攻めつは、海からホースを、海岸の側ん人は、陣地を作ってる、ほとんどそん、出てくるまで、こんな大きな、海からホースを引っ張って、上げた、ポンプで上げたの。水攻め、火攻めち、そんなこと。
Q.水が入ってくると、どげんなるんですか、壕は。
浮かってくるの。上がらんこてしょうがないのよ。水と共に。出らんこてしょうがなかでや。
Q.向江さんたちが居た壕は、そういうことはなかったんですか?
あったけど、わたしなんかん壕はな、抜け穴を作っちょったり、ポケットを作っちょったりしたから、通路に居った者は全部死んだの。ポケットに入っちょった者は助かったけどな。ちょっと、あいしたけど、覚えんごっだったけど。いっぺん、爆風で。
Q.実際、投降を呼びかけてきたちゅは、どういうふうに呼びかけてくるんですか?
「出て来い、水もある、食料もある」ちっせえな、「何のため苦労をするか、日本な負けましたよ」ち言て、船で周りおったですよ。「早く出てこい」…二世、ほとんど二世だから、日本語でどんどんやった。二世が多かったから。「水もある、食料もある、何でそんなに苦労するんか」ち、「出て来なさい」ち。
Q.それを聞いて、どう思ったですか。
何言うとかち…教育が教育だったからな。「何言うとるかお前らが」ち。「デマじゃが」ち。「デマを飛ばしとるんだが」ち。
壕ん中は、もうほいで、死んだ奴は外に出しおったとよ、外に。埋けもならんけどもそんまま。ほで、分かったんでしょう。死体を出したりなしたりしちょるから。もう、中から入って、ここが崩れたごと、積んで入りおったっじゃっで、外からな見えんご。
Q.壕をつぶされたりちゅうことはなかったわけですか。
壕はつぶされんかった。発破をかけおったでお。発破で爆風で、いっぺんな覚えんごとなったことはあったけど。
Q.爆風を浴びて?
はあ。
Q.赤十字条約で守られてるわけですよね、衛生隊は。そわお構いなしですか。
そんなことは全然思わんな。思わなかったでしょう。旗でん立てちょいこてすれば、分かるけどな。やっぱい普通の兵隊と一緒考えで。銃を持っとるんからな、銃を持っとる、ポンポン、来たらやる、撃ちおったから。
Q.実際、赤十字の印は、してなかったんですか。
うんにゃ、全然してなかった。出る時だけよ。出る時だけ、小隊長がも、条約で出るがも。ほで、一番最後やったで。誰も居らんにゃったの、あとから。わたしなんか一番最後やったの。4月の何日や、日付も忘れたけど、4月は4月やったけど。
金下隊長も考えたでしょう。もう戦争は負けたし、もう条約ででるがち、覚悟したんでしょう。どうせもう、生きや、あいだから。「それしか道はない」ち思たんでしょう。もうそんときゃ、戦争もバラバラなっちょった。ほんの、あすこそこ、敗残兵が残っとるだけで、もういなかったじゃが。もう恐らくいなかったでしょう、わたしの後から来た人はおらんなったもん、あっちに、アメリカに行たおったどん。わたしなんかが一番最後だったでしょ。前に、南方から、海軍から来た捕虜ん衆が、そがらし居したであなあ。カリフォルニア行ってみたら。何千人ち。
Q.壕を出た時ゃ、しかし体力はないわけですよね。引っ張い出されたわけですか?
こうし、こうじゃろ、両方におって、大きな手でな、毛の生えた大きな手で、赤毛の生えた大きな手でそびき上げた。ほらあ、あんときゃびっくり、尚びっくりした。やせとるから、ピョーっち上がっですもん。
Q.出たときゃどんな気分だったですか?
もう、真っ暗ろなった。久しぶり日を見たらな。もう目は真っ暗ろ。見えなかったよ。そいと、びっくいしたことにな、も、「ああ捕まえてな、どこで殺すかね」ち、そればっかい考えちょった。どこで殺すかなあつ。移動すれば、「いいもんの食すれば、食すいだけ、いい物を食して、また、どこで殺すんじゃろな、どこで殺すかなあ」ち、そこばっかい考えた。そいじゃなかったですよ。アメリカはそんなことは絶対せんかった。
おお、まぶしい。日を見らんからね。
ああ、日本が見えた…日本に帰る2日ばっかい前やったな、死んだであ、はんな。戦友が。ほして、海に投げてな、船が2回か、回って、ほで帰ったっじゃっであ。そいから、ちょっとしてからやったか、見えたた、1日前やったかな、日本の島が見えたで。あれが日本かなち思たでや。「いよいよ日本に帰っとやったたあ」ち思たと。
そんときの気持ちつは、なんとも、話も出やん。涙も出やん。話も出来なかったです。
Q.言葉にならんちゅうのは、そういうことでしょうね。
んにゃ、もう、言葉にも出らんが、もう、何も、涙も出やんごったと、そんとき。後、語ってから涙がじわじわ出てきた。も、ホント、あの気持ちはもう、そいくさ、あたってみらん人には分からんですよ。あんな気持ちは。死んだ者があんた、墓まで建ったものが帰ってきたとやっで…
Q.今、若い人たちに、向江さんから言うとすれば、どういうこっですかね。
ああ、こんな戦争はな、二度としたくない。もう、孫子の末まで、永久に、な、もうしたくありません。こいだけは若い人に、子孫に代々、継いでもらいたいと思います。
監獄島じゃした、ほんと。硫黄島つわ、鳥肌が立つ思いがします。今、やっても。
Q.今でもやっぱい、戦友の人たちの顔が思い浮かびますか。
ああ、もう寝れんときなんか、もう、やっぱ、次から次に、考えますよ。考えて、考えれば、一晩中、寝らんこともありますよ…ホント、「こんないい幸福な世の中けなったこて、これを知らずにみんな死んだがねえ」と思えばな、ホント、涙が出ますよ。わたしは、おかげさまでこうして帰って、これが供養になったち思う。戦友の供養になったち思い方。
出来事の背景
【硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~】
東京から南へ1250キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島。太平洋戦争終盤、周囲22キロの、この小さな島で米軍6万人と日本軍2万1千人が激突。1ヶ月に渡り戦闘が行われた。
昭和19年(1944年)、米軍は、サイパン・グアムを相次いで占領し、日本本土への空襲に向け長距離爆撃機B29を配備した。爆撃ルートの中間に位置する硫黄島は、重要な航空拠点として攻防の焦点となった。
硫黄島を守る日本軍守備隊の最高指揮官、栗林忠道(ただみち)陸軍中将は、米軍の上陸に備え全長18キロに及ぶ地下壕を網の目のように張り巡らせ、全島を要塞化。米軍を持久戦に引きずり込む戦略をとった。守備隊は総員2万1千人で多くは、戦争末期の兵員不足で急遽召集された3、40代の兵士や少年兵だった。その中で、20代の現役兵を中心に鹿児島で編成された陸軍歩兵第145連隊は「栗林の虎の子」とも呼ばれる精鋭部隊で、激戦が予想される地点に配備された。
昭和20年2月16日、早朝。米軍は攻撃を開始。三昼夜に及ぶ砲爆撃の後、3万の米海兵隊が上陸を始めた。待ち構えていた日本軍は一斉に反撃し、5日間で硫黄島を占領できると考えていた米軍に大きな犠牲を強いた。しかし、米軍は圧倒的な火力を投入し日本軍の陣地を一つ一つ制圧していった。上陸からおよそ1ヶ月後に日本軍守備隊の組織的な戦闘は終わったが、兵士たちはその後も武器や水、食料が底を突く中、死者や負傷者で埋め尽くされた地下壕で壮絶な持久戦を続けた。硫黄島の日本軍守備隊2万1千人のうち、生きて島を出られたのは千人あまりだった。
昭和43年(1968年)、硫黄島は日本に返還された。多くの遺骨が今も収集されぬまま地下壕に眠っている。
証言者プロフィール
- 1917年
- 鹿児島県姶良郡山田村に生まれる
- 1943年
- 歩兵第145連隊に入隊
- 1944年
- 硫黄島の戦いに参加 衛生隊伍長
- 1947年
- 浦賀にて復員
- 農業、八幡製鉄所への出稼ぎなど





