| [証言記録 市民たちの戦争] フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期” | |||||
| 吾田 豊さん(戦艦・武蔵) | フィリピン(シブヤン海) | 2008年12月13日 | |||
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| [1] | 志願して海軍に | 05:07 | |
|---|---|---|---|
| [2] | 砲術学校 | 02:49 | |
| [3] | 機銃増設 | 02:09 | |
| [4] | 砲火を浴びる「武蔵」 | 06:04 | |
| [5] | 傾く「武蔵」 | 04:01 | |
| [6] | 海中へ | 02:22 | |
| [7] | 極秘にされた「武蔵」沈没 | 04:27 | |
| [8] | 昭和20年8月6日 | 03:48 |
Q:吾田さん、この、お写真の左側は何なんですか?
これ、乗るとき。武蔵に乗るときね。
Q:どこで撮った写真なんですか?
呉。
Q:で、右側の?
ああ、横須賀。帰ってきてね、コレヒドールから帰ってきて、横須賀に入ったときのあれです。
Q:若いころのお写真。何歳ぐらいですか? これ?
17ですよ、こっちは。
Q:17歳?
ああ、こっちは16だし。
Q:ほんとに、少年のようですね。
少年だわ。
入れば保証されるということが、まず、原点でしょ。生きるっていう、保証はされるってことは、いいっていうんだもね。
だけども、入ってみてわかったのは、現実に入ってみてわかったのは、保証されるんでなくて、あとはね、物扱いなんだよ。おれらは。物扱いですから。ゴミみたいなもんだ。だめなものはだめ。いいものはいい。それが、自分がそういうことを、考えられないんだよ、当時は。ひどいもんだよ。だから、いわゆる制裁ってやつがあって、精神バットくらったり、おれ、何十発も、食らったことあるんだよ。
Q:何十発?
うん。精神棒って、あの棒があるでしょ。いや、棒があって、あんたはわからんかもしれないけど、それで、ケツベタ。
それをね、バッターの振り方でもってね、骨盤がね、折れることある。
規律は確かに、人によっては、厳しいと思うかもしらんけど、おれらが海兵団、入ったときに、やっぱりトイレのね、トイレにある真ん中に、バーッと、こうあの、あれがはってるのね。
Q:あれとは?
あれっていうのは、柱がね、トイレのね、あの海兵団のトイレっていうのは、柱がね、真ん中にね、ど真ん中にバーッと、はってるんです、はり、はりが。
Q:はりが?
うん。それでもって、首つりして、死んだのはいたけどね。
それと、脱走したのもいたけどね。だけどね、脱走したってね、そのときは、おれらのときは脱走してもね、すぐつかまって、戻されるんだよ。
武蔵で艦長命令で出てたのは、「一切、制裁をしてはいけませんよ」と。「第一線の勤務だから、そういう制裁はいけませんよ」。そしたら、それの裏をかいて、艦底まで引っ張って行くんだよ。
Q:艦底?
うん、艦底。いわゆる釜室。釜室。船の釜、あるでしょ。動かす釜が。
だから、釜室っていうのは、音が大きいでしょ、あれ、釜がゴンゴン、ゴンゴンってなってるから。だからね、制裁してどなったって、何したって、わからないわけだ。全然、わからんわけだ。そういうことは、上部のいわゆる士官とか艦長とかには、わからないわけですよ。
もう、何ていうのかな、人間でないからね、あれは、船、乗ってる間っつうのは、一番下っ端の人間っていうのは、ごみ、みたいなものだからね。
上部からね、おまえはどこへ行け、どこへ行けっていう、あれでもって、昔はみんな、そうなんですよ、あれ。自分が入りたくて、入ってないんだよ。
新兵を終わる前に、おれは言われたの。「こういう、あれがあるよ」と、「おまえ、どこどこ、どこどこへ行くか、決めれ」って言われたの。いわゆる、下士官からね、言われたの。
これ、どんなことを考えてるのかなっていう、探りでねえかと、おれは思ったけどもね、そのときは。だから、おれは「砲術学校」っつった。いちばん無難だと、思ったの、それ。
無難ですよ、だれでも、行けるだもん。砲術は、第一線だから、本当は行きたくないよね。
Q:そうですか?
したってそうでしょ。第一線だもの。でも、軍隊っていうのは、第一線に行ってるんだから、それに、一線っていうのは、やっぱり、誇りに思うわけでしょ。だとすれば、そこしかないわけだもの。おれはそう思った。
Q:それで砲術学校では、何を学ばれたんですか?
機銃さ、もちろん。
Q:大砲とかじゃなくて?
ううん。機銃。25ミリ、25ミリ機銃の学校さ。
Q:大砲とか、高角砲とか、そういったものは全然、学ばなかったんですか?
いや、学ばない。
Q:そういうのは、教えてくれなかったんですか?
いいや、機銃だもんさ。
機銃って、25ミリ機銃っていうことで、横須賀の、第1海兵団の隣が、砲術学校だから。そこに行って、25ミリ機銃班に。
Q:実際に、機銃を撃ったりとかもされたんですか?
いや、当時はあの学校に入ってるときはない、ないですよ。武蔵に乗ってからは、あったけどもね。
呉でもって、改造したんだよね。改造したのさ。その前に、あの武蔵、やられてるからね。改造して、そして、直って出るっていうときに、おれが乗ったのさ。
改造したから、おれが乗れたっていうのもあるんだよ。
Q:なぜですか?
増やしたからさ。機銃のあれを、増やしたからさ。設備を増やしたから。
Q:いちばん、初めて見た武蔵っていうのは、どういう印象でしたか?
いや、広い、広い。広い。ああ、タラップ上がってたってね、どこがどこだか、わからんぐらい広いよ。
Q:怖いとは思わなかった?
思わん。でかいし、あれだし、おまえ、デッテラ、デッテラっておまえ、隣にいたらね、駆逐艦だとか、巡洋艦だとかは、もう、こんなんなって、もう嵐のときだって、武蔵の場合だったら、エーってだけだもの。
武蔵の場合だったら、何もない。せいぜいあれして、波をかぶるだけのことさ。それだけ、大きいんだもの。いや、本当。
Q:10月23日に(重巡洋艦)愛宕とか(重巡洋艦)摩耶とかが、攻撃されるじゃないですか。それっていうのは、ご覧になってます?
ええ。でもあれ、ごう沈だからね、あの摩耶にしても、愛宕にしても、ごう沈だから、すごかったんでないの。
Q:10月24日というのは、そのときは、朝はどうされたんですか?
早朝訓練が始まって、そのまま居座りで、「今、来るぞ」って言って、そしたら、あれしたのは、もう、始まりさ。だから、もう朝食も、何もとれない。だから、戦時給食ちゅて、にぎり弁当みたいなものが、上がってくるだけの。
ツバメみたいに、バーババ、ババーッと、来るのはわかったけども、そのうちに、主砲がボーンと出たらもう、弾幕が出たらね、何も見えないすよ。
あれは、戦闘ちゅたってね、弾幕で何もわからん。主砲を撃ったってね、あれ、20何メートルかい、射程距離はね。1万8000でなくて、ああ、2万4000ぐらいだからね、射程距離はね。でも、バッと見えたときに撃ったって、どこで効くのか、わからないですよ、主砲っちゅのは。
真っ黒んなったらね、上にワーッと音、したってね、どこにどれが来てんだか、わからんですよ。
だから何機、落としたとか、どうとかっていったって、そんなものはもう、軍隊っていうのは、おかしなとこだよね。あれで、弾むだにして。したって、マッハで来る飛行機がね、狙って、撃てったって、狙えるわけないでしょう。どこ狙って撃つのさ、したら。
Q:敵機は、もう本当に近くまで、来たんですか?
いやあ、近くって、艦の上にバーッと、行くんだから、近くでなくて、そばまで来たでしょう。だから、直撃を食らうわけです。
ウーッて、音だけは聞こえるよ、おれらの場合は。いわゆる、主砲のね、黒煙があれしたら、見えないですよ、全然、普通は。おれはもう、見えなかったです。でもね、ウーンっていうのはわかるんだよ。
Q:そんなに主砲の黒煙っていうのは、すごかったんですか?
すごいでなくて、もうカも、被るだけの黒煙だ。あれは誰が見たって、わからん、わからんね、と思うよ。
したって、もう砲が、もう真っ赤んなって、焼けただれるぐらい撃ってるんだから。
だから、3連装だけども、中の2番装ってやつは、もう焼けただれて、もう弾、出なくなっちゃった。おれらの機銃だよ。そのぐらい撃ってるんだよ。
地下のあれがもう、直撃、食らって爆発して、そこに死がいがいっぱいあるってのは見たよ。
もう、ババババーってなってるから、もうそこにも、壁にぶつけられていたりするわけでしょ。
直撃、食らってるから、ボーンとこう、穴あいてる。そしてこっちに、いわゆる高角砲だな、あれ、の塀があって、そこに、たたきつけられて、エーっていうもんですよ。それは右舷側だよ。おれらが右舷だから。
Q:相当、悲惨な感じだったんですか?
あれを悲惨っていわなかったら、何が悲惨さ。戦争なんて、そんなもんだよ。そんなもんだと思うけどな。おれはそう思う。悲惨だよ。
(午後)3時25分だ。アメリカのあれによると、3時25分は第6次の攻撃だろう。
Q:その空襲が終わったあとっていうのは、どうされていたんですか?
いや、どうたって、船のバババババーンと、こうなってるでしょ。
Q:吾田さんは、ずっとその機銃?
いや、いや、いや、もう、退去用意でもって、もう、みんな、もう職場から、職場っていうか、いわゆる機銃なり、機銃から、配置から、みんな降りて来て、「中部甲板以降に集結せよ」っていう命令が下るわけでしょ。したら、おれらは甲板のあの艦橋のね、いわゆる上部的な、とこだから、3番機銃つのは。一番、艦橋の1番、3番だから、そして5番、7番だから。だから、降りて来て、そしたら、あれが何だ、通信科か、が、今度は艦旗をおろすのにマットを上がって行って、そしてマットを、いわゆる、軍艦旗を取って、降りて来て、そして総員隊形、それがかかったんです。したらもう、そんときは、もうかなり、こんなんなったんでないかい。だから、おれの場合は、いわゆる水平線って、知ってる?
水平線っちゅうのはね、船がこうあると、ここにこう、水平線ちゅうのが、あるんだよね。ボーンと出てるんだよ。ボンと出てるの、これ。船の上のほうで、ここにこう、ボンと出てる。ここまで行ったのさ、おれね。右舷のだよ。右舷のここまで行ったの。
ほしたらボーンっと、投げられちゃった。だから、その水平線をとっ越して、いけなかった。で、ボーンておっぽり出されて、上がってきたら、恐らくおれ、いちばん先に、上がってきたと、思うんだけどね、誰も、浮いてこられないから。だから、割とおれは、元気だったの。でも、元気のない人間だって、いっぱい、あとから、上がってくるわけですよ。したら、ああいうときってのは、油の中にしか、浮き上がれないんだよね。
もう、重油だらけんなって、そこに、ボーンとおれらが、上がってくるわけでしょ、浮いて来るわけでしょ。しかし、沈められて、上がったり、沈められて、上がったりする人間だって、いるわけだから。
ああ、6時間ぐらい、いたんでないかい。夜明けだ、夜明けっていうか、あれ、1時ごろだと思う、時間的にはよくわからんけども、ヒトナナサンゴウかい、うん。ヒトナナ、19時、ヒトキュウサンゴだね、うん。沈んで、そして助けられたのが、1時ごろでないかな。おれらはね。
Q:その間、海の中でどうされてたんですか?
ただ、浮きにつかまって、浮いていただけです。それしか、方法ないでしょ。
おれらの場合には、もうしゃにむに、そこに浮いてつかんでるんだから。油だらけの中でも、ガボガボしているんだから。そういう人間は、割と多いんだよ、生きてるね。
助けられた駆逐艦に乗ったときに、それまで、元気だったのが、乗ってパーになった、死んだのもいるよ、目の前で、おれの目の前で。だから、戦闘なんて、そんなもんだって。
救われる最後だと、思うよ。上がったときはもう、ふんどし1本、ふんどしも、なかったぐらいだからね。あれ、おかしなもんだよね、沈むときたら、軍服に、作業服着て、あれして、沈んでったのに、上がったらなんも、がらっぱちだもんね。なんで、あんなふうになるんだべ。
真っすぐね、日本に向かえば、大した距離ではないんだよ。
日本には向かえないと。極秘のあれがあるから。武蔵が沈んだっていうことが、国にみんな、披露されたから、披露っていうか、わかったら、大変なことんなると、ねっ。だから、一時、コレヒドールに上がると。それで、コレヒドールへ上がったんです。で、そのときはもう、ふんどし1本。いやあ、本当だよ。みんなそうだよ。
ところが、食糧がないですよ。ひどい目にあったよ。でも、何日でも、なかったからね、あそこにいたのは。
それから、コレヒドールから、マニラに移って、そして帰還準備、帰還てのは帰る準備をして、マニラに移って、そこにユニオン大学っていう、おれはユニオン大学と、聞かされていたんだけども、そこへ行って、泊まって、そして次の日に、出てきて、マニラから、巡洋艦に乗ったのさ。そして帰ってきて、台湾の沖かな、で、魚雷食らって、ボーンとやられて、そのまま佐世保に、本当は舞鶴に入るんだったけども、佐世保に入ったのさ。それから、佐世保から呉に、引っ越して、呉から横須賀に来て、そこで横須賀、おれは、横須賀管轄だから、横須賀のあれから、今度は駆逐艦に配属されて、呉へ来て駆逐艦に、「萩」に乗ったの。
「萩」のあのう、士官やってたの。上曹だったのが少尉になって、士官やってたのさ。甲板士官やってたのさ。それ、おまえ、武蔵ん、乗ったんでねえかっちゅ、したら、おい、ちょっと来いっちゅて、あれ、准士官室ってあるからね、個人の部屋が持ってるから、駆逐艦でもあるから、そこへ行ったら、おい、おまえ「艦長従兵やれ」って。おれが武蔵で、やってたっちゅうの、知ってるもんだから、「艦長従兵、いや、おれ、いいわ、もう、従兵いいわ。」言ったの、おれ。
Q:何でですか?
いいや、面倒くさくて、面倒くさくて、おまえ、夜中に、水は持ってかなきゃならん、もう大変でしょ、あの従兵っちゅうのは。だから、おれ、「いいわ」っちゅたの。「でも、おまえしかやるのいねえから、まあ、名前だけでも貸しとけ」そしたら、艦長が来て、「いや、何もしなくてもいいから、名前だけでいいから」って言うわけさ。「それだったら」っちゅて、本当に名前だけさ。
あのう「萩」に乗っててね、「萩」に乗ってて、呉に入ってるときに、終戦さ。あのう広島ね、広島に原爆が落ちたときに、おれは、呉にいた。
してね、呉にいてね、朝なもんだから、おりゃ、甲板に出て涼みしてたの。バカーンっつな、オヤ、親子爆弾落ちたぞっつうんだよ。あのころ、親子爆弾って言ったんだよ、原爆のことをね。そしたらすぐ、今度は救援ちて、船からみんな、兵隊が出て、汽車に乗って、広島まで行ったの。そしたら広島行ったら、ガチャガチャ、ガチャガチャでね、全然もう、降りて救援も、何も、できないの。して、そのまま、すぐまた戻って来た。
Q:吾田さんにとって、武蔵に乗っていた、武蔵での経験ってのは、何だったんですか?
やっぱり、おれの一生を転がした船だけね、ああ、早い話、そうでしょ。海軍志願して行った、それまでは、チョロチョロチョロって、いったけども、ここっていうときに、武蔵に乗せられて、何ヵ月もたたんうちに、ボカボカボカーンって、やられて、不沈艦っていわれたんだよ、あれ、武蔵っちゅうのは。それがまあ、ボカボカーンってやられて、そしたら、今度はあとは引きずり回しでしょ。今、日本に帰ったら、危ないから今、こっちに帰るとか。
戦争、誰、得するの、と、両方みんな損するんだよ、両方。戦争っていうのはもう、取るか、殺すか、殺されるかだ。それしかないんだよ。
やっぱり、沈んだときだろうね。沈んだときでないかね、記憶に残ってんのはね、軍服っていうか、戦闘中は作業着だからね、軍服、着てはいないんだから、作業着だけど、上がったときはもう、何もないんだ。なんではがれたかっていうのは、おれ、今でも、記憶に残ってる。素っ裸。あれ、なんで素っ裸になるだね。うん、素っ裸だよ。
出来事の背景
【フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”】
太平洋戦争終盤の昭和19年(1944年)10月、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸。敗色が濃厚となっていた日本の連合艦隊は、レイテ沖で、起死回生の戦いに挑んだ。この戦いで、世界最大の46センチ砲を搭載し、不沈艦と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」が出撃した。
太平洋戦争においては、海戦の主役は戦艦から航空母艦・航空機へと移っていた。レイテ沖海戦の前に、武蔵には、航空機による攻撃に対抗するため、改修工事が行われた。甲板上には対空戦闘用の機銃が数多く取り付けられていた。
日本軍は、わずかに残った航空兵力がおとりとなり、そのすきに戦艦武蔵を含む第一遊撃部隊がレイテ湾に突入、米軍を叩くという奇策に出る。それは、米軍に完全に制空権を掌握されている中で、目的地まで見つからずに到達しなければ成功しない作戦だった。
米軍のレイテ上陸から2日後の10月22日、武蔵はブルネイを出港、レイテ沖を目指した。しかし、出港から2日後の10月24日、米軍の偵察機に発見され、朝から数次にわたる米軍艦載機による猛攻を受けた。増設された機銃は隠れる覆いがなく兵士を守ることができず、機銃掃射や爆弾の攻撃で大きな被害を受けた。
さらに、「不沈艦」と呼ばれた武蔵は魚雷20発、爆弾・至近弾合わせて35発を浴びせられ、午後7時半沈没。退去命令が出たのは沈没の直前だった。
乗組員2400人の半数近くが犠牲になり、辛うじて生き延びた乗組員たちの多くも、帰還の輸送船が撃沈されたり、マニラ防衛戦などの地上戦に投入されたりして、命を落とした。
証言者プロフィール
- 1927年
- 北海道日高郡静内町に生まれる。
- 1943年
- 志願兵として横須賀第2海兵団に入団。砲術学校入学
- 1944年
- 大湊警備府に配属。その後、機銃員として「武蔵」に転属。空母「隼鷹」で帰国。
- 1945年
- 駆逐艦「萩」に転属。終戦後、「萩」は復員輸送艦となり、その乗組員として、フィリピン、台湾、満州のコロ島をまわる。その後、北海道に戻る





