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番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”
氏名 依田 功さん(戦艦・武蔵 戦地 フィリピン(シブヤン海)  収録年月日 2008年12月4日

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チャプター

[1] チャプター1 戦艦の雄姿にあこがれて  01:35
[2] チャプター2 入団 猛訓練の日々  04:26
[3] チャプター3 あこがれの「戦艦」に配属  02:24
[4] チャプター4 小山のような「武蔵」  06:17
[5] チャプター5 副砲に配置される  04:17
[6] チャプター6 驚異の主砲 46センチ砲  03:10
[7] チャプター7 不沈艦 武蔵  02:24
[8] チャプター8 楽しみは甘いものと映画上映  05:23
[9] チャプター9 魚雷攻撃を受ける  02:46
[10] チャプター10 休暇中に姿を変えていた武蔵  02:46
[11] チャプター11 襲いかかる波状攻撃  03:43
[12] チャプター12 甲板に積み重なる戦死者  05:26
[13] チャプター13 沈みゆく不沈艦「武蔵」  04:48
[14] チャプター14 駆逐艦に救出される  03:58
[15] チャプター15 漂流  05:32

提供写真

再生テキスト

忘れもしない、小学校高等科に入ってから、ちょっと記憶がありませんけども、グランドで大きなまん幕を張りめぐらして、そこの映写幕に対して、あれは長門の風景じゃないかなと思うんですけれども、一種軍装の水兵が、あのう、大砲を撃ってるところが映し出されたんですね。それで、そのころはもう、当時、軍事教育でしたので、わたしたち子どもたちは本当に胸が踊って、よし、国のため、国のためという、燃え盛っておった時代だと思います。それがきっかけ。それと同時に、わたしのいちばん上の兄がやはり志願兵で、海軍へ行きまして、最終はセレベス島で、終戦を迎えたわけですけど、この兄の、体験やら、いろんなお話、話聞きましてね、それで、やはり海軍へ行って国の奉公しようというふうに感じたんです、はい。

18年の5月1日、横須賀第2海兵団。今ですと、わたし、1度も以後行っておりませんですが、武山という地域があると思いますけど、武山海兵団じゃないかなと思うんですけども、はい。

Q:そこに入られて、いちばん最初に、現地にたどり着いてですね、どういうお気持ちだったですかね。

もう無我夢中ですね。まったくよそごとは頭に入らなくて、無我夢中で1日1日の教育にまい進したという感じですね、はい。

Q:海兵団での訓練というのはどういったことがあったんですか。

そうですね、第一番に、まず、ハンモックつりでしょうかね。当時、楠ヶ浦の第1海兵団は、明治か何かにつくられた兵舎ですので、このはり、はりの高さが高いんですよね。で、第2海兵団は、われわれ、背が低くても、うまくフックに、ハンモックのカンがぶら下げるようになるんですけども、第1海兵団の場合は飛び上がらなきゃはりにフックをかけるのが大変でした。でも、わたしたちは第2海兵団に来てからは、新しい兵舎だったのでね、割りかし、そのう、苦もなく作業はできたんですけどね。それが第一、まず、寝るところでしょうかね。いずれにしても衣食住という時代もあったこともあるんですけども、やはり、着物を支給されて、私服を田舎へ送り返して、海軍の姿になって、これが一つ、それからハンモックつり、あとは掃除、食事ですね、そんな感じです、はい。やっぱりいちばんきつかったのはハンモックつりですね、はい。

それから、砂浜に出ての訓練ですね。小銃、三八式歩兵銃を貸与されましたので、それを担いで、訓練ですね、はい。それと、カッター訓練ですか。これは海軍軍人としてもね、海に出らなきゃいかんですから当然ですけども、カッター訓練は厳しかったです、はい。ちょうどですね、カッターで1個班、20名近く1個班ですかね。その中でわたしは背の長さからいっていちばん低いほうから2番目ぐらいの、あのう、丈がありましたから、いちばんとものほうでやりましたですけどね、なかなか、かいが、オールですね。これが、あのう、なかなか返せないで、大変苦労しました。その、こうしたいすにゆっくりと腰かけてるわけじゃないんです。ずっと、この、いちばん細い板、あのう、板がありますね。これが1、2、3、4、5、6、みんな1個分隊が入れる、ごめんなさい、1教班の人員が座れるようなこのぐらいの板なんです。本当にお尻がかかるか、かからんぐらいで、でないと力が入らないんですね。そうすると、力いっぱいやってると、その、お尻の、当然、ふんどしですけども、もう、板ですれて、皮膚がめくれましてね、血がにじむぐらい、それは大変でした。これがやっぱりきつかったですね。

8月15日、たまたま偶然かもしれませんが、終戦の8月15日、で、わたしたち海兵団卒業が8月15日だったんですよ。奇しき因縁ですね。15日に、たぶん、練兵場で海兵団団長から一等水兵を命ずるという、マイクの前で言われたときに、初めて一人前の海軍軍人となった日が8月15日。それ以後はもう、ほとんどもう、分隊におっても、居住区というんですけどもね、兵舎の中で、それぞれ、身のつくろい方、いろんな整理したりして、自分の配置先やら、いろいろと勉強したり、話聞いたり、そうした準備した時間帯じゃなかったかなというふうに思いますね。たまたまわたしは、通路に張り出された、あの、各人の行く先、勤務先が全部張り出されたんです。で、たまたまわたしは、あのう、武蔵の乗り組みを命ずるという感じで、ヤッターという気持ちでおりました。

Q:基本的には武蔵というのは秘密というか、機密だったと思うんですが……

海兵団内でおるときには恐らくその話は聞いたこともないですね。ただ、武蔵という軍艦の名前だけ。駆逐艦か、巡洋艦か、戦艦か、これはまったくわからなかったんです、はい。そんな記憶ですね。まちがいなければわたしはそうだと思います、はい。で、最終的には武蔵というと戦艦だぞという話、後日になってわかりましたけど。

横須賀軍港から、あれは空母、空母でも、商船、改造といったらおかしいですが、一応いちばん下のクラスの空母じゃないかなと思うんですが、それに便乗しまして、9月まで太平洋を南下していったんですけども、で、最終的には、現在のミクロネシア連邦のトラック島という、現在でも同じトラック島という名称らしいですけども、そこに当時の連合艦隊、大和、武蔵、各艦船がいっぱいそこに、投びょうしとったんですね。いかりをおろしとったということですけれども、そこで乗艦したんです、はい。

Q:初めて武蔵を見たときというのはどんなでしたか。

いや、すごいなと思いましてね。何というですか、さきほど横須賀から乗せてくれた空母からおりて、迎えの、大和(武蔵)の迎えのランチに乗りまして、内火艇ですけどもね、ランチという名称でわたしたちは覚えておりますが、その窓からそっとこう、あの、何ですか、覆いが、あのう、ケンパスというか、ね、ハンモックみたいな生地でできとるんです。それからちょっと見て、小山のような大きな船だもんでびっくりしまして、みんなね、あのう、途中、もうゲロゲロゲロゲロ、もうおう吐して苦しがってた連中が一気に元気取り戻しまして、すごい船だなという感じでした。だから、ランチに乗せられて武蔵乗員に決まったのは、はっきり人員はわかりませんけども、80名から100名近くいたんじゃないかなという感じ。そんなに同年兵いたかな。ちょっと記憶がありません、何名、武蔵に乗艦したか、はい。

Q:とにかくすごい船だなと。

大きかったですね。もう山のよう。小さい山。それはそうです。長さが200メートルの余でしょう? それが艦橋までの大きなこういう感じですから、山そのものでした。黒々としたやつですね。それも、あのう、武蔵が、大和やら、長門、すばらしい艦隊がいる中でも目立って見えましたですね、はい。

Q:艦内の見学とかも。

はい。まず、ランチで、舷側、舷ていと言う、舷、あのう、舷側の舷ですけども、その舷てい、ハシゴですね。ラッタルをのぼっていくんですが、もう、海面、ランチから見ても、そのいちばん上甲板までの高さがものすごく高いんですよ。十何メートルぐらいあったんじゃないでしょうかね。で、そこを上がっていくだけでも大変でした。背のうをかついでね。全部一式、エー、靴下から始まって、衣服、一種軍装から、すべてが入った背のうをかついで、あのう、ラッタルを上がっていくわけです。それで、いちばん上に、この、何ていうんですかね、踊り場みたいなところがあるんです。そこへ行くと番兵がおりましてね、ギロッとにらみつけられてね、ウッと緊張した思いがありますね、はい。

特に、いちばん、あのう、印象に残るのは、艦橋、艦橋のいちばん上ですね。そこにのぼったときがいちばん、今でも印象はあります。エレベーターがありまして、それで行ったのか、外回りの階段で行ったのか、記憶がないんですけども、いちばんてっぺんに立ったときの恐ろしさ、もうそれこそね、断がいみたいな感じで、下がもう、みんな、何というですか、機銃群やら、高角砲やら、いろんな設備がありましょう? そういうところを見たときに、足がすくんじゃったんですよ。これはすごい、ものすごい高いんですよ。もちろん、あのう、艦橋の中心にはエレベーターがありますしね、当然、司令長官とか、艦長、副長、各分隊長たちが、航海長、砲術長たちがみんな乗り降りする1間四方ぐらいのエレベーターじゃなかったかなと記憶しておりますけども、それでないと上がったりおりたりが大変でした、はい。

それで、もう一つびっくりしたのは、飛行機ですね。いちばん後部に飛行甲板というのがありまして、その奥に格納庫があるんです。そこに零式観測機という、片パルクの、ごめんなさい、フロートのついた飛行機が5~6機、羽根を折って、あのう、待機しておりましたですね。これは飛行機まで積んでる、すごいなということと、その横に郵便局があるんです、はい。これも一つのびっくりした点ですね。船の中に郵便局があると、はい。

わたしは2番副砲の照尺手、やはり、この照尺手になったものも、わたし、ちょっと身長が足らなくて、小柄だからそういう配置に行ったんだろうとわたしは思っております。現在でもそう思っております。やっぱり体が小さかったからなという感じ。

で、照尺手というのは、砲塔で、射撃、副砲射撃指揮所というのがありまして、そこでいろんな、例えば水平線の船の距離を測って、それを砲塔に伝達が来るんです。そうすると、その分隊の砲塔伝令というのが、砲塔の中のいちばんトップですね。砲員長というんですけども、この方は上等兵曹で、兵では いちばん上の人ですね。その方が砲員長で、そのほかに、1番から5番ぐらいまでの砲手、1番砲手とか、あるんですけども、そのほかに、旋回、砲を旋回する旋回手、それから射手、射手というのは、3本の砲がありますんで、1人ずつつきます。3人ですね。で、射手。射手がたまたまわたしの、あのう、ごめんなさい、教班の班長でして、モンマ兵曹という方で、その方が射手。そうすると、その射手という役目は、攻撃されて、副砲射撃指揮所がもうだめになったよと、砲塔独自に相手と戦闘しなさいということになると、その射手が引き金を引くと、ピストルのような形したのがあるんですわ、引き金を引くようになってる。そのわたしは横でしたんですけども、それを引くと3本の砲身から弾が飛び出すよということ。

射手、それからさきほど言った1番砲手から5番砲手までズラッとおりまして、その中でわたしは照尺手、今言った複合射撃指揮所からの砲塔伝令を伝えてきたことばを、距離何メートル、右どのぐらい、左どのぐらい、いわゆる計算したこのくらいの盤ですね。2つありまして、1つは射手のほうへ行く、1つは、射撃から来る、その目盛り板をにらめて、2つ、あのう、2個のハンドルで操作して、その親針、子針を操作しておったんです。それが、随時、射手の、3人の射手の目の前の、何ですか、距離計、いや、メーターに出てくるんですね。それによって、それに合わせると砲が上がったり下がったりするような仕掛けになっておったんですね。その距離をはかったやつを受け継いで、わたしがそのどのぐらいに合わせるかとやると、射手のところへ全部つながったわけです、はい。そういう仕事。特に、ですので、体の体力的にはそう大した疲労はありませんでしたですね。

ちなみに、わたしたちの副砲は直径が15.5サンチかな。昔、巡洋艦の主砲だと聞いておりますけども、それが武蔵へ来たら副砲になっちゃった。主砲は46サンチでしょう? で、弾が2トンでしょう?

2トン。で、高さが2メートル。これが現物に、あのう、靖国神社にもあるかと思いますけども、愛知県の護国神社にも、大和の砲が、あのう、献納されております。すごいですよ。それが10里飛ぶ、4万キロ(メートル)、最大射程。わたしたち副砲は1万5,000メートルぐらい飛びますかね、最大射程が、はい。でも、最終的にはあんまり用をなさなかったですね、主砲。あれは副砲の場合だと何機か落としたと聞いておりますけども、まあ、対艦主義、艦対艦の体制の艦だったんだなと思いますね。だから、あのう、飛行機に対しての備えというのは機銃しかなかったわけです。機銃でも、1回、1波で全滅してしまうぐらいすごいですからね、とてもじゃないが、はい。

Q:しかし、主砲はやっぱり大きかったですか。

大きいですね。

Q:副砲と比べてどのくらい違う。

あのね、あのう、わたしがまだ、あのう、あれは伝令の時代だったか、もうちょっと新兵の時代か、ちょっと記憶はありませんが、スコールがあるんですよ。南洋特有のね。そうすると、サーッと来ると、あわくってハッと飛び込んだところがたまたま主砲の根元だったんです。全然ぬれないんですよ、ものすごい。そうすると、今度、たまたま天気が回復すると、どこかで軍歌を歌ってるんですよね。おかしなとこで歌ってるのかなと思ったらね、その主砲の穴の中に兵隊が入ってる。一生懸命、その施条、右回りの彫り込んである、あの施条を磨いておるんです。びっくりしました。人間ですよ。それは直径が46センチですもの、ね。わたし、今、これでも、どうでしょう、40センチありませんでしょう? 15センチか、そこらなもんですわ。それが中でおって、びっくりしました。これも1つのびっくり仰天の、はい。

これは、各居住区が防水区画になっとったというのが1つの例じゃないでしょうか。例えばわたしたち4分隊だと、通路から階段をおりますね。階段のラッタルをおりると、もう上にふたをパンと、あのう、通路と同じ位置、ちょっと高いか、こうふたするんです。そうすると、ふたのこのサイドに全部ゴムが張ってありまして、密閉ね、水が漏れないように、そういう感じのやつが密閉されて、なおかつ、その中へ入るとハンドルでもって閉めるようになってるんです。それが、ラッタルをおりて自分の居住区へ入ると、もう既に入り口がそういう扉になっておりまして、常時は開けたまんまですけども、訓練のときには全部閉めるんです。そうすると、もう、その1つ部屋が水が1滴も入りません。で、送風機というのも各居住区にありました。これも全部閉めてしまいますでしょう? そうすると水が入らない。それがもう各1分隊から二十何分隊の兵員の居住区全部そうでしょう? 1つぐらい魚雷をもらっても全然水はよそへ行かないよと。1か所爆破されても、そこは水浸しになるでしょうけども、そのほかには海水は入らないよと、これが防水区画、いわゆる不沈戦艦の意義があったんじゃないかなというふうに思いますね。
 
で、あのう、正直言って、わたしたち、最終段階に行くまで、不沈戦艦というのは頭から離れなかったですね。絶対大丈夫だ、絶対武蔵は沈まないんだ、そういうふうに教育もされたり、そういうふうに自分でも思っておりましたね、はい。残念ながら、魚雷をこう、次から次と同じところに魚雷がぶち込まれれば、これはしかたありません。海水の量が重たくなってしまいますから、はい。

まず楽しかったのは映写会ですね。映写会。これはいわゆる今いう映画ですね。で、あのう、いちばん冒頭で新兵教育のときに見た、その、スチール甲板、木甲板じゃなくて、前部のほうは、鎖やら、そういうものがいっぱいありましょう? そうすると、そこに大きな天幕、いや、ごめんなさい、映写幕を張って、で、副長以下、艦長はちょっと記憶ないですね。艦長も映画見られたのかどうか、ちょっと記憶ありません。たぶん見えたんだろうと思いますけども。各分隊に、折り畳みのいすを並べて、そこに腰かけて、あのう、映写幕を見つめて映画を見たわけなんですけども、当時の、映画の題名は嵐寛十郎の「鞍馬天狗」、これがすばらしくよくてね、皆さんもう夢中になって、くいいるようにして見つめて。もう、だからね、こういうことも戦艦ならではかなあ。そういう催し。

で、いつまでも楽しんでいると、わたしたち新兵はそんなに楽しんでいつまでも見ているわけにいきません。「何、ぼやぼやしとる。早く片付けんか」と来たもんで、もういすの畳み方、いつまでも酔っておれないです、映画に。いくらいい映画でもね。それは瞬間的に、もう見終わったあとは従来の教育の関係で。

それと、やっぱり、酒保、これは、わたしたち若年兵は酒保もよかったですね。今のコマーシャルでいろんなのが出てきますけども、井村屋のようかんだとか、虎屋のようかんだとか、そういう有名なようかんがどっさり配給されたんです。そのほかにも、ようかん1つに、例えば井村屋なら井村屋、今週は井村屋のようかんにこのほかのお菓子だよと、このくらいもらった感じがあります。食い切れないほど。そうすると、わたしたちより上の人たちは年齢が上でしょう? そうすると、わたしもたばこも配給あるんです。たばこを持っとっても吸わないでしょう? そうすると、あのう、上司が来て、上の上等水兵だとか、水兵長とか、そういう人たちが来て、「おい、お菓子やるでたばこくれよ」と、交換、物々交換で。ですので、もう食いほうだいだったんかなあ。

当時、昭和18年でしょう? わたしの田舎は長野県の農村ですのでね、そんなにお菓子類はなかったわけですわ、当時としては。ああ、ようかんとか、こういうものを、おふくろに、おふくろさんに食べさせてあげたい、弟に食べさせてあげたい、つくづく思いましたですね。はあ、本当に幸せでした。これも、戦艦、武蔵、巨大戦艦だからこそ、いろんな倉庫がたくさんあって、内地を出発するときに積み込んで、倉庫へ格納してね、こうして戦地へ来ても、あのう、兵員に配給したりしてくれてるんかな、ここの心づかいはすごいなと思いましたですね。駆逐艦でも恐らくそういうのはあったでしょうけども、おそらく戦艦ほどの待遇はなかったと思います、はい。
 
で、ごちそうがいいんですよ。わたしの同年兵に、長野県の飯田市におりますが、主計兵の同年兵、彼らはもう本当に汗ぐっしょりになって、もう、つくってくださるんですよ。で、そういうものをもらってきて、班長から上下士官やら上の上等兵、水兵長まで全部よそってやるわけでしょう? あとが大変。もうごちそうですので、例えばライスカレーなんかやると、豚肉、当時、わたし、田舎におっても豚肉なんて食べたことなかった。それがゴロゴロしてるやつなんですよ。まあそれはもううれしくなってね、こんなごちそういいかしらんと思うぐらい。そのあとが、もう食器洗うにも油でこってりして一苦労でした。その食カンを洗うだけでね、はい。食事はすばらしかったですね、はい。

パラオ島に入る、湾に入る入り口があるんです。水路がありまして、そこを出たとたんに、魚雷が3発、武蔵に向かってきまして、巨大ですので、なかなかかじが切れないでしょう? で、2発は何とかかろうじてかわしたんですが、あとの1発が前部の右に命中しまして、初めてそこで戦死者7名、たぶん7名だと思いますけども、戦死者を出しました。それで、急きょ、武蔵は独自、内地に帰り補修せよという命令があったんじゃないでしょうか。で、あのう…

Q:魚雷が当たったときというのはわかりました?

ものすごい、もう、どうでしょう、地震だと震度6? ワーッとものすごい振動でした。たとえて見れば、昔のおんぼろバスね。バス。今はアスファルトでしょう? 当時は道路ですから、もうガタガタでしょう? そういう、こういう格好で揺れた覚えがあります。

Q:どちらにいらしたんですか、そのとき。

そのときは、わたし、あのう、これも3番副砲、当時は4個砲塔あったんですよ、副砲がね。1番、2番、3番、4番と副砲がありまして、で、3番副砲におったときですから、もうびっくりしましてね、いや、これ、どういうことだと、もう瞬間的にびっくりしました、はい。でも、爆発が終わってその振動がおさまってからは、もう、今までのスピードより、より速く内地へ向かって航行したということを記憶しておりますね。ですので、連合艦隊から離れて独自に呉の軍港へ入って、で、呉の大和の造船所、ドックですね。そこへ入って、そこを、穴のあいたところ、中の破砕されたところの修復に当たったんだろうというふうに思っております。
 
それで、その当時、わたしは、ちょっと時間がかかりますので、わたしのおった砲塔、4番、4個砲塔のうち、2個砲塔撤去しまして、そのあとへ機関銃を備えたんですね。

で、あのう、呉に、時間かかったんですけども呉へ来たら、もうわたしの配置の副砲がおろされちゃって、右舷、左舷とも撤去されて、そこに機銃が、機関銃ですね。もう、ハリの、ハリネズミのようにバーンと立っとったんですね、セットされて、はい。ああ、そうか。そうしてるうちに、4分隊の人員が、1番副砲、2番副砲、そんなよけいは人員は要りません。まあ分隊の上層部で選定してくれたんでしょうけども、わたしは副砲に残って、あとの人たちは、機銃とか、あちこちの転籍して、よその分隊へ行ったんだろうというふうに思っております。

Q:しょう然としたでしょうね、初め、戻ってきたときに。

いや、びっくりしましたね。「あれ? 大砲がなくなっちゃった。副砲がなくなっちゃった」ということで、はい。でも、あのう、それほど、ただ単にそういう感じだけだったのかもしれませんね。まあ、どうあれ、命令に従うしかありませんので、

Q:何で外されたとかという説明はあったんですか。

いいえ、ありません。だから、たまたまわたしは2番副砲で残って、2番副砲の照尺手という戦闘配置へついただけで、4分隊に残れたというのも、ちょっとわかりません。これはおそらく上層部で検討されて、配置転換された者と、残った者との分類されたんだろうと思いますけどもね、成績うんぬんじゃないんじゃないかなというふうに思いますね、はい。

Q:変わったのは、副砲が外されて、機銃が入ったというだけですか。

そういうことです。分隊が変わったということでね、さきほど数えたように、十何名、1個砲塔にはそれだけいれば十分でしょう? だから、そのほかの人は余剰人員ですので、よその分隊へ転籍して、機関銃だとか、ほかの役についたんじゃないかなというふうに思っております。特にそのいきさつについてはほとんど聞かされておりません、はい。

そうですね、エー、確かそう記憶しております。それから敵機の来襲があったわけなんですが、最終的には、24日朝から爆撃ありまして、さきほどお話ししましたように、わたしは砲塔の中での戦闘配置だったんですので、外部の飛行機群、米軍の飛行機のものをほとんど見ておりません。ただし、終わったあと、暑いから、砲員長の命令で、あのう、外へ出て空気を吸えと、新しい空気を吸えよと言われて出たとたんに目の中へ飛び込んできたのが機銃員の戦死者、もうゴロゴロゴロゴロ、ほとんどもう1人もいないくらい、機銃はひん曲がっておりましたしね、それは壮絶そのものでした。で、わたしども砲員たちはみんな無事で、休憩して、そのあと、また中に入ると、とたんにもう、第2波、第3波と、4波、5波と来たんじゃないかなと思いますけども、もう戦闘、戦闘で、どんどん撃ちまくった思いがあります。

で、当時、わたしたちは、護耳器という、耳栓ですね。名称は護耳器と、耳を守る器、護耳器というんですけども、耳栓のことなんです。耳へやっとってもまだ音は、あの、話は聞こえるということで、そういうものを耳へはさんで。そんなのもまったくもうありませんでしたね。飛んでしまって。まったくもうドカンドカンドカンドカンの壮烈な戦闘が終日続いたということです、はい。

で、あのう、あと、最終に、4波が去ったあとですか、15時半、17時半、18時、17時から18時ごろ、もう米軍がこなくなってしまったんですね。ということは、武蔵1艦だけになってしまったんです。戦艦は武蔵と、あと、清霜と浜風、駆逐艦が2杯、ついてくださって、もうほかの大和以下の艦隊は全部退避して、北へ向かって航行してるということで、で、わたしたちは、加藤副長が、3番主砲、あのう、当時はもう、19時ごろ、19時以前か、18時半ごろから始まって、もう半分ぐらい海水につかっとったんですね。艦橋が何とか、見えるくらい。で、その時点に副長が、本艦は絶対沈まないよと。で、陸上にのし上げて陸上の砲台にするから、これから一生懸命、その、沈まない処置だとか、いろんな作業をしてほしいよという訓話があったんです。

第1波が済んで、砲員長が、外へ出て、あのう、休めというわけで、扉を開けて外へ出た。それで、フッと汗をふく間もなく下を見たら、副砲は高い位置に、設置されておったんですね。その下が3番主砲ですので、だいぶ高いんです。で、そこから下をのぞくと、のぞいたような格好で見ると、もう、機関銃、露天甲板の戦闘員、下士官から、兵から、ほとんど、ほとんど見当たらないくらい戦死されておったんですね。第1波ですよ。もうびっくりしました。どういうことなのということ。だから、つぶさに見ておれば、やられたな、あそこでもやられたというのをわかるんですけども、砲塔の中だったんでわからなかったわけですね。だから、そういう情景というのは、そのとき、第1波か、第1波が終わってからだと思いますけどもね。

何というでしょうかね、自分の配置に立てば、25ミリ機銃なんです。機関銃ですね。機銃というんですけども。その周りにもうバタンバタンと倒れとるという感じ。で、そのほか、機関銃の先がね、グルッと曲がってるような状態も見た感じがあります、記憶がありますね。

はい、全滅でしたね、はい。あと、話聞いてみますと、結構主砲も撃ったわけなんですけども、当時、主砲を、あのう、発射するときは、訓練のときはみんな退避したんです、露天甲板にいる訓練のときの兵隊たちはね。下士官兵は。ところが、当時、戦闘ですから退避する暇ないでしょう? そうすると、爆風で吹っ飛ばされたのが何人もいたよということを聞きましたですね、はい。あの爆風で、46サンチの2トンものを発射するですから、返る爆風というのはすごいもんですわね。それで吹っ飛ばされたというのは聞いておりますね。まともに見たわけじゃありませんけども、あとで後刻聞いた話だと、そのようです。

で、わたしは艦橋のほうまで歩いていったんですけども、艦橋のそば、艦橋といっても、もうそれは、艦橋の根元はね、長いんですよ、距離的に言ってもね。その大きなそばにいっぱい死がいが、あのう、戦死者が何かこう、積まれると言っちゃ語弊がありますけども、安置しとったという感じを受けますね。で、わたしは、当時、分隊長の従兵だったので、中には軍刀を持っている人もいたんです。だから、あのう、わたしも分隊長の軍刀を取りにいこうと思って、分隊長の私室ってある。「私」の部屋ね。そこまで行ったんで上甲板を行ったんですが、上甲板の通路をもう水がいっぱいなんです。もう傾斜して海水が入ってきて。それで、その通路に死がいがいっぱい、もう、もう、何というの、足の踏み場もないくらい。それはもう、何というですかね、こういう戦友の死がいの上を歩いていく精神? もう精神的にまひしたのかなと思うくらい、もう洗脳されたようにね、もうまったくもう感じがなかったですね。まったくふだんの気持ちで死がいの上を踏み越えて、分隊長の部屋がまた下甲板ですので、そこまで行ったらとてもじゃ行けれないってまた戻って帰ったんですけど、それから副長の総員集合があったわけなんです。

ですので、エー、あんな、何ていうですか、年、年齢的にも十八、九の者が、そのう、戦友の死がいを乗り越えて歩いていく。今でもおかしいくらい、どういう神経だったんだろうかなと思うくらい、怖いとか、かわいそうとか、まったくそういう感じがなく、ただ単に自分の役目をやりたいという気持ちのほうが強かったのかもしれませんね。戦死された方に対しても、まったく無神経な言い方して申し訳ないですけども、もうそういう気持ちはまったくなかったです。ただ、自分一身のみでその行ったり来たりの行動をとったということでしょうかね。

でも、それもつかの間、再び艦長いわく、もうだめだから、各、皇居よう拝、続いて各自の故郷に対してのよう拝せよというわけで、みんな、あの、北のほうへ向かって頭を垂れた、そういうことがありました。それに続いて万歳三唱して、総員退避の号令のもとに、軍艦旗を背負った下士官が海から、海へ静かに泳いで退避したということです。それからみんなが退避と号令とともにそれぞれに飛び込んだり、宙を舞うように飛び込んでいく者もいたんですけど、わたしはたまたま、それこそ海なし県の信州の人間ですので、水泳はあまりよくなかったんですね。エー、不得手だったので、とにかく下まではいずりおりようと、海面におりようと思ったんですが、何せ、もう沈む寸前ですので、後甲板がずっとせり上がっとるんですよ。それで、何とか下の横腹まではいずりおりて、横腹を飛んで、横腹の一番底の向こうへ飛び込もうと思って走っとったんですが、それもつかの間、中空にそそり立ってしまって、一気にズボッといってしまったんですね。もうそのときはもう、何ですか、あのう、ガバガバッと海水が目の前に感じた、それが最後で、もう記憶はありません。

だから、何分何秒沈んどったか、当然、わたしは、そこまでともなく、6万トンでしょう? それがまっすぐに沈むんですから、渦巻きです。それと同時に引き込まれたんじゃないかなと記憶しております。これはまったく現認者もおりませんし、自分の考えもまったく定かじゃありません。だけども、ある時間たってフッと呼吸が出たのは、何かのショックがあったんだろうと思います。首が海面に浮いとって呼吸できたと、これが九死に一生を得た瞬間ですね。それと同時に、わたしは左足がもう切れたように、なくなったように感じたんです。だけども、海水の中でしょう? 足にさわることもできないで、何せ、もう浮いてるだけで精一杯ですので。

ところが、たまたまドラム缶がフッと浮いてきて、それにつかまった。ということは、それに、兵か下士官か士官かわかりませんけど、5人ほどつかまったんです、そのドラム缶に。最終的には、そのドラム缶を押して、エー、そのいわゆるシブヤン海の波の流れの速いところを押し切っていったんですけども、わたしは左足が悪くなったもんで、ただつかまってるに過ぎませんでした。

で、たまたま浮いてる最中、流れに沿って行くんですけども、もうあちこちのほうで戦友たちが思い思いのものにつかまって軍歌を歌ってるんですね。そうすると、波の間に間に、わたしたちもじゃあ歌おうかということで、軍歌を歌った覚えがあります。それも波が高いもので、いちばん波頭に上がったところで初めてそういう戦友たちの浮いてるのが見えたり、で、たまたま目の前を来た方がいらして、何か、「4分隊はおるか、4分隊員はおるか」ということばで気がついたら、わたしの分隊士、モリタ兵曹長でした。大きなミカン箱を腹の下に入れて。で、「はい、おります」と声をかけた。あとの方はほとんどわかりません。それで、流れが速いですので、分隊士とはほとんどもうそれ以後、お話しておりません。

で、「駆逐艦が来たぞ」と遠いところで話し声が、声が聞こえてきたので、あ、来たのかなと思って、助けに来てくれたということで、波頭に、たまたまこうがぶってる波頭にのぼると、向こうに駆逐艦が2杯、2隻、これが浜風と清霜ですか、呉の管轄の船ですけど、それが助けに来てくれて、いやあ、助かったぞということでみんな頑張っとったんですが、さきほどお話ししたように、シブヤン海というのは海流がものすごく速いんですよ。とてもじゃないが、どんどんどんどん駆逐艦から離れていっちまう。これではとてもじゃない助からんよ、みんなしてドラム缶を押して向こうへ泳いでいこう、浜風のほうに行こうよという、艦隊勤務を長年経験された方でしょうね、その方のために、皆、力出して、一生懸命それに、あのう、駆逐艦のほうへ泳いでいったわけです。そして、何とか浜風のそばに着くや、縄ばしごにつかまって乗艦したんですけどね。
 
わたしの場合は左足が悪かったので、いちばん最後だったんじゃないかなと思うんですけども、とにかく左足が海面から抜けるのがとっても重たくて、なかなか上がれないんです。右足1本でしょう? ほとんど痛くて足がない感じだと思うんで。で、甲板に引き揚げられて見たら左足がちゃんとあるんで、びっくりしまして。バカですね。左足がなかったら出血多量で死んでしまうのが当たり前ですけど、幼稚だなと思いますね、当時のわたしの場合は。で、打撲傷で、エー、すぐ医務課で診察していただいて、傷病兵扱いにしていただいて、そのためにたぶん、内地へ帰ったじゃないかなというふうに思います、はい。

で、最終的には、コレヒドール島に向かってその浜風が航海してくださって、浜風からコレヒドル島、コレヒドール島という島はマニラ湾の入り口にある要さいの島なんですね。昔、米軍が、そこの、コンクリートの兵舎をつくったり、防御施設をつくったりして、立派な島なんです。そこへ、あのう、東洋爆撃隊で日本軍が打ちのめして、マッカーサーがフィリピンを離れた、マニラを離れた、そのあとの時点じゃなかったかなというふうに思いますね。ですから、昭和19年の10月の24日が武蔵が沈没して、25日、26日ごろ上陸したんじゃないかなと思います。で、当時、爆撃された兵舎、そこに各分隊、総員集合で、生存者ですね。で、集まって、お前も、お前も、お前も元気だったとか、みんな喜び合って、抱き合って喜んだ状態が今さらながら思い出されますね。

ドラム缶につかまって浮いてるときに、エー、わたしはもう、朝からもう大変な労苦があって、食事もできないわりに、けがをしてるために、つらかったんです。たまたま浮いてきた人がわたしの肩へつかまってくれたんです。で、そのつかまってくれたのはいいんだけど、わたし自身が、ドラム缶に油がビッタリでしょう? 頭からもう顔じゅう、もう、歯と目が光ってるだけで、あとは重油で真っ黒なんです。で、ツルツルツルツル滑りますもんで、そのう、例えばふんどしだとか、手ぬぐいだとかを、ドラム缶の相手に、向こう側にいる人に投げて、向こうからも投げてもらったりして、手に巻きつけて、つり下がったというか、支えてもらったという感じなんですけども、たまたま、今言ったように、後ろから肩からつかまれた。で、つかまれた拍子に、わたしも一緒になって沈んでしまったんですね。で、また苦しくなって、また海面へ浮き上がって、で、また、あのう、ドラム缶にさわって、つかまるところ、ないでしょう? ドラム缶は、ご存じのとおり。で、さわってるだけだけど、また後ろから2度つかまられたんです。2度も、2度目もたぶんそうだったと思いますが、一緒に沈んじゃって、またアップアップして上がって、で、3度目かに来たときに、ちょっと記憶がありません。2度目か3度目かわかりませんけど、また肩にすがられた、あのう、つかまられたんですね。そのときに、わたしももう苦しくなって、もう、左手が、左足がもう言うことをききません。右足はまだ大丈夫です。右足で、あのう、戦友をこうやって足で、あのう、後ろで、何というの、あのう、どかしたんですね。向こうへ行きなさいよという感じ? よそへつかまってよという感じ? そういう感じで足で後ろへさわったら、また、彼、その人は、船、いや、ごめんなさい、海中の中へ沈んでいっちゃったんですね。だけども、そのあと、もう2度と浮いてきませんでしたね。

だから、その人に対して、わたしは本当に今でも申し訳ないと思っております。本当に、兵か士官かわかりませんけども、その方でも生きたいと思ってわたしの体にさわって肩に手をかけたんだと思います。でも、わたしもつらかったので、あえてそういう行動をとったんですけども、はい。今、あのう、この間、佐々木さんにお話したように、これは、あのう、いまだに口にしたことないこと、これが録画としてカメラにおさまることばとして、わたしはまあ残念なことばとして、申し訳ないということばとして、あえて、あのう、その戦友に対しての慰霊のことばとしておわび申し上げます。どうも。はい。

そういうことです。本当に、あのときはね、やはり助かりたいという感じがありましたので、はい、あのう、足でけったと言ったらしかられるかもしれませんけども、はい、わたしの少年のときの戦争中の出来事の一環としての、何というですか、人間としてのモラルに欠いたことだったというふうに思っております。これがやはり戦争かということですね。

だから、絶対戦争はやってはいけない。今、まったく平和の時代になっておりますけども、戦争を知ってる人は数少なくなってきました。で、わたしはあえてこうしてお話しできるのはありがたいと思って、もう絶対に戦争反対。

あのう、いまだにずーっと、64年間ずっと胸の中に思ったことでした。そのほかはほとんど、あのう、特に記憶というのはありませんけども、その方に対してのみ、わたしは申し訳ないことをしたんだ、もうちょっと、けがもしなくて、「おい、こっちへ来いよ」と言って手を差しのべて引っ張ってあげられたらなというふうに感じました。だから、あのう、ご遺族の方に、その方がどなたかわかりません、まったくわかりませんけども、申し訳ないなというふうに思っておりますね。

出来事の背景

【フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年(1944年)10月、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸。敗色が濃厚となっていた日本の連合艦隊は、レイテ沖で、起死回生の戦いに挑んだ。この戦いで、世界最大の46センチ砲を搭載し、不沈艦と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」が出撃した。

太平洋戦争においては、海戦の主役は戦艦から航空母艦・航空機へと移っていた。レイテ沖海戦の前に、武蔵には、航空機による攻撃に対抗するため、改修工事が行われた。甲板上には対空戦闘用の機銃が数多く取り付けられていた。
日本軍は、わずかに残った航空兵力がおとりとなり、そのすきに戦艦武蔵を含む第一遊撃部隊がレイテ湾に突入、米軍を叩くという奇策に出る。それは、米軍に完全に制空権を掌握されている中で、目的地まで見つからずに到達しなければ成功しない作戦だった。

米軍のレイテ上陸から2日後の10月22日、武蔵はブルネイを出港、レイテ沖を目指した。しかし、出港から2日後の10月24日、米軍の偵察機に発見され、朝から数次にわたる米軍艦載機による猛攻を受けた。増設された機銃は隠れる覆いがなく兵士を守ることができず、機銃掃射や爆弾の攻撃で大きな被害を受けた。
さらに、「不沈艦」と呼ばれた武蔵は魚雷20発、爆弾・至近弾合わせて35発を浴びせられ、午後7時半沈没。退去命令が出たのは沈没の直前だった。

乗組員2400人の半数近くが犠牲になり、辛うじて生き延びた乗組員たちの多くも、帰還の輸送船が撃沈されたり、マニラ防衛戦などの地上戦に投入されたりして、命を落とした。

証言者プロフィール

1926年
長野県小県郡長窪古町(現・長野県小県郡長和町)に生まれる。
1943年
小学校高等科卒業後、横須賀兵団に入団、当時16歳。副砲照尺手として「武蔵」乗艦。
1944年
改造空母「隼鷹」で帰国。
1945年
神奈川県の三崎砲台で、機銃射手として終戦を迎える。

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