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証言

タイトル 「“コロニー”が果たした役割」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 鈴木 昭彦さん 収録年月日 2015年10月24日

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チャプター

[1] 「のぞみの園」職員になったきっかけ  03:21
[2] 当時、障害者を抱える家庭は…  05:20
[3] 当時の社会は障害者をどう見ていたか  02:41
[4] のぞみの園で職員たちが目指したもの  03:51
[5] “コロニー”は必要か?  04:30

再生テキスト

Q:最初にのぞみの園で働かれるようになったきっかけというか。

僕自身は以前、学校を卒業してから国民年金の仕事をやってたんですよ。結局、大学は福祉系の学校を出まして、就職活動に失敗したという部分はあるかもしれませんが、一応厚生省というところに関わりを持つような形で、国民年金の仕事をやったんですが、福祉系の学校で学習してますと、必然的に実習というのがあるんですね。実習をやる段で、ひょっとして自分はこういう世界のほうが向いてるのかなというふうな気持ちが高まりましてね。 そういうわけで、国民年金の仕事をやりながら、自分の目指すところと少し違うんじゃないかと。当時の社会保険庁の数理室に懇意にしてた人がいたので、こういうことをどうしても自分の中では一生やってみたいということを伝えましたところ、たまたまその翌年にこちらの開所があると。場所は高崎だということだったので、そのお話をいただいて、最初の、いわば試験を受けてこちらとのご縁がつながったということですね。

Q:こののぞみの園ができた最初。

最初の、ええ。4月1日、昭和46年4月1日付けで採用されました。

Q:この施設を開所するのに、どういう施設にしていこうとか、当時のムードってどういう雰囲気でした?

歴史をひもといていただければ分かるかもしれませんが、とにかく当時は知的障害者って言葉はなくて、精神薄弱者(児)という言葉がありましてね。特に精神薄弱者の施設っていうのは、全国的に絶対数として少なかったんですよ。それで結局、各方面からのニーズに応じてこれを作り上げてきたって形なんですね。

Q:こういう施設を作らなきゃいけないというふうになっていった、その辺は。

結局、精神薄弱児の施設の中で、年齢超過の人たちがかなり増えてきたと。二十歳過ぎても、18歳過ぎても、その施設にいざるをえない。行き先はほかにないという形が、かなり社会的にも強まりましてね。国も結局、いろんな角度で親の会を中心とした活動を長年積み重ねていく中で、結局こういう施設の誕生に結びついたということですよね。

Q:そういう社会の中で、どういう気持ちで皆さんこの施設を待ち望んでいたというか。   お母さんたち、お父さんたち、ご本人は?

やっと安堵(あんど)する場所が見いだされたってことでしょうね。当時は生涯預かるということを口にしたという事実がありますので、それを耳にした時に、やっと安堵したっていうのが親御さんの気持ちでしょうね。

Q:安堵っていうと?

落ち着いた、先行きが見えたっていう。先行きが見えたっていうより、やっと落ち着くことができたっていうことでしょうね。

ほっとしたというのが、親御さんのまず第1印象。自分が亡きあと、どこにこの子を、そこで過ごせればというようなものが、非常に長い間不安を積み重ねてきたってことですかね。結局、ここに入所された親御さんの大多数が、かなり悲惨な経験を背負われていて、僕自身が耳にする中では、一家心中とか、そういうような非常に厳しいものを経験した方もいらっしゃるし、当然考えられた方も多かったですね。

結局、この子を抱いて飛び込もうとかね。とにかく行き先が全くなかったような時代でしたから、年齢超過であったり、もしくは、家で過ごしている人たちがそういう世界でしたね。

Q:今の時代からすると想像できない、どうしてその頃、一緒に死んじゃわなきゃみたいなことまで追いつめられちゃうのは、どうしてなんでしょう。

やっぱり、福祉の貧困でしょうね。結局その人たちのニーズを引き出すよりも、むしろ経済成長のほうに重点を置かれたという時代背景があったかもしれませんね。絶対数から見れば、当然そういう人たちが多くあったわけではないし、しかしながら、抱えているものはかなり大きいものを、それぞれ背中にしょっていたということですね。たがら、まさに福祉の貧困という言葉が、そのままその当時使われた時代ですね。

結局、自分たちが年老いたあとの、いわばこの子たちを抱える場がないということですね。先行き、自分が亡くなったあと、どうなるんか、この子たちはということですね。

Q:障害を抱えた子たちを、家で育てるというのも皆さん苦労されてたんですか?

苦労されてましたね。いろんなケースがありましたね。例えば、ある人、これは記憶の域ですから正確なところははばかる部分はありますが、例えば、農家の場合だったら、その人を家に1人残して出られないからといって、かもいに縛りつけておくとかね。そのために、昼飯はにぎりめしをそばに置いといているとか。当然排泄の習慣をつけるわけじゃなく、ここに入った時はほとんど垂れ流しのような状態とか。例えば、食べ物にしてみても、非常に貧困の中で、その子に提供できる食事は何なのかといったら、うどんしかなかったとかね。結局、ここに入った時は、うどんを手づかみで食べるというような。 僕らはそういう子たちに対して、

どうやるかっていうと、うどんの中にご飯粒を2粒、3粒、ぽんぽんぽんと投げるんですね。そうすると、本人は異物なんですね。ごはん粒を食べたことがないから。そうすると、投げていく。だけども、また加えるっていうことの繰り返しをやりながら、だんだんだんだんうどんの量とごはんの量を増やしていって、そして、主食と副食とおつゆと、というような区分を、長年かけてやってきたというようなことがありました。

Q:ごはんを食べたことがない?

ないという人もいましたね。だから、座しきろうにいた、座しきろうという言葉が適切かどうか分かりませんが、それに近いような環境にいたというようなこと。ここを開所した時に、これも記憶ですけど、おおよそ半数近くは家から来た人たちも多かった。本当に自分たちは、その子を抱えている親御さんが高齢になってしまって、小さいころは何とか身の回りの世話はできたかもしれないけど、だんだん年老いてそれができなくなってきた。 子どもは逆に、どんどんどんどん大きくなって力もついてきた。親が押さえようとしてもそれに反発するというようなこともあって、非常にその辺の葛藤みたいなものもありましたね。

Q:いまと比べて、社会とか世間の障害者に対する目というのは、どういうものだったんですか?

ここが昭和46年にできた当初、ここの地域でも100%受け入れが完璧だったかというと、非常にそのへんは疑問ですよね。観音様の裏にこういうものができるってことに対して、非常にある面ではアウトな世界がありましたけど。だから、町に連れて行くと、まさに怖いもの、汚いものが来たっていう認識で、僕ら、そういう対応を受けたこともあります。 逆にこんなこともありましたよ。お年寄りなんか、僕なんかが両手つないで町なんか行くでしょ。横断歩道で信号待ちしてると、手を合わせておばあちゃんが、小遣いをぷっとくれて、「これを何かに使ってください」って、手を合わせて拝まれたこともありましたけどね。それはそれでいいんだけど、本質的な今の時代の福祉とは全くかけ離れた世界がそこには存在していた。この高崎ですら。 高崎でも、なおかつ、前橋行くともっと違ったんですよ。要するに、こういう施設がない地区だから、非常に差別感。通りすがりによけていくのがあからさま。そういうのが、それこそかれこれ50年近く前にありましたね。

あと、ちょっとこれも悲惨な例ですけど、たとえば、特に某、ある県のある町なんですけどね。その子がいるがゆえに、結局、町の風紀が乱れると。要するに、ものを盗むとか、火をつけるとか、石を投げるとかってことを繰り返していた。ちっちゃな地域社会だから。そしたら、ここに、高崎に来るにあたって、村長あげて駅まで送りに行って、もう2度と帰ってくるなと。いまだったら考えられないですけどね。だから、福祉事務所の職員と親御さんと、まさに昔でいう、出征兵士を送る逆バージョンですよね。そういうようなことがあったことも耳にしてます。

Q:職員の方々はどういう施設にしていこうみたいなお気持ちだったんですか。

あの頃は、要するに、成人の精神薄弱者に対する取り組みっていうのは、全く、何もマニュアルがなかったんですよ。児童のはありました。

だけど、成人の知的障害者の一生預かる施設の職員の、いわば取り組みは何をしたらいいかってことは、全く何もなかったです。だから、われわれは本当に手探りの中から始まりました。 まず、福祉事務所から送ってこられる調書をあらかじめ読んで、整理して、聞き取りをして、性格特性をある程度把握しながら、半分以上の人たちは集団生活をやったことのない人たち。だから、朝起きる時間、ごはんを食べる時間、お風呂に入ることも経験ない人もいましたよね。そういう、いわば生活を整えるってことに取り組んできたってことですね。僕がいちばん厳しいなと思ったのは、1週間飲まず食わず寝ずで、1日中部屋の中をかけずり回ってると。

Q:職員の方がですか?

いやいや。入所した人。だから、当然職員も追いかけてましたよ。

Q:ご本人が飲まず食わず、寝ず。

寝ず。

Q:どうしてですか?

まさに興奮状態の極にあったんでしょうね、集団生活というものに対するね。その人は在宅にずっと長い間いたっていう経緯があったんですが、結局、本当に見ず知らずのところに、また、ほかの人たちと自分と、いわば生活歩調が合わない人たちと生活するってことに対するストレスもあったし、不安もあったでしょうね。

いま思えば、僕はすごく貴重な体験をさせてもらったというふうに思いますよ。

若かったってこともありますから、僕自身も本当に、まさに寝ず、食わずでも何とか対応できたってこともあるかもしれませんね、20代の前半ぐらいは。

とにかく自分が与えられた、いわば、当時は園生という言葉を使ってましたけどね。園生と、それから職員との環境をどうやって落ち着くことができるかと。ただそれだけですね。だから本当に、朝起きる、着替える、排泄する、そして、食事をとる。お風呂へ入る。それからまた、食事をとる。着替える。布団で寝るということがね。このごく当たり前のものが、まさに整えることに。それに専念していたっていうのがあるかもしれませんね。 ただ、すばらしかったなと思うのは、僕らと同じ世代の人たちが多かったもんで、お互いに情報交換がすごくこの施設はあったんですよ。あの寮ではこういうことをやってる、この寮でああいうふうに取り組んでるって形で、いろいろ、若かったから酒飲みながら、夜通しそういう情報交換をしながら、じゃあこうやってみようかとか、こういう人にはこういう取り組みがあるんじゃないかとかって、諸先輩のアドバイスをいただきながら、いろいろ試みてきたってこともありますね。

Q:当時、コロニーという言葉が生まれて、比較的大規模でいろんな方がいらっしゃる、集まれる、そういう施設が求められたということなんですけど、大規模なコロニーという施設が求められたのは当時どうしてだったというふうに。

それは先程来申し上げているように、結局、まず施設そのものが地域の中で受け入れられないっていうこともありましたね。もう1つは、それだけの規模の多角的な取り組みができる専門性の高い施設でなければ、こういう障害を持ってる人たちの取り組みはできないんじゃないかってこと。

ここの施設のいいところは総合的に対応できるってこと。医療にしてみても、心理にしてみても、それから、治療訓練とか、リハビリとかっていうものに対しても、総合的にその人を見ていけること。ただ抱え込むだけではなくて、そこに収めるだけじゃなくて、多角的に取り組むことができる、そういう施設。

当時のニーズからすれば、僕は社会的な必然性というのは高かったんじゃないかなと思いますね。 だから、非常にそのへんは、いろんな角度で考えられている方、ものを申されている方がいらっしゃるかもしれないけど、僕は非常に、ここの施設の設立、そして、その歩み、現在に至るもの、僕は絶対的にこれは必要なことだなと思うし、かなりのレベルで、いわば社会生活を営むっていうところまで、あれだけの問題行動を起こしながら、社会的に受け入れられない人たちでも、やっとそこまでたどり着いてきた。そして、社会に帰っていくっていうところに、道のりとしてあったんじゃないかなと。 最初はやはり、出だしとしては、僕は決して間違ってるものじゃないし、いろんな角度で研究されている方がいらっしゃるかもしれないけど、大規模施設のうんぬんという形で批判的な方も決して少なくはないけど、そこに直接関わった人間からすれば、僕は必要であり、また、いまも部分的には必要だというふうに思いますね。

Q:いま鈴木さんが必要と言われる理由、なぜ必要かっていうのはどういうふうにお考えですか。当時、なぜ必要だったか。

受け入れ先が何もなかったってこと。どこにもなかったってこと。それは地域的にもそうですし、それから、いわば制度的にもそうですし、住民感情という部分とか。

Q:その中で、どういうふうに利用者の方たちになっていってほしいなという気持ちで、職員の方たちは、対応されてたんですか。

結局、その人の、まさに自己実現ってところでしょうかね。いったいその人が一生なにを求めているんであろうってことを探索するっていうところにあるのかもしれませんね。

その人の求めていることが何なのかっていうこと。それは結局、ものを言えずに、口に表すことのできぬ、表現できない部分をいかに僕らがそれをくみ取っていくか。だから、われわれが求められたものは洞察力ですよ。

この人がいったい何を求めてるかと。例えば、排泄なのか、食事なのか、それとも、水分なのかって形をある程度見抜いて、それである程度コミュニケーションを取りながら、その人の求めているものは何なのかってことを引き出して、それに提供していって、その人が、いわば落ち着く。そして、自立するっていうこと。まさに自己実現の世界を提供してきた。

プロフィール

1971年、群馬県高崎市に設立された国立コロニーのぞみの園(現・国立重度知的障害者総合施設のぞみの園)。障害者のための大規模な入所施設で、全国から500人の障害者が入居した。鈴木昭彦さんは、入所者の生活を支える職員として開設当初から37年間勤め上げた。

1947年
生まれ
1971年
「国立コロニーのぞみの園」の職員に
2003年
「独立行政法人国立知的障害者総合施設のぞみの園」に組織改正
2008年
のぞみの園 退職
現在
埼玉県内の社会福祉法人 スーパーバイザー

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