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証言

タイトル 「私たちが困らない社会はみんな困らない社会」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 秋保 和徳さん 喜美子さん 収録年月日 2015年11月23日

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チャプター

[1] 脳性マヒの夫婦 地域で暮らす苦労  08:21
[2] 喜美子さんの施設生活  20:14
[3] 結婚 そして地域での生活へ  08:17
[4] 作業所の立ち上げ  11:18
[5] 障害者自立支援法 “利用者負担”の衝撃  15:18
[6] 障害者自立支援法違憲訴訟の原告として  10:22
[7] 障害のある人もない人も共に生きていくために  04:33

再生テキスト

*撮影にお邪魔した日 ふたりはお昼ご飯に出前のお好み焼きを食べているところだった

和徳さん:平日の日中は作業所っていって、仕事出てるわけでしょ。その作業所でね、いろんな支援が受けれるわけですよね。だから、家でのね、家でのヘルパーはね、来てもらわないようにしてるから。だから、土日がね、いちばんしんどいんですよね。土日やっぱり家にいたらね、日中はね、今言うようにね、ヘルパーさんきてくれてないから、だからどうしてもね、昼ご飯をね、食事ね、食事はねどうしてもね、自分冷蔵庫にね、たとえねヘルパーさん作って入れてくださったとしてもね、冷蔵庫開けることができないんよ。だから今日みたいにね、お好みをね、出前をとって食べるかね、そうせないけんでしょ。弁当買うかね。だったらね、どうかな政治家の人たちは想像ができない、出費がいるわけですよね。

Q:調理すればもう少し安く済むけど。

そうそう。健康な人はね、冷蔵庫にね、冷蔵庫にあるものをね、きょうは冷蔵庫にあるものを使ってなんか作ろうか、っていうわけに、というふうになるんだけど、僕らはそれができんから、できんでしょ。だからどうしてもね、健康な人たちはね、想像できないような出費がすごいあるんですよ。

喜美子さん:で、週末いちばん気になるのがお天気です。はい。

和徳さん:天気悪かったら出れないでしょ。天気良かったら出て外食できるわけでしょ。でね、僕ちょっと、卑わいなことになるけど、トイレに行きたくてもね、小の場合はなんとか時間をかければできるんですけどね。大の方はね、私何もできないんです。その時にね、誰もおってなかったらね、ほんまね悲惨なことになる。ほんとにそれがいちばん怖いんですよ。ですけどね、外出してる日はね、外出してる日は誰かにね、誰かにお願いしてトイレに連れて行ってもらうことできるんですけどね。例えば作業所の人とかね。

Q:おうちにいてトイレに行きたくなる時がいちばん心配ですか?

それがいちばん心配ですよね。でね、人間ってね、ほんとにおかしいもんでね。誰かがいてくださったらもよおさないんよ。だけどね、誰もいないどうしようかな、行きたくなったらどうしようかって思ったら、もよおして、もよおしてくる。

それがね、経験した人じゃないとわからんです。ほんとね、そうなったときにいちばん困りますよね。

喜美子さん:あと転んだとき。

転ぶことが時々あるんですよね。起こしてあげることができんけん、もう私力がないけ。

5年前はまだね、起こしてあげることができよったんだけどね。もう力がない。

和徳さん:だからどうしてもね、近所のね、民生委員さんとかね、そういう人たちにお願いせないけんですよね。だから夜、夜ね、怖いですね。夜がいちばん不安ですよね。そういう意味でね。

今言うようにね、転倒することがいちばんこわい。だから突然と来るでしょ。突然とね、ひっくり返ることある。ひっくり返るのは突然だからね。自分ではもともとできないからね。そうなったら家内がね携帯でね、電話でね近所の人にお願いしてくれるしかないよね。そういう点はね、ほんとね、どうしたらいいんかな。近所の人に助けられとる感じがする。

喜美子さん:夜体調が悪くなるのも困るしね。夜体調が悪くなるのも怖いね。

和徳さん:今から特にそうやな。

喜美子さん:何回もトイレに行ったりしてると、私も起きて手伝わないけんし、本人もつらいし。

和徳さん:おなか壊してね、夜ね、トイレ行くでしょ。健康な人だったらね、あの、ちょっと下痢で出たと、ね、だったらね、もうすぐ布団に入って寝るでしょ。だけどそうなったらまたね、また行きたくなっても、健康だったらすぐ行けるでしょ。だけど僕らそういうわけにはいかんから、だからおなかこわして、トイレに1回行ったら、もう1時間ぐらいトイレにしゃがんどくんですよ。その間ね、ずっと家内が起きて待っとくんですよね。というのは、僕一人で絶対に、ズボンなりパンツを上にあげることできないでしょ。だからどうしても家内が手伝ってくれないといけないしね。そうなったらやっぱり1時間ぐらいしゃがんどって、トイレから出てパンツあげてもらって寝るのにやっぱり1時間半ぐらいかかるんですよね。

ああいうね、そういうところもやっぱり、想像すらできんですよね。健康な人にはね。

喜美子さん:私も起きるのに時間かかるけん。「早よう言うてよ」みたいな。

Q:いつごろ施設に入られて暮らすようになったんですか?

喜美子さん:私は、生まれて家にいたのは、小学校卒業するまでなんですよ。小学校も母がおんぶして毎日一緒に通ってくれたから、学校に行けたんですけど。ま、私らの時代はあの、就学猶予いうてね、無理に学校こなくていいですよ、みたいな。そんな時代でしたからね、設備もなんもなくて。昔のもう田舎の学校はとっても不便で。

Q:普通学校に通われたんですか?お母さんが連れて行ってくれて。

はい。ずっとつきっきりで。

Q:施設に入るようになった理由は、どういうことだったんですか?

中学校になって、学校がバス通学しないといけないような遠くだったんですよ。小学校はまあ家から歩いて30分ぐらいですかね。山を越えて行くんですけどね。

Q:それでも結構遠いですね。

遠いです。で、中学校になるとやっぱり体も大きくなりまして、母が小さかったですからね。あの、体力的にも大変ということで、あきらめて、「学校どうする?」みたいな話になって、あの、入所の、施設で、学校、教育と、訓練、ができるところが広島にあったので、そこに入りました。

Q:家からその施設に入られた時にはどんなお気持ちになりましたか?

正直言って、やっと自由になれたみたいな。

最初はこう、不安でしたけど、でもあの、結構ね、母がすごく厳しくって。ずっと一緒に学校行ってるもんで、全て分かっちゃうんですよ。勉強まじめにせんかったいうことが。ほいですごくもう厳しかったので、そういうこう、怒られることから解放された、みたいな。いう喜びがちょっとありましたね。で友達もいなかったので、ここに入れば、やっぱり同じ障害をもつ人たちとの友達関係がね、初めて作られたというのが、それがいちばん大きいから、嬉しかったんだと思います。

あのね、中学校1年生の3学期ぐらいかな、やっと歩き始めたんです。訓練して。でそれまでは歩けなかったんです。でそっから歩き始めて、自分の行動範囲が広がっていくことだとか、やっぱり自分で動いて自分で行きたいとこに行けるというのも、やっと手に入れたというのは嬉しかったですね。友達との関わりもよかったし。だから中学校はすごく満喫して。よかったんですけど、中学校卒業してからが、ちょうど私が卒業する年に養護学校の高等部がやっとできた時代だったんですよ。で、最初の年だったので、軽度の人しか入れなかったんです。 であの、みんなは他のクラスメートは一般の高校に通ったりとか、養護学校に行ったりとか、したんですけど、8人おった中で私ともう1人の人が入れなかった。学校に行けなかった。高等部に。どこもいけなくて。でま、職業指導所っていうところがあって、そこに入りました。

Q:職業指導所も入所の施設ですか?

入所です。そこは、1年半いたら出ないといけないとこだったんですね。ま指導所に入ったことが、すごい大変だったですけど、入ってからがね。

Q:どういうふうに大変だったんですか?

自分の意志ではなく、なぜか無理なことをするようなことになってしまって。

訓練、だから指導所の中に訓練科っていって、いろんな訓練したりとか一般教養を学んだりとか、そういう階があって、たぶんここに入るんだろうなと思ってたんですよ、障害重いし。そうしたら、ちがっとったんです。でなぜか洋裁科に入らされてて、で、針も持ったこともない、ミシンも踏んだこともないみたいなことなのに、そこに入らされて、みんなと一緒に、基礎縫いから全部やったんです。

厳しかったですね。どうしても、アテトーゼがあるので、アテトーゼが、震えがね、震えがあるのにこう針もってから細かいことずっとするのはね、ほとんど不可能でしたからね。不可能だったんだけども、なんとかみんなとついてやりたいという思いがあって、とっても無理な姿勢でやりました。

当時は、今は考え方が障害もってる人の就労に関しての考え方が今はだいぶん違ってきましたけども、当時は、とにかく自分が努力をしてる人がすばらしいというふうにみられる時代でしたんですよ。で、その、こんなに重い人がこんなことを努力してこんなことができとるっていうのが評価される時代だったんです。評価。だから当時は、下にぺたんと座って、手をこのひざの下にこう入れてこうやってやってた。

Q:どうしてひざの下に手を入れるんですか?

アテトーゼがあるから。

Q:震えがあるから、それをおさえるために。かなり無理な姿勢ですかね。

すごい無理な姿勢でやってました。 で1年半そこで過ごして、みんな就職してくんですよね。結構みなさん障害軽い人ばっかりだったので、私が就職し口がなくて。重いですしね。なかなか、入れるとこがないというので、どうしようか、家には帰りたくないしみたいな、そんなことで悩んどったら、新聞、どこの新聞でしたか、中国新聞だったかな、とりあげてくださって、こんな障害重いんだけど、努力してからこんなことしてる人がいますみたいなそんな記事を載せてくださって、それを見た授産所の所長がうちにきなさいって言われた。

Q:それだけ無理して体に影響なかったですか?

ありました。その授産所で、授産所って言うところは外部から仕事を受けてやるもんですから、とってもきつかったんですよ。縫製の仕事。園児服を何百枚とか受注しながら縫ったりとか、婦人服の注文を受けたりとかして、縫ったりとかするようなとこだって、けっこうきつかったんですよね。 で私はあの、やることが遅いので、一生懸命はするんですけども、みんなが10枚縫うところを1枚しかできんかったりとか、そんな感じでしたけどね。でもそこで頑張ってて、その1枚も、期日に間に合わせようと思ったら昼間だけやっとったら間に合わんのですよね。じゃけ、部屋に持って帰ってから、夜な夜な、まつったりとか。

今はミシンでもね、すごくよくなってますけど、昔は、ただ縫うだけとかジグザグだけだったから、まつり縫いとかはみな手でやってたんです。で園児服のね、裾をまつるのに、夏服だったら生地が柔らかいけいいんですけど、冬ものは固いのにまつらないけんのでね、ここ(指)に穴ができるほど痛い。 つらかったですよ。

Q:つらかったですか。それでもやめずに?

やめたんです。耐えられんって。でもね、2年ぐらい我慢したんですよ。2年ぐらい我慢して、とうとう体が壊れてしまって、神経痛とか、肋間神経痛だとか、肩こりだとかがひどくなって、もうそこのところはあの、えっと、当直の職員さんが1人おられるぐらいのとこだったので、いくら体調が悪くても、自分で病院かよって、自分でなんとかせないけんかったんですよね。 でまあしんどかって、もう私はここではもう続かんわっと。なんとか他にいいとこないかなとか思いながら探してたら、広島で初めて重度の重度障害者の授産施設ができたというのを新聞で知って、はあ「私ここにします」とか言って。自分で変わりました。

で、そこに19になる前にそこに入って、27までおったんです。

そこの施設は在宅におられた方がほとんどの人だとか、みんな障害重くって、就職が難しいとか、そういう方たちだったので、施設側の運営も、すごく民主的な運営だったんですよ。で、あそこを作られたそもそもの始まりが、脳性小児マヒの会の名前忘れたけど、脳性小児マヒの方の会の人が、こういう施設がほしいと言うことで作ろうと言うんでね、がんばられてて、それに同感された病院の院長先生が実際に作られたというのが、そういう経歴があって、すごく民主的な考え方の人だったので。

私にとっては人生が変わったというか、ものの考え方も変わってきたし、で、性格も変わりましたね。

Q:何がきっかけで、どういうふうに変わったんですか?

まああの、よき先輩に恵まれて、先輩が愛の鞭(ムチ)で。

Q:どういうふうに変わったんですか?

それまではですね、あんまり自分を、自分からこう思いを出したりとか、発言なんかとんでもない話だし、あんまりこう、みんなとおっても、片隅の方でポツンとおるみたいな、そんな感じでしたけどね。まあそこに入って、先輩っていうのが、 いろんなことを教えてくれて、で、そこでの生活もね、「自分らで作ってかにゃだめよ」とか言って、自治会を作ろうとか、そんなのも、先輩が引っ張ってくださってから。

Q:喜美子さんが自治会を?

強引に私とね、あと、4人5人ぐらい、粒ぞろいがおったんですよね。同年代みたいな、粒ぞろいが。箸が転がってもおかしいような、そんな若い人がね、おって。その人らに「自治会やっていきんさいよ」みたいな感じで。押しつけられて。んでなぜか私が「自治会長やりなさい」みたいな感じで言われて。けっこう長いことやりましたね。5年はやったんじゃないかな。5~6年。

父親が、田舎でね、農業をやってる父親が脳卒中で半身不随になっちゃったんです。

ほいであの、私の、娘のそばにくるって言い出したんです。

一緒にっていうか近くに住みたいって言い出して。「どっかその施設の近くに空いた土地はないんか」とか言ってね、「言ってみてくれんか」って言われて、そんな手紙をもらったのは初めてだったんですよ。父親から。ほいで何これとか思って、ちょっと待ってよって。そばに来られるんのはまあいいんじゃけど、そばに来られたら、ずっと私はここでずっと一生過ごすということか、みたいな。そんなことがこう自分の中に沸いて、どうするべきか、ここにずっとおるんかね、とか、もっと他でできることはないんかね、とか。いろいろ悩んどったときに、主人と出会って、主人はそこの施設には1年ぐらいしかおらんかったんです。で、たまたま話をしよってね、僕は結婚して外へ出たいのであって、そればっかり言っちゃって、私は外へ出るという気持ちはまだ深くは沸いてなかったんですけどね、ただ父親がそんなこと言ってきたんで、心がグラグラして。自分の将来的なこと、どうできるんだろうか、ああだろうか、冒険すべきなんだろうかとか、いろいろ悩んで結論を出したという感じで。結婚することにしました。

Q:施設を出て暮らすと、選択する決め手はなんだったんですか?

なんだったんでしょうね。まあもし、あそこで生活してたら、その枠の中での生活しかないわけですよね。その、限られた枠の中での生活で、主人は、すごい思いが強くって、他の人と一緒にね、同じような生活がしたいんじゃって、いうのがすごい強かったから。で、やっぱり施設にいると、外部とのつながりとかいうのはね、あんまり持てないんですよね。でそういうこともあって、やっぱり切り替えるなら今かね、とか思ってました。

Q:実際に出て、地域で暮らし初めてどうでしたか?

最初はね、うちの両親が、母親はすっごい反対だったんです。結婚に。特に出て暮らすっていうのが。すごい反対で、もうどなり込んでくるほどの剣幕だったんですけど、だけどまあ折れてくれてね。で、近くで過ごしてくれたんで、(母親は)手伝いに毎日来てくれたりとか、したんで、まあなんとか過ごせたんですけど。地域に出たときも私はこんなにあの、たくましくなくって、人と話をするのもなるべくしたくないみたいな性格で、特に子どもをね、保育園に送り迎えするのに、子どもから、「変な人が来た」とかって言われるとグサーッときてから、もうあんなとこ行きたくないみたいな感じだったんですけどね。まあおかげさんで、たくましくなりました。

Q:何が変えたんですかね?

まあやっぱ子どもでしょうね。しかたなく毎日保育園行ったりとか、小学校行ったりとか、参観日も行ったりとかしましたからね。また、うちの子がね、私が行きたくなくても、「参観日は来るでしょ」とかいうから、行かないけんね、とか。そういう感じで、あまりこう、子どもも口にせんだけだったんかもしれないんですけど、別に悲観的なことは何も言わなくって、その代わり小学校の高学年、中学校はね、ほんと私も学校へ行くのが嫌でしたけど。

先生から言われるから。もうちょっとちゃんとしつけしなさいとか。学校、勉強するように言いなさいとか言われて。私言いよるけどどうにもならんのです、先生なんとかしてくださいとか、そんな感じです。

で、同級生の保護者の方とか、保護者会とかさ、あるじゃないですか。レクリエーションだとか、あんなのがあって、「一緒に役員やらない?」とかって言われたりとか、何もできんのですけど、声かけてくださったりとか。まあ今でもつきあいはありますけど。まあそんな感じで、いつの間にかみなさんと、中に入ることができました。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

2人は、社会参加への道も模索してきました。

「おはようございます」

1986年、地元の養護学校の教師たちに誘われ、作業所の立ち上げに参加したのです。 重度の障害者が、それぞれのペースで仕事をし、少しでも収入を得るための場所です。 手足が不自由な和徳さんは、口に竹の棒をくわえてパソコンを操作。名刺のデザインや印刷を請け負いました。 喜美子さんは、色とりどりの糸を組み合わせて手織りの布を制作します。

*****

Q:どういうことがいちばんやりがい感じますか?

喜美子さん:そうですね、この今これが、大体、6メートルのものが、できあがるようになってるんですよ。この幅のものが。

Q:6メートルって相当長いですね。

はい。でその織り上がったもので、いろんなあの、カバンだとか、服になったりとか、なんかこうぬってもらうんですけどね。で今はね、この織ってるのは、この縦糸は、手染めの糸なんですよ。で同じ糸でも、色がいろいろ途中から違ってくるんで。 横糸を入れることでいろんな色が出てくるんですよ。

いろいろ、その場の気分で、いろんな模様入れてみたりとか、あの、頭の中では、ここにこう、花を入れようとか、それでやるんですけども、実際織ってみたら、これ花に見える?みたいな。これ何入れたん?みたいな感じになったりするんですけど、そうやって遊んでから織ると、結構おもしろいものができるんですけど、すっごい時間がかかるんですよね。手間がね。だからその、稼ぎとしては、私は稼ぎがいちばん悪いんですよ。

Q:喜美子さんにとって、働くっていうのはどういうことですか?

自分の力が、まだここまでできるんじゃん、こんなことが生かせるじゃんみたいなことが現れるので、こうそのことで、まだまだいけるんじゃないかとか、自信につながっていくっていうところが、いいと思います。

和徳さん:・・・大きい動作がね、難しいんですよね。小さい動作はね、かなりね、できるんですよ。その代わり大きい動作がなかなかできないんですよね。僕の場合口であれしてるでしょ。だから口イコール頸椎ですよね。頸椎。頸椎はどうやら、骨と骨との間が狭くなって、手がね、しびれるんですよね。もうそういうあれが出てるから、これもやっぱり二次障害ですよね。だから、いつまでこの仕事ができるかなと思ってね。そのことがちょっと心配ですよね。

Q:それでもやっぱりお仕事続けたいですか?

もちろんね、やっぱり仕事いうのはね、ほんとにね、僕らにとって、ま僕らだけじゃないけどね、生きがいですよね。ですよね。僕らは自分でね、一つの行程が全部自分でできるわけじゃないからね、まあご覧のようにね、印刷するのにね、プリンターを操作してくださったりね、紙をね、入れ替えをね、してくださったりするからね、僕もこうして仕事させてもらえるからね。そこが作業所のいいところですよね。一般の企業ではそれができないからね。でね、僕思うんじゃけどね、働くいうことはね、健康な人だってそう、僕いつも思うだけど、健康な人でもね、例えばね、1週間なんにもせんでいいけね、食べ物も全部運んでやるけ、1週間家におれ、絶対どこにも出ちゃいけんっていうふうに言ったら、そういうような環境になったら、絶対にその人我慢できないよ。 3日ぐらいはね、2日か3日ぐらいは家でのんびりごろごろね、寝たりできると思うんですよ。テレビみたりね。だけど4日5日たったらね、それ我慢できなくなるんですよ。と思うんですよ。それと同じようにね、やっぱり仕事ね、仕事があるから自分生きがいをもって行動できるしね、そう思うんですよね。仕事もなく、ただ外でぶらぶらしてもいいということになっても、これもまた、どう言うかな、生きがいないからね。と思いますよ。

Q:仕事のどういうところが生きがいになってるんですか?

どういうとこかな。自分のやることが実際に多かれ少なかれ、人の役に立ついうことが、人の役に立ついうことがやっぱり、仕事のね、どういったらいいか、仕事をする醍醐味というかね。同時にね、それに対しての見返り、生活していく上での見返り、となったらやっぱり収入よね。それが少しでも、ほんまに微々たるものだけど、少しでもあるいうことはね、やっぱりそれに対して責任持たにゃいけんだろうし。同時にね、それが生きるハリにもなるしね。そう思いますよ。

Q:作業所はどうして行くようになったんですか?

喜美子さん:作業所はですね、廿日市にそういう福祉資源がなんもなかったんです。私たちが、あの、廿日市に住み始めたときは。ほんと何もなくって、あの、もうバリアフリーも何も市役所行っても階段があったりとか、トイレがなかったりとか、そんな感じだったんですよね。そんな時代でしたからね、何もなかった時代で、で、たまたまあの、あれです、全国障害者問題研究会っていうの、全国組織であるんですけど、それの会員に私がなってたことで、廿日市にもサークルがあって、そこの人たちと活動を一緒にしてたら、なんか養護学校を卒業される方が、行き場がなくって困ってるから作業所作りを始めたいというのがね、先生方から出されて。で、いちばん最初から一緒にやりませんかみたいな声をかけてもらって、一緒に始めました。

Q:実際作業所っていうのは、喜美子さんにとってどういう場ですかね?

どういう場ですかね。なくてはならんですかね。私の生活の中の一部ですね。

Q:実際にその制度が始まってみて生活はどのように変わりましたか?

喜美子さん:大変でした。

自立支援法になってからは、作業所もいるし、ヘルパーもいるし、何を使っても利用料がいるみたいな。で上限枠はあるんだけども、その上限枠が、

償還払いだったんで、毎月3万いくら、一応払わなきゃいけないみたいな、あったんです。(注・低所得者の免除分は後日払い戻される仕組みだった)で、その償還払いが、制度自体が始まって、わけが分からんでね、すんなりサッササッサできなかったんですよ。で返ってくるのが、3か月先とか、そんな状況があって、3か月先だったら、毎月3万いくらが出て行くわけじゃないですか、で返ってくるのがまだ先みたいなね、もう回っていかんでね、家計が。

まあそんだけのお金を回していこう思ったらね、食べることだけよ。他のことはすべて我慢せないけん。

Q:食べること以外は全て我慢しないといけない。例えばどういうことを我慢したんですか?

だから友達とよく遊びに行ったりとかもしてたんだけど、そういうことも一切できないし。旅行とかもね、あの年は作業所はみんな大変で、旅行もなしの年がありました。1年に1回の旅行。

で、事業所の方もそういうこう、レク関係の予算が、削られて、全くそういうふうな予算がなくなったとか言って、もう旅行費自体も自分たちで出していかんと行かれないんですよね。で、その、自分たちが行こう思ったら、同行してもらわんといけんじゃないですか。

ヘルパーというか職員にね。ボランティアさんとか。みんな障害重いから、一般の公共機関では移動できないし、やっぱりバス貸し切ったりとかしてかんといけんし、で安いところも泊まれるか言ったら、決してそうでもなくてね。やっぱりちゃんとしたところじゃないと泊まれないとかいろんな制約があって、旅行もほんとすごいお金がかかるんでね。

和徳さん:月にいっぺんのレクはなくなったし、ほいで、ここの「くまのみ(作業所)」の旅行もね、さきほど言ったけど、2006年は1回なくなったですよね。でこれじゃ、楽しみがなくなるいうんで、作業所のメンバーがね、給料が月に1万円ないですよ。よくあっても7000円ぐらい。たくさんある人は1万2000円ぐらいあるんですけどね。その中からね、1000円ずつ積み立てしてね。で、ボーナスは、年に2回、夏と冬ですか、1万円、1万円から1万5000円、1万5000円あることはほとんどないですけどね。みんなの給料の、給料になる利益が多かったら、その分だけ配当が増えるからね。で、あと、だから、そのボーナスから、5000円積み立てして、旅行のためにそれだけ積み立てして、行くんですよね。あと、親の会がね、親の会がいくらか負担してくださるからね。だから、なんとかね、旅行、さしてもらえるんですけどね。

Q:なくなったときはみなさんどういう反応でした?

ほんとね、どう言ったらいいかね、みんな本当楽しみにしてたからね。それなくなったから、やっぱりみんなね、さみしがってるっていうかね。すごく、なんかあれだね、楽しみを奪われた感じがして。

Q:和徳さんは?

僕もそうですよね。僕もね、ほんとみんなと一緒にね、旅行に行って夜、飲むのが楽しみなんだよね。

Q:喜美子さんはご自身の生活の中では何がいちばん大変だったですか?

喜美子さん:やっぱり毎日の買い物。毎日の買い物だけやのうて、やっぱり家を回していかんといけんし、2人の年金でね、家を回していかないけん。何かが壊れてもね、「誰か買って」いうわけに、言って行くとこもない。親も大変だし。保険とか、責任ある生活せんといけんので、保険をかけてるんですよ。火災保険だとか、事故起こしても大丈夫なような保険だとか、車いすにも保険かけてますし。そういう保険料とかもね、まかなっていかんといけんし、健康保険や電気代じゃなんじゃっていいよったらね、ほんと、食費はどんだけ、みたいな。食費こんだけでやってかにゃいけんじゃんって。忘年会とか、みんなで楽しく食事会とかあっても、「私ちょっと行けん、行かれん」とか言ったりとか、2人が出たら大変ですからね。

出たかったけど行かなかったりとかしましたよ。

Q:自立支援法で使う人の負担が始まった、利用者負担の何がいちばんおかしいと思いましたか?

なんか「益」になるって言われるのが、「益」って何って。

Q:利益の益ですか?

利益の益でしょ。益って、別に、益ってなんなんだ。何の益?って。普通の生活するためのね、受けにゃしょうがないけ、頼んでるのに、それを受けたことが、利益の益につながるっていうのがね、納得いかなかったですよね。

だって、朝起きて服に着替えないわけにもいかん、服着替えて出かけるの当たり前だし、みんな仕事行ってるんだし、それは障害があっても、そんなふうな生活はしたいわけで、でも実際に、作業所やめないけんかねって思ったときもありましたよ。

Q:どうしてですか?

だって1か月に3万位こう払っていくなんて、作業所だけでもやめて家だけはね、居宅支援だけはどうでも受けにゃ、暮らしていけんしねとか思いながら、やめにゃいけんかねとか思いよったけど。やめられんかったですよ。

Q:作業所に通うのもお金がかかる?

かかるんです。 でみんなね、納得いかんのですよ。なんで仕事しに行くのに、お金払わないけんのかねって。一般他の人は仕事しに行くのにお金払いよるんかってみんな言うから、そう言われりゃそうだね、そうよそうよって。納得ができんっていうかね。

私たちとしたら、私としたら、作業所は一つの就労の場なんですよね。だけど、就労のとらえ方が、その、なんていうの、給料なんぼなんぼとるべきだとか、そういうとらえかただから、遊びに行きよるみたいな感じで見られとるんじゃないか、みたいなね。就労のとらえ方が、違うよねとか思いますよね。

Q:働いているんじゃなくて遊びに行ってるようにとらえられたと感じたわけですか?

感じましたよね。

Q:お仕事の対価としてもらえるお金と負担とどういう関係だったですか?

負担の方が多かったです。ね、負担の方が多かったよね。

そんなこと言われたら、じゃ障害をもっている人は、普通の人と同じようには、暮らしたらいけんのですか。そんなこと、言われてもね。だってやっとここまで来たんですよ。やっと。昔から考えたらね、やっと障害をもってる人が、地域の中で、仕事の場があり、生活の場があり、地域とのつながりが持てる、そういう仕組みがやっとここまで、作り上げてきたのに、それをいかれんようなことをね、されたら、そりゃおかしいですよ。

一般の健康な人が何気なくやりよる日常の動作、人間としてのね。食べて寝て、住まって、人間としての動作が、それを障害をもってる人は、無料じゃできないわけですよ。そりゃ障害をもってる人がお金持ちならね、そら人をお願いして、自分で雇用してできるかもしれません。だけどみんなそういうゆとりのお金って与えられてないんですよね。年金の額で生活っていうのは、ほんとぎりぎりの生活で、そんなに貯金もできないですし、例えば、なんか一個テレビ壊れたりとか、ストーブが壊れたりとか、なんか一個壊れたらそれもどうやってお金捻出してね、買えるんじゃろうかみたいな世界ですから。そういう所得の人にね、そういう人間らしい生活はお金払わんとできんよ、みたいなやり方だと、もうそれこそ、憲法に最低限の生活を守られているっていうのは、うそになっちゃう。

Q:秋保さんたちは、どういう決意で原告になることを決めたんですか?

喜美子さん:やっぱりね、社会の人にとにかく知ってほしかったんです。こんなひどいんですよ、みたいな。これって、矛盾してませんか、みたいなのをね。知ってほしくって。何か、こう、リアルなことを起こさないと、マスコミも注目なかなかしてもらえないから、何かせんといけんのんじゃないかねって、ずっと思ってて、藤井さん(日本障害フォーラム・藤井克徳氏)から訴訟の話、「秋保さん原告になる?」とか言われて、迷いもなく、「なりますよ」って言ってしまって。

やっぱり障害があっても、普通の人と同じように生活していきたいんです、みたいなこと。だけど、それを求めると、お金を負担しなきゃいけないっていうね、応益負担っていう矛盾、それを訴えたかったです。

和徳さん:とにかく国が、障害者自立支援法は、われわれを人間として扱っていないっていうのが、いちばん腹立ったよね。ていうのが、障害をもつことは自己責任っていうことを国は言ったからね。

どうかな、障害をね、好きこのんでもつ人、誰一人としていないわけだから、だからそこをね、国はね、やっぱりね、障害はやっぱり自己責任って言ったのが、いちばん腹が立つしね。それをね、やっぱりね、そうじゃないっていうことを言いたかったよね。

Q:裁判が進んで、結局、和解という話が出てきたときにはどういうふうに思いました?

喜美子さん:びっくりしました。びっくりしたと言うか、

いちばん最初の話し合いしたいんだけどって言われたときに、すごい私としては、半信半疑で、ええーっとか思ってなんかすごい警戒心というか、ほんとに大丈夫なんだろうかみたいなね、そういう気持ちがありましたけどね。

結果的にはよかったと思います。あれがもしずっと続いてたら、もうあの、もちろん利用負担はなくなっとらんし。なくなってないですよね。ほいで、ずるずるいくばっかりで、みんな疲れ果てとると思いますよ。

Q:和解を結んだときに、国と基本合意という、和解の合意を結んだわけですが、国と合意をしたことで、何が大事なことだと思っていますか?

私、基本合意を作るまでの経過がね、ずっと関わってきましたけど、やっぱり今までにないことじゃないですか、当事者の意見を聞きながら、制度とかを作っていこうみたいな、そういう考え方がね。厚労省と一緒にまさかそういう文書をね、作れると思ってなかったから、これってすごいよねとか思って。最後の決定の時、基本合意文書、これでいこうと決まった日、12月の28日だったと思いますけどね、私も行きましたけど、最後まで残れんかって、7時ぐらいの最終でこっち帰ってきましたけどね、あの後9時すぎまでみなさん頑張ってから、これは絶対入れないけんとか、

9時半近くまで議論されて、やったわけですから。勝手に私らが作ったわけじゃないですからね。

Q:国と話し合いながら作ったと。中でも当事者が参加するっていうのは?

初めてですよ、それはもう。だって自立支援法とかも勝手に向こうがね、それが決まったときはあんまり拍手もなかったみたいな議会だったらしいですけど。初めてですよ。

いろんな障害をもってる人たちが、意見を述べられて、みんなでこう、検討していくみたいなのはね、初めての試みですよ。

Q:裁判をやったことの意義って何がいちばん大きいですか?

結果的には低所得1、2が0になった(「低所得1、2」に分類される一定所得以下の人たちの自己負担は0になった)のは、結果、出た結果だけですけど、まああの意識作り、自分たちが自分たちの生活のことだとか、仕組みのことだとか、そういうことを、考え始めたっていうのがね、すごく広がってきたと思います。だから今、生活保護の、引き下げに訴えている裁判がありますよね。であの、ろうあの方がなんだっけ、子どもの学校の説明会に行くのに、手話通訳はつけられないって言われて、裁判になったとか。やっぱりそういうこう、普通の人が普通にやっていることが、障害があることによって、壁になっているっていうのが、おかしいんじゃないのっていうのをみんなが考え出して、訴えだして、世界に訴えていく力をつけてきたっていうのは、裁判が突破口になっとるんじゃないかと思いますけどね。私は。いろんな人がね、力つけてきたというのは。

Q:障害のある人と一般の人が、お互いわかり合いながら、暮らしていくためにはどういうことが大事だと思いますか?

やっぱりあの、お互いに人間同士で、お互いに生きていくんですから、じゃあどういう社会で生きていきたいのみたいな、そういう思いを、やっぱりこれからしっかりみんなで作っていくしかないですよね。そのためにはどうなったらいいんかとか、やっぱりおかしいことはおかしいって、声をあげないけんよねとか、やっぱりそれは、みんなで作っていくしかないですよね。でもその、作る突破口は、私たちが開いていかんと、みんなの方からは、開いてはもらえないと思いますね。

和徳さん:障害をもったわれわれが、健康な人にね、レベルを合わすことはできないんですよ。だけど、健康な人がね、障害をもった人たちにね、レベルを合わせてもらうっていうことはできると思うんですね。それと同時にね、それは、僕の勝手な思いかもしれません。それが、もしそういうふうにしてもらえればね、今健康な人がね、障害もったときにね、どういうふうに自分が思うかなとかね、どういうふうに生活が困るかということがね、その人たちが想像してもらえればね、少しでもね、われわれの立場がね、われわれの状況が、またね、生活のしづらさというかね、そういうものが分かってもらえると思うんですよね。僕ね、これもよく思うんだけど、今の福祉制度ね、福祉制度いうのはね、今僕たちがね、障害もってるね。今、年取って高齢者って言われとる人おるよね。だけどわれわれその人たちだけのための福祉制度じゃないと思うんですよね。と言うのはね、今ね、健康な人であっても、1秒先は分からんですよね。例えばね、脳卒中で倒れて、半身マヒになるか分からんしね、同時に、交通事故でいつ頸椎損傷になる、まあそれはどういう状況になるか分からんけど、その時にね、障害もつことは間違いないですよね。もちろん、戦争になってね、戦争っていうのはね、障害者を作るもんだからね、そうなったらね、そうなったらもう、われわれとは関係ないものとは言っとれんと思うんよね。たちまち今すぐ自分の身に降りかかってくることだと、僕思うよね。それをね、僕もそうじゃろ。僕今身体障害者だけど、いつまた、今言ったように交通事故で、まだまだ重い障害もつか分からんよね。誰でも1秒先分からんのじゃけね。だけどね、今はね、健康な人はそれが全然分かってないわけよ。想像できないわけね。もしそれが想像できる人になったら、その人の人生観変わってくると思う。ほんと全く変わってくると思うよ。

そうそう、想像することが大事だと思うよ。そうなればね、少しでもみんなが、みんなが生活しやすい、みんなが生き生き生きやすい、社会になるんじゃないかなと僕は思う。

喜美子さん:電車でも、みんな高齢の方でもシルバーカー押して乗れるし、バギーカー押して乗れるし、エレベーターもね、ずいぶんみんな使ってるしね、トイレとかももう健康な人でも使っているし。「ちょっと腰悪いんだ」とか言いながら使ってるしね。やっぱりそれとおんなじで、私たちが困らんような社会だと、みんな困らんのです。

和徳さん:やっぱり、僕らが弱者が使いやすい、生きやすい社会は、健康な人にとっても生きやすいよね。

プロフィール

夫婦ともに脳性マヒの秋保和徳さんと喜美子さん。幼いころから施設を転々としていたが、結婚を機に地域に出て、一人息子を育て上げた。1986年には作業所の立ち上げに参加、今もそこに通い働いている。2005年に「障害者自立支援法」が成立、福祉サービスの利用に金銭的負担が導入されると、法律は憲法に違反すると訴える訴訟の原告となった。(2009年、国との間で和解が成立)

1949年
喜美子さん 広島にて生まれる
1951年
和徳さん 広島にて生まれる
1976年
結婚 施設を出て地域で暮らす
1978年
長男が誕生
1986年
くさのみ作業所の立ち上げに参加
2008年
障害者自立支援法違憲訴訟 原告となり提訴
2010年
違憲訴訟 和解

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