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証言

タイトル 「ただ愛してる… それがずっと続いてる」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 宮城 まり子さん 収録年月日 2015年12月4日

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チャプター

[1] 「ねむの木学園」誕生のきっかけ  13:38
[2] 「ねむの木学園」が目指したもの  03:15
[3] 宮城まり子さんが考える「福祉」  02:02

再生テキスト

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

この頃(1970年代)、ある障害者施設を舞台とした映画が話題となります。 「ねむの木の詩が聞こえる」。 職員が、一人一人に愛情深く関わり、その力を伸ばそうとする姿が感動を呼びました。

「♪この子らは、本当にやさしい、子どもたちです」

映画を製作したのは、この施設をはじめた宮城まり子さんです。 戦後、歌手・女優として活躍した宮城さん。41歳の時、私財を投じて施設を開所しました。 きっかけは、駅前で大人に混じって一人靴磨きをする子どもを見かけたことでした。

「大きなパンになれ!」

宮城さんが、子どもたちの可能性を知ってほしいと製作した映画は大ヒット、異例のロングランとなります。

「宮城まり子さんが、親身になってやってるって感じがします。」 「子どもたちが一生懸命がんばってるでしょ。」

街なかで障害者の姿をみかけることが、ほとんどなかった時代。 障害のある子どもたちに愛をもって接する姿勢が、多くの人の心を打ったのです。

*****

Q:まず最初に、まり子先生が初めて身体の不自由な子たちの施設を作ろうと思った、最初の頃ですね。何がきっかけだったんでしょうか。きっかけです。この「ねむの木学園」を作るきっかけ。

きっかけ?

Q:はい。

きっかけって言ったらものすごく長いから。

もう戦後って言えない高度成長の時に入った頃。だからいわゆる私のレコードにデビューしたのが、「ガード下の靴みがき」(1955年)っていうの。それはね、いっぱいそういう(貧しい)子どもたちがいたり、いっぱいそういう人たちがいたりしたら、私あんまり気がつかなかったと思うの。それで高度成長でそういう人たちがあんまりいなくなって、大人ばかりの中に子どもが1人を見たんです。それは私が日劇出た頃でした。だから、昭和で言っていいの?30年。30年。あのね、有楽町の電車で日劇出てたの。でね、もううれしくてうれしくて。いちばん背の低いのがいちばん張り切ってやってたの。そしたら遅れちゃってね。遅れそうになって。有楽町の駅から階段下まで落っこったの、お尻で。そしてストンと落っこって足ついて足投げ出して座ったら、真ん前に並んで靴磨いてる人がいらっしゃったの。で、恥ずかしいなと思って見たら、そこに子どもが1人いたの。その時に私思って。大急ぎで楽屋へ入ってね。大人の中に。(働くのが)大人ばかりになって、子どもが働いている時じゃなく(時代じゃなくて)大人が働いてる時に子どもが1人入ってるっていうことは、なんというかわいそうなことだろうと思って。私のいそいそとした日劇楽屋へ入っていって、キャッキャッと歌っている私が恥ずかしくなったの。それで、これでいいのかしらと思った頃、売血。売血の問題が起きたの。それで私、そういうことがあるのかなと思ってね。また私は本当に何でもすぐ行く人だから。山谷行ったら本当に血を売って、そのお金でご飯食べて一杯飲んじゃう。また足りないからまた血を売る。そういう人たちを現実に見たのね。で、これを放っておいていいのかしら。そこにはチョロチョロと子どももいるの。いいのかなぁ。そういうのが私の社会の情勢に気がつく時期でした。そいで、ああいう子どもを放っといていいのかなと思って。今度は日劇から東宝劇場。「ガード下の靴みがき」がヒットしたから。子ども役でしょ。だから子どもの役ばっかり、背低いから。だから墨塗って子どもの役ばっかり。そしたらいろんな子どもの役ばっか来るから、いろんなところへ勉強に行きましたよね。病院とか。いろんな病院。体の悪い子の、知恵の遅れてる子のとこ、聾(ろう)の子。そういうとこ行きましたね。そしたら病院全部。そいで、これでいいのかなぁ、これでいいのかなぁって思ってて。

でね、それからずーっと気になって、気になって、気になって、気になって。どういうところ行けばいいのか。外国へも行きました。勉強に。それから東京のそういう病院行きました。

それで子どものお家がない。お家。

私、施設っていう言葉が嫌いでね。なぜって施設って建物のことでしょ。こういう施設を作ってその中に何をしようかでしょ。その施設っていう言葉が嫌いで。

だから施設じゃなくてお家。施設ですけどね。お家を作って、お父さんお母さんが何らかの理由で子ども育てられない理由。貧しかったり病気だったり。それから子どもが身体が悪かったり、知恵が遅れていたり。いろんな条件そろって。ひとつじゃなくて、いっぱいのそういう災害を持っているね。これは戦争の災害も大変だけど、これも大変なことじゃないかなと思いました。それでね、あちこち探してね。

で、有り金全部で、有り金全部で(施設を)建てたの。そしたら私バカだから有り金で建てたって、お鍋も買わなきゃ、風呂場も買わなきゃダメじゃないですか。それは後で気がついて。

そんなそのぐらい何にも知らないで、「ねむの木学園」を。ただ愛してる、ただ心配、ただ優しくしたい、ただあの子の人が、子が気になる、あのおじさんが気になる。そういう気持ちばっかりで始めました。 だから私には今はちゃんと言えますけど。福祉って言われたって。何をもって福祉というのかなんて言われたら。お多福の福よ、なんて冗談言って逃げてましたけどね。ただ、ただあの子たちを幸せにしたい。ただご飯食べさせてあげたい。ただ病院へ連れて行きたい。その気持だけです。それがずっと続いてます。

相談した5~6人の先生方、「まりちゃんやめなさい」っていうのを皆おっしゃった。「あなたは女優としてまだ可能性がいっぱいある人だから、そういう仕事しないで女優やんなさい」っていう。ものすごく本気で叱って下さった立派な先生方々いらっしゃいました。「でも先生もうやっちゃったの」って言ったら、「あーあ」って。「じゃ少しにしとくんだよ・・」。でも少しどころか身も心も全てねむの木。

うちの子どもきれいなダンスをレオタード着てるでしょ。身体が曲がってんだもん。身体がゆがんでんだ。そしたらきれいに白でしたげたらきれいじゃない。昔もそうでしたね。あなたに言ったでしょ。ズボン白も。白のシャツとズボン。白が汚れるから洗うから。きれいに。あれも1回だった、すぐ洗うでしょ。だから白でしょ。だからあの子たちは着る物白です。わりと。

Q:それは美しく見せたいっていう気持ちでしょうか?

あの子たちが誇り高くいたいから。

Q:その目指した家っていうのはどんな家ですか?家。どんな理想を持って作ろうとしたんですか?

海が見えてね、山が見えてね、お花が咲いててね。いいねぇ。池があってね。

あったかいお家。お家。それこそ施設じゃないお家。夕方になったらお母さん、おみおつけ。朝のお食事におみおつけの匂いがプ~ンとしてくる。それ食べて急いで、早くしなさい!って言って仕事に行って。みそ汁飲んで来たと。そういう家。それが好き。だから家の調理場は調理場の入り口は広いよ。いっぱいの匂いが外へ出るように。今日は何とかの天ぷらだとか。今日は何だか分かんないけど。今日は何だとか。子どもが匂いで楽しめるように。

でもお隣のおばちゃんの、お隣の洗濯物がひらひらと長いこと干されてたら洗濯物が干してあるけど、長いけど、一週間たつけど、忘れてるんじゃないですかって声かけてあげたら、おばちゃん病気かも分かんないじゃん。それ声かけてあげるのが福祉じゃない。私の福祉ってそういう福祉。手紙がたくさんたまってたら、郵便物がたくさんたまってますけどお留守なんですか、誰もいないんですかって声かけてあげたら、取りに行ける人がいない、倒れちゃったんですって言ったら、お医者さんへ飛んでってあげたら、助かったら、それ福祉じゃないの。私の福祉は簡単。隣の福祉。お隣ちゃんの福祉。

私の福祉って、愛。お隣の思いやり。あと感性、感じてあげなかったら洗濯物が10日も干されてるのに分かんないものね。それない?私、気になるのよ、長いこと洗濯物干したのを見ると。

プロフィール

戦後、女優・歌手として活躍した宮城まり子さん。障害のある子どもが経済的理由などで家族と暮らせず、学校にも通えない実態を知り、41歳の時、私財を投じて肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を静岡に設立(1968年)。子どもたちが美術や音楽、茶道などに本格的に取り組む独自の関わりで話題となる。1970年代に製作した、学園を舞台にした映画は反響を呼んだ。

1927年
東京に生まれる
1955年
「ガード下の靴みがき」で歌手デビュー
 
ミュージカルなどの舞台でも活躍
1968年
日本最初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」設立
1974年
施設を舞台にした映画「ねむの木の詩」を製作監督
1977年
映画「ねむの木の詩がきこえる」を製作監督
1979年
「ねむの木養護学校」を設立
1999年
文化施設「ねむの木こども美術館」を開館

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