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証言

タイトル 「当事者運動の広がり ~福島県青い芝の会~」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 白石 清春さん 橋本 広芳さん 収録年月日 2015年11月21日

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チャプター

[1] 「さようならCP」から受け取ったもの  19:35
[2] 障害者運動との出会い  20:25
[3] 障害者運動との出会い(2)  08:36
[4] 「福島県青い芝の会」の活動  17:10
[5] バス闘争  17:09
[6] 「国際障害者年」がもたらしたもの  19:40
[7] 「国際障害者年」がもたらしたもの(2)  05:02
[8] 共生社会に向けて  10:53

再生テキスト

Q:これどうですか?

橋本さん:懐かしい。何年前か・・

Q:懐かしいですか?

橋本さん:50年以上前だか。

Q:50年以上前?

橋本さん:もっと前だね。これ学校だね。懐かしい声だ。

Q:誰の声ですか?

橋本さん:横田さん(横田弘さん/当時の“全国青い芝の会”主要メンバーの1人)ですね。

白石さん:横田さんは、3年前だったかな。2年前に亡くなった。

橋本さん:昨年、亡くなられましたね。

あらら、めがね落ちた。

白石さん:80歳だった。80歳で亡くなった。

橋本さん:長生きしたよね。 まだ若いときの横田さん。

(映画では 脳性マヒの人たちの募金の様子を取材 街の人たちの反応を執拗に聞き出している)

Q:こういうその、カンパする人たちの、一般の人たちの反応どうですか?今、見て・・

橋本さん:どこでもあんまり変わんないのかなと。

白石さん:やっぱり同情。同情の裏返しが、差別。

Q:同情の裏返しが差別ですか・・なるほど。

橋本さん:中には俺らも困ってるんだっていう人もいたからね。カンパやってると。そんな人もいますから。

白石さん:同情心を利用してカンパ活動をやっていた。

Q:これ聞いていると“かわいそう”と“気の毒”という言葉が何回も出てきますね。

橋本さん:多いですね。“不幸な方”とか、“かわいそうだ”とか、多いですね。

白石さん:でもほんとは、健全な子どもを誰でも五体満足な子を産みたいっていう、意識ね。

誰でも障害者でもそうだと思うけど、誰でも五体満足な子どもを持ちたいと思っているんですね。それが優生思想。

Q:障害のある人が、かわいそうとか、気の毒という、裏側には五体満足のほうがいいという考え方がある?

白石さん:自分自身だってそういうことを思う気持ちがあるんですよ。それは、“健全者幻想”って言うの。

Q:白石さん自身も五体満足がいいと思うことがある?

白石さん:ありますね。僕がね。

橋本さん:私もありますね。

Q:それはよくないことなんですか、いいことなんですか?

白石さん:私は「青い芝(の会)」としてはよくないこと。自分もそういう気持ちをなるべく持たないように。それが優生思想と自分自身が闘うこと。

Q:じゃあ健常者ではなくてどういうふうに生きたいと?

白石さん:障害者でもいいんじゃないかって。五体不満足でもいいじゃないかって。五体が不満足でも。

橋本さん:結構ユニークな人生を、おかげさまで、過ごさせていただきました。おかげさまで。

白石さん:世間一般の人がかわいそうだとか、頑張ってくださいって言うけど、こっちは全然思ってないんだけど。

Q:みんなが勝手に、頑張ってくださいとか、かわいそうだって言う・・。

白石さん:私も橋本さんも人生満喫して、人生楽しんでますから。

(電車の車内のシーン見る2人)

橋本さん:有名なシーン。衝撃を与えられましたから。このシーンはすごいですよ。

白石さん:降りるときに、ドアが閉じるんですよ。こうやって降りて行くんですけど、時間があまりないので。

(閉じるドアのシーン)

Q:飛び降りて・・

橋本さん:危ねぇ。覚悟してやってるんだからすごい。迫力だな。

Q:覚悟って、どんな覚悟ですかね。

橋本さん:ちょっと間違ったらケガするんじゃないかなって。それでも自分の身をさらけ出すっていうのがすごいですよね。

Q:なんのためにこれだけさらけ出したんですかねえ?

橋本さん:やっぱり存在をアピールするためかな。

白石さん:世間に対して。

橋本さん:生きざまをね。

白石さん:差別・抑圧に対して、アピールしようと。自分自身の存在を出していこうと。

Q:それは衝撃でしたか?お2人にとって?

橋本さん:衝撃でした。私はすごく。

Q:ご自分の覚悟とは(違ってたんですか)?

橋本さん:私あの施設にいるときに、タクシーに乗るのがなかなかできなくて、乗ったときにちょっと怖かったんですよ。正直言ってタクシー乗ったとき、自分1人でね。怖かったですね。それがあるもんだから、この横田さんが電車に乗った時は、すごいなと思いましたね。そういうことを経験した後でこういう見せつけられると。これはすごいなと思いましたね。

白石さん:自分じゃまねできないね。

Q:この映画で横田さんたちみなさん、ものすごく自分をさらけ出して。それがなかなかできないなと感じるのはどうしてですか?

橋本さん:特に施設にいるときなんかは、そういうこと難しい。養護学校とか施設とかでは難しい。 あと家庭にいてもね、そんなことやったら大変なことになっちまうよ。めちゃくちゃになって。

Q:自分を出すと大変なことになってしまう?

橋本さん:なっちまうよねたぶんね。

Q:どうして?

橋本さん:だって、社会の中には、「おまえはお世話になってんだから」っていうのがあるでしょ。役立たずっていうのが。この映画の中にもあるように、「青い芝(の会)」の考え方にもあるように、あってはいけない存在っていう。まだまだそういうの多いですよね、世の中には。家庭の中に障害者がいると“穀つぶし”、昔は“穀つぶし”とかほら、“ただ飯食い”とかね。今は分かんねえけど。

Q:そうすると、なかなか自分の意思とか、こうさらけ出すのって難しいですか?

橋本さん:さらけ出したら、それこそ、おんだされたり、かまってもらえなくなったりとか、山に捨てられたりとか、最悪の場合、殺されたりとかするんじゃないですかね。

Q:そういうことが怖いから、なかなか自分が出せない?

橋本さん:言えねぇんじゃないのかな。だけども言っていこうっていうのが、この先輩方の考えだから、そこがすごいなと。 生き生きと人間らしく。

教科書ですね。私にとって教科書ですね。

Q:どういう意味ですか?

橋本さん:やっぱ、忘れてはいけない。時々見たほうがいいと思いました。

Q:白石さんは、初めてこれ見たときどう思ったかって覚えてますか?

白石さん:正直言って何言ってるか分からなかった。だけど、映画の場面を見てて、脳性マヒ者が自己主張してっていうことは大切なことだなって。

Q:最初は何言ってるか分からなかった?

白石さん:何回も何回も聞いても、分かんなかった。

Q:映画を上映会とかで見て、気づいていったことってあるんですか?

白石さん:自分も運動は、仲間としてCP(脳性マヒ)として、社会で運動していかなきゃならないってことがだんだん見えてきたから。で、ちょうどわれわれと同じ年代の脳性マヒ者たちが大阪の、関西で映画上映会やって、その映画を見て「青い芝の会」を作ろうって。ちょっと遅れてわれわれも仲間に入って、で運動やることになったんですよ。

Q:で、白石さんも福島で「青い芝(の会)」作ったんですか?

白石さん:養護学校の同窓生を集めて、脳性マヒ者集めて。「作ろう」って。

Q:橋本さんはこの映画でどんな影響を受けました?なんか気付いたこととか。

橋本さん:先輩方は一生懸命よくやるなと思って、すごいなと思って。

Q:何か橋本さんを変えた部分てありますか?それまでと。

橋本さん:もっと勇気を持たなきゃだめだなって。施設暮らしが長いもんで、さっきも言ったんですが、みなさんに助けてもらってるって強く教え込まれたおかげで、なんていうかうまく言えないんだけど、臆病になって、性格もあるのかなと思うけど、臆病になった。白石さんに比べて、白石さんはいけいけどんどん、俺はちょっと一歩引くみたいなとこあって。そうじゃなくてもっと積極的にっていうようなことは感じましたね。今もそんなふうな・・。

白石さん:「青い芝(の会)」の映画見て、自分は、CPとして、何らかの形で差別を受けてるんじゃないかなって。周りの人から差別を受けてるんじゃないかなって。

Q:それに気づいたんですか?

白石さん:だから微妙な感じです。

Q:それまで差別というのは、あんまり感じてなかったんですか?

白石さん:感じなかったね。

Q:それがなんか変わったんですか?

白石さん:変わったね。自分は生きていく上で。

Q:差別っていうものに気づいた?

白石さん:はっきりしたかたちで。それまではオブラートに包まれたような感じで。それがはじけて。

そこで差別と闘っていこうと。差別をなくすためには、自分自身が変わらなきゃ。

Q:それぞれ障害者運動と関わり始めたきっかけから聞きたいと思うんですけど、白石さんが障害者運動と関わり始めたのはどういう?

白石さん:養護学校を卒業をして。在宅で、車イス、手動式三輪車というのがあって。でかいの。手回しで、チェーン巻いて。それをもらってから、外に出歩けるようになって。

郡山にあるサークルに入らないかって誘いを受けて、それで、サークルに入った。 サークルには、女子高生、女子大生がいっぱいいるって話を聞いて、スケベ根性出して、行った。それが、活動のきっかけだったんです。

Q:「青い芝の会」を知ったきっかけは?

白石さん:サークルで活動している中で、サークルの会員の方が、東京の方で「さようならCP」という映画のことを知って、それの上映会を郡山のサークルと、福島のサークルとでやろうっていうことになって。その上映会をやって、その上映会の時に「東京青い芝の会」の若林さんがみえて、福島にもぜひ、「青い芝の会」を作ってくれってお願いされて。それがきっかけになって、「青い芝の会」を作ることになったんです。

Q:福島に「青い芝の会」を作ってくれって言われたとき、どういうふうに思いましたか?

白石さん:できるかどうか半信半疑だったんだよね。その時にですね、その時に、前にも言ったけど、われわれと同世代の大阪なんかで、養護学校を卒業した、やっぱり「さようならCP」を見て、「青い芝の会」を作ろうと言っていたんだよね。若い人たちも福島に来て、若い者同士、「青い芝の会」作ってやろうって盛り上がって、そうして作ったんだよね。

Q:そのときは「青い芝の会」でどういうことをやりたいと思ってました?

白石さん:まずは、CP同士集まって、交流会っていうのをね。交流会からはじめようかなって。

Q:「青い芝の会」でどういうことを訴えていこうとかそういうことは?

白石さん:それもっと後で。私は軽い気持ちで。「青い芝の会」の全国大会に行って、各地の「青い芝の会」が立派な運動をやっていたので、それじゃ福島でもやんなきゃならないのかなって思ってね。

Q:橋本さんは「青い芝の会」に出会ったきっかけっていうのはどういうことだったんですか?

橋本さん:私の場合は、施設にいたんですよ。25まで。私の場合、養護学校出るとすぐに親が死んじゃって。最初に母親が20のときに死んじゃったもんですから、千葉の施設に入ってたんです。その時の白石さんたちの同級生の方が、1~2回だと思ったんだけど、「青い芝(の会)」の仲間の方を施設まで連れてきてくださったんです。将来は、こういう先輩もいるんだからと、1回会わせてくれたんです。そして、その施設にいる時に、今度は親父が交通事故で亡くなってしまったんですよね。3年ぐらい2年半か、千葉にいて、今度は福島の施設に移ったんですね。そのときに、千葉の施設もそうだったけど、福島の施設に入ったときも白石さんが、養護学校の時につきあっていく間、いろいろと悪いことやってくれたから馬が合ったというか、なんかこう、つきあってくれたもんで、何回か訪ねてきてくれたんです。福島の施設にも。千葉にいたときには手紙も何回ももらって。一緒に活動しようかって、熱い手紙をもらって。

Q:どんな内容の手紙だったんですか?

橋本さん:いや、おまえしかいないとか。そういうことも書いてあった。

白石さん:ラブレターだ。

橋本さん:そんな手紙ももらったから。だけど俺はなかなか決断ができなくて。弱気だから。大丈夫かなって。そういうのもあって、でもだんだんと、施設暮らしが長くなると、疑問に思うことが多くなってきて。例えばその、年中決まった行動パターンなんです。朝は何時に起きて夜は何時に寝るとか。9時にもう電気暗くしないと怒られるから。9時に寝てしまうんですね。朝は6時半ごろ起きて。そういうパターンが決まってる。あと外出とか外泊もめったにできない。それでも私よく外出なんかすると怒られたんです。「あなたばかり外出してるのは、少しおかしいんじゃないか。ここには行きたくても行けない人いっぱいいんだから」って。そういうこと盛んに言われて。でも私は私なりに仲間を作ったんですよ。その中で一緒に表に出ようじゃないかって。それで最後はみんなつぶされたけど。5~6人ほんとは、私が最終的に出たんだけども、ほんとは5~6人いっぺんに施設から出るわけだったんです。いっぺんに出るわけだったんです。でも親とか兄弟とか施設の職員の方につぶされたんです。「あの橋本の言ってることおかしい」って。そういうこともありました。

Q:橋本さんは仲間と外に何をしに行ってたんですか?

橋本さん:映画見たりとか、白石さんがやってる運動に参加したりとか、買い物とか、そのときは福島にも医大生とか福(島)大生とかボランティアの方がつきあってたんですね。その人たちが応援してくれまして、そこで外泊したりもするようになりまして、白石さんと最終的に活動したこともありますけど、よけい風当たりが強くなったんですよ。私は私で夜にもなると、遠くの福島の街明かりが見えるんですよ。窓の外に遠くにこう。そうすると、いいなあ、街はいいなあ、と思ったりするんですよね。私は、この間も言ったように、学校に行けなかったんですね。子どもの頃ね。だからそういうことが心の奥底に、恨みではねえんだけども、なんかおかしいんじゃないか。なんでおれだけ施設にやられるっておかしいんじゃないかって、そういう悶々(もんもん)がありましたから。行動は遅い方なんですが、それでもなかなか決断ができなかったんです。行こうっていう気がなかったわけじゃないんだけど体も弱かったし、なんか心配でね。でも白石さんもがんがん誘ってくれたし、私の中でもここにいたら、本当にまずいんじゃないかってだんだん思うようになってきて、だいぶ時間がかかったんだけども、出ることに決めたんですよ。終わりたくなかったから。あそこで終わりたくなかったから。やってみようということもあったから。思いっきり酒を飲んでみたい。お酒はもともと、こちらは弱いんだけども、思いっきりどれくらい飲めるのか、やってみようと思ったし。あと日本のあちこちを回ってみたい。旅行もあるんだけど、障害者がどんな生活しているのかっていうことを、回りたかったんです。あと一つ、女の人と、その施設では男女交際禁止だったんです。余計、禁止されると、どこまでやれるのかっていう思いもだんだん大きくなってきて、これやっぱり出ようということになって出たんですね。25になったばかり、25になるときの2月かな。だったと覚えてんですけど、寒いときだったんですね。その時、さっきも言ったんですけど、タクシーで白石さんが待ってる福島の町に行ったんですけど。正直なところなんですけど、タクシーにはそのとき初めて1人で乗ったんです。おっかなかったですよ、はっきり言って。どっか連れて行かれるんじゃないかって思って、余計なこと考えてね。

Q:自分の知らないところに連れてかれるんじゃないかと思って?

橋本さん:じゃないかと思って。そんなことなかったんだけど。怖かったです。

Q:やっぱりそういう体験は施設の中にいると、できないから?

橋本さん:でも練習はしてたんですよ、ボランティアの人と。練習はしてたんですが、1人でお願いして乗ったのはその時初めてです。

Q:施設の中っていうのは夜になって街明かりが遠くに見えたりすると、どんな気持ちになってたんですか?

橋本さん:寂しいですね。山の中だしね。寂しいですよ、真っ暗だからね。周りが真っ暗だったら、町の中じゃないから。寂しかったね。だからここで終わりたくないってだんだん思うようになってきて。

Q:きっかけを作ったのが白石さんのラブレターだったんですか?

橋本さん:そうですね。遅ればせながら。行動が遅い方だったんで。

Q:白石さんはどんな気持ちで橋本さんに声かけた?

白石さん:福島で運動する仲間が欲しいなと思ってね。1人だとやっぱり寂しいんだよね。仲間が欲しいなって思って、養護学校時代から仲がよかった橋本さんを誘おうと思って、積極的に働きかけた。 いちばん初めは、例のサークルに入っていた今野さんという方のアパートに2人で転がり込んで、そこに何日か、2週間くらいいたね。

Q:それからアパートで・・

白石さん:それからアパート借りて。だけど、アパートなかなか見つからなくて。重度の脳性マヒ者2人で生活するというのは、大家さんがなかなか認めてくれなかったんだ。そして、そっちのサークルの人たちが、毎日ボランティアに来てくれるということを話して、「大丈夫だから貸してください」って言って。それで、ようやく貸してもらったんだよね。

Q:それから2人で一緒に生活を始めたんですか?

橋本さん:あの余計な話ですけど、今でも重度の障害者が街で家を借りるのは、難しいんですよ。難しいですね。

Q:実際アパートで、地域で暮らし始めてどういう感じでしたか?

橋本さん:“やったー”と思いましたね。ただただやっぱり心配は心配。金もないしね、経験もないから、何をするにも初めてだからね。どうなるんだろうかと思ったんですが。あの施設を出るとき、もし3日たってだめだったらば、両手着いて謝ろうと思ったんですよ。3日、1週間ぐらいたってだめだと思ったらば、もうまた施設に帰ってもいいかなと思った。その時は、徹底的に謝って。そういうふうに考えていたんだけども、3日無事すぎて1週間もすぎて10日もすぎて、1か月もすぎたら大丈夫だと思って。そんなことは考えなくなりました。

Q:施設じゃなくて外で暮らしたいというのは、どうして障害のある人にとってそのほうがいいのはどうしてだと感じますか?

橋本さん:やっぱり好きなときに好きなところに行けて、いろんな人とお話できるじゃないですか。それだけだってすばらしい。施設は毎日おんなじ人の顔しか見られないから。確かに障害者の仲間は多いですけどね、分かり合えるっていうところはあるんだけども、何十年もああいうところにいるのはちょっと、反対ですね、私は。

Q:白石さんは、共同生活の前はどういうふうにお暮らしだった?

白石さん:在宅で。在宅でいたよね。

Q:実家ですか?

白石さん:実家で。で、「青い芝の会」の運動をやり始めると、両親が反対するんですよ。「家でおとなしくしてればいいじゃないか」って。俺は「ダメだ」って。「とんでもない」って。親子げんか何回もやった。

Q:どうして反対したんですかね。

白石さん:息子が、息子がそんな運動やってて、恥ずかしかったんじゃない。

Q:しょっちゅうけんか?

白石さん:しょっちゅうけんかしたよ。よく議論してましたよ。

Q:どうやって、実家を出てアパートで暮らすときにはどうしたんですか?

白石さん:「出るよ」って言って、もうけんかして、けんか別れ。だから仕送りもらえない。当時はね、障害福祉年金っていうのがあったのね。それが月々3千円なのよ。月3千円じゃまわらない。だから、橋本さんと一緒に福祉事務所に行って、「生活保護よこせ」って。「生活保護出してほしい」って。毎日、毎日行ってました。弁当持って。

Q:なかなか生活保護が下りなかったですか?

白石さん:下りなかったですね。で1か月ねばった結果、出るようになって。

Q:なんでなかなか出してくれなかったんですか?

白石さん:そんな脳性マヒ者同士で生活して自立していくなんて、なかったからね。だから認めてもらえなかった。生活保護第一号、われわれが福島県で第一号かな。

橋本さん:多分そうです。障害者の。

Q:当時は障害のある人どうやって暮らすのが普通だった?

白石さん:家族で一緒と。

橋本さん:病院とか、施設とか。

Q:まだ地域で障害のある方暮らすっていう例は?

白石さん:なかったね。働ける障害者は(地域で暮らす人も)いたけどね。だけど、働けない脳性マヒ者は(地域で暮らすことは)なかったんだよ。

Q:2人にとっては、施設や家庭じゃなくて、アパートで自分たちで暮らすことにどういう意味があったんですか?

白石さん:われわれの話を聞いて、生活しているっていう話を聞いて、養護学校の卒業生たちがどんどん来て。自立生活してるところ見て、自分もできるんじゃないかと思って。だんだん。

橋本さん:仲間が集まって来たんだよ。

白石さん:4畳半と3畳の部屋に、一時期は5~6人も来て。

橋本さん:生活してた。歌舞伎役者の楽屋裏みたいだ。

Q:なんでみんな集まってきたんだと思いますか?

白石さん:やっぱり世間から認められない。こうやって生活していくっていうのは憧れがあって。それでみんな出てきたんだよ、だから。一定程度の効果がありましたね。

Q:草分けだったわけですね、地域で暮らす。お2人が。

Q:どういう活動をしたんですか、福島の「青い芝の会」としては?

白石さん:まずは養護学校の義務化(1979年に障害児の養護学校教育が義務化。子どもたちの教育権確立が目的とされたが、親や本人の選択権の剥奪、一般学校からの隔離との批判が起きた)に反対するっていうのがあったんで、教育委員会でも行くかっていうので、教育委員会と話し合いを持ったり。でそのうち、自立して、部屋を借りていく障害者が増えてきたので、福島市に公営住宅を造るっていう話があったんだよね。その公営住宅に住める障害者も、そういうふうな(障害者用の)公営住宅造ってほしいという要望した運動をしました。

橋本さん:だんだん県庁にも行ったんだ。

白石さん:県庁も行って。

橋本さん:県庁、福島県庁。

白石さん:あと、廊下だ。

橋本さん:廊下に座り込んだんだ。

白石さん:占拠して。

Q:それは何を訴えるために?

白石さん:仲間6人で。(障害者用)公営住宅造れって。

橋本さん:福島市にもお願いしたんだけど、よく話を聞いてくれなくてらちがあかなくて、今度県庁に持ってったんです。それで大体県庁でも聞いてくれないようなことあって、何回も何回も交渉行ってたのに、交渉が聞いてくれなかったんだよ。座り込みやって。

白石さん:6人で1週間ぐらいいました。

Q:食べ物とかどうしたんですか?

白石さん:支援してくれるボランティアの人が、差し入れ。

Q:それで1週間。

白石さん:やったことありましたね。

Q:その交渉はどういうふうになったんですか?

白石さん:だめでした。でも、それがあってから、公営住宅出来たんだよ。何年か後に。

橋本さん:造り出してくれた。少ないけど。

白石さん:障害者用の。

橋本さん:バリアフリーのね。福島にも郡山にもどんどん増えてきたんですよ。まだ足りないけどもね。だけど無かったわけだからね。ありがたいお話で。

Q:運動の成果が何年かしてから・・

白石さん:あったね。

Q:「さようならCP」みたいな運動も「福島県青い芝の会」でもしたんですか?

白石さん:地下歩道反対運動。あのときは、みんなで、工事始まるときに、そこへ行って、工事の機械に飛びついて。「やめろー」ってやった結果、1日だけ工事を止めたんだよ。

橋本さん:その頃のチラシもありますよ。私のうちの奥の方に。

Q:それは何に反対?

橋本さん:地下歩道に。造るなってね。

Q:それはどうして地下歩道に反対したんですか?

橋本さん:障害者が使えねぇから。

白石さん:だって車イスの障害者は、私なんかは渡れないから、階段。

橋本さん:ベビーカーも渡れないしね。そんなん造ってどうすんだって。白石さんとか他の障害者とかは、道路削る機械に飛びついてったんだ。

白石さん:で工事現場に、1泊しました。

Q:工事現場に1泊泊まった。工事止めるために。

橋本さん:最後はもっと激しいことになった。白石さんともう1人の仲間の障害者がいて、その仲間の障害者が車の運転ができるんですね。当時は中古車が「(福島県)青い芝(の会)」にはあったんですね。移動用に。その車に乗って、福島のあの県庁前の通りをね、白石さんとその運転できる障害者の方が乗って、あの大きな声で、なんですか、街頭情宣して回って動いたんですよ。でその時に、なんでああいうふうになったのか、パトカーとぶつかったんです。

白石さん:パトカーが「車止めろ」って、来たんだよね。その時にドーンってぶつかって。パトカーくしゃって曲がって。パトカーのバンパーが曲がっちゃった。

橋本さん:それでちょっとおろおろしてて。これどうなんだろうなって。

白石さん:それで車運転してた障害者が警察に連れて行かれたんですけど、ですけど、話を聞いて、社協(社会福祉協議会)の職員が慌てて来て、警察と話し合って、おとがめなしで。帰ってきました。 だからほんとだったら、捕まっちゃうでしょ。前科一犯になるけど、ならなかったんだ。障害者差別があるから。だから、捕まらなかったんだね、警察に。

Q:それどういうことですか?

白石さん:だからその障害者が低く見られているから。対等な人間と認めてないから。警察も。だから捕まらない。

Q:捕まらないのはありがたいけど?

白石さん:ほんとは捕まえてほしいよね。人権を認めるなら、捕まえてほしいよね。

Q:捕まえないのは人権を認められてないんじゃないかと。

橋本さん:そういうことがありましたね。だけどもだんだんと、最初はエレベーターも付けてくれなかったんだけども、何年か後に国体があったんです。福島で。その時を境にエレベーターもちゃんと作りました。あの地下歩道も立派に造ったんだっけ、バリアフリーで。最初からやればいいのにね。何もああいうこと起きなかったのに、最初から。

Q:お2人が訴えているときは変わらなかった、福島国体があったから変わった?

だんだんだんだんね。ちゃんと聞いてくれればね、そんなことやんねくても済んだ。 そういうふうに後で考えましたけど。

白石さん:でその福島に出来た地下歩道は誰も利用できなくなって。利用しなかったから。

橋本さん:上通る人が多かったんですよね。今もだけどね。

白石さん:もうないんですよ、今は。何のために造ったのか。金かかって。

Q:お話聞いていると、積極的な活動というか、激しい活動というか、そういうのが多いですけど、どうしてそういうふうな行動をとっていたのか?激しい活動をしてた理由は何ですか?

白石さん:先輩たちがやってたから。われわれもまねせなって思ってね。

橋本さん:あともう一つは、それぐらい遅れてたんじゃないですか。福島の街が。別に俺は激しいことを好んで、好き好んでやってたわけじゃなくて、やっぱり必要だったんですね。あの施設じゃなくて、街の中で当たり前の一員として、1人の市民として生きていこうと思ったら。何も激しいことじゃなくて、当たり前のことでもあったわけですよね。それが結果的に激しくなっちゃったんであって。

Q:激しくしたいと思ってたわけじゃないんですか?

橋本さん:私は・・

白石さん:それもあったと思うけどね、やっぱりね、、社会的に何を言っても聞いてくれなかったからね。声を大にして言わないと、それが行動になって表れる。

Q:なかなか聞いてくれなかった。どうしてですかね?

白石さん:まだまだ障害者差別があったよね。露骨な障害者差別があったんだよね。

橋本さん:昔はJR、昔は国鉄って言った。国鉄のときも、汽車に乗ろうなんて言うと、もろに、「何しに来た?」って。「用があるから来たんですよ」って言ったら、「荷物になれ」って。「荷物だって言え」とかね。差別発言ですよね。それはね。「人間でなくて荷物ならば、乗せてあげるよ」とか言って。あとは、「施設に帰ったらいいべ」とか、施設から出てきたんだから、「なんで街へ出てくるんだ、そんな体して」とか言って。そういうことも言われましたよ。

白石さん:であの、我々がね、食堂に行くと、「入って来るな」って、言われるよ。「気持ち悪いから、おまえたち来ると、食べに来てくれないよみんな。来んな」って。 食べに来るお客さんが来なくなっちゃうから、来るなって。

橋本さん:あと昔はよく、今はちょっとなくなったけど、今も時々あんのかな、雨なんか降っと、雨が降ってるときは、「無理して出てくんな」みたいなことも言われたし。やっぱりあのその、なんで出てきたって。地域の人たちも、なんで施設が、「施設はほら、いいとこじゃないですか。恵まれているところなのに、なんでそこ蹴っぽって出て来た」って、よく言われましたね。何でも整ってるところ。だけど、人間としては整ってないわけであって。よく「施設に帰りなさい」とか、立派な人にも言われたことありますよ。「苦労して出てくることないじゃないの」って。まして病気もぜんそくもってんだからね。

Q:そういう体験の積み重ねが、言葉で話し合うというよりは行動っていうふうになったんですかね。

白石さん:われわれの先輩たちは、子どもの頃、石をぶつけられていた。バカにされてね。そこまではなかったけど、われわれの場合は。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を目指して~」より

1976年、川崎市の路線バスで、車イスでの乗車が拒否されるという問題が起こります。 「青い芝の会」の人が、事務所に行くときに使う路線でした。 バス会社は、安全確保のため、介助者が付き添い、車イスから座席に移らなければ乗せられないと主張。 「青い芝の会」は、車イスのまま乗車できるように交渉しますが、認められませんでした。

翌年4月、およそ40人の会員が、支援者と共に川崎駅前に集まり、無理やりバスに乗り込みます。 乗車を認めないバス会社に抗議するための行動でした。 バス会社側はそれを阻止しようとして、もみ合いになります。

車イス乗りたいんです。なんで乗られへんのかよ。あけてー。

*****

Q:お2人は福島だけじゃなくて東京にも行って運動に参加されたりもしたというふうに聞きましたけど、バスの運動っていうのはどういうふうな経緯で始まっていったんですか?

橋本さん:バスはあの言ってしまえば、

白石さん:いちばんはじめは俺と橋本さんが作ったんだよ。

橋本さん:そこは当時のこと言えば、川崎の「青い芝(の会)」の事務所が子母口っていうところにあったんだよ。川崎市の子母口。でそこに行くには、こっちから行くと、まず東京駅で乗り換えて、あと、当時は上野駅か。東京も上野もあるけども、地下鉄乗って、武蔵小杉っていうところに出るんですよね。武蔵小杉から、バスに乗るのがいいんですよ。便利なんですよ。よく白石さんたちと使ってたんですよね。その時は、白石さんはあの、福島から秋田に行ってたから、私は郡山まで来て、汽車の時間待ち合わせて、よく一緒に新幹線とか、急行も使って、一緒に行ったんですけども。

白石さん:夜行の急行で。

橋本さん:急行なくなっちゃったんだよな。徐々にね。それで、よく武蔵小杉で一緒にバスに乗ってたんです。子母口まで。そいで最初はすごく(バス会社の)対応がよくて、すごくあの、便利だねなんて言ってね。そしたらば、聞くところによると、あの人たちもバスを盛んに使っているならば、われわれも乗ろうかって、

白石さん:みんな使うようになっちゃって。

橋本さん:あまりにも障害者の利用が多くなって、運転手さんが過剰労働だって。っていうことで、問題になったみたいなんです。過剰労働だからって、なんとかできねえかって。それでだんだんと乗車拒否されるようになった。初めよかったのにね。

Q:それでどうされたんですか?乗車拒否されて・・

橋本さん:交渉するようになったのね。

白石さん:乗車拒否になった人と一緒に、川崎の「青い芝(の会)」のメンバーが、バス止めて、バス前に籠城した。それが発端になって。これは川崎だけの問題じゃないから、全国の問題にしようということで、(「青い芝の会」の)全国大会があったときに、川崎かあれ、神奈川大学の寮で、寮を借りてそこで全国大会をやったんですよ。 その全国大会が終わったときに、じゃみんなで川崎まで行こうってことになって、60人の脳性マヒ者が、2人1組で、一斉にバスに乗ったの。それで30台止めたの。

橋本さん:全部止まることになっちゃんだよね、バスが。マヒしちゃったんだよね。

白石さん:乗客の人が怒って、「おまえたち何やってんだ、離れろ、離れろ」って。

橋本さん:おっかねかったよ、おっかねかった。殺されるんじゃないかって。思いましたね。

白石さん:その時に、脳性マヒ者たちを、車イスで押して行ったボランティアの人たちは、脳性マヒ者たちをバスに乗っけたら逃げたんです。みんな逃げたの。捕まるから。当時、警察が、脳性マヒ者が自身が運動やってるんじゃなくて、その裏に、脳性マヒを操ってる健常者がいるんじゃないかって。 われわれは無視して、健常者の人だけ追いかけ回してる。

Q:その時白石さんはどういうふうに行動したんですか?

白石さん:ハンマーで窓ガラス壊して、拡声器持って、「川崎市のみなさーん」って。演説して。

Q:何を演説したんですか?

白石さん:なんでわれわれはバスに乗れないのか、みなさんと同じ人間である私たちは、なんで乗れないのか。みんなと同じように乗れるのが普通でしょって。

Q:拡声器で大きな声で。どんな気持ちで叫んでいたんですか?

白石さん:一緒にみんなに分かってほしいなと思って。その辺にいっぱい人だかりができて、大変でした。

Q:橋本さんはどうされてたんですか?その時は。

橋本さん:いやその、以前みたく、バスに乗ってたからね、最初は。ああいう状態をまた事前に生まれればいいなと思ってたから。だけどなんでこんなことになっちゃったのかなと思って。その時は、偶然に、福島から7人ぐらい脳性マヒ者が行ったんですよ。そして最後まで残っていたのが、白石さんだったんです。それで2番目が私だったんです。3番目も福島県の。福島の3人が最後まで残ってたんです。白石さんぶん殴られていたからね。

白石さん:11時まで頑張った。

橋本さん:夜中までだったね、すごかったんです。

Q:誰に殴られた?

白石さん:私服の警察官が来て。3人来てね。俺を捕まえて、ドンと、バスからドンと。バスからたたき落とした。ここを額を道路に当たって、血だらけに。

橋本さん:ひどかったですね、あのときは。白石さん大丈夫かと思いましたよ。私の場合は車の中に、九州の脳性マヒの方がいたんですよ。そのやつは最初に、人たちが入ってきて、毛布ぶっかけて。2番目に俺のこと毛布ぶっかけて、ワゴン車かトラックで連れて行かれた。多摩川の土手にポイっと捨てられた。毛布ごと。ポイと捨てられた。しばらくたって、ボランティアが迎えに来てくれました。「大丈夫か」って。すごかったですね。

Q:そういう運動になったことをどういうふうに感じていた?

橋本さん:いやなんだべなと思って。できたらね、もっとちゃんと言うこと聞いてくれてね。いいよって。われわれもちゃんと交渉の中で言ったのね、交渉の中で、そういうバス増やしたり、円滑なダイヤを組んでくださいとかも言ったんですよ。交渉の中で言ったはずなんです。そういうのを聞いてくれれば、ちゃんとやれたはずなんですね。だと思いますよ。だけど聞いてくれなくて「だめだ」って言うと、圧力かかったからね。なんで圧力かかったか分からないけども。まあちょっと、そうなってほしくなかったですね。

Q:そうなってほしくなかった。どうして?

だからちゃんと、あの、初め(障害者の乗車が)できてたからね。最初のうちはちゃんとできてたから、もう少し工夫すれば、できたんじゃないかなと思いますね。今でも思います。

Q:話し合いで何かできた?

そうそうそうそう。できればそういう方法もあったんじゃないかなって。バスの会社の方に。そう思いますね。

Q:そういう運動したこと、どういう意味があったと、いま振り返って思いますか?

白石さん:バス闘争のことが、雑誌の記事になって、「青い芝の会」が孤立無援の闘いをして、「誰もそんな運動は応援しないよ」って、言われたんだよね。

橋本さん:あまりにもマスコミさんに、思ったより大きく報道されたからね。有名なっちゃって。衝撃的なこととして捉えられたから。そんな活動したことない、全国的な活動、障害者が活動したことないって捉えられたと思います。センセーショナルなこととして、思ったよりか大きくね。でもあんまそんなこと当たり前だ。考えてみればね。

白石さん:でその時にやっぱり、誰も捕まらなかったんですよ。俺はバス壊したにもかかわらず。バス壊したんだけども。だけど同じ時期に、アメリカでもやってるんですね、同じような運動。

アメリカではね、バスにみんな乗って鎖でぐるぐる巻きにして、バスに籠城したんですけど、その時は捕まったんですよ。逮捕されたの。人権の問題、いわば人権を認め合う社会だから、アメリカ、そういう国だから、そういうことが積み重なって、

ノンステップバスがみんな走ってるにもかかわらず、日本では捕まんない代わりに、バスにまだまだ、田舎に行けば行くほど、ノンステップバスは少ないですね。

Q:1981年に国際障害者年ていうのがあった。それをきっかけに厚生省との話し合いに参加したと伺いました。交渉はどいういうきっかけで始まったんですか?

白石さん:当時、厚生省で障害者の実態調査、正確な実態調査をやろうということで、それをやるよっていう通達がでたもんで、多くの、「青い芝の会」をはじめ、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)とかいろんな団体で、実態調査はプライベート侵害になるし、その調査をやったとしても、障害者福祉政策に反映されないんじゃないかということで、反対運動をみんなでやってたんですよ。 当時の板山さんが、更生課長だったので、各団体とあわせて60回ほど話し合いを、行ったんですよ。 *****

Q:更生課長の板山賢治さんが来る前と来た後では、厚生省の関係は変わりました?

白石さん:変わってますね。ずいぶん。

Q:どういうふうに?

白石さん:積極的に障害者と面と向かって話し合いを続けたから。真摯な態度。

Q:その前はどうだったんですか?

白石さん:あんまり聞いてくれなかった。

Q:交渉に行っても?

白石さん:ごろつきだからって。話さないって、あまり。あまり、積極的じゃなかったと思います。

Q:それが、国際障害者年で担当が変わって、変わりましたか?

白石さん:調査結果を反映させなきゃならないって、真剣にみなさんで話し合って、同時に年金の問題とか、生活、脳性マヒ者が障害者の中でも不利益を被っているっていうことを盛んに言って、「青い芝の会」で言って、じゃそういうことも調査結果を見て反映してくれないかと。それで、板山さんが約束したんですよ。だからその、実態調査には反対だったけど、実力行動はしないということで。その場を、あのとき私が言って。

Q:反対ではあるけど、実力では阻止はしないと。

白石さん:そういうことがあって、CP研究会ができたんです。

Q:CP研究会の中でも、いちばん大きなテーマは何だったんですか?

白石さん:年金問題と、脳性マヒ者が不利益を被らない対策をどうしたらいいかということで、話し合いを持った。 *****

Q:どうして脳性マヒの方とか重い障害の方にとっては、所得保障が大事なテーマなんでしょうか?

白石さん:脳性マヒ者って、

ちゃんと手足がくっついてんだけど、脳が冒されていて、手足の緊張とか言語障害が出てきて、そういうことで対等に扱ってもらえない。ということはイコール仕事もできない。手足が悪いから。手足がきかないから。

仕事ができない分だけ、所得保障を充実させて生活できるようなふうにしてほしいということですね。 所得保障を充実させてくれと。

Q:当時はそういう保障がなかったわけですか?

白石さん:当時、年金額が3万8千かな、月に。3万8千まで上がってたんだけども、だけど3万8千じゃ生活できないから、年金を上げてほしいっていうことで言ったんだよね。

Q:脳性マヒの方にとっての働くことはどういうもんだっていうふうに訴えたんですか?

白石さん:「青い芝の会」としては、重度脳性マヒは、体を動かすこと自体が重労働である。その重労働に対して対価として、所得保障を受領させてもいいんじゃないかって。

Q:その訴えに対しての反応はどうだったんですか?行政側の反応・・

白石さん:あのね、そこで板山さんといろいろ話して、そのとき、宮城県知事になった、浅野史郎さん、年金課の課長補佐かなんかだったのね。その人と話し合って、年金を上げるには、労働者の人たちの意見を聞いて、労働者も賛成するような形で、皆年金という形で障害基礎年金を作れないかっていうことで、逆に、厚生省のほうから私に、労働者のほうを説得してくれって言われて。自治労さんとか、いろんな労働者団体とか、社会党とか、いろんなとこ、議員とも話して、みんなでね、「東京青い芝の会」の人たちと話していきました。そういうことで、国民年金の中に障害基礎年金ができたんだよね。

橋本さん:やっぱり所得っていうのは、社会の中で、家を借りたり、衣食住っていうか、自分でご飯とかね、食生活もとったり、最低限、社会生活の中では、隣近所で誰かが亡くなったりすれば香典も払わなきゃならないしお祝い金も払わなきゃならないしね、最低の金額は認めてほしいなと以前から私も思ってたもんですから。そういう所得保障ができることは大変すばらしいことだと、懸念の一つが実現されていくんじゃないかと、すごく大きな期待をしてましたね。早くなんでそういう今までそういう話し合いになんなかったのかなと思って。当たり前の権利として、とてもいいことだと思ってます。

Q:働くということについてはどういうふうに思ってましたか?

橋本さん:私は働くといっても普通の働くことはできないんで、施設の中でも、内職、私は施設の中でやったことはハンダ付けと、箱折りとか、お中元とかあの贈り物のときの箱折りやってたんですよ。一生懸命。刺繍の工芸づくり。昔はもっと手が利いたもんですからね。刺繍細工をやってたんです。だけどね、そうやってもね、なんだ、ちっぽけなもんしかできないんですよ。月に3千円とか2千円とか。とてもとても一般の人にはかないません。だからちょっと違う形でね、あるべきだと思ってましたよ。権利としてね。ほんとにね。あとは家にいたときも、袋張りってやってたんです。果物包むときの、新聞で。ばかだから私はね、若いときはそれいっぱいやって、土地でも買おうかと思ってたんです。そういう夢があったんです。全然甘い考えだったよ。 とんでもない。とんでもない。

Q:それでも生活していく権利は・・

橋本さん:何かほしいと思ってました。そういうの出来ればすばらしいと思ってました。その研究会に入ったときもすばらしいと思ってましたし、もっと早くできればいいのになと。すばらしいことだと。

白石さん:あと「青い芝の会」の一方では、生活保護でいいんじゃないかと(いう意見もあった)。所得保障は、生活保護でいいんじゃないかと、そういう意見もあったんです。だけど生活保護はね、最低限の文化的な生活を保障するものでしょ。生活保護に甘んじていいのかなって。脳性マヒの障害者が働けないので、そういうことで、所得保障で年金という形で得た方がいいんじゃないかなっていうことになったんです。

Q:今回は話し合いで繰り返したわけですね。何回も何回も話し合いをして。ちょっと前のバスの時とはだいぶこう、やり方が変わったのはなぜだったんでしょうか?

白石さん:時代的背景もあるよね。時代的背景も。

Q:かつて70年代のような過激な運動っていうのに対する考え方、白石さんの中でもちょっとずつ変わってきました?

白石さん:70年代初めは何もなかったでしょ。年金もなかったし、ヘルパーもなかったしね。貸し屋、家もなかったし。ないことづくめの取り組みだったので、

やっぱり盛んにやってかないと、自己主張していかないと、誰も見向きもしてくれない。そういうことで、体を張って。結局そういう考えがあって。その一方では、われわれに耳を傾ける人たちも出てきて、そういう人が増えていって、社会的に変わってく。よくなっていく、よく起こり始めたのかなと思うんです。

Q:そういう時に行動で示すっていうのは効果は?

白石さん:逆効果になることだよね。せっかく目を向けてくれた人たちに向かって、「これダメだー」って言ったら、反発も出てくるから、反発もある。行政関係もそうだよね。行政マンの中で、我々の意見を聞いてくれる人たちを探していって、対話を重ねることによって、時には酒、お酒を飲んだり、相模原でよくやったんです。障害福祉課の課長とはよくお酒飲んで、話して、だいぶ主張を分かってもらって。

現実的に運動していかなきゃならないなと思って。反対するばかりじゃなくて。内実を作る運動。

Q:今振り返ってみると、「青い芝の会」の活動にお2人が出会ったことは、どういう意義があった?

白石さん:私の文化革命。自分の。

Q:どういう意味?

白石さん:衝撃的でね、脳性マヒ者が立ち上がって自分たちで運動していく。そのきっかけですね。

Q:橋本さんは「青い芝の会」に出会ったことはどういう?

橋本さん:やっぱりとても大切なものに出会ったなと思います。今までも言ってきたように、「青い芝(の会)」の先輩方が実際に施設にも来ていただいたこともあるし、郡山にも何回も会いに来てくれたこともあったりしてね、すごい迫力あるなって、少しおっかないのもあって、今も大切なとても大切なものだと思ってます。かっこよく言えば青春時代の素晴らしい出会いがあってよかったなと思ってます。その1980年頃には偶然になんだけど、郡山においても、先ほど言ったように、一部白石さんの同級生の方とか、養護学校の先生とか、あと親の会の方とか一部協力もあってね、障害者の方が街に出てきたいっていう、そういうあったんですね、要望っていうか声があがったんですよ。私は、最初は日曜日ごとに集まって、一方では、白石さんの家から東京とかに行ったり、普通の日は。日曜日は勉強会とか、在宅訪問やってたんです。障害者のお家を回ったり。そして何人かいて街へ出たいと言う声が強くなってきたんです。それで日曜日に集まって、勉強会をやってたんです。障害者のうちでね。それでその勉強会の中では所得保障のこととか、栄養の問題とか、衣食住の問題、あと自然環境の問題ですね。添加物とかね。そういう問題、話し合ったこともあるし、そういう勉強会やってたんです。場合によって人を招いてお話会もやってくれるようになったんです。それなりに今までと違った障害者の方が集まってくるようになったんです。おかげさまでそれで今度はその人たちが中心となって自分も何かやっていきたいということになって、廃品回収を始めたんです。自分たちの家の、集まる障害者の周りの家を対象にしてね。はじめ小さな動きだったんです。でも1年たち2年たつうちに、最初はリヤカーでやってたんです、今度は軽トラ使うまでになって倉庫借りるようになって、だんだんとでかくなってきたんです。活動が。それであの、なんかゆくゆくは作業所を作ろうという話になって、白石さんの同級生も力を貸してくれてアイデアを出してくれたりして、あと養護学校のさっきいった先生とか市役所の人も最後は力を貸してくれて、そういうことをやり出したんです。 その時は、実際的に県内から障害者の方が何人も自立してくることになったんです。大きな励みになりましたね。そのことも一つの大きな励みになりました。

Q:これからの日本の社会で、障害のある方、障害のない方が一緒に暮らしていくために、もっといい社会にしていくために今後どういうふうにしていったらいいのかっていうのは、白石さん、何が必要だと感じていえますか?

白石さん:昨年(2014年)、障害者権利条約が批准されて、来年(2016年)は障害者差別解消法がスタートする。そういうことと合わせて、いくら法律が整っても、権利条約が批准されても、地域の中で生きていく、そういう環境の整備をしていかないとね。心の問題を含めて、環境整備をしてかないとだめだと思って。今、郡山市に条例を作る運動をみんなではじめてます。 地域が動かないと、いくら法律作ってもだめだよね。

Q:心の環境整備ってなんですか?

白石さん:差別意識、偏見差別ね。そこを取り除いていかないと。そのために市民と仲良く、市民を含めて条例を作ろうと。今やってかないと、何も変わらないから。

Q:差別や偏見っていうのはまだありますか?

白石さん:だってあれ見れば分かるでしょ。妊娠してから、何度も採血をとって調べるとダウン症とか障害児が生まれると分かっちゃうので、そういう出生前検診を受けて、堕胎している人たちがずいぶんいるでしょ。90何%も堕胎しているって聞いています。そういう現実があるんだからね、福島県では原発事故があって、その原発事故から障害児が生まれる可能性上がってくると思うんです。そういうことも含めてこれからの福島をわれわれ障害者が安心して生きていける、そういう環境を作らなきゃならないなって、肝に思ってます。余計に。

Q:差別とか偏見みたいなものをなくしていくためにはどういうことが必要ですか?

白石さん:小さいうちから、障害児と普通の子どもたちが触れ合って遊んだり、学んだりしていくことが。

養護学校が義務化されて、そういう状況があんまりなかったでしょ。やっぱりインクルージョン教育ね。インクルーシブ教育(障害のある人とない人が共に学ぶ仕組み)、やってかないと、小さいときからの、地域で生きていくことを大切しないと変わらないから。できたら私ちょっと考えてるのは、学校の近くに、小学校とか中学校の近くに、駄菓子屋を開いて、小さいうちから子どもたちを呼んで、そこに障害児も呼んで、一緒に勉強し合う、一緒に遊び合う、そういう場を作っていきたいなって。

Q:どうして駄菓子屋なんですか?

白石さん:駄菓子屋じゃなくてもいいけど、食べるところあったりね、駄菓子屋で昔懐かしいお菓子を食べたり、子どもたちの親も呼んだり、みんなでワイワイガヤガヤやるってようなそういう場があったらいいかなって。

Q:そういう駄菓子屋みたいな場所がたくさんできていったら、将来的にはどういうふうな社会になっていきますかね?

白石さん:だんだん障害者差別も偏見もなくなってきて、みんなで助け合っていくような、そういう社会が出来るんじゃないかなって。そういうものを日本が先頭になってやってかないとだめじゃないかなって。

Q:橋本さんはいかがですか?これから障害のある人が安心して暮らしていくためにどんなふうなことをしていけばいいと思いますか?

橋本さん:世の中見てると、私の目からもだんだんと、どこかこう、ギスギスしててね、世の中がきな臭くなってね。なんか心の、人間の心の働きが、自然環境なんかでもすごく影響して、火山が爆発したり地震が多くなったり津波がきたり、そういうことが起きてるんじゃないかと思うんですよね。だから私、今までもたいしたことやってこなかったけど、これからもたいしたことできないとは思うんですけど、やっぱ障害者も普通の人も混ざりあってね、納豆みたいな、糸を出し合ってネバネバ、ベトベトとか、になっていけばいいんじゃないかなと思ってますよ。

Q:納豆みたいにネバネバみんなが混ざり合っていくためにはどうしたらいいですかね?

橋本さん:それはどうなんだろ。ヘルパーさんとか仕事をね、法律の中に、もしかして出来るんであれば、若い人が一回だけ障害者とかそういう人たちに関わってくれるようなことを

一回、強制的にいうのは無理だけども、できればそういうことやりましょうみたいな項目をこう、じわっと入れてくれるようなことがあればいいのかなって思ってしまうよね。

白石さんの最後に言った駄菓子屋さんもいいけど。あと学校に行ったり、学校に私たちが行ってね、車イスの乗り方とか、普段どんなことやってるか、話し合って来てもいいんじゃないかと思ったり、一緒に歌、歌ったりもいいんじゃないかなと思うわけですよ、いろいろと。いっぱいありますね、ヒントがね。

プロフィール

白石清春さんと橋本広芳さんは、ともに脳性マヒで、養護学校時代からの親友。1970年代に、脳性マヒをテーマにした原一男監督のドキュメンタリー映画「さようならCP」の影響を受けて、福島で脳性マヒ者の当事者団体「福島県青い芝の会」を設立。障害者の権利を訴える激しい運動を展開した。現在は2人ともに、障害者の地域での自立生活を支える「自立生活センター」の運営に携わる。

 
白石清春さん
1950年
福島県郡山市に産まれる
1969年
福島県立郡山養護学校高等部卒業
1973年
福島県青い芝の会 設立
1974年
福島市で橋本広芳さんと共同で自立生活
1977年
川崎駅前で車イスでのバス乗車を求める抗議行動参加
1980年代
神奈川県相模原市で作業所を開くなど障害者運動を展開
 
障害者の所得保障を求め国の会議などで訴える
1990年代
郡山市に戻り障害者の自立生活を支える活動を展開
2001年
NPO法人「あいえるの会」(自立生活センター)設立
2011年
東日本大震災を受け「被災地障がい者支援センターふくしま」代表
 
 
橋本広芳さん
1950年
福島県郡山市に産まれる
1969年
福島県立郡山養護学校高等部卒業
1970年
母親を亡くし、千葉の障害者施設に入所
 
その後 福島の障害者施設に移る
1973年
福島県青い芝の会 参加
1974年
福島市で白石清春さんと共同で自立生活
1977年
川崎駅前で車イスでのバス乗車を求める抗議行動参加
1980年代
障害者の所得保障を求め国の会議などで訴える
1983年
郡山市で「うつみね共同作業所」を立ち上げ
2000年代
NPO法人「あいえるの会」(自立生活センター)で活動

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