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証言

タイトル 「筋ジストロフィーの彼が 今に伝えるメッセージ」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 長谷川 秀雄さん 収録年月日 2015年11月19日

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チャプター

[1] 東日本大震災で失われた命  07:55
[2] 東日本大震災で失われた命(2)  05:12
[3] 災害時 誰もが助かるために  07:28

再生テキスト

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~」 より

あの日、濁流に呑み込まれた集落。

5年前、ここで、一人の男性が命を落としました。 佐藤真亮さん、享年35。全身の筋力が衰える難病、筋ジストロフィーでした。

*****

こちらになりますね。

Q:こちらが、佐藤さんが、おうちがあったところですか?

佐藤さんの自宅がこちらにあったわけですよね。ここが出入り口で、真ん中辺りにベッドがあったんですね。

Q:真ん中辺り。

ここら辺に、縦長の平屋造りのうちがあって、これがそのうちの井戸だったんですね。

Q:井戸ですか?

ええ。

これが佐藤真亮の自宅で、津波が引いたあと、1時間後くらいに彼を救出に来たヘルパーが撮った写真なんですけどもね。ここに井戸が写っています。これがここにあります。

Q:この井戸。

この向かい側にこのうちが建ってたわけですね。

Q:そうですか。

いま現在は撤去されていますけども、この位置関係で、ここにうちが東西に建っていて、ここに彼がベッドに横たわっていた。おばあちゃんと2人でいた時に、地震と津波が来たわけですね。

あちらの、いまは海が見えませんけどもね。防波堤の向こうが海で、道路があって自宅というふうなことで、海岸線まで50メートルくらいの距離でしょうかね。

Q:当時は海が見えたわけですね?

建ってれば海が見えたわけですね。いまはかさ上げ工事で全く海が見えなくなっていますけども。波が見えて、水平線が見えるというような、景色がいいところでしたね。

Q:地震があった時の佐藤さんの様子っていうのは、どういう状況だというふうに?

私たちのデイサービスから2時半ごろ、ここに自宅に送り届けて、職員2人がかりでベッドに移して帰ったということで、2時半にここに来て、移して、引き揚げたあとに地震が来てしまったわけですよね。2時46分ですから、本当にわずかな差ですけども。 その時は、一緒に住んでたおばあちゃん、86歳ぐらいでしたかね。おばあちゃんと2人になって、職員が引き揚げてということで、地震があって津波警報が出たということで、実はここの母屋と、いまブロックがあるあの辺に離れがあって、彼のお兄さんのご夫婦が住んでた離れがあったんですね。2棟あったわけですけども、その離れに住んでいた義理のお姉さんが、津波警報が来てるっていうことで、いまの時間帯はヘルパーがいない時間だって分かってましたのでね、自分が助けに行こうということで車でここに駆けつけて、彼とおばあちゃんを車に乗せて避難しようと思った時に、津波がやってきたわけなんですね。

(佐藤さんは)行方不明ですね。おばあちゃんと2人行方不明っていうことで、ですから、(ヘルパーが)2時半に引き揚げて、4時には次のヘルパーが来て、そこからずーっと切れ目なくヘルパーが入る予定だったんで、わずかな1時間半の空白の中に地震と津波が来てしまったわけですね。それが分かってたのでお姉さんが助けに来たということで、お姉さんは危なかったわけですよね。奇跡的に車に、波で押しつけられて車によじ登って、車の屋根にしがみついて津波が去るのを待ったらしいですね。

Q:お姉さんは?

お姉さんはね。非常に危なかったっていうことで、放心状態でしたね。

Q:佐藤さんのお部屋はどの部屋だったんですかね?

この辺に彼の部屋があったわけですよね。ベッドがこういうふうになってたんで、ここに彼はベッドに横たわって休息してたわけですね。

Q:そこにお姉さんが来られたわけですね?

そうですね。地震が来て津波警報が出たっていうことで、お姉さんは急きょ仕事場から救出にここにやってきて、この時間帯はおばあさんと真亮さんしかいないっていうのは分かってましたんでね。おばあさんではとても助けられないので、自分が行かなくちゃならないっていうことで車で駆けつけて、そこの道路に車を置いて、慌てて部屋に入ってきて、彼をベッドから車いすに移動させようと思った瞬間に、この角度で見ると、そちらの方にお姉さんの離れがあったんですけども、その離れの屋根の上を、津波が越えてくるのが見えたそうなんですね。 で、「津波だ!」って大きな声で叫んだら、真亮さんがひと言、「もう諦めましょう」とつぶやいた時に津波がドーッとやってきて、3人を押し流してこちらのほうに、道路のほうに押し流されて3人がばらばらになって、お姉さんだけ自分が乗ってきた車に、波に押しつけられて、もがいてるうちにサイドミラーのフレームに手が当たって、そこを伝って屋根によじ登ったっていうことで、津波が去るまでは車にしがみついていたそうなんですけども、それで助かったと。周りを見渡しても、おばあさんと真亮さんの姿はなくて、どこ探してもなかったということで、夜がやってきたわけですね。

私はその翌日、救出・・、捜索に来て、お兄さんと義理のお姉さんが片づけをしているところに偶然会って、そのてんまつを聞かされて、そうかということで、一緒に探しましょうということでこの辺を探し回ったわけなんですね。 がれきの下をのぞいたりしながら探したわけなんですけども、全く人影もなく見つからなかったわけなんですけども。 あとから、10日後くらいですかね。お兄さんから電話があって、隣のうちのがれきの下から見つかったってことで、たぶん、この辺にあった隣のうち。潰れてましたけどもね。そのがれきの下からお二人の遺体が見つかったそうなんですね。10日後くらいでした。10日かかったっていうのは、原発事故でこの辺は30キロ圏のちょっと外側なんですけども、非常に危険だっていうことで、一斉に皆さん南側の方に避難をして、捜索活動ができなくなっちゃったんですね。われわれも3月12日、13日はもっと人手を増やして探そうと思ってたわけですけども、とても近づけなかったわけなんですね。そういうことで捜索活動ができないでいて、10日もかかったわけなんですけどもね。

Q:真亮さんが最後おっしゃったひと言っていうのは?

「諦めましょう」ってつぶやいたってことが、私も非常に印象的で、彼の人柄としては運命を受け入れるような、そういう人柄だったので、意外ではなかったですね。彼ならそういう言葉が出てくるかなっていうふうに、諦めというよりも、運命は、来るものはしょうがないという、そういうふうな生き方であったような気がするし、毎日毎日を楽しく自分らしく生きていく。その中で、やがて訪れる死については、自分は受け入れていくんだみたいな、そういう、どうも腰の、肝の据わった感じがして、彼の生き方からすると、そういう局面でも素直に自分の気持ちが出たんだなというふうに思って、本当に彼らしい最後のひと言だと思ったわけなんですね。

Q:普段の真亮さん、どんな方だったんですか?

いかにも東北の青年って感じでね。ぼくとつで、あんまりしゃべらないんですね。ぼそぼそっとひと言、ふた言しゃべってということで、あんまりおしゃべりではなかったですね。で、真面目でした。仕事は本当に集中してやって、みんなからも「教えて」とか、パソコンも得意だったので、言われて、お兄さん代わりに後輩に教えたりするのはすごく好きだったんで、みんなから慕われて。人の好き嫌いっていうのはあんまりないような感じでした。みんなに同じように接していて、みんなから好かれる。そういう人柄でした。

Q:ヘルパーの方がいない時間帯というのは、そんなにたくさんあるものなんですか?

そうなんですね。彼自身もずっと人に囲まれて、24時間ヘルパーが周りにいるっていうのは疲れるって言ってたんで、1時間半くらいボーッと静かなところでいたいっていう、彼の希望でもあったわけなんですけども、週2日だけ1時間半の空白が、彼の希望であったわけなんですね。その空白の1時間半に地震と津波が来てしまったわけで、ちょっとでもずれていれば助けられたし、われわれと一緒に行動してれば避難もできたんでしょうし。あれがもっとずれていれば、ヘルパーがいて、たぶん助けられたと思うんですよね。本当に間が悪いといいますかね、残念ですけど。

Q:ちょうどその1時間半の間だった。

そうなんですね。そういうふうに自力で避難できない方は、1人でいたくても、隣の部屋で待機してるとかですね、ということで、何かあった時にすぐに駆けつけられるような距離で支援者がいないと危険だなと。火事ってこともありますんでね。そういうふうに考えると、ちょっと反省点としてはそこだと思うんですね。われわれも、分かったと。何かあった時にすぐ駆けつけられるようなところにはいるからねということで、彼の希望と緊急時に支援がすぐに駆けつけられるっていうこと、両立を図っていく必要があるのかなと思いますね。

Q:長谷川さん自身は、翌日ここに駆けつけて状況をご覧になられた時に、どういうふうにお感じになりました?

ここに至るまでは、津波の爪痕が想像を絶していて、道路には漁船が横たわってたりして、かろうじて車が通れるくらいではあったわけなんですけども、今日みたいな小春日和で、非常に穏やかな日で、そんな大津波が来たとは思えないような穏やかな日であったわけですけども、近づくにつれて、うちが津波で流されてるシーンがあって、これはかなり危険というか、やばいな、大丈夫かなという不安な気持ちになりましたよね。近づくにつれてね。

Q:実際お姉さんから状況を伺った時に、どういうふうに思いました?

どこかに流されて、誰かに助けられてればいいな。一抹の不安はありまたしけども、希望は捨ててなかった。どこかに救出されて避難所に行ってるんじゃないかっていうことで、それからも、この地域の小中学校とか避難所に行ったりして探してもらったわけですけども、どこにもいなかったですね。

10日も消息不明となると、私もさすがに覚悟はしていて、だめかなという気持ちもあったので、やっぱりそうでしたかということと、自分も1時間半の空白に、そうかと受け止めて同意してきた側とすると、なぜ、それはちょっと危険じゃないかなっていうふうに思わなかったのかなって、自分自身としてね。彼の希望ではあっても、何かあった時に助けられないのはどうかなというふうに、彼に問い返すべきだったなと、そこは後悔の念がありましたね。

Q:今回の東日本大震災では、障害のある方がたくさん亡くなられて、死亡率も2倍だったということなんですが、この現実に関してはどういうふうに感じますか?

(障害者が)地域で生活していくっていうふうな世の中になってきて、社会の理解も進んできましたけども、災害時における対策っていうことについては、まだまだ遅れていたんだなというふうに思いますね。それはご本人たち自身も、災害が起きるかもしれないっていうふうに、なかなか危機感を持ってなかった。 われわれもそうですよね。そういう時にどうするかっていうことについて、支援の中に入ってなかった。そんなことはよもや起きないだろうっていう、本音があったと思うんですね。だから、対策も考えずに来てしまったということがありますので、“地域で生きる”ってことは、“災害に対する備えも含めて地域で生きる”ってことに拡大していかないとならないんだなと思います。

われわれは自分の足で歩いて避難できますけども、障害のある方はできない。あるいは、情報が伝わらない方においては、何が起きてるか分からないっていうことで、避難のタイミングを失ってしまうってこともあると思いますので、そういうふうな方への社会の支援っていうのがまだまだ不足していて、決定的な時に、そこが人命を奪ってしまうことにつながっているんだなと思いますね。

Q:いざという時に障害のある方も助かるために、どうしていったらいいんですかね?

災害時に一刻一秒を争いますんでね。地域のご近所の方が、常々そういう方々に、交流があって、「何かあったら助けに行くからね」って方が周りにいっぱいいてくれると、そういう時には助かるなと。われわれが駆けつけようと思っても、何十分もかかりますんでね。緊急時には間に合いませんので、そういう時にご近所の方の力を借りて避難するっていうことが、やはり残された方法だと思うんですね。 そのためには、常々そういう方々が発信をして、できれば避難訓練なんかを年に1回とか、車いすの移乗とかやってもらったりして、ここまで避難しましょうとか、実際やってみるみたいなことをやっておいて、緊急時に備えていくっていうことが、近所の方含めてやっていくっていうことが大事かなと思います。

Q:地域の力というか、そういうものが大事。

そうですね。緊急時というのは、文字通り緊急時というのは時間がないわけですからね。そこはやはり、その時に駆けつけてくれる人は周りの方、近所の方、そういう方々と常々コミュニケーションしておいて、緊急時に駆けつけてくれる方を作っておくというか、できれば訓練をしておくっていうことでしょうかね。

Q:いざという時に、障害のある方でも助かるような社会とか地域っていうのは、どういう社会だと思いますか?

助け合いの雰囲気が当たり前のように地域に根ざしているような、突然できませんのでね。日頃から助け合ったりしているコミュニティが地域にないと、災害時にはいちばん障害を持つ方がね、被害が拡大すると思いますので、日頃からそういう助け合いの意識とか、あるいはいろんな行動を重ねていくっていうことがないと、難しいのかなと思います。大都市部では、なかなかそれは難しいんじゃないのかなという気がして、首都直下型地震とかあった時に、どうなるのかなって私は非常に心配になりますけどね。

地域で生きるっていま言われてますけども、単に地域のアパートでポツンと孤立して過ごすんではなくて、やはり周辺住民の方と、お隣の方、両隣とかの方に、常々から話しかけたり、だんだん関係を深くして、緊急時に駆けつけてくれるような関係性を作っていくってことも含めて、地域で生きるんじゃないかなと思うんですよね。 どうしてもいままでは、施設を出て、あるいは親元から離れてアパートで暮らす。そこがゴールのように考えていましたけれども、そうではなくて、そこから地域に関係を作っていく、人間関係を作っていくことがないと、やはり災害時には、本当に助かる命も助からない。そう思います。

たぶん、そういう、地域で障害者が町で困ってれば「どうしたんですか」とか、困っている方がいれば声かけるとか、そういうふうな気持ちがあふれていれば、自然に災害時にどうするかっていうことは、話し合いが起きてるはずなんですよね。地域の自治会とか、隣組の中でも、「津波があった時はどうする」とか。「どこそこのばあちゃんは誰が助けに行く」とか、「どこどこの車いすの彼はどうする」とか、そういう話が自然に出てくると思うんですね。災害に向けてっていうのはありますけども、もっと共に生きるってことが地域に根を張っていくと、当然その延長上に災害時の対応について地域の中で話が出てくると思うんですけどね。まだまだ道半ばっていうところでしょうか。

Q:今後はそのために、長谷川さんはどういう気持ちで取り組んでいかれますか?

私たちはそういう、私たち自身も痛恨といいますか、残念な、自分たち自身がそこまで思いが至らなかったことによって、彼の命が奪われてしまったという責任を感じますので、この教訓を世に発信していくこと。そして、できれば地域ぐるみの避難訓練とか、そういうのをあちこちに訴えて、実際作っていくことだと思うんですね。 アピールしても、そうだねっていうだけで終わってしまう部分があるので、それがあちこちで、障害を持つ方含んだ避難訓練があちこちで行われていってほしいと思いますし、われわれはそれを呼びかけて、いろんなプログラムとか訓練を実際にやってみるとか、そういうことについてはお手伝いできると思いますので、そういうふうに拡大していくためのお手伝いをしたいと思います。

Q:真亮さん自身は何を望んでいるかなって、想像してみるとどうですかね。真亮さん自身が望んでる社会っていうか。

この悲劇を忘れないでほしい。繰り返さないために、そこについて、広く社会に伝えていってほしいというふうに、彼は願っていると思います。

プロフィール

福島県いわき市で、障害者の地域での自立生活を支援するいわき自立生活センターの理事長を務める。2011年の東日本大震災で、センターを利用していた佐藤真亮さん(筋ジストロフィー・享年35)が自宅で被災し、亡くなった。以来、障害者が参加する避難訓練を企画するなど、防災への取り組みを続けている。

1954年
福島県いわき市生まれ
 
学生時代、ボランティア・支援者として障害者福祉に関わる
1996年
いわき自立生活センター 設立
 
現在にいたるまで理事長として活動

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