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証言

タイトル 「戦争で視力を失い 生きぬいた戦後」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 川人 義明さん 収録年月日 2015年11月7日

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チャプター

[1] 志願して海軍へ  13:49
[2] 志願して海軍へ(2)  12:37
[3] 米軍機の攻撃で負傷 両目を失明  09:16
[4] 少女との出会い  14:19
[5] 戦後 障害者のための運動に奔走  09:39

再生テキスト

15(歳)やったかな。海軍大募集があったんですよ、この一帯にね。そういう部署があって。それに私、応募したわけです。まだ(国民学校)高等科2年ですからね。先生もついてくれて試験場へ行ったわけです。

Q:学校に通っている時に応募したんですか?

そうです。高等科2年の時。

Q:お父さんお母さんはなんておっしゃってましたか?

知りません。

Q:知らなかったんですか?

知らないです。はんこも別に押して、私が志願したいうことも何も知りません。

Q:どうして兵隊になろうと思ったんですか?

太平洋戦争が始まったし、日本も大変な勢いでシンガポールを落としたりね、いろんなあれやって、この時こそっていうことで。戦況が悪くなってきたようだったので、大募集があって、それに応募したんです。私はいちばん年下ぐらいでしたかね。17、18・・20歳までの人をね。20歳過ぎた人は徴兵がありますけども、19歳までは志願兵として海軍の募集があったわけですね。

国のために命をささげるということとで、死ぬ覚悟でみな応募してるわけです。そのころはね。

国のために、この命をね。少しでも国のためにね、戦えれば。

Q:実際に兵隊入られて、戦地にはすぐに行かれたわけですか?

試験を受けてからしばらく、2~3か月はそのままです。志願兵に合格しとっても、採用通知がなければね。採用通知自体が、いついつどこどこへ入るようにという命令が来るんですよ。呉鎮守府長官の命令が来るんです。そして、私の場合は呉に入るようにと。何月何日にってことで

昭和18年にその命令が来て、私の場合は19年の、5月・・・1日に大竹海兵団に入団を命ずるということでしたので。私は高槻の・・・、5人が採用通知が来てたんですね、私を入れて5人。(昭和19年4月)28日の日に市の兵事課の、28日の日に5人、家を出て市役所に集合をしたわけです。で、市役所で市民の人にお別れをして、大阪駅まで行ったわけです。 大阪駅の広場には、高槻だけやなしに、各府下で試験に通った人、2人とか3人とかそんなんで、約50~60人はいたと思います。100人ぐらいはいたと思います。この近畿だけでね。それで、大阪駅に軍用列車が止まってたわけです。その志願兵を呉まで送るのにね、その汽車が来てましたのでね。それに、大阪府の府下の命令を受けた人がそれに乗ったんです。その間に神戸から乗る人もありましたけども、それに乗って、朝、夜明けですね。広島の大竹に着いたわけです。 大竹に着いたら、海兵団(軍港警備や新兵教育などを行う海軍の部隊)の人が迎えに来てまして、その人らに引率されて、大竹海兵団に入ったわけです。大竹海兵団に入ったところの大広間で全員が集合した。高槻だけやなしに、あちこちからで約200人はいたと思います。そこでまた試験と身体検査があったんです。入った者にね。それでチェックされて、またそこではねられる人も何人か出てました。私はその時でもパスして、どの班に入るということを命令されたわけです。私は29分隊の班長が迎えに来てましたので、その人に引率されて、29分隊、旧兵舎に入ったわけ。

私らは29分隊。その中に整備兵とかいろいろありましたけどね。一般水兵ということで、私は29分隊に入ったわけです。29分隊です。

約200人ほどおりましたけど、29分隊に入ったら、そこにはちゃんと私の衣類も何も用意されてますし、着るもの。 私は10教班、第1教班から10教班ありまして、私は10教班に入ることになってまして、29分隊の10教班に入ったわけです。

Q:どういうお仕事をされたんですか?29分隊10教班は。

まず入った時に1週間いうのは、まだ入ったあとなので、その時に班長とか先輩の先任兵長やなんかがおりましてね。その人らが全部説明して案内してくれたわけです。それで、大竹海兵団の内部を全部案内してくれました。

それでね、5月に私が行って、海兵団を卒業して、9月に大竹潜水学校に、9月に私は大竹潜水学校の水雷課に入ったわけです。水雷課に入って、まだ10月の10日過ぎだったと思います。班長から指名されて、川人は、まだいちばん若いからいうことで、潜水学校は出てるから、とにかくいま命令出てるので、29分隊、私の班から5人選ばれて、いちばん若い連中ばっかり5人ほど選ばれて・・・、海兵団の庁舎前に整列したわけです。 その時には各班からみな、機関科からもみな来てました。200人から。それで、私と5人ほどは戦艦伊勢に案内されて、戦艦伊勢に乗ったわけです。機関科も入れたら40~50人ほどおりましたかね。 私のとこは10人ほどですけども、後部機銃指揮所というところがありまして、戦艦伊勢の後部指揮所いうところ、私はそこへ配属されたんです。そこに3連装機銃、下にありましたし、戦闘が始まったら機銃にさす。それまでは後部艦橋から見張りでずっと、航海中は2時間交代で全部見張りがつくんです。望遠鏡でずっと見て、敵潜水艦から、潜望鏡とかね、そういうのが見えるから、ずっと警戒。豊後水道出ると同時に戦闘配備につきまして、2時間交代にずーっと航海中は見張りにつくわけです。だから、2時間交代で皆さんの指導の下に見張りについて、私自身も視力は、ええ視力、目をしていましたのでね。

Q:そうですか。

目は、視力1.2の目の視力のええもんばっかりです。それで見張りにつきまして、航行して、それがレイテ沖海戦(昭和19年10月23日~25日 フィリピン周辺で行われた日本軍と連合軍の大規模な海戦。日本軍敗北)に行くなりでした。

Q:レイテ沖海戦。

そうです。それで豊後水道出て、豊後水道のとこでね、郷里に対して敬礼。それから、天皇陛下に対して、皇居に、天皇陛下に対して敬礼。それから、故郷に対して、両親に対して敬礼で、豊後水道出る時にみんな甲板に整列してね、郷里にお別れをするわけです。それで、そこを出るなり全部見張りにつくわけです。私は後部機銃指揮所に、ずっと見張りやってきたわけです。

敵潜水艦がやっぱり日本近海に来てるからね、潜望鏡が出たらすぐ分かるからね、ずーっと見張りに付いてきました。

Q:目がよかったんですかね。

そう。目がええのんと、それから、望遠鏡でね。船に積んである望遠鏡でずっと、海面やら空やら見るわけです。だから、海軍はみな、目のええもんばっかりです。ほとんど1.2のね。

Q:レイテ沖海戦ではどのような結果だったんですか?

レイテ沖海戦がね、とにかく私たちの船は、あとから聞いたんですけども、第四航空戦隊といいまして、戦艦が2隻、伊勢、日向と、それから、巡洋艦が8隻ぐらい。あと、駆逐艦が20隻ほど。で、航空母艦が4隻(航空母艦は第三航空戦隊所属)。航空母艦を挟んで南下したわけです。豊後水道を。航空母艦というのは、正式空母の瑞鶴、瑞鳳。それから、改造型の空母、千代田、千歳の4隻の航空母艦を真ん中に挟んでずーっと南下したわけです。(第三航空戦隊と第四航空戦隊を主力とする第三艦隊・小沢治三郎司令長官) そして、1週間ぐらいしてからですかね。いよいよ、よく分からんなんだけども、グラマン(米軍機)の偵察を受けるようになったし、フィリピン沖にはアメリカの艦隊が来ておりまして、それをシンガポールから北上する戦艦大和、武蔵、扶桑、山城の船団がフィリピンに向かって北上してると。私らは南下して、私らの航空母艦は、あとから聞いたんですけども、おとり艦だということはあとで聞いたんですけど(空母中心の艦隊が米軍を引き寄せている間に、戦艦大和などを中心とする別艦隊がレイテ湾に突入する計画だった)、それはその時は全然知りません。 そして、南下していく間に昭和19年10月20日ごろから、ずっと敵の飛行機の触接、ずっと見張られてたんやけども、フィリピン沖のルソン島沖、北上してね、ルソン島沖でグラマン(米軍の戦闘機)の第1回の襲撃を受けたのが10月24日の午前10時。この時は、午前中と午後、手探りみたいな形で、様子見をかねたグラマンの編隊やったと思います。 そして、翌日25日は朝も9時に情報が入りまして、敵グラマンが北上しているということで、北上しているいうことは私らの艦隊を狙ってくるいうことが情報が入ってきたので、私らはすぐその情報が入って戦闘配置につけということで、戦闘配置にみなついたわけです。私は後部機銃指揮所で、いつでも対戦できるように機銃をあれ(準備)してましたし。

大編隊ですよね。望遠鏡で見たらずーっと西の空に、グラマンの編隊が次々、1弾、2弾、3弾といるんですね。われわれの第四航空戦隊をめがけて向かってきてるということで、みないつでも戦えるように戦闘配置についてグラマンの様子を見てたわけです。 そして、グラマンはまず、航空母艦をめがけて攻撃を開始しました。瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳の航空母艦。とにかく航空母艦を。その航空母艦もそのころには飛行機はなかったんです。飛行機があっても操縦できる兵隊がいなかった。だから、航空母艦4隻あっても、使える飛行機はそんなになかったんです。飛行機は出しましたけども、甲板に出て向かってきましたけど、とにかく向こうの編隊のほうが数が多いから、まず航空母艦をめがけて集中攻撃が始まりました。

それから航空母艦がやられまして、瑞鶴、瑞鳳がだめ。それから、千代田、千歳もだめということがだいたいが分かって、その時に、今度は伊勢に向けて何機かが急降下爆撃してきました。だけど、急降下爆撃いうても至近弾です。ほとんど船に命中せずに船のそばに爆弾を落とすから、ものすごい水柱が立つわけね。それを交わしながらずっとなしたわけです。

魚雷を2~3発食らったみたいなね。それで、ちょっと右に傾きました。傾いたまま航海してました。瑞鶴、瑞鳳、4隻が沈むのを目の前で見てましたし。それで、グラマンの攻撃、うちの船も何機かの攻撃を受けて、魚雷を受けて、右に傾いたままずーっと今度、夕方になりましたから内地に向けて敗走することになる。敗走やね、敗走することになった。

Q:川人さんはその時無事だったんですか?攻撃受けて。

その時はね、爆弾の破片が右のお尻に1発入ってた。そんなん気がつかなんだ。小さい爆弾やったから。その時はそんなんで、腰に爆弾の破片を受けたんですけども、私はどうもなかったですけども、何人か、私の一緒に乗った戦友も何人かその時爆撃受けて、それから、後部機銃、飛行甲板の両側にある、ずーっとあれには、至近弾と両方で、波で、攻撃受けてね。飛行甲板の両脇にある機銃なんかはかなり被害を受けて、何人かは戦死者も出ましたし、それから、海に飲まれたもんやらね。 その時はそんなんで、傾いたまま私の船はずーっと北上しだして退避してたんですけど、奄美大島の名瀬港いうとこに、奄美大島に敗走したんです。戦艦伊勢、日向など、それから、何隻か護衛してた。奄美大島の湾に入って、そこで一時休息して、休息よりも、破損か所の応急修理をみなやったわけです。私の船も応急修理をして、1週間、3~4日ぐらいおったんですかね。それが終わると今度、奄美大島から内地へ向けて帰ってきたわけです。 帰ってくるなり呉の軍港に入ると、ドックに入るとかなりの・・・損害があったようです。私もそれを見たんですけど、直ちにドックに入って修理が始められた。1週間ぐらいで、早いもんですね。1週間ぐらいでダダーと昼夜、昼も夜もなしに、昼夜かけて破損か所を修理して1週間ぐらいで終わると、すぐまたドックを出て呉湾に停泊してたんですけども。しばらくするなり、また出撃の命令が出て南下することになったんです。 それで、11月の末から12月にかけて南下して、戦艦伊勢、日向、それから、巡洋艦が4隻ほどおったか、シンガポールのセレター軍港に入ったわけです。そこでいったん入って、給油、油を入れて、シンガポールのちょっと南にリンガ島いう島があって、赤道直下ですけども、リンガ島いうところがありまして、そこにリンガ湾という湾があって、そこで待機することになった。リンガ湾で待機すると同時に、朝昼とにかく毎日訓練がありました。

それからシンガポールへ、伊勢、日向やら、シンガポールに行ってしばらくシンガポール周辺の護衛をして、昭和20年の3月に南方の資源を、船いっぱいに兵隊の寝るとこもみなそこへ、飛行機用の、飛行機を作るスズ、それから、生ゴム、そういうなんを、スズやら、生ゴムやらそんなんを甲板いっぱいに、兵隊の寝るとこへもみな積んで、満載して。

マレー半島に沿って、それから、香港、上海。とにかく沿岸をずーっと。それから、中国の沿岸、それから、朝鮮の沿岸通って下関海峡へ入って呉に帰ってきた。 ということは、潜水艦の攻撃を避けるために、ほとんど陸に近いところへ接近しながら内地に向かったんです。ということは、潜水艦が攻撃を避けるために、ほとんど大陸に、陸地に沿うて内地に向かったんです。

Q:内地には無事に帰ってこられて。

無事に帰りました。

Q:そのあとにけがされたんですか?

そのあと。それから、(昭和20年)3月・・、4月やね。南方の物資を全部下ろして、呉で音戸いうとこで私の船は待機したんです。伊勢は。日向は広湾のほうへ、隣ね、広ね、広に待機した。そこで出撃命令を待機して待つことになったんです。

人間魚雷の訓練を受けて、山口県の光いうところに海軍工廠があって、そこで魚雷艇を作ってましてんね。魚雷艇いうても、私は2人乗りの魚雷艇。1人乗りの魚雷艇。両脇に魚雷を抱えて、敵艦に向かって体当たりするという訓練ですよね。それをもって、私らは高知県の宿毛に転勤命令が出てたんです。

ところが、7月の24日から、グラマンの集中攻撃が24日から始まったんです。24日の時は艦橋に爆弾が命中して、艦長以下、偉い人はみなその時に戦死してますし、私はその艦橋の下の機銃におったから助かったんですけども、私の班の中で、その艦橋の機銃の配置についとったもんはみな即死です。

Q:川人さんは、グラマンの攻撃を受けた時には何をしてたんですか?

船に向かって急降下してくるグラマン機を狙って射撃しとったわけです。対空戦争で戦ってたわけです。私は戦闘艦橋の下の機銃やから助かってたんです。何人かは戦死してますから。

Q:どういうふうにけがをされたんですか?

その時に、よく分からなんだけども、私の胸に、ここに、胸に傷があるわけですよね。左の胸に爆弾の破片が入ったわけですよ。

これです。ここに。この傷がここへぐっと。これがもうちょっと内側に入っていたら肺に行くけど、肺をそれてるからこの傷は助かった。これとおなかのとこと、それからお尻のとこと、盲管銃創(銃弾が人体内に止まっている傷)っていうんですね、爆弾が入ったです。ここの時は苦しかったです。ここへ入った時は、爆弾の。

Q:その時って何か記憶にありますか?けがした時って。

みんな覚えてます。私は意識が、その時、意識がぐーっとなったけども、呉の病院へ送られたから、「川人兵長は、意識ある」っていうことで。食料を運んできた、私やられたのが朝いちばんの時ですから。

Q:朝いちばんですか。

そう。10時ですわ。10時の戦闘ですわ。それで、食料、弾薬や食料積んできた船に私らを乗せて、呉に帰ってました。

Q:その時、目のほうはどんな感じだったんでしょうか?

その時は分かりません。目が見えない。見えなかったと思います。そんなどころやなかった、苦しかったから。

吹っ飛んだ。体もバーッと、私も、機銃の射手やってましたけども、機銃の影になったんと、それから、射手台に座ってたけども、やっぱり3~4メートル、座ってたとこから飛ばされましたね、バーッと。

Q:吹き飛ばされた。

はい。ほんで、機銃に戻ったんですけども、それからだんだん視力がおかしくなってきて、体の出血が出てきて意識がほわっとなったんですよ。それから意識不明になって、気がついた時は呉の病院やった。

Q:意識戻った時は病院だったんですか?

病院の中でした。「ここどこや」言ったら。看護婦さんの声がね、「意識が返ったようです」って。リンゲルやらなんかやって、治療を受けてました。

Q:気がついた時、どういう気持ちになりました?

どういう気持ちなんかより、とにかく意識ついた時に、生きてるということだけでしたね。「ここどこや」って言ったら、「病院や。呉の病院や」て。隧(ずい)道、呉の山に作りよった「隧(ずい)道の病室や」いってね、隧(ずい)道っていうのは、山をくりぬいた、そこが病室でした。

それから、安浦海兵団の病院で左目の摘出を、爆弾の破片が入ってるから、ケガした明くる日ですよ。明くる日、安浦海兵団の病院へ車で送られたんです。明くる日ね。確かそうだった。そして、着くなり、その明くる日の朝、とにかくすぐ手術せなあかんと。目の摘出手術せなあかん。ほんで、こっちの眼球摘出をするいうて、破片が入ってるから眼球摘出した。

7月の27にやられて、28日に安浦の海兵団へ送られて、

ここにおったら危ないということで、朝、早朝、とにかく空襲があるので朝早くということで、夜明けると同時に汽車に乗せられて、広島駅に着いたのが朝の7時ごろやったと思います。7時過ぎやと思います。夏でしたけどね。 ほんで、北のほうから、山陰のほうから入ってくる汽車があるんですね。その汽車が9時までに来ましたのでね。けが人を全部その汽車に乗せて、私もその時です。乗せて朝の9時に呉を出て三次に送られた。三次いうとこは広島県の端、向こうは山口県やね。三次で降りて、そこから車で病院へ送られたんだけど、病院やないんですよね。旅館なんです。旅館を接収してそこを病院にしとってん。旅館ですわ。旅館のおかみさんもおったです。

Q:そこにしばらくおられて。

ええ。そこでしばらく手当を受けてて、そこで終戦を迎えた。8月15日ね。そこで終戦を迎えた。

Q:終戦の時はどんなお気持ちでしたか?

どんな気持ちも。とにかく戦争が終わったいうだけでね。それよりも、広島に特殊爆弾が落ちて広島が全滅したいうことだけ、それのほうが気持ちが重かったですね。

Q:東京の病院にはいつごろ行ったんですか?

東京の病院は21年の1月。

とにかくここでは治療はもうなんだから、早く東京へ送ってと。義眼も作らんだしいうて。で、重度のもんは全部東京へね。私の場合はそんなんで、1月に東京の国立第二病院、元の海軍病院です。そこへ送られた。

Q:重度のけがや障害の者はみんな東京の病院に送られたんですか。

送られます。義足・義肢、みな東京でなかったらできないから。私の場合は目の手当もあるし、左の目も摘出してるしね。右目も見えなくなってきてるけど、東京で手当てすれば視力が出るかも分からんいうこともあってね、とにかく東京の病院へ行けば右目だけは見えるようになるやろうと思ってたです。

Q:周りには傷い軍人といわれる方は、当時たくさんいたんでしょうか?

みないましたよ。病室みな満員でした。ほとんど軽傷の人が、まぁ片眼ぐらいの人がね。

Q:皆さんどういうふうな形で過ごされてたんですか?生活の状況、病院での状況。

病院ではとにかく、私自身はね、見えるようになりたい、右目だけでもね。治療だけは引き続き受けとったんですよ。だけど、なかなか視力は回復せん。そうこうしてる間に、目の見えるもんはとにかく家へ帰れと。終戦後ね、すぐやったから。私らはあかんいうことで、東京の病院へ残ったんですけどね。

Q:そこで川人さんも両方の目が見えなくなるということが分かったんですか?

うん。

Q:その時には、どういう気持ちになられたんですか?

とにかくね、一時はね、自殺するもんもおったしね。これ以上生きててもしょうがない、自分も自殺しようかないう何かあったからね、そんなみな気持ちはあったんですよ。 そうしてる間に、塩原に光明寮(視覚障害者の技能訓練を行う国立の施設)があると。ということは、戦争失明者の収容所があそこにあるんやということで、それを聞いて、私らは塩原へ見学に行った。病院から。そしたら、そこで針灸マッサージで、とにかく25人か30人しか入れないんですよ。1期生、2期生、3期生でね。次募集しても30人ぐらいしか入れない。そうしたら、第二病院だけでも50人から失明者おるのに、第一病院は100人からおる。相模原とかあっちこっちからも入れたら、そんなん失明者は100人ではきかへんから、そんなんなかなか入れない。これじゃあ具合悪いいうことで、私もそういうことで、塩原やなしに東京に光明寮を作ってもらおうと。 光明寮、戦争失明者の自立できる光明寮を作ってもらおう。あんま、マッサージのね。ということで、東京都へ、まず病院におる目の悪い人を何人か連れて、東京都へ行ったんです。東京都へ行ったら、「これは国の何やから、東京都よりもまず国のほうへ行け」と。「厚生省のほうへ行け」と。厚生省の(門を)たたけということで。それで、「そうですか」って。東京都は国に行ってくださいと。国いうことは、厚生省ですいうて、厚生省へ方向を変えて、国立第二病院と第一病院の戦争失明者20~30人が連絡を取り合うて厚生省へ行って、東京に中途失明者の更正施設光明寮を作ってくれと。今の塩原だけじゃだめだということで運動したんです。そしたら、大勢から作ろうということで、財団法人の光明寮が祖師ヶ谷大蔵にできたわけです。病院の空き病室を改造してね。そこであんまの勉強をしたわけです。

Q:傷い軍人の方に対する国の保護とかそういうのはどういう状況だったんでしょうか?

とにかく、占領軍が入ってくるまではよかったんやけど、占領軍が入ってきて、元軍人関係は一切援助してはならないというマッカーサー命令が出た。私らはまだ恩給やらもらってなかったけども、恩給もろうてたもんやら、遺族恩給もろうてた人ね、これが占領軍の命令で全部止められたんです。

そしたら、生活はできませんやんか。だから、何人か自殺をする人もあったんちゃいますか。病院でも自殺する人があったもん。

Q:どういう方が自殺されたんですか?

ほとんど重度です。このまま家帰っても改善しない、失明者とか、病院で首をくくって、そんなんで、何人か自殺。それから、飛び込み自殺。私かて、東横線の踏切へ立ったことあります。

Q:どうしてですか?

このまま生きててもしょうがない。一切のあれが出てないいうことで。それで、東横線の高校前の闇市で、酒、焼酎となんぞ買うて、1杯これ飲んで自殺したろう思うてた時に、ちょうど踏切に、東横線の都立高校いう駅のすぐ横に踏切があって、その踏切へ、私も焼酎と、それ持って踏切に立ったんです。遮断機が上がる、遮断機が下りる。そんなんでしばらく立ってたんですよ。そこで立ってたんですよ。飛び込もうか、飛び込まんかいうことで。 見えたんやろうね。その時に、小さい女の子の声で「兵隊さん危ない」言うて、私の手を取ってくれて、「病院はこっちですよ」言うて、その女の子が病院まで手を引いて、「病院へ行くのはこの道」言うて、病院まで連れて行ってくれましたんや。その子といろいろ話をしながら病院へ行く、あれは3月やから、「4月から小学校1年生に入るんや」ということで。そして、「兵隊さんは目悪いから眼科やなぁ」いうことで、「あんたよく知ってるね」。「お母さんが目を悪くして眼科病棟へ入院してんねん」ということだった。 1階が一般、そういう人らの入院患者の、外来の人の入院患者にあててた。私らは2階にあれしたんですね。それで、お母さんがいる。ちょうど私を手引きして、「眼科はこっちや」言うて、「兵隊さんどの部屋」いうことで2階へ階段上がって、「5号室」ってことで、5号室はいちばん端やから、8人そこ入ってて、そこまで連れてってくれた。ここは私の部屋やいうことで。ちょうどその下が外来の人で、その下に、その子のお母さんが目が見えなくなって入院してた。不思議なもんでね。

問題は、いちばん困ったのは、一切、元軍人には一切援助してはならないということだって、入院してても入院費がいるわけ、今度は。入院費ね。国立病院ね。アメリカの兵隊がバーッと来て、時々見回りに来よったけどね。それで国の援助は止まったんです。そして、私もちょっと休暇をもらって、家から迎えに来てもうて、帰って、それで、国立東京光明寮に1期生で入って、22年の6月かな。それから、夏や。その夏に、22年の8月に、夏休みのところ、6月に入ってやから夏休みなしや。 国の援助が止まって、今度入院費を、食事代やらなんやらみな払わなということで、みんな地方へ、家のほうで取ってくるもんやら、田舎のほうの子は米を送ってもらいながら。私はそんなんで夏休みはなかったけど、夏休みに帰って、とにかく何とかして家からお金を送ってもらわんことには具合悪いから。だけど、家でも子どもがおるし、そんな余裕はなかった。家でもね。家でも私の光明寮におる生活費は、なかなか送るいうことは大変なんや。 で、私は(高槻)市役所行って、市長に面会してね。説破したんですよ。「殺すも生かすも市長次第、どうしてくれんだ」と。「市長、俺と一緒に死ぬか」って啖呵(たんか)切ったけど、そうしてる間に高槻市長はヨハネ学園の園長さんでクリスチャンやね。そういうことで、「川人さんのことは私なりに考えさせてもらいます」いうことで、「とにかく早まったことはせずにやってください」。で、帰った明くる日に市長からバーンと援護物資で、食べるもんやら、着るもんやらバッと届けられて、ほんで、東京の入院費・・・ すぐ生活保護法のほうの申請してくださって、「お金は送らせてもらいます」と。あんたの光明寮の費用は高槻市から送らしてもらいますということを契約して、また東京へ帰ったんです。そして、そろそろ年月から、生活保護法ですね、いわゆる。から、お金を送ってきた。

Q:それで少し落ち着いたわけですね?

そうそうそう。

Q:川人さんは戦争でけがした障害を負った人たちのために、いろいろ運動を、働きかけをいっぱいしてきたんですかね?

やりました。

Q:それは?

国に対して恩給、恩給やね。

Q:何のためにそうやって運動してきたんでしょうか?

戦争犠牲者に対する国家補償。だから、傷い軍人だけやなしに、戦争犠牲者に対する国家補償いうことで、昭和26年の10月に数寄屋橋でハンストやった、12日間。あれも傷い軍人というんやなしに、戦争犠牲者に対する国家補償せよという要求のハンストやった。

Q:ハンストをやったんですか?

やりました。12日間。新聞にも大きく載りました。

反響が大きかったですよ。全国の傷い軍人やらなんかはね、私らを・・・傷い軍人、遺族とかね、止められてましたやん、年金や恩給やら。だから、みなそれで一斉に要求運動するようになったやん、国に。遺族恩給出せ、傷病恩給出せ言うてね。だから、私らハンストやった時に、昭和26年の10月にやった時に、遺族の人が靖国神社で遺族会の再発足で恩給の要求をね。

Q:そのあと高槻に戻って、この治療院開かれてずっとやってこられたんですね。

そうです。高槻に帰ってきてからすぐ。

Q:高槻では、地元の障害者のための活動もされてきた。

それと同時にね。

Q:どうして障害者のために活動しようと思ったんでしょうか?

やっぱり、我々だけやなしに、傷い軍人も何も、障害、目の見えない、手足が悪いのは平等やからね。だから、彼らも恩恵が及ぶようにね。その会を、なかったけども、身体障害者福祉協会作って、高槻でも盲人協会いうのんも、私作ったんやもん。

Q:どういう気持ちでそういう協会が必要だなと思ったんでしょうか?

市町村の援助ですよ、障害に対する。身体障害者福祉法があるから、これに対する援助や。名前だけの福祉法じゃない、援助すべきやということで。まずだから、目の悪い人があんまマッサージやるについては、税金の免除、まず収入にさせるには。これはやりましたわ。あんまマッサージでもうけたお金は一切税金で取らないという。

Q:戦争で川人さん、目に障害を負ったということは、いま振り返ってどういう意味があったと感じますか?

国のためにやったという1つ誇りもあるけども、とにかく障害というのはみな一緒やと。目が見えない者が、傷い軍人やから特別扱いとかなかってね、障害というのは、目が見えないのも、あるいは足がないもんも平等やと。障害者はね。障害者自身が団結しようやって団結して、それなりに援助をね。 だから、まずやったんは、税金の免除です。手や足のない人もね、働いてる人の所得に対しては税金を取らない。これに対して、重度の障害者に対しては税金の免除。1、2級は免除。それから、3級から下の者に対してはそれなりに税金を取らないと。免除、あるいは安くするとかね。

Q:そういう活動をしてこられて、障害者にとっていまの社会はどんな状況だと感じてますか。終戦直後に比べて障害者の生活はどう変わりましたか?変わってないですか?どうでしょうか?

良うなりましたやんか。身体障害者福祉法できて。いままでは身体障害者は社会の下積みみたいになってるけど、これは堂々とね、それなりましたがな。それから、いろんな免除やら、いろんな施策がとられるようになりましたし、車の免許、手足の悪い人が車の免許を取るにしても、そんな費用も何も出るようになったし、なんやかんやと障害者に対する援助が出るようになった。それを援助する何ができましたやん。

やっぱりやることです。障害者だからって尻込みするんやなしに、進んでね、自立するようにいろんな道に自立することをね。

Q:自立することですか?

その点で私がまずやりだしたんが、障害者を施設に入れるんやなしに、施設は施設として入れるんでなしに、障害を克服して社会人として社会に貢献することが大事やと。施設作るのが障害者福祉ではないと。施設に入らなくてもちゃんとそれなりの、障害者は障害者なりに社会で働いて自立できる。それに対する自立ね。

Q:それを目指して活動されてこられたんですね。

ええ。私はまずはね、よく日本で、イギリスの福祉施策っていうのが言われましたけど、わし、イギリスへ行った。イギリス行っていろいろ話した。フランスやイギリスやらね。イギリスなんかは一切国が面倒見ると。これはおかしいと。やっぱり法制、金を出してそういうこと言うんやなしに、金よりも、働いて自立して生活できるように国がすべきやと。それが本当違うかいうことで。 施設を作るのを私は反対はしないけども、施設へ障害者を入れて、そこで生活を見るというんやなしに、障害者は障害者なりに自立して、社会人として社会に貢献するようにするのが社会じゃないかいうことで、私は、障害者自身も社会に貢献すると。社会にそれなりにいうことで運動していたんですけども。

プロフィール

16歳で志願して海軍に入隊、戦艦「伊勢」に乗艦。1945年、広島県の呉沖で米軍機の攻撃にさらされ、胸や肩などを負傷、両目の視力を失った。戦後、視覚障害者の職業訓練施設「東京光明寮」設置を求める運動などに参加。その後、故郷・大阪に戻り鍼灸治療院を営んだ。地元で身体障害者福祉協会の会長を務めるなど福祉の充実のため活動してきた。

1928年
大阪に生まれる
1944年
志願して海軍に入隊
1945年
戦艦伊勢に乗艦中、米軍機の攻撃で負傷
1947年
国立東京光明寮(視覚障害者の職業訓練施設)入寮
1951年
傷い軍人への国の支援を求める運動に参加
1950年代
故郷・大阪高槻市で鍼灸治療院を開くく
 
高槻市の身体障害者福祉協会会長を務める
1970年
高槻市視覚障害者福祉センター開設

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