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証言

タイトル 「“健全者”なんていない」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 小山 正義さん 収録年月日 2015年10月22日

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チャプター

[1] 「19歳まで不良だった」  13:42
[2] 「青い芝の会」との出会い  13:31
[3] 過激化する障害者運動  05:36
[4] 「青い芝の会」の4つの行動綱領  03:37
[5] 社会を変えるために主張する  03:11
[6] 「障害者」と「健全者」  06:04

再生テキスト

私が自分の障害に気づいたのは、8つか9つ。それまで、親って言うか育ての親がいて、育ての親にかなりかわいがられた。中村っていう家、預けられた。小山の家は子どもが多くて、私の兄弟7~8人いたんです。私の下4人ぐらい亡くなっている。早いうちに。栄養失調とか食べ物がなくて亡くなったとか、病気で亡くなった。4人ぐらい亡くなっている。私の上は、兄貴(長男)と姉さん(長女)と、兄貴2人(次男・三男)が、4人か、上が4人いるんだ、いた。その人たちは幸い自分の寿命まで生きてた。ほんで私、そういう中で、生きてたんで、私はゴミみたいな。ゴミみたいに扱われていた。小山家では、もうじゃまっけだった。笑えるどころじゃないけど、小山家ではおじいさんとおばあさんがいた。意地の悪いばあさんで、昔ね、ばあさんっていうのは、昔、あの、今で言う、今で言ってるかどうか、赤線、赤線って知ってる?そういうとこの女将さんだった。

なか意地が悪いって言うか、底意地が悪い。そういう人でね、私のこと、ほんとゴミ、ゴミ扱い。ほいで、幸いにしてうちの親父のね、親父の働いていた、親父の手下が、小山さんとこいっぱいいるから、誰か一人預かりましょうといってくれた人がいた。んで、ばあさんは、

これは手のかかる正義をもらってくれないかと。親たちはそれはないと、いくらなんでも。妹ね、妹、ゆきみという妹がいた。それでゆきみをもらってくれと、親たちはそういってる。ところがばあさんが、それじゃこの手がかかる正義もらってくれって。私としてはよかった。もらってもらって。

で、そこで育った。4年ぐらい。4年ぐらい育ててもらったときに、やっぱり子どもができた。あそこに二人ばかり。中村さんとこに2人ばかり子どもができて、で親たち、私の小山の親たちが、大変だから返してもらおうって言って返してもらって、また戻った。それが確か、6つ、6歳の時。6歳の時、まで預けられて、私がね、これは親から聞いた、小山の親から聞いた話だけど、くるくるくるくる転がりながら、障子とか唐紙(ふすま紙)を破って、いたずらしてたって。暇があるから、一日。そういうこともあった。で9つぐらいのときから、歩けてた。歩けるようになったら大変。学校に行ってないでしょ。川崎ですから、川崎のな、桜本。桜本一丁目二丁目とか、浜町とか大島とかそういうところは、私は、あなたたちは分からないと思うけど、昔ね、私が若いとき、9つぐらいのときは、不良、不良っぽい、不良ばっかりいた。

そういう仲間たちのとこ、入ってっちゃったって言うか、私も自然に不良っぽく。 で、19歳か、19歳まで、姿が不良みたいに歩いて遊んだ。で、19歳間際まで。川崎大師があった。川崎大師まで行って、大師公園があった。そこへ行って、私は、商売やったんだ。商売。何やったと思います?分かんないよ、絶対分かんないよ。昔ね、質屋があったの質屋。質屋さんがあって、そこへ行くと安く質流れ品を安く買えた。買う。大島とか川崎の、浜町、桜本、という質屋さん多いの。そんな質屋さんから安く質流れ品を、安く手に入れて、川崎大師に行ってむしろひいて並べて売ると。それが売れたんだよ、すごく売れた。もうかったよ。で、それやってるうちに、なんかどっか、市会議員だか県会議員が声かけてくれて、「あんたね、そういうところで商売やってるのもいいけど、私が世話をするから、川崎のね、競輪場へいかないか」と。「入ってみないか」と、言われてそれで川崎の競輪場。

Q:競輪場で何された?

川崎の競輪場の中に売店があって。その売店、傷痍軍人会、傷痍軍人ってあったんだ。その傷痍軍人会の会で、川崎競輪場の中に4軒か5軒、売店もっていた。傷痍軍人会の紹介されて、裏方に、売店の裏方に、最初、売店の裏方になって働けと。それで働いた。それで給料もらって。で何年もやって、やってるうちにまた売店の親父さんがね、いい人でね。「小山、おまえもだいぶ慣れて来ただろうから、一軒やってみるか」って言われて、一軒任された。そしたら、トントン拍子に上がっていった。

Q:それまで同じような障害のある人に会ったことは?

ないない。一般の人ばっかり。だって、けんかしたときだって、子分が2人や3人必ず後ろについてた。

Q:子分がいたんですか?

子分いた。けんか早く、私ね、けんかふっかけて、けんかどっちが勝つかっていうと、早く手出した方が勝つんだよ。そういうことやった。だから、かつあげっていうの、かつあげって知ってる?

Q:かつあげってお金をとったり・・

脅かしてとっちゃう。そういうこともやったり。いろいろやった。 だけど、ま、自慢じゃないけど、泥棒はやんない。自慢じゃないけど。脅かして取り上げたのはやったけど。

Q:それもあんまりよくないですね。

そんなことやったり、それで19歳になったときに、俺もいつまでもこんなことやってたら、らちがあかねえ。一生変な人間で終わっちゃうから、もういいかげんにやめようということで、職安(職業安定所)に行ったりなんかして。そこらへんから変わっていった。

で、「青い芝の会」っていうの、それはね、大森の職安、私が初めて仕事をみつけに行ったんですよ。職安に通って、でそこの職安が、「小山さん、仕事やるのもいいけど、あんたと同じような人がいるから、そういうところへ行って、ちょっと社会勉強になると思うから、行ってみなよ」と言うことで、世田谷のある剣道の道場があって、そこの2階にそういう障害者の人たちが、養護学校の同級生たちの集まり。

Q:それが「青い芝の会」?

それが「東京青い芝(の会)」。

Q:最初にそこ訪ねたときどういうふうに思いました?

いや、変なところ来ちゃったと思った。

自分よりも重い人たちがいる。障害の重い人たちがいて、なんつうの、なんて言っていいか、見るからにこれが人間かっていう感じの姿してるわけだ。自分のこと棚にあげて言ってるけど。そういう人たちが。

いや、いろんな人がいた。脳性小児マヒでも。脳性小児マヒだけじゃなくて、知的障害、そういう人もいたし。いろんな人がいて、20~30人いた。で、びっくりしちゃった。だって初めて見て、私自身がびっくりした。「ええ!」て思って。「こんなのいるの」って。私も自分は、自分は普通の人間と同じだと思っていたから、余計。そこで、「ああ、私もそうなんだ」ということに気がついたと。

Q:私もそうだっていうのは?

自分もこの人たちと同じような、障害をもって、いるから、この人たちと同じなんだということが気がつくわけ。でだんだんと、そういう自覚するわけ。自分は障害者だと、と同時に自分が障害者だということを自覚すると、障害者なりに生き方がある。

Q:障害者だ、って自覚すると考え方が変わってくるんですか?

そうそう。昔は19歳までは自分の力でっていうのがあったでしょ。何でも自分の力でやんなきゃいけないんだっていうことでやってきたわけ。質屋から質流れ品を安くぶんどって、大師の公園で売ってた。そうやって金もうけしてたわけ。それが、障害者だって分かったら、そんな乱暴なことできないよ。で、頭を使うわけだ。障害者だっていうことだから、で、役人相手になる。

Q:職安がきっかけで「青い芝の会」に出会ったわけですね?

「青い芝の会」作ろうとしたら、職安のね、名前忘れちゃった。職安の職員が、・・・「じゃ川崎にも作ろう」と。で川崎、横浜と両方在宅訪問して歩いた。

Q:在宅訪問っていうのはなんですか?

一軒一軒、まず区役所行って、名簿調べて、障害持ってる人がいるかいないか、区役所で教えてくれた。それまで全然教えてくれなかったけど、そこで役所に行って、一発でかい声だしたの。それで驚いて、川崎で驚いて、それで出してくれたの。

Q:名簿を?

名簿を。それらしい人たちを名前を書いてくれて、住所ね、住所氏名を書いてくれて、くれたの。でそれを頼りに訪問。その訪問ったって、ただじゃ済まないよ。(訪ねた家の人から)塩をまかれたり、砂を、棒っきれで追っかけられたり、いろいろな目にあいましたよ。「家にはおまえみたいな、なんだ、おまえみたいなみすぼらしいやつなんかいない」って言われたり、いろいろあった。

Q:訪問されたのは、何のために障害のある方訪問されたんですか?

川崎に「青い芝の会」を作ろうとして、会員を集める。それで。

Q:どうして作りたいと思ったんですか?

どうして。仲間を集めたいっていうのがあって。

Q:棒っきれで追いかけられたりとか、どうしてそういうふうにされてしまうんでしょうか?

それは当然だよ。私が悪いといえば私が悪い。そりゃ「うちの子にそんなのいない」とか、そういうことで追っかけられる。「おまえみたいなみすぼらしいやつなんかいない」ってことで追いかけられた。

Q:ほんとはいるわけですか?

いるよ。だって、名簿、役所の名簿頼りで行ったんだから、いるんだ。

Q:なんでいないって言うんですかね?

だから、その、当時は、見世物になりたくなかったんじゃない。見世物、世間の。私だって、桜本では有名だったもの。ちょっと私がね、どっかで転んで、転ぶとすぐに家にちゃんと届いた。おたくの息子さんがどこどこで転んでるよって。それぐらい世間っていうのは、うるさかったんだ。

Q:その当時の障害のある方は、どういうふうにお暮らしでしたか?

みんな、座敷ろうに閉じ込められていた。

Q:座敷ろう?

言葉で言うとね、一言で言うと。みんな座敷ろう。表になんか出さない。「家にはそんな子いない」。ほとんどそうだった。いないったって、ここに、役人、役人、「役所からもらってきた名簿に載ってるじゃないか」って、いうことでもうけんか。何軒脅かしたか分かんない。で、後から、障害者が親兄弟の目をかすめて私を追いかけてくる。追いかけてくる人もいた。そういう人もいた。本人が。

Q:座敷ろうってどういうこと?

座敷ろうっていう言葉で言っただけであって。奥の4畳半に閉じ込めたり、してたり。座敷ろうだなといって形があるわけじゃない。親兄弟がそこから出さない。うちから。

Q:閉じ込められてる。

それを私は座敷ろうって言ってた。

中にはいたよ。本当につながれて。あの、ほんとにつながれてた。首に、首だっけ、首かなんかね、縄か、きれの、なんかヒモで、結わかれて。奥の部屋のなんかこういうなんか柱に結わかれて、それで、つながれてたって。そういう人もいたよ。見たんだ。あの高い、高い、ちょっと高い、高い窓があって、私はその窓からのぞいたんだ。だいたい犬か猫みたい。そういう人もいた。ひどいよ。

Q:世の中の親兄弟が、どうして障害のある人を閉じ込めていたのかと・・。

それは日本の日本人の習慣なんだ。人目にかっこわるいことは、みすぼらしいことは、人目にさらせない。これはもう明治大正からずっとそうだ。

世間、世間にかっこわるいと。だって、こういう人がいると世間が認めないから申し訳ないっていう人もいるよ。申し訳ないなんて、なんなんだ。俺頭きたよ。そういうこと聞くと。自分で作ったんじゃねえか、って言いたくなる。俺もう腹立つよ。

Q:障害のある子が殺されちゃって、お母さんのほうが同情が集まって、刑を減らそうっていう運動があったって・・

おかしいじゃないかこの事件は。殺された子どもをほっぽってて、お母さんが、殺した母親が同情されているっていうのはどういうことなんだっていうことで、

Q:何がいちばんおかしいと思いました?

どういうところって、おかしいよ、殺した、一般的に言ったら殺人でしょ、殺したら。殺した行為は母親であろうが子どもだろうが、殺した行為は犯罪なんでしょ。それがお母さんに同情がくるっていうのはおかしいっていうのを、ただ単純に思っただけ。

よくよく考えたら、殺された子はどうすんだとなったわけ。

あの、いちばん印象に残っているのは、一般乗り合いバス。川崎なんだけど、私が、まだ歩けていたときのことなんだけど、ちょうど仲間が車いすだった。車いすの仲間と私とバスに乗ろうとしたわけだ。そしたら乗せてくれなかった。

Q:どうしてですか?

車いすだから。もう川崎の中で、問題が起きた。

電話でさ、仲間が集合して、仲間が呼んで、バスの乗せないバスの前にはだかって、立ちはだかって、バスを止めちゃったの。川崎駅前、何十台とバス止めちゃった。

Q:動こうとしているバスの前をですか?

バスの前立ちはだかった。

Q:何人ぐらい集まったんですか?

最終的には何人だったかな・・。最初は2~3人だったんだが。バスのタイヤの奥に転がって、寝そべってた。そうすると走れないじゃん。そういうことがあったね

Q:どうしてそういう行動をしたんでしょうか?何を訴えたくてそういう行動をしたんでしょうか?

車いすだって、ちゃんとみんなと同じようにお金を払って乗るんだから、乗客じゃん。それを車いすだからといって、乗せないっていうのはおかしいと。

そうでしょ。お金を、お金を払えば乗客じゃん。そしたらなぜ、それまで親切な運転手はいた。ちゃんと手伝ってくれて乗せてくれていた。あれ最初から乗せてくれなかったら、また問題変わってた。最初は、何人かあったの、乗せてくれて。親切な運転手がいて、ちゃんと乗っけてくれた。それがあったの。そういう問題はあった。

そうしたらもう、テレビ局は来る、新聞社は来る、大変なマスコミだ。初めてだ、川崎、バス何十台も。

Q:「愛と正義を否定する」、これはどういう意味ですか?

これはね、嘘(うそ)だと。愛と正義は嘘。

Q:嘘っていうと?

なんて言ったらいいかな。必ずね、愛だ正義だって言いながら寄って来るけど、その裏側になんか根拠があるわけだと。そういう薄っぺらい愛と正義なんか、信用しちゃだめだと、否定していけということ、私言ったつもりなんだけど。

Q:愛と正義って、普通はあんまり否定しないものを、あえて「愛と正義を否定する」っていうのをされてたの、すごく印象に残ったんですけど、これは何か具体的なイメージとか具体的なことがあってそういうふうに否定しようっていうふうになったんですかね。

いや、そうじゃなくて、脳性マヒである障害者は、こういったものに常に踊らされるわけよ。愛とか正義によって、勝手に施設に入れられたり、そういうことなんですよね。それを、注意しろと。いう意味を含めて言ってるつもりなんだけど。親の愛だとか、兄弟の愛とか、先生の愛とかいろいろあるでしょ、そういう愛なんていうのは、下手すると、障害者に対するそういう愛っていうのは、必ずどっか施設へ入れるとか、そういうことしかない。それを否定しろということを私は言ってるわけ。私もそういう、何回かそういったことがあって、否定してきたわけ。

社会全体がおかしいと、いうことは、常日頃思ってたし、だから一つ一つ私がおかしいと思ったときは突き当たっていく。

具体的に桜本商店街のときに私は、これは商店街の人たちが喜んだんだけど・・道路ってね、一般的に道路って山になってる。分かる?

Q:山になってる?

低い山になってる。こういうふうに。

Q:山になってるとどうなっちゃうんですか? だって、こういう自然に自然にお店の入り口へ流れてっちゃう。

Q:お水が?

車いすが。車いすがね、自然にお店の店先に行っちゃう。

Q:道路が山になっているから、車いすが店の方に流されちゃう?

電動(車いす)だと。真ん中に低いくぼみがあると、大丈夫。

で、これはおかしいと、私は。桜本の商店街の会議のときに、私は問題提起だした。あの、山になってるのは、あれは水、雨の雨だれの水よけになってるんだから、あの水よけを真ん中にしようって。でそういう問題提起したら、桜本の商店街歩いてみると分かるけど、真ん中になってる。これは私がやったわけ。これをうまく全国的に広めると、車いすの人も楽になる。車いすの介助する人も楽になる。電動だけじゃなくて、こういう普通の車いす。

Q:障害者と健常者って普通に言われている言葉ありますけど、小山さんなりの障害って考え方があると思うんですけど、障害っていうのは小山さん、どういうものだと考えていますか?

あのね、私は障害っていうのは、物につけるもの。品物。生きたものにつけるものじゃないと思ってんだけど。

あとあんまり私は生きてるものに対して、障害がどうのこうのあんまり考えたくない。言いたくもない。

で、障害者と健全者、健全者と脳性マヒ者だったら、脳性マヒ者少ないんだけど、障害者と健全者、健全者の方が少ないんですよ、本当。分かる?分かんない?あら、誰か分かってくれないかな。もう一回言いますよ。脳性マヒと健全者は脳性マヒのが少ない。障害者と健全者、健全者の方が少ない、どうしてか。分かる?分かんない。誰か分からないかな。分かんない。

Q:健全者というのが何かってことですか。健全者の方が少ない?

健全者の方が少ない。なんでか。答え言いましょうか。あの、健全者というのは、何が健全者でしょうか。(例えば足が)2本あったら2本とも同じじゃないといけないでしょ。2本あったら2本とも同じじゃなきゃいけないでしょ。それじゃなきゃ健全じゃない。どっか短いとか、1本短いとか、1本長いとか、いうのは、障害だと。そうすると、あなたがた自分たち健全者だと思ってるけど、あなた自分がめがねかけてる、障害者。そういう形で、ほとんど障害者。健全者なんていない。いないって言った方が等しい。それこそ健全者なんていたら化けもんだ。そういうものの考え方が私のものの考え方だ。健全者なんて役人が勝手につけた、と思ってるわけ。私は。人それぞれ、個人個人、自分はこれでいいんだって思って生きなきゃ、損だ。ここにいた、5人が5人とも違っていいの。違って当たり前。だと思うね。それで生き抜くこと、大事なんだと、私はそう思う。そういうこと。

やっぱり障害者のことを、やっぱり自分と同じように見てほしいわけ。渡辺さんなら渡辺さん、私を見て、私と同じ対等的に、手が悪かろうが足が悪かろうが、対等的に、俺をみて、私を見て。私も同じように見る。そういう見方をしないと、見られた方はあまりいい気持ちじゃない。やっぱり対等的に見てくれると、ありがとうと言いたくなる。そっから始まるの、そっから。

日本人の悪い癖でね自分より低く低く見ちゃうんだな。どういうわけか。そうじゃなくて、高く見ろとは言わないから、自分たちと同じ、平行線に立とうと。これでやんないと、悪いじゃん。私はそう思う。

プロフィール

川崎で生まれ育つ。生後まもなく高熱が原因で脳性マヒに。20歳のころ、脳性マヒ者の当事者団体「青い芝の会」と出会う。地元の川崎でも会を立ち上げようと、障害者の居る家を回る「在宅訪問」を繰り返した。競輪場の売店の運営をしながら、青い芝の会の障害者運動に参加。その後、地域で自立生活をおくる障害者を支援するNPOを立ち上げる。現在は、行き場のない高齢者のための入所施設を運営。

1939年
川崎に生まれる
1959年
脳性マヒ者団体「青い芝の会」に参加
1962年
「青い芝の会」川崎支部 立ち上げ
1993年
障害者自立生活支援「ヒューマンコミュニティケアセンター・川崎」開設、NPO法人 障害者自立支援センター スペース・つどい 理事長として運営
現在
高齢者の施設介護サービス「八仙花の郷」運営

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