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証言

タイトル 「重い障害の子どもたちが 持つ可能性」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 北浦 雅子さん 収録年月日 2015年10月30日

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チャプター

[1] 予防接種がきっかけで…  05:46
[2] 親たちによる「守る会」結成へ  12:22
[3] 作家・水上勉「拝啓 池田総理大臣殿」  05:29
[4] 広がっていく「守る会」の活動  06:33
[5] 重症児が教えてくれること  13:02

再生テキスト

Q:お子さんが産まれた時の状況から教えていただいてもいいでしょうか。

昭和の21年ですよね。終戦後ですよね。だけど、本当に笑顔のいい、かわいい子でした。よその方も、かわいい、かわいいって言ってね。だから、本当に大事に大事に育ててたんですけどね。そのころは、よく笑ったりしてね。こんなにありがたいことなかったですよ。次男なんだけどね。

それが、生後7か月目に国が種痘しろって言ってきたわけですよ。

Q:予防接種ですか。

そう。その種痘を受けたら、近所のお子さんは全部発熱したの。ところが、うちの子はいきなりけいれん。それで、すぐ入院させて治療を受けたんですけどね。できるだけの治療。だけど、結局最後に、申し訳ないけどこれは不治の病ですと。半身不随で知恵が遅れてて、言葉の出ない重い障害児になっちゃったんですね。 その時の悲しみは尋常じゃないですよ。ほとんど毎日泣き暮らし。涙でね、泣いて、泣いて、涙をこぼしてたんですけれども。

もう本当に、悲しみなんて通り越してますわね。言葉も出ないような感じになって、主人が大変心配してました。母親のほうがどうかなっちゃうんじゃないかと思って。それで、泣いて、泣いて、泣いて、泣き暮らしてたんですけどね。

1つには、悔しいんですよね。元気で生まれた子を、種痘によってこういう状態にしちゃったっていうことは、かわいそうで、申し訳ないっていう気持ちと。

Q:申し訳ないっていう気持ち。

かわいそうなことしたと思ってね。だけど、それに気がつくのに、前に泣いてばっかりいましたよ。とにかく。何年間か泣いてたんじゃないかな。主人のほうが心配してましたけどね。

Q:何年間か泣いていたあとに、お気持ちが少し変わったんですか。

少し切り替わってきたんですけどね。

2~3年たったころに、ふっと、この泣いてる涙って、自分のために泣いてるんだなと。この子のために何かをしなきゃいけないんじゃないかってことに気づいたんですよ。それは自分のための涙じゃない。あの子をどうするかってことを考えるべきだ。そう切り換えて、いろんな方が親切に言ってくださってね。整体っていうんですか、治療してみたり、いろいろしたんですけどね。その時の気持ちが、現在の私につながってて、その時、子どものために何かをなすべきだったという、その気持ちがずっと現在も続いてるんですね。

それが、いまも私を支えてるんじゃないですか。だから、あの子は私にとってはわが師なんです。

Q:師。

先生。いろんな意味で、いろんなことを教えられてますからね。

(次男の)けいれんがひどくって、そのけいれんが小林提樹先生との出会いになってるんですよ。

Q:出会いというと。

日赤産院で先生、治療していらっしゃったから、そこに連れて行ったんですね。そしたら、1週間観察してらして、それで、お薬決めてくださって、それ飲んだらけいれんがぐっと軽くなって、それで、ようやくおもちゃで遊ぶようになったりしたんですけどね。それが小林先生と私の出会いで、後の陳情につながっていくわけですね。

Q:ほかのお母さんとか、ほかの子どもたちとも、その時に出会われるんでしょうか。

その小林先生がね、確か第2土曜日だったんじゃなかったかな。両親の集いといって、両親を集めて、先生がお話しして、われわれが愚痴を言い合って。そういう会があったんですよ。そこでみんなで慰め合って、先生と親しくなっていったんですけどね。

Q:そのころ、重い障害を抱えたお父さん、お母さんたちは、どういう気持ちで過ごしていらっしゃいましたか。

ほとんど私もそうですけど、いつも死を覚悟してましたね。死ぬよりほかに道はないってことですよ。この子を残して死ねないもの。この子残して、主人に世話してくださいといって、死んでいかれませんものね。だから、皆さんとともに、死ぬ時は一緒ね。これが合い言葉。

皆さん方、想像がつかないくらい、重い障害の子どもたちの介護って大変ですよ。だから、私も、夜なんてほとんど寝てないんじゃないですかね。夜中に起きて、昼間寝てて夜中に起きるとかね。それから、けいれんしたらどうするかとかね。ごはんも食べさせなきゃいけないし、おむつも替えてあげなきゃいけないし。24時間忙しかったですね。だけど、それが苦になるとは思わなかったですね。それは、してあげたかったから一生懸命やりましたよ。ただ、それだけ疲れちゃうのよ。だから、死んだほうが楽なのかなとか、時々思っちゃうのね。

当時はね、新聞紙上でほとんど毎日のように、重い障害児と親が親子心中したのよ。その報道ばっかりですよ。

自分たちで生きていかれないから。例えば、脳性マヒがあって、その上に知恵遅れがあると、ちょっと障害が重いからどこの施設も受け入れてくれないんですよ。その上にご主人が病気になって倒れたりすると、自分じゃどうにもならない。みんな眠り薬買い込んでましたよ。

Q:眠り薬。

当時は。そのぐらい、この子どもたちの問題っていうのは大変でしたね。

Q:実際そういう心中事件も結構あったんですか?

もうそれは新聞紙上、新聞でも、毎日のように親子心中。だから、知的障害とか肢体不自由のほうは施設があったんですよ。だけど、うちの子どもはだぶってるから、両方入れてくれないわけですよ。どこも。

Q:当時、重い子たちの福祉みたいなことが全然なかったんですか?

重い子どもたちゼロ。ゼロより、知らなかったんじゃないのかな。

「島田療育園」ができた時はだから大喜びだったんですよね。小林提樹先生が36年に「島田療育園」を作ってくださって。

Q:それは施設ですか?

そう。それで、その施設に私も初めて見学に行ったのね。その時に、自分の子どもは障害があるんだけども、なんかもうショック受けちゃってね。

Q:ショックというと。

つらくてね。その上に、目の見えない子と、それから、いざることのできる子が、腕から足から全部絡み合ってるのよ。それで、これは大変なことになってると思って、1つ1つほどいてあげて離してあげたんですよ。そうしたら、目の見えない子がワーッて泣きだして、そして、いざる子が、ル、ル、ルと言ってて近づいて、またカチャカチャカチャッと完全に絡み合ってるのよね。 ということは、障害児どうしで遊んでたんですよ。それを、私は大変なことになってると思ってしまった自分が、いかに障害児を理解してないかっていうことをすごく反省させられました。

Q:そこから、陳情したり、活動したりというのはどういうきっかけだったんですか?

それは、小林先生が「島田療育園」というものを開園なさって、われわれ大喜びしてたんだけど、とてもお金がこれではやっていかれない。だから、国に陳情するから、両親の集いに集まったメンバーですよ、みんなついて来いっていうんで、ご一緒に行ったわけですね。それで初めて、国に陳情っていうのをしたわけです。

Q:どこに行かれたんですか?

厚生省です。

そうしたら、厚生省の人は、「障害が重くて社会の役に立たない者に、国のお金は使えません」って。この言葉にはショックでしたね。だけど、私たちは、例えどんなに障害が重くても、一生懸命生きてるんですと。この命を守ってください。また、社会のいちばん弱い子を切り捨てた場合には、その次の人が切り捨てられますよ。それでもいいんですかっていうような、すごい運動ですよ。

初めに行って、いきなりですよ。「あなたたちの子どもは社会の役に立たないんだから、国のお金なんか使えませんよ」。だって、陳情するってことは、お金もらいに行ってるわけですからね。

Q:どうしてそういうことを言ったんだと思いますか?

あの当時はやっぱり、あの子どもたちは認めてないんじゃないですか。社会で。

Q:認めてないというのは?

生きてることを。

Q:北浦さんたちがそうやって、いちばん弱い者を切り捨てると、その次に弱い者も切り捨てられていくという、そういう訴えに対して国の反応はどうだったんですか?

それは黙って聞いてましたけど、その結果、田中正巳(1917-2005 自民党所属の政治家、三木内閣で厚生大臣)先生が応援してくださって、400万ですよ。初めて400万のお金が出たのは。国のね。

Q:そのあといろいろ訴え続けたら、400万円のお金がついたんですか。

うん。それまで毎日のようにね、行って。で、田中正巳先生が厚生大臣のところへ連れて行ってくださったかな。そこで訴えて、そしたら、400万というお金が計上されてきたんですね。

Q:その時はどういうふうにお感じになりましたか?

大喜びよ、みんなね。ところが、その400万というのは、「児童福祉法によるものである」と。「だから、18歳以上の者は施設に入れません」て。なんのことない、「私たち、やっぱり死ぬよりほかないわね」なんて、みんな言ってたんです。そしたら、小林先生が、親の会を作りなさいと。頑張って作りなさいっていうので、この両親の集いで集まってたお母さんたちがわいわい集まって、で、会(全国重症心身障害児(者)を守る会)の結成をね、昭和39年6月13日に結成したわけ。

Q:守る会ができて、どういう活動をしていったんでしょうか。会としては。

会として、よく陳情してましたね。

Q:どういったところに陳情を。

国会議員のとことかね、それから、行政機関とかね。それから、治療する専門の先生たちがよく応援してくださいましたよ。だから、全国重症心身障害児(者)を守る会という、この(者)が大事なんですけどね。(者)を守る会で、親の会にしなかったんです。親の会だけではこの子たちは助からない。先生方のお力も拝借しなければだめだというんで、守る会という名前にしたんですね。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

1963年、雑誌・中央公論に寄せられた訴えが話題を呼びます。「拝啓 池田総理大臣殿」。 書いたのは、当時国民的作家となっていた水上勉さん。 総理大臣に宛てて、重度の障害児のための予算や施設の充実を訴えたのです。 水上さん自身にも、重い障害のある娘がいました。 これを機に、重症心身障害児の問題がクローズアップされ、社会問題となっていきます。 池田首相は、対策を検討するよう、厚生大臣に指示しました。

「ありがたいことだと思うんです。しかし、池田さんがおっしゃっても、厚生省の方でどれだけ予算をまたとってくださって、私のお願いしたことが実現されるかということも、気になるんでございますけど。」

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これ、水上勉先生。

Q:作家の水上さんですか?

うん。36年か38年ごろに、私は多額の税金を払ってると。それなのに、重い障害のことは何も国はやってないじゃないかということを、「拝啓 池田総理大臣殿」という文章で、確か中央公論か何かに書いてくださったんですね。この先生のその発言は非常に大きかったですね。

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「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

その後開かれた、重症心身障害児(者)を守る会の年次総会は、大きな注目を集めました。 この時首相は、佐藤栄作に替わっていました。その代理として橋本登美三郎官房長官が出席します。

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Q:第2回の大会のことを詳しくお聞きしたいんですけども、第2回の大会の時には皆さん最初に。

親は3人ぐらい、涙ぽろぽろこぼしながら、子どもと一緒に死ぬよりほかないとかね、主人が病気で子どもの世話ができないとかね。それはみんなそうでしたよ、あのところは。

Q:それに対して官房長官があいさつされたんですか?

そうです。

Q:どういうあいさつされたんでしょうか。

ご自分で用意した祝辞を机の上にポーンと置いて、「皆さん方の悲しみを悲しみとして受け取るだけの、政治家に愛情がなかったんだ。これからは国で皆さん方をお守りします」と言い切ってくださったんです。

だけど、こっちはびっくりしちゃって。「悲しみを悲しみとして受け取るだけの政治家には愛情がなかったんだ」ってことをおっしゃったので、もうびっくり。水上先生もおられましたよ。

そしたら、そのあとにすぐに総理官邸で会合が開かれて、私とか専門の先生がお呼ばれして、どうするかってことになったんですけどね。その時に佐藤総理が、生命尊重を政治生命とすると。重症児対策を重点施策とするという宣言をなさったのよ。

びっくりですよ、こっちは。本当に。しかも、佐藤総理がそう言ったら、各県の知事がよ、陳情ですよ、今度は。うちの県に重症児施設をといって。みんなそれぞれが大騒ぎしてるのよね。こっちもあきれて見てましたけどね。そしたら、施設が増え過ぎちゃって職員が足りない、いませんっていうことになったので、今度職員の待遇改善というのに運動を移したんです。

世の中っていうのは、ある程度死ぬほど大変な時にはなかったようなことが、少し幸せになってくると勝手なことを言う人が出てくるんですよ。それで組織が混乱するんですね。主人が会長でしたんで、主人と2人で相談して、3原則っていうのを作ったんです。

Q:3原則っていうと?

3原則っていうのは、 一、決して争ってはいけない 争いの中に弱い者の生きる場はない 一、親個人がいかなる主義主張があっても(重症児運動に参加する者は)党派を超えること 一、最も弱いものをひとりももれなく守る この3原則を主人と考えて、それを皆さんに、これでいきましょうと。

Q:どうしてそういう3原則を作ることになったんですか?

さっき申し上げたように、ある程度道がついてくると、親の方の中にも、勝手なことを言いだすんですよね。自分の主義主張だけを言いだしてね。少し労働組合的な意見とかね、いろいろばらばらしてきましたよね。それが心配になってね。

私は何党だと言ってた日には、まとまらないじゃないですか。だから、これは重症児教なんです。

私の場合は、主人は科学者なんですけどね、趣味が哲学なんですよ。それで、哲学の本ばっかりいっぱいあったのね。だから、2人で年中それで話し合ってました。3原則もそこから生まれてきたんですけどね。

それから、もう1つ忘れられないのは、施設ができてくると、施設に入れない人の在宅問題が出てくるんですよ。ちょうどそういう時に、森繁久弥さんと伴淳三郎さんと秋山ちえ子先生が、「あゆみの箱」という会を作って、それで、最初の2600万という募金活動ができたと。それを44年に、「北浦さん、これで在宅の方のために使ったらどう」って言ってくださったの。 それで、じゃあ、重症心身障害児の相談センターっていうのがないから、「重症心身障害児療育相談センター」を建設しますということを申し上げて、2600万とか、当時、“清水基金”とか、“おぎゃー献金”とか、“日自振”(日本自転車振興会)とか、そういうことで建物が建つことになったんだけど、土地買うのが大変だった。土地のお金が。 だけども、国立小児病院はあそこの三宿にありましたからね。それで、いまのところを、土地をいろいろ苦労して買って、それを建てたんですね。そこに「あけぼの学園」という通園施設を作って、「あけぼの学園」にみんなが、世田谷区の人が通ってきたりして、それで、助かった、助かったって喜んでましたけどね。そのほか、家庭訪問とか、それから、地方のほうには巡回相談とか、そういう在宅対策をやったんですね。それが44年かな。 今度49年になって、文部省が通園事業の義務制っていうのを言いだして、東京都は49年、全国は50何年だったかな。53年ぐらいですかね。それで、学校に行けるようになったんですよ。だから、私はいつも、医療と福祉と教育が三位一体となって、重症児の療育が行われるようになったと。このことはすばらしいことで、これを大事にしていきましょうってみんなに話してるんです。

Q:尚さんのお話を聞かせていただきたいんですけれども。

尚が24歳の時に、主人が病気になっちゃって入院したんですよ。そしたら、私も24歳まで一生懸命かわいがってたんだけど、2人の看病はできないんで、むらさき愛育園にお願いして入所したんですね。 そしたらね、環境の変化ですよ。ごはん食べないの、全然。その上に肺炎を起こして、もうだめだというところまでいっちゃったんですけどね。それを乗り越えたら、ずっと元気になって、笑顔がかわいいってみんなに言われてかわいがられて過ごしたんですけども。 たぶん40歳ぐらいになった時じゃないかな。うつぶせになって、左手でおもちゃを転がす。指の動きを見て職員が、絵筆持たせたらどうなるだろうっていうので、大きな画用紙を置いて絵筆持たせたんですよ。そしたらね、右から左にスッ、スッと書いて、手首をひっくり返して、クリッとこうやるのよね。それで描いたのが、いちばん最初の。 これ。

Q:絵があるんですか。

うん。

Q:この絵ですか。

うん。

Q:へぇ。

これをテレホンカードにして、皆さんに、生きることができましたっいう。ありがとうといって、テレホンカードを作って皆さんにお贈りしたんです。そのあとね、これなんかも、もう1分ぐらいで描いちゃうんですよね。これもね。このあれ(タイトル)は、みんな職員が付けてるんです。

Q:北浦さん、最初の絵、見せていただいていいですか。

うん。

Q:これ、なんで「生きる」っていうタイトルを付けたんですか。

私、この子がね、これだけの力で絵を描いたっていうことは、生きているからだっていう意味で、「生きる」といって、これは私が名前付けたんです。これには感動しましたよ、本当に。でも、よくそれを発見してくれたと思ってね、職員が。

Q:職員の人が、絵描けるんじゃないかと思った。

うんうん。思った。絵心のある人だったの、その人はね。

Q:初めてご覧になられて、どういうふうに思われました?

すごいと思いましたよ。うれしかった。

やっぱりね、彼にそういう可能性があったんですね。それを引き出してもらえたっていう喜び。気がつかなかったら、永久に絵を描かなかったでしょ。それで、こういう絵をね、いろいろ描いたんで。こういうのを絵はがきにして、皆さんに差し上げてるんですけどね。

私が思っているのは、障害の子どもたちが、うちの子もそうですけども、絵を描きだしたでしょ。そうするとやっぱりね、可能性を持ってるんですよ。どんなに重い障害の子どもでも。その重い障害の子どもたちが、ささやかなメッセージを送ってるのね。笑顔とか、そういうことでメッセージを送ってる。 それを気がつくためには、やっぱりこちら側の思いやりとか、やさしさとか、深い愛情。それと、ものすごい大事なのは素直な心。それがないと、それが読み取れないんですよ。そうやって、その子どもたちのおかげで私たちは育てられていくの。自分はやってやってるんじゃないんですよ。あの子たちのおかげで、自分たちが育てられてる。そういう思想的なものが大事だと、私は思ってますね。

Q:親であるとか、周りの人がきちんと何かを読み取れるかどうかっていうことですか。

そういう人になる。だから、私はこれが、こういうのも大事だと思ってるんですよ。これ、尚に職員がくれたんだけど、「尚さん、あなたの笑顔は人々の目尻を下げ、語調を柔らかくして、口元にほほえみをもたらす。そんな笑顔にどれほど助けられているか分かりません。本当にありがとう」って、職員が誕生日にメッセージくれたんです。

Q:息子さんの施設の職員ですか。

うん。こういうものがみんなに育っていく社会。やっぱり、それは温かい社会だと思いますね。

Q:障害の重い人、子どもに向き合うことの意味っていうか、 いちばん重い子たちと向き合う意味って、何がいちばん大事だと思ってますか?

うちのね、「あけぼの学園」に通ってきてるお子さんたちも、非常に重たいですよね。だけど、よく笑顔で笑ってるんだけど、そこに学校の先生が、小中高の先生がよく遊びにおよこしになるんですよ。でね、私、学校の先生にね、どうしてこんなにたびたび遊びに来てもらえるのかって言ったら、学校の授業で生命の尊重、命の大切さなど話しても、何の反応も示さない。だけど、お宅のお子さんに会ってくると、すっかり変わってるって。だから、行くようにしてるんですよって。よく来てくださってますよ。

Q:どういうふうに変わるんですかね?

それは、私たちの。理屈じゃないですから。感性ですからね。だから、こういう笑顔を見て感じるものがあるんでしょうね。それがとても私はうれしいんですけど、その中で、「あけぼの学園の皆さんへ」といって、小学校6年生だったかな。女の子が手紙をくれたんですよ。

Q:どういう手紙ですか。ちょっと見せていただけますか。

「皆さんこんにちは。先日は大変お世話になりました。私はお世話や車イスの体験をとおして、障害を持った方の大変さ、命の大切さを学びました。最近は殺人や自殺のニュースがテレビをつけると、いつもやっています。私はこんなニュースを聞くととても悲しくなります。障害を持った人もがんばって生きているのに、人を殺してしまったり、自分で命を絶ってしまうなんて考えられません。もし私が、この先つらいことがあって死にたくなったら、一生けんめい生きているあけぼの学園のみなさんを思い出して精一杯がんばろうと思います」。 こんな手紙をうれしかったですよ。これをね、言葉でどう感じるかなんとかじゃないですよ。これですよ。これを私の言葉で表せば、糸賀一雄先生(障害児の福祉と教育に一生を捧げた実践家・重症心身障害児の施設「びわこ学園」創設)が、「この子らを世の光に」とおっしゃったことを思い出すんです。あの子たちは世の光なんですよ。それを、障害が重いから、何かこう、よそ人のように思う社会のほうに問題があると、私は思いたいですね。

Q:「この子らを世の光(に)」というのは、どういう意味だというふうに考えればいいでしょうか。

普通はね、「この子らに世の光を」でしょ。“この子らに世の光をください”っていうんじゃないのよ。“この子らを世の光にしましょう”っていうのは、全然意味が違いますでしょ。

Q:重い障害の子たちに何かしてあげるっていうのではない。

ないですよ。“この子らに世の光”じゃないんだから。「この子らを世の光(に)」。これは、糸賀一雄先生の名言ですけどね。

Q:重い障害のある子たちが、何か役割を果たしてるってことですか?

そうですね。

ほら、この文章にあるように、1人の女の子にこういう気持ちに。私たちがいくら説明したって、こんな文章生まれてこないですよ。それを、あの子たちに会って、こういうことを感じるっていう。それがすばらしいことだと思いますね。

Q:今日お話聞いて、これだけの運動をされてきた根源には、当時のお父さんお母さんたちが抱えてた大変さ、苦しさが、これだけの活動につながっていた。

そうですよ。あの苦しみが今日を生んでいるんじゃないですかね。だけど、私はすべてあの子たちに感謝です。ありがとうって言いたいですね。

Q:どうしてですか?

今日の私をつくってくれてることですから。91になっても仕事する人ってあんまりない。でもやっぱり、そういうことを皆さんは、私が辞めるって言うと怒るんですよ。辞めるなんて言わないでって。いてくれるだけでいいんだからって言ってくださるので、ありがたいことだと思いますよ。

プロフィール

北浦雅子さん(94)は、重い知的障害と肢体不自由をあわせもつ「重症心身障害児」への福祉を充実させるため、親の会を立ち上げ、長年会長として運動を牽引してきた。次男が生後7か月の時、予防接種の後突然けいれん、重い障害が残った。通っていた病院で出会った親たちと共に「全国重症心身障害児(者)を守る会」を結成。政治や行政に重症心身障害児への支援の充実を訴え続けてきた。

1921年
誕生
1947年
次男が種痘後の脳炎の後遺症で脳性小児まひに
1964年
「全国重症心身障害児(者)を守る会」結成
1969年
「重症心身障害児療育相談センター」開設
1978年
「守る会」の会長に就任
1982年
総理府「中央心身障害者対策協議会」委員
2002年
内閣府「新しい障害者基本計画に関する懇談会」委員
2010年
内閣府「障がい者制度改革推進会議総合福祉部会」委員

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