ホーム » 証言 » 原 一男さん

証言

タイトル 「『さようならCP』が 提起したもの」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 原 一男さん 収録年月日 2015年11月8日

「戦争証言アーカイブス」の動画ページ、一部コンテンツには、Adobe Flash Playerを使用しております。快適にお使いいただくためには、最新版のAdobe Flash Playerをインストールしてご利用ください。

※NHKサイトを離れます

また、推奨環境につきましては、FAQをご覧ください。

チャプター

[1] 障害者福祉との出会い  07:01
[2] 映画『さようならCP』のきっかけ  11:06
[3] 映画『さようならCP』のきっかけ(2)  07:52
[4] 障害者に対する社会の目線~養護学校での体験~  05:41
[5] 障害者に対する社会の目線~養護学校での体験~(2)  06:47
[6] 『さようならCP』シーン誕生の裏側  09:15
[7] 『さようならCP』シーン誕生の裏側(2)  08:49
[8] 『さようならCP』シーン誕生の裏側(3)  07:00
[9] 『さようならCP』シーン誕生の裏側(4)  09:10
[10] 『さようならCP』が与えた影響  05:36
[11] 『さようならCP』が与えた影響(2)  06:58
[12] 障害者を取り巻く状況は変わったか?  03:50
[13] 「障害者」と「健常者」  10:13

再生テキスト

きっかけはちょっと長くなりますが、私はとにかく報道写真家になりたくて東京に出てきたわけですよね。で、写真学校に入って、写真の勉強してたと。最初の夏休み、夏休みなんで、1枚の写真じゃなくて組み写真、映画で言うとこのちょっと長編みたいな、そういうものに取り組みなさいと。課題は具体的に決まってはいないんだけれども、そういうことがありまして、さて何やろうかなというふうに思ってたんですが、ある日、新聞で秋田おばこ、確かおばこって使ってたか、秋田の乙女って使ってあったかな、言葉が。秋田の乙女たちが重度の心身障害児の施設に集団就職するという美談仕立ての記事を見たんです。記事を読んで、あ、これだと思ったと。しかし、これだっていうこれの中身は、障害児じゃないんですよね。若い娘たちのほうに、あ、撮りたいって思ったわけですよ。当時私も若い男で、ガールフレンドいなかったもんだから。動機が不純なんですが。 それで、初めて行ったんですよ。秋津っていうところに、重度の、重症心身障害児の施設があったんですね。私はとにかく田舎に、山口県なんですが、田舎にいるころに、障害者といわれる人を1度も見たことないですもんね。本当に1度も見たことないんですよ。だから、施設に行って、もうびっくりしましたもんね。 そこは心身って、心と身体。要するに、精神的にも重度、重症ですからね。

心身的にも重度の子たち。病名はさまざまな子いたはずなんですが、そこの施設の中に入れてもらって、とにかく衝撃っていうか、初めて知りましたもんで。それで、その中が消毒液と、それから食べ物の匂いと、それから排せつ物、よだれも出しますし、そのにおいが入り交じってて、異様な臭いなんですよね。私は本当にそのことも含めてよく覚えてますが、とにかく衝撃的だったんですね。

いままで私の20年間の人生の中で見たことがなかったわけですからね、そういう人たちを。いままで知らなかったということの衝撃ですよね。なぜ知らなかったんだろう。そして、重度の心身障害というのはいったいどういうことなのかって、分からないわけですよね。

それはそれでね、知らないことを知っていくっていうのはとてもおもしろいことなんですよね。本当に知らなかったわけだから、知っていくことで、ああ、そうなんだって。人間が生きるっていうのはどういうことか、それを表現することはどういうことなのかなとか、その人たち、生身で生きてる人たちを相手にいろんなところへ回ってたわけですからね。この人たちってこう見た時に、決して障害児というふうには見えませんわね。1人の人間っていうふうに、そういうつきあい方をしていくと、それが、重症の子たちは反応がないかっていうと、なくはないんですよね。それは施設の働いてる人たち、よく言いますけど、何かに反応するんですよね。だから、障害児だから反応がないっていうふうにも、そういうふうに思ってしまえばおしまいだけども、反応っていうことがなくはないんですよね。反応のしかたが、健全者といわれるほどにスピード感があるわけじゃないので、この子たちはってすぐわりと切っちゃうんですけど、実際には、丁寧につきあうと必ず反応があって、その反応を得られるということに関してはその施設の人たちが教えてくれるんですけど、そういう目で見ると、確かにその反応がへぇーと思うというか、当たり前の話だけれども、人間的な反応なわけですからね。それはそういうもんだなと思って、私にとって人間に対する見方が、もう大きくそこで変わっていったんですよね。

Q:それはちなみにどんな感じに変わっていったんですか?

例えば、喜びってあるじゃないですか。子どもたちなんで、ちっちゃなことなんですけど興味を持つことがあるんですよね。例えばおもちゃとか、音とか、非常に原始的っていうか、幼いっていうふうに言っちゃうんでしょうけれども、そうじゃなくて、反応するんですよ、とにかく。働きかけに対して。それはつまり、コミュニケーションでもあるでしょ。

それは障害の度合いによっても違いますけど、ちょっとした笑顔で返す場合もあるし、かすかな反応であったりすることもあるし、明らかにこれはおもしろがってる、重度といわれる子どもたちがね、働きかけに関してっていうような、ちょっと抽象的な言い方なんですけれども、とにかく働きかけに関して反応があるということを私もそばで見てて、私もちょっとって、仲よくなった子どもたちがいるんですよ。ちょっと働きかけをしてみると、間違いなく何かこう返ってくるっていうか、その実感はあるんですよね。うまく言えませんけどね。 それの積み重ねがやっぱり大きかったと思いますね。ああ、そうなんだって。だから、それは人によって、成長っていうか、発達していくスピードは人それぞれなんであって、障害児といわれる子どもたちが反応がないわけじゃないと。健全者といわれる子たちよりは確かに遅いと。でも、早い遅いがそんなに価値があるのかどうかっていうふうに、自分の中で考え方がそっちのほうへ進んでいったっていうふうな感じがしますよね。

それでも写真を撮るためにそこ(重症心身障害児施設)に通い始めて、1か月近く写真を撮って、学校に夏休み明けそれを、写真を提出して、それはそれで1つ区切りはついたんですけどね、なんとなくこれで終わっていいのかな、これで終わっちゃいけないんじゃなかろうかっていうふうに思ったんですね。何かを私が理解したかっていうと、何も理解してないっていうか、写真というかたちにはしたけれども、問題の本質とかいうことに関して、何らきちんと自分は理解して、何か1つ、写真を撮らせてもらったことのお返しぐらいしたかっていったら、全然そんなことないもんだから、その施設に働いてる人にね、長く。相談したんですよね。もっと勉強したいんだって言って。そしたら、じゃあ紹介してあげるわって言って紹介してもらった。そういうところを点々と歩き始めたんですよね。 で、そこの次に行ったのが、結局そこは子どものための施設なんで、じゃあ大人になったらどうなるのかと。大人になったら、もう入居資格なくなるんで出なきゃいけない。大変ですもんね。そういう大人を受け入れてくれる施設っていうところへ行ってみると。

それは1つ1つ疑問が起きるたんびに紹介してもらって、訪ねて行って、話を聞くっていうことをやってたんですよね。そうこうするうちに、

マハラバ村っていう人たちがいてねっていう話でね、紹介の紹介の紹介の紹介でっていうことで行きついたんですよ、横田さんたちに。その人たちの話を聞いて、脳性マヒ者の人たちだけでコロニー(村のような共同体)を作ってんだよっていうふうに聞いたもんだから、それはおもしろいと思って、ぜひそこに行ってみたいということで訪ねて行くんですよ。 それが茨城県石岡市の隣にある千代田村っていう山あいの小さな集落があって、そこの山あいのふもとにお寺さんがありまして、そのお寺さんが、大仏さんっていう和尚さん、その人がお寺さんを、お坊さんだからね、お寺さん持ってるわけです。そのお坊さんが、実はお坊さんでいながら非常にユニークな人なんですけれども、革命、自分は革命家でもあるんだとおっしゃってて、自分の革命理論、つまり、俺たちは革命をするんだということで、革命理論の実践のために、いかにも自分のために使ったって、そういう意味じゃないんですけれども、脳性マヒの人たちを自分のところに住まわせて、それで革命の拠点にするというようなことを聞いたんで、訪ねて行って、おもしろかったんですよ。そこでいろいろ聞きました。 和尚の考え方を少し説明しますと、日本には被差別部落の問題があると。被差別部落っていうのは、日本の中で差別問題を考えていく中でとても大きな意味があるんだけれども、この日本の中で被差別部落といわれる場所があるでしょ。それを、俺はね、なくすっていう方向で運動するんじゃなくて、もっとたくさん作ればいいと思ってるって言うわけ。たくさんあるっていうことで無化するっていうふうに大仏さんは言ったんですよ。ああ、なるほど、そういう考え方があるんだって思って、私はすっかりその考え方にのめり込んでいくわけですよね。それで、その被差別部落というような本質を、脳性マヒを集めて被差別部落をここで作るんだという考え方なんですよね。

Q:差別されてたってことですか?

そうです。実際横田さんが言ってますけれども、重度の脳性マヒの人っていうのはほとんど、田舎であればあるほど、重度であるが故に、1歩も外へ出ることなく一生を終わるというようなケースは転がってるような話なんですよね。それで、大仏さんはそこに目をつけて、個別の家庭に乗り込むわけですね。親を説得しようとするんだけど、親はそう簡単にうんと言わないですよ。そしたら、もう強引に連れてくるんですって。

それで、そういう脳性マヒの連中を本堂に住まわせて、そこで集団生活をするというようなことなんですよね。 で、ここが被差別部落なんであるという考え方で、ちょっと話はそれますけどおもしろい話があってね、そこで犬を飼っているんですよ。そこのマハラバ村で。健全者が時々訪ねていくでしょ。犬はね、健全者にほえるんですよ。脳性マヒの人が訪ねてくるとほえないんですよ。分かります? つまり、その犬にとって、脳性マヒのけいれんする身体が普通なんですよね。けいれんしない身体は、犬から見た時に異様に見えるっていう話が、私もう笑っちゃいましたけどね。へぇーと思いましたもん。分かりますね。

Q:逆転する。

そう、逆転しちゃうんですよ。つまり、逆転させるっていう考え方ですからね。それで、大仏さんの考え方が非常にすばらしいなと思うのは、脳性マヒっていうのは遺伝するような病気じゃないですもんね。出産時における何らかのトラブルで、脳性マヒという状態で生まれてくると。しかし、遺伝はしないと。 それで、和尚さんは集めた脳性マヒの青年たちに、お前たちは結婚できるんだと。セックスだってできるんであると。で、子どももできるんだということを教えるわけですね。それを全く諦めてた彼らは、自分たちも結婚もできると。恋愛もしてもいいんだし、家庭もできるということで、とても喜びですよね。それで、集団生活っていうのは男女も一緒に暮らしてるわけだから。

それで、カップルができますね。カップルができたら和尚さんは、お前たちは結婚、つまり、ちゃんと家庭ができるんだから、1個建ちの、プレハブですけど、6畳ひと間の、小っちゃいながらも個別のうちを作ってあげるんですよ、敷地の中に。で、私がその写真を撮ろうという前提でそこへ通いはじめて、横塚さんなんかのご夫婦を撮らしてもらいましたけども、3軒あったんですよ。横田さんのうちと、横塚さんのうちと、あとは矢田さんっていう、この3人。この3人が実質リーダーみたいな役割果たしてたんですけどね。それで、生活はどうするかっていったら、生活保護を申請して、受けて、それで生計を。 私は忘れられないんですけども、私も貧しい、牛乳配達しながら写真をやってて、そこに通ってたでしょ。で、収入なんてたいしたことありませんから、非常に貧乏学生なわけです。それで、訪ねて行きます。ちょうどお昼になるんですよね。そしたら、横塚さんのご夫婦が「原さん、おなかすいたでしょ。うちでお昼食べる?」っていうから、それはまあうれしいですわね。で、じゃあ遠慮なくって言って、行くわけですよ。そしたらね、お昼ってね、彼らも生活保護だから豊かじゃありません。あじの開き、干物1枚と、たくあんとおみそ汁、これだけですよ。もうそれがうれしくてね。私も本当にもう涙浮かべてますわね。あんな貧しい中で、私のために食事を作ってくれるという横塚さんのご夫婦の温情っていうの、忘れられないんです。いまでも私、それ思い出すと涙が出ます。うれしくてね。 そんなふうに通ってたんですが、ある時何か様子が変わっててね、あれっと思っていろいろ聞いたら、実は横田さん夫婦がここを出たっていう話聞いて、びっくりしました。えって聞いて、いろいろ聞いていくと、横田さんの奥さんっていう人が実は、私たち、あとになって「健全者幻想」って言葉を使うようになるんですけれども、健全者社会から障害者の人たちは全部切り捨てられてるわけでしょ。にも関わらず、「障害者幻想」というのを障害者の人は強く持ってるわけですね。で、マハラバ村の中でいちばん強く持っているんだよねっていうことになるのが、その横田さんの奥さんなんですよね。 つまり、子どもが生まれたか、妊娠したか、生まれたか、というタイミングだと思いますが、奥さんの理屈はね、健全者の子どもは健全者の社会の中で育てるべきだっていうふうに主張し始めたんです。それはそれで一見理屈が通りますよね。だけども、そこのマハラバ村のみんなが言ってたのは

健全者の子どもは健全者の社会の中で育てるべきであるっていう理屈は、「錦の御旗」をもじってね、「おしめの御旗」って言ってたんですよね。つまり、子どもが健全者の社会の中で育っていくべきだということを大義名分にして、健全者の社会に出れる資格を持ったっていうことよね。その理屈を押し通せば。健全者の社会の中で子どもを育てる、その親である自分もまた、健全者の社会の中に彼らは入っていけるわけだから。ということを彼女は主張して、横田さん、リーダーでしたからね、リーダーである横田さんを説得して、出ちゃった。 それで、リーダーが出ちゃったっていうことは、もう大仏さんの革命理論が破綻を来すということになってきます。それで、横田さんの次には横塚さんの夫婦が、俺も出る、矢田さんの夫婦が、俺も出るっていうことで出ちゃった。で、残ってるのは独身者だけというふうになっちゃったんです。実質もう崩壊しちゃったんですよ。

一方で私はいまの私のかみさんである小林佐智子と出会って、映画を作ろうという話になって、テーマを何にするかってことでいろいろ議論してた。で、1年近く議論したんですが、ふっと私の中で、障害者の人たちを、写真っていうのは1度やったんですね。実は銀座のニコンサロンで。それをムービーでやったらどうなるかなっていうふうに思い始めたんですよね。それで、そのころはもう4年ぐらいたってたんで、障害者の問題っていうのはこんなふうな考え方をしなきゃいけないんだっていうふうなことを、おぼろげながら私の中でできてたもんだから、それを映画っていうかたちで追求してみたらおもしろいかなっていうふうに思い始めたんです。 それで、横田さんのところに、神奈川県の磯子っていうところにアパートを、公団のアパートがあって、そこに暮らしてたんです。今度はそこに通って、「横田さん、映画を作ろうよ」って口説いたんですよ。それで、半年かかりましたもんね。半年かかって、映画を作ろうっていうことを口説いて、やっと横田さんが、「よし、やろうか」っていうふうになったんですが、どういうふうに口説いたかっていいますと、「あんたたちはあれだけ大恩受けた和尚、あんたが裏切ったじゃないか」と。あんたたちが。で、「横田さん、あなたはリーダーでしょ、ましてや」って、「それは申し訳ないと思わない?」って、私もずいぶん、かなり激しく追及したんですよ。裏切った。で、落とし前つけんとあかんじゃないのっていうふうに。横田さんだって、そういう追及のしかたされると弱いですよね。頭のいい人だから理屈は分かるわけですよ。それで、「映画を作るということで、自分たちはちゃんとここまで成長したっていうか、和尚に対して、自分たちは頑張ってるってこと見せないと言い訳はできないでしょ」とか、うまいこと言って。

横田さんたちも、神奈川に出て、何もしないんじゃなくて、それこそ和尚さんに革命理論を教えてもらったそのことを自分たちなりにアレンジをして、ちょうどそのころ、重症、脳性マヒの重度の息子を持つお母さんだったかな、お母さんがもう高齢になって、息子の世話をしきらんと。このまま放っとくと親が死ぬと。そうするとこの子の面倒は誰が見るんだろうっていうことで、子どもを殺しちゃったっていう事件があるんですよね。その事件を巡って裁判が起きた時に、減刑嘆願運動っていうのが起きたんです。 それに対して、なんで減刑していいんだと。脳性マヒの持つ命っていうのはそんなに軽いのかと。これが健全者だったら減刑嘆願なんて起きないだろうと。相手が脳性マヒだから減刑してもいいんであるという考え方、そっちのほうがおかしいんじゃないかっていうことで、横田さんたちが青い芝(「青い芝の会」)というグループを結成して、神奈川の支部というのを作って、そこで社会の中へ出て、運動をやってたんですよね。 その考え方は当時いちばん過激だったはずなんですよね。システムが持っている価値観を問うという運動ですから。その過激さと、映画も同時に過激な問題提起をしないと意味がないっていうことで、こっちはこっちで考えて、それで横田さんに映画をやろうと、その映画の中で横田さんたちが持ってる運動の、ある意味それこそ革命性、過激さと、映画の方法論も過激でなければならないと思ってたんで、「両方一緒にやろうよ、おもしろいことやろうよ」って口説いたんです。

私の考えでは理屈っていうのはね、結局障害者の問題っていうのは何なのかっていう話なんですが、つまり、身体障害、肢体不自由、身体も肢体もこの肉体でしょ。それの障害っていったり、不自由といったり、根っこは1つですよね。不自由児と呼ぼうが、障害児と呼ぼうが、障害と不自由。つまり、肉体を巡る価値観っていうのがあって、われわれのこの社会は、脳性マヒという身体は身体としては価値がないというふうな、そういう価値観のもとにシステムができてるんであって、だから切り捨てられると。そのシステムの是非を問おうじゃないか。価値観を問おうじゃないか。そういう映画を作ろうよと。そういう根本的なところの問題提起をしないと、どうにもならないはずじゃない。いままでの障害者をめぐるテレビの番組であれ、劇場にかかる映画であれ、同じ人間であると。健全者も障害児もね。障害者も。同じ人間が同じ人間に対して差別ということはおかしいんじゃないかって、いわゆるヒューマニズムという観点で映画が作られると。作品が。 でも、それっておかしいと違うかと。同じ人間ってさ、当たり前じゃんって。別に動物を持ってるわけじゃないんだからさっていう、ヒューマニズムっていう観点じゃこの問題は解決できないと。いま私が横田さんに言ってるような理屈じゃないと、価値観の根っこのところを問わないと何も解決しないというようなことを、本当に半年かけて通って、口説いたんですよね。 具体的にいうと、どうするかっていうと、車イスっていうのがあります。車イスっていうのは、圧倒的に多数である健全者の社会っていうのがあって、この都会っていうのは全部障害者を無視して、障害者なんて観点がまるで入ってない、健全者のための街なんであって、あんたたちがそこに入っていこうったって入れてくれやしないと。日常生活をする中でも、あんたたち、つまり、圧倒的に多数の健全者の中に、少数である自分たちが入っていきたいと思った時に、言ってみればお情けで、権利というけれども、お情けで入ってくるための道具として車イスがあるに過ぎないんじゃん。だから、車イスっていうのは何も、権利っていうけれども、お情けみたいなもんじゃんっていうような話をしたわけですよね。 で、お情けである車イスを捨てると。車イスで街へ出るんじゃなくて、まさに自分が生まれた、重度であれば、ひざでいざるという状態があなたにとってノーマルな状態なんだから、その状態で街へ出ると。ところが、街は基本的にあなたたちが出るようにはできてないと。そうすると、あなたたちが街へ出ることによって、街そのものの風景が揺らぐと。ざわざわざわってさざ波が立つと。そのさざ波を起こしといて、さざ波そのものを記録していこうじゃないかというような映画はかつて誰も作ったことがないはずなんで、そういう映画を作ろうよというようなことを考えたわけですね。

Q:当時の社会が障害者に対するどんな感覚を持ってたかっていうのは、原さんもあちこち行かれたり、養護学校でも働かれたりしてて。

そうです、そうです。養護学校で働くようになったんですけどね、肢体不自由の養護学校で。そこで、いちばんはっきり分かりやすいエピソードっていいますか、非常に分かりやすく言えばっていうか、なるほどと思って自分でも納得したんですけれども、学校ですから、障害児であっても教育を受ける権利は持ってると。障害児も、だから、学校教育を受けさす。ただ、障害があるから、健全者とは別の学校を作ろうということで、肢体不自由児、精神障害児の学校もですが、とにかく障害児を切り離して学校を作ると。 これは権利だから、なるほどってなもんですが、中で仕事してみるとね、あれっと思ったのは、カリキュラムがちゃんと組んでありますね。このカリキュラムが、健全者の学校と同じなんですよね。つまり、40分の授業があると。10分の休憩があると。で、10分の休憩の中でトイレに行って、例えば教室の移動っていうことがあれば、それもやらなくちゃいけない。具体的に言いますと、体育の時間ってのがあって、体育ったって運動場でできないもんですから、彼らは障害があって。講堂でだいたい授業があると。そうすると、教室から講堂へ移動しなきゃいけませんよね。この移動っていうのが、休憩時間わずか10分ぐらいしかないので、トイレに行って、着替えて、さぁっていうんで、車イスに乗っけて、ザーッと、つまり、僕らみたいに介助の職員が押していくということで、時間に合わせるわけですよね。時間に合わせるわけですよね。 その仕事をしながらあれっと思ったのは、決して障害故に、障害児の状態にカリキュラムを合わせるんじゃなくて、カリキュラムに合わせるわけでしょ。つまり、本当言うと、教室から講堂に移動することを、車イスを使わないで、それも体のリハビリの一環であるって考えればね、移動をすること自体が訓練なんで、それ自体意味があるんだけれども、そこに意味がないわけ。っていうか、価値が見いだされてないでしょ。時間に間に合うってことが最優先なんで。だから、僕らがザーッと連れて行くわけでしょ。だから、教育現場における身体っていうのは、時間に管理されてるっていうふうなことが自分の中で見えてくるんですよね。 その観点から見ていくと、光明養護学校っていうのは、肢体不自由児の中でいちばん、実は名門の学校なんですが、小中高とあるんですよ。小中高は通えるわけです。「高校出たらお前どうすんだ」って、高校の子どもに聞いたことある。「お前たちどうすんの?」って言ったら、「たぶん就職もないし、うちの中にいて一生を終えるか、大人の施設に入るかどっちかですよね」って言うんですよね。えー、お前たち、そうなんだよな、どこにも行くとこないんだから、うちの中戻るか、大人の施設行って一生を終えていくんだなっていうことが分かるわけでしょ。そういう観点で見ると、ほかにもありますわね。朝、学校に通うのも全部、親が自家用車に乗せて連れてくるんですよ。もちろんスクールバスが出てるんで、スクールバスに乗れる子は来ますけど、そうじゃない子はみんな自家用車で連れてくる。 つまり、彼らの一生っていうのは、自分の障害の肉体っていうものを自分で駆使をして、この社会の中で生きていくんじゃなくて、あらかじめ健全者のシステムがあって、システムの中に間に合わせるために、間に合わないところは全部車でもって送り迎えして、結局本人が自分の障害っていうことを自分自身が受け止めて、自分自身の生き方を追求するというふうにはなってないと。全部そうですよね。学校の授業の中でも、そういうふうに送り迎えをして終わりと。要するに、この社会の中で、システムそのものが、みずからの障害という身体に向き合って、その中で自分自身にとって大切な価値をそこで自分が見いだして、生きがいというようなことを発見するというような仕組みにはなってないっていうことを、私が学習して、気がついていくわけですよね。 だから、「お前たちはよう考えろ」って、高校生たちに言ったんですね。「お前たちの肉体っていうのはとことんこの社会の中では、価値が認められてないんだから、価値を認めるっていうのはどうするんだ、自分でやるしかないじゃないか」っていうような考え方を高校生たちに言ったことがありますけど、

私が、「お前たちは生まれて、学校に来るのも親から車に乗せられて送ってくる」と。「学校の中にいてさえ、教室の移動さえ全部車イスに乗せられて、介助職員が移動するんだろう」って。「お前たちの、自分の身体って、お前、どこにあるんだ、ありゃしねえじゃないか。お前、どう思ってんだ」みたいなことで、若かったですから、げきを飛ばして、それでな、お前な、ちょっと実験してみようやって、高校生の男の子に言ったんですよね。 それで、「お前な、電車に乗って街へ出ようってことやってみよう」と。で、「お前さんが街へ出るっていった時に、誰かの世話にならなきゃいけない」。彼が住んでたのは梅ヶ丘、小田急線の跨(こ)線橋の上に、橋がある駅舎があるんですよね。階段上がらなきゃいけない。で、「お前、車イスだから、自分で上がることができないだろ。だけど、道行く人に、通りすがりの人に、『すみません、電車に乗りたいんですけれども、車イスを抱えてくれませんかね』って頼んでみな」って彼に言うんですけど、怖がってね、やったことないんですよね。「迷惑かけるから」って。「迷惑かけていいんだ」と。「迷惑をかけてもいいんだっていう考え方を自分の中で変えなきゃしょうがないんだ」というふうにさんざん繰り返し言ったら、「分かりました」って言って、「やります」ってことになってね。 その時、私は離れて様子見てたんですが、彼が階段の下にいましてね、通りかかる人に「すいません」って声をかけて、そしたら、通りかかる人は、別に頼まれりゃ嫌って普通言わないですよね。「分かったよ」っつうんで、大人が4~5人ぐらいかかって、車イスごと駅舎の上まで運んで行ったんですよ。で、彼に言ってたんですが、「駅舎に着いたら駅員さんに、『電車乗りたいんだけども』って言いなさい」と。「駅員さん、必ず手伝ってくれるから」って。それで切符を買って、問題は改札口。これも駅員たちが2~3人がかりで、車イス通れませんから、持ち上げて、改札口を乗り越えて、それで電車の下まで運んでくれるわけですよね。で、駅員さんはそこでいいですよね。で、電車が来ます。私も本当に少し離れて見てたんですが、電車が来ました。ドアが開きます。 で、車イスの扱いは彼らは慣れてるんで、それはもう難なく電車の中に乗れるんですよね、彼ら。で、電車の中に乗って、私はドア1つ隔てて乗って様子を見てたんです。そこで見た光景っていうか、シーンは本当にいまでも忘れられませんけどね。たぶん、電車の中に車イスの人がそこに存在するっていう風景があんなにもすさまじいものかって、見たことたぶんないんですよ、観客は。観客じゃない、乗客だ。乗客にとって、見たこともない車イスの人間がそこにいるということだけで、そこの場がフリーズしちゃうんですよね。これには驚きました。いまからこんなこと言っても信じられないかもしれませんがね、本当にそうなんです。固まったようになるんです。まるで異物を見るような、その少年を見るまなざしが。はたから見てて分かりますもん。その塊だけね。 で、電車が次の駅に行って、多少入れ代わるでしょ、乗客は。それで、新しく入ってきた乗客は車イスの少年を見て、やっぱり同じように、異様なものを見た目つきなんですよね。そうこうしながら新宿の駅に着いて、全員降りていきます。で、車イスの少年がターミナルを自分で車イス動かしながら移動するでしょ。そうすると、彼の周辺部だけフリーズした空気が発生して、それが移動していくんですよ。もうね、本当です。本当にね、すごかったですもんね。私自身がすごく衝撃的でしたからね。つまり、横田さんに話をしたのは、その時の私の衝撃的な体験があるから、絶対に横田さんが車イスを拒否して、ひざでいざって街へ出ると、拒絶反応が必ず起きると。それを映像で記録して世の中に出すと、これはある価値観が壊れる。絶対に壊れるっていうふうに思ってました。

Q:その拒絶反応とかフリーズっていうのは何なんですかね?

それはやっぱりあれでしょう。人間って、理屈じゃなくて、人間って自分を守る自己保存本能、自己保身本能って誰もがみんな持っていますよね。自分にとって違和感とか、異物であることを本能的に拒絶するっていう、これは本能ですからね。備わってるじゃないですか。明らかに健全者にとっては、障害であるっていうことは異物なわけですから、それまで見たことがないことがいま目の前で見てるわけだからね。だから、それは違和感っていうか、拒絶反応っていうことで発生するんだと思うんですよね。それ自体は別に責められることじゃないんですけれども、それが社会というシステムの中に組み込まれた時に、差別という問題がそこで発生するわけだから、本能だからいいや、いいやっていうふうに言ってられませんわね。そういう異物というふうに言われてるのは社会のシステムだって、それは自分たちの社会の中で受け入れれば、自分の意識も変わるわけですから。というふうなことをいろいろ考えましてね。

だから、それは本当にね。いまはもうないですよね。日常的に障害者の人が街へ出るっていうことがなじんじゃってますからね、風景そのものが。そういうかたちでなじんじゃってしまえば、もうそれ自体は衝撃力っていうのが普通になっちゃうんで、普通にすることが大事であって、その当時はまだ、私がそれを始めたのは69年代の後半だと思いますが、だって、社会の中に、障害者が街に出て歩くなんてことなかったんですもん。だから、誰も見たことないわけだ。しょうがないですよね。

「さようならCP」 監督 原一男

映画冒頭 あえて車イスを降り 横断歩道を渡る 脳性マヒの横田弘さん

********

Q:冒頭から車イスを降りて道をひざで歩くとか、全編横田さんは車イスを降りるとか、それはどういう狙いというか、意味を持って、あのシーンだったんでしょうか?

結局、1本の映画って、71年に撮影したんですもんね。『さようならCP』って。つまり、全共闘運動が60年代の後半からある勢力を持つようになってくるじゃないですか。全共闘運動、それは日本だけじゃなくて、世界的にもそういう若い人たちが、戦後のそれぞれの国のそれぞれの戦後史の、時間の流れっていいますか、歴史に対して、歴史って長く時間が経ていくと、腐敗が始まるもんですよ、どこでもね。それに対して革命っていうか、世の中を世直しみたいな動きが始まるのは、だいたいどこでも同じです、世界ね。

で、私たちも横田さんたちとつきあいながらいろいろ考えてたんですが、黒人運動の場合は「ブラック・イズ・ビューティフル」。つまり、黒人は美しいんであると。黒人は汚いということでさげすまれていた価値観をひっくり返すためのキャッチフレーズとして「ブラック・イズ・ビューティフル」。黒人が持ってる文化、音楽であったり、美術であったり、いろんなさまざまなジャンルで、自分たちは自分たちなりの文化っていうか、それは黒人であるっていうことの自己主張であり、自己肯定であると。で、「ブラック・イズ・ビューティフル」っていう言葉が生まれたと。 それからまた、今度は脳性マヒの人たちの運動がそのフレーズにまで影響を受けるわけですよね。「脳性マヒ・イズ・ビューティフル」ってじゃあ言えるのかって。そういう議論が実際に出てくるわけですよ。ところが、脳性マヒの場合は、非常に複雑なのは、さっきちょっと言いましたけど、本当に脳性マヒの人自身が自分たちを100%自己肯定できるかどうかっていうのがいろいろ問題があるんですが、とりあえず運動のスローガンとしては、脳性マヒの自分たちの身体を自己肯定しないとおかしいんと違うかっていう話になったんですよ。 つまり、殺された子どもが障害児、脳性マヒだから、それをケアする親がしんどいのは分かると。だけども、殺しても親に罪を問われないっていうことになると、障害を持った人間にとって、自分たちは否定される存在なのか? クエスチョンというかたちで運動をやってたわけですから。だから、クエスチョンっていうかたちで問題提起をするんじゃなくて、殺される存在なのかっていうことを1つ超えるためには、自分たちだって、脳性マヒという身体を自己肯定しきらないと論理的におかしいじゃないですか。 ちょうどそのころ優生保護法っていう問題があって、優生保護法っていうのは、つまり、生まれる前に診断をして、障害児っていうふうに分かったらおろしてもいいんだよねみたいな話でしょ。それに対して、基本的にどういうふうにすればいいのかっていった時に、障害児と分かってても生んでいいんとちゃうか、障害児っていう状態はそんなに否定されることじゃなくて、むしろ、障害児という身体っておもしろい、だから生みたいっていうふうに、母親の気持ちがそこまで変わらないと世の中変わらないじゃんっていうふうに理論的にどんどん先鋭化していきます。運動っていうのはね。私もそのような考え方をずっと自分の中で少しずつ、進化っていえば進化、っていうことがあるじゃないですか。そういうふうに進化させながら、脳性マヒっていう身体が実はとてもおもしろい身体なんであるっていう考え方のほうに自分を組み替えていくんですよね。 実際、僕らが映画を作ったあとなんですけども、大阪でかなり、横田さんよりもっと重度の女の人がいてね、その人が、脳性マヒだけかな、重度の身体障害者の人集めて、劇団を作るんですよね。劇団態変って。変態の「態」、態度の「態」に、変化の「変」、態変。その人たちがみずから自分たちが役者になって、いざらないと動けない体を持って、演劇をやるんですよ。これはかなり衝撃を受けますよ、それを見に行った人は。価値観が本当にひっくり返りますもんね。それと本質的には似たようなことを、僕らは、僕らのほうが先だったはずですが、横田さんが街へ出て、車イスを使わないで、重度といわれる脳性マヒという身体のままでいろんなことをやってみようというふうに、先陣を切ってやったわけなんで、それはかなり衝撃だったはずだなぁというふうに思いますけどね。つまり、脳性マヒであるという身体のありようをそのまま肯定する。障害者でいいじゃん、脳性マヒっていいじゃん。 これは、うまく言えるかどうかよく分かりませんが、実際ね、私、高校生の、高等部の学生で、ちょっと見りゃ結構かわいい女の子がいたんですよ。その女の子と話して、ふっと気がついたんですが、肉体がちょっと変形するんですよね。変形した人がいる。その高校生の女の子が、本当に見た目かわいい子なんですが、首のこの辺りが健常者に比べてちょっと変形してるんですよ、確かに。だけどね、その変形してるっていう様が、ものすごくなまめかしいんですよね。ということに気がついたんですよ。変形してる、つまり、正常じゃない形、それもいびつというほどじゃないんですよね。ちょっと変形してて、変形してる肉体が話をしてると動きますわね。その様が妙にエロチックなんですよ。 そういう観点で見ると、演劇って、いろんな演劇がありますが、肉体そのものを見せるようなタイプの演劇ってあるでしょ。その場合は、日常の動きじゃなくて、ちょっと体の動きそのものを、日常じゃない動きを発見して、それを1つパフォーマンスっていうか、舞踏として見せるっていうタイプの演劇あるじゃないですか。そういう演劇見るとよく分かるんですが、肉体ってすごいもんだなって。つまり、エロチシズムという力が圧倒的に舞台を見るとそこで発揮されてるじゃないですか。それと一脈通じるんだなっていうふうに私は思ったことあるんですよ。 だから、脳性マヒの肉体っていうのは実は、汚いっていうふうに見るんじゃなくて、脳性マヒっていう肉体はむしろ美しいんであるっていうふうに言いきってもいいんじゃないかって、極端に言えば。そういう考え方をしたことがありまして、それはいまでもその考え方は残ってますけどね。そういうふうにして見ていったほうがおもしろいって。それがもっと広がっていけば、別に脳性マヒっていう状態で生まれても、それはその子の人生だから、それなりに生きていけばいいじゃんっていうふうになっていくだろうと思うし、本当はそうなっていかないと、障害者における全面的な解放はないんだろうなって、そういうふうには思います。

「さようならCP」 監督 原一男

脳性マヒの横塚晃一さんは カメラをもって 街ゆく人々にレンズを向けた

*******

横塚さんに話をしたのはね、「横塚さんね、横塚さん、障害者の人っていつも健全者の人から撮られてばっかりでしょ」って。あのころね、どっから出てきたか、「視点の逆転」っていう言葉が結構、革命を指向する人たちの中で「視点の逆転」っていう言葉が出始めていたと思うんですね。どこから出てきたかよく分かりません。美術の世界から出てきたかもしれませんけどね。 で、横塚さんにね、「身体が違うんだから。健全者と脳性マヒじゃね。脳性マヒは脳性マヒという自分たちの身体のありようがあると。そういう身体のありようからこの世界を見ていった時に、健全者というような人たちから見た世界とは違って見えるよね」って。これは非常に理屈っぽい考え方なんですけども、「脳性マヒには脳性マヒという人が見える世界っていうのが、俺たちとは違うはずだから、横塚さん、俺、カメラ貸すから、写真撮ってごらんよ」って。そうすると、私が撮る写真じゃなくて、「あなたが撮った写真っていうのは、私が撮った写真と違うと。写真を撮る相手も、いつもあなたは撮られてるんだから、今度はあなたが撮る側に立って、健全者を撮ったらどうなるかやってみたら」っていうふうにね、げきを飛ばしたっていうか、アジテーションしたんですよ。そしたら、横塚さん、「やってみる」って、で、横塚さんはカメラを持って街へ出ると。 実際ね、それは非常に観念的なんですよね。現実的に横塚さんが撮った写真がそんなに脳性マヒが撮ったからって、変わるわけないんですよ。ただ、例えばね、また全然別のところですけれども、水俣病の胎児性の子どもが写真に興味を持って、写真を撮って写真集を出したケースがあるんですよ。その写真を見るとね、別にたいした、ものすごい違う世界が写ってるわけじゃないんですが、ただ、違うのは、いつも車イス乗ってる少年なんで、車イスから見るから目線が近い、下なんですよね。目線が下であるっていう写真が圧倒的に多くて、それが1冊の本になった時に、なんか全体としてはちょっと違う感じがするんですよ、確かに。目線が低いっていうことで。 でも、目線が低いっていうことだけで、これは障害者の人の世界って言いきるには、そんなに強いメッセージ性もないんですけれども、横塚さんが撮った写真を現像してプリントを焼いてみますと、ちょっと違うんですよね。何が違うかっていうと、フレームが決まってないんですよね。つまり、けいれんがあるでしょ。不随意運動っていいますけど、不随意運動しながら写真を撮ってるので、なかなか僕らが、障害者っていわれる人が写真を撮ると、様になってるんですよね。きっちり構成が。ただ、彼らはね、横塚さんが撮った写真は、そこは不随意運動しながらのシャッターチャンスなんで、ちょっと決まってないんですよ。ちょっと奇妙な味があるんですよ、確かに。 それは歩く女の、晴れ着姿を着て、若い娘が歩いてる首のところが全部ちょん切れてるんですよ。たまたま不随意運動があって、フレームを見てシャッターを押したわけじゃないと思うんです、それはね。だから、たまたま撮れちゃう写真でしょ。写真ってそういう偶然性があるんで、それはそれでいいんですけれども、そういう写真が何枚かありますと、ちょっとさすがに、ちょっとね、健全者っていわれる写真とひと味違う何かがあるなぐらいのものは確かにあるような気がします。 でも、だからといって、ものすごく劇的に、横塚さんが撮った写真なんで、それ見ただけですごく衝撃があるっていうわけでもないです、それは。かなり観念的。観念的な部分が半分以上あるだろうと思います。それでも、そういう身ぶりを、私がそういう横塚さんを撮ることによって、理屈の部分でもってはなるほどと思うそのメッセージ性は、あの映画の中では成立してるからね。まあまあいいかなってなもんですよ。

******

「さようならCP」 監督 原一男

映画では 街の人々の反応を執拗に聞き出している

******

Q:結構印象的なシーンの1つが、街で募金活動している、募金している側の人たちにインタビューして、一般の方たちの声を聞いてますけども、あれはどういう狙いっていうのが。

募金活動するでしょ。募金活動って何だろうなって、前から私、ちょっとあんまり好きじゃないと思ってたんですね。あなたたちが否定する、つまり、健全者社会っていうことで、理屈の上では健全者は敵であると横田さんたちに言ってたわけですからね。その健全者社会に向かってカンパ活動するっていいのかしらって、これも非常に理屈っぽい反応ですが、そう思ってたんで。 じゃあね、カンパ活動をする、お金を入れてくれる人たちに対して、なんでこの人たちはお金を入れようとするのかっていう意識をちゃんと、たぶんこうだろうねっていうんじゃなくて、ちゃんとカメラを回して、しっかり追求してみようと、なんかふっとそう思ったんですね、あの時カンパ活動しながら。じゃあってやってみようって思ったんで、お金を募金箱にポンと落としてくれた人に、なんでカンパしたのって、とにかく聞くことは1つ。なんでカンパしたの? で、その答えの中からその人たちの意識をあぶり出そうという狙いで、ふっとあの時ね、前から予定してたんじゃなくて、あの現場で、よし、撮影してみようっていうふうに思いついて、あれを撮ったんですよね。

Q:その反応に関してはどういうふうな?

反応がほとんど同じですよね。かわいそうな人、社会的な弱者の人に何か、自分たちのほうはより多く持ってんだから、少しそれをおすそ分けするっていう考え方が圧倒的に多かったですもんね。へぇーと思った。 それで、その結果を横田さんたちに伝えたんですよ。そういう声がいちばん多かったよって。それに答えて横田さんが、「おかわいそうで結構じゃん」っていうあの名せりふが出てくるんですよね。あれ、単純だけどいいせりふですよね。「おかわいそうで結構じゃん」と。自分たちのことに対して無関心でいるよりは、かわいそうっていう意識であっても、まずは関心を持ってもらったほうが自分たちはうれしいんであると。ありがたいというようなことを、カメラに向かって横田さんが言うわけですよね。「おかわいそうで結構じゃん」って。あれはいいせりふだなと思いますけどね。

「さようならCP」 監督 原一男

映画終盤 横田弘さんは新宿の歩行者天国へ行き 人だかりの中 自作の詩を読み上げようとする

******

「本当に横田さんがやってみたいことって何かないの?」 って聞いたら、「詩の朗読っていうのをやってみたい」と言いだしたんです。 詩とは、つまり、「うた」とは、身を投げ出して訴えるもので、「うた」っていうんだよって彼が言いだして、彼は詩人でもあるのでね。身を投げ出して詩を歌うっていうことやってみたいと。で、歩行者天国っていうのが始まったばっかりなんですよ、実はあのころね。「じゃあ、横田さん、新宿に歩行者天国っつうのがあるんだから、そこへ出てやるか」って、「うん、やろう、やろう。やりたい、やりたい」っていうことになったんですよ。そういうノリは横田さんいいもんだから、じゃあ、やろう、やろうって。 それで新宿へ出まして、身を訴えるって、最初は具体的に言うと、健全者の人を横田さんが捕まえて、暴力的に、なぜか「暴力的」っていう言葉にひかれてるんですよね、横田さんは。自分が暴力的じゃないこと知ってるからですよね。だから、暴力的に捕まえて、強引に俺の詩を聞けっていうふうに、暴力的に迫ると。それで、俺のうたを聞かせるっていうことをやってみたいっていうから、分かった、分かった、おもしろそうだからやろう、やろうっていうことになって、新宿行ったんですよ。 それで、地下道、まず地下道行きまして、じゃあ横田さん、ここでやるんだよね、どうぞって、僕らは離れてその様子を見てた。で、横田さんはですね、通行人を捕まえようとするんですよ。捕まえようとするんですが、向こうはとにかく普通の速度で歩いてるでしょ。歩いてるところに横田さんが近づいていこうとするだけで、向こうにとっちゃ何やこのいざってくる人はって、そこで不信感が出るじゃないですか。で、避けるんですよね。だから、とっ捕まえるっていうふうにならないじゃないですか、いくらやっても。

で、このままじゃどうしようもないんで、地上に出てみようというふうになって、横田さんを背負って地上へ出ました。で、ちょうど東口の、中央口ですかね、あそこに、広場みたいなとこに彼を置いて、とにかくその状態だけ撮影をしなきゃいけないと思って、私が、横田さんがここにいます。少し離れてカメラでね、ローアングルでずーっと近づいていきます。カメラ回しながらね。それで、横田さんの周りをワンカットでずーっと、ローアングルで手持ちで撮影していくでしょ。 で、私、フレームを見ながらね、あぁと思ったんですが、フレームの中に人垣の足が見えたんですね。それで、カメラをファインダーから外して、肉眼で見ると、人垣がずーっとできてるんですよね。それにびっくりしましてね。 もう1つびっくりしたのは、横田さんが円を描いたんですね、自分の周りに、まずチョークで円を描いて。円を描くっていうのは自分の拠点を、まずここは俺の拠点だってことを宣言するっていうような表現ですわね。それで、自分の名前を書いて、「横田弘 詩」、「詩」のけつから書いてきよるんですよね、あれびっくりしましたけど。え、けつから書くのかと思って。そんなことがありながら、人が集まったんで、へぇーと思って、100フィートっていうのはね、2分46秒なんです。それを撮り終えて、人垣の外へ出て、フィルムを詰め替えてた。そしたら、録音で手伝ってた男の人が、「原さん、大変だ」。「どうしたの」って言って、警察に、刑事に連れて行かれましたっていう話になったんです。 だから、上でやろうとしたことは、捕まえてじゃなくて、横田さんとしては、もうちょっと違ったやり方っていうことで、自分のいる周りに、まず自分の拠点はここであるというふうなことを描いてる間に人が集まったわけですから、人が集まってしまえば、横田さんの、自分の世界だから、録音機には入ってるんですよ。「横田弘 詩」っていう、書いた文字、タイトルですか、それを読んで、「健全者の皆さんよ、あなた方は歩けることによって私の足を抑圧するのか」とかなんとか言いながら、一応詩を朗読してるんですよ。録音機には入ってますけどね。 で、あっという間ですよね。それを始めたとたんに人垣が出て、人垣が出たものだから、警察が「何だあれは」ってなもんで、その輪の中にいる横田さんを刑事が問答無用で連れて行っちゃったってな状態ですよね。 それで、私は慌てて派出所みたいな、バラック建ての建物があったんですが、そこに行きまして、なんでって聞くんですが、見せ物的になってるからって、見せ物的なことしようと思って出てきてるんだからいいんだっていくら言っても、向こうは聞かないんですよね。危険だから、危険だからって。危険だからっていったって、別に詩の朗読してるだけで、何が危険だって言いたいんですけれども、とにかく危険だから保護するというふうに、聞かないんです、刑事はね。それで、身元引受人がいたら彼らは渡すっていうから、しょうがないから身元引受人に私がなって、横田さんを身請けして、出てきたというような話ですね。

「さようならCP」 監督 原一男

ラストシーン 横田弘さんは 路上で全裸になり身をさらした

******

Q:最後に裸になるっていうのはどういう効果が?

あれはね、最初に映画を作ろうとした時に、横田さんは自分が詩人であるっていうふうに思ってるわけ。実際詩を書いてる人だからね。つまり、自己表現っていう考え方がわりと大きいんですよね。自分たちは世の中的にはあってはならない身体、脳性マヒっていう体はね。というふうに、差別を受ける側にいるんだけれども、そういうだめな身体って言われてる自分がだめであるっていうことをどんどん出していく。だめであるっていう自分をさらすという表現ができるっていうふうに思ってたと。だから、自分をさらす、自分を裸にするっていうことを、原君たちとこの映画の中でやってみたいっていうふうな言い方をしてたんです。それを私の相棒が、小林が覚えていたんですよね。 で、最後にこれ以上もうこの映画をやる気力は本当になくなったっていう話になって、それで、私たちとしてはもっと映画を続けるつもりでいましたからね。実質あれは半年で終わっちゃったんですが、半年いろいろやってみて、これでもういいやってとてもとても思えないと。もっと突っ込んで映画を撮ろうと思ってたんだけれども、横田さんが「もう本当にだめだ」って言った時に、さあどうするってことで、私は、本当に横田さんとしてもこれ以上続ける気持ちはなさそうだと思ったんで、私は諦めようとしたわけです。 小林が諦めてないんですよね。小林は、冗談じゃないと。こんなとこでやめられたんじゃ、いままで何をやってるか全く意味がないんだというふうに怒ったわけです。横田さん、あなたは自分が裸になるって言ったじゃんって。裸っていうのは観念的に横田さんは言ったんですが、小林はもろ「裸」っていう言葉をそのように解したわけですよ。裸になるって、あんた言ったじゃんって。まだちっとも裸になってもらったような気がしないと。裸にでもなって見せてよ、でないと私は納得いかないってけんか売ったんですよね。そしたら、「分かった」って、分かったって、言語障害ありますけどね、「分かったー」って、全部脱いで、ストリップになったんですよ。

Q:意味としては、障害のある体をきちんとさらけ出すっていう。

自分が社会的に否定されてて、だめにされてる、だめと言われてるこの私の身体。しかし、そのだめと言われてる身体、まさに、確かに、歩行者天国で詩の朗読しようと思ったけど、それすらも結局刑事に拉致される。刑事に拉致されるってことは、自分の手柄のように、実は自分は思ってた。横田さんは。だけど、あの場を作ったのは全部、私たちが作ったわけですからね。あそこへ連れていくの全部。そういうように自己表現ですら健全者の手を借りなきゃできないんであるということで、そういう自分の置かれてることを再認識しちゃうんですね、あのシーンは。そのことに思い至るわけですよ、横田さん自身が。なんとなく甘い幻想を考えてたことを、幻想が全部打ち砕かれてくっていいます?・・本当に自分は何もできないんであるってことを思い知った、その何もできないこの俺の身体をそのまま自分はさらすしかないと。そこに自己表現がどうのこうのなんて言ったって、所詮それは私たちの力を借りないとできないわけだから、本当に何もできないとされてる自分の身体は、まさにこの裸の私っていうふうに、あそこで本当に100%掛け値なしに彼はさらしたわけですね、裸になって。っていうような抽象的な意味があると思いますけどね。だから、あの裸は、もう横田さんが覚悟を決めて裸になったわけだから、迫力あるんですよね。その気持ちが伝わるからね。

あの映画の、いろんなことをやって、最後にたどり着いたのが本当にリアルな自分たち。自分たちっていうのは、こんなに何もできないっていうふうにされてる、まさに自分のこの身体っていうのはいったい何なのって、何なのというよりも、これしかないんだよっていうことに自分自身が認識に到達したっていうことのラストシーンなんですよね。 本当は、でも、それがいちばん大切なことなわけですよ。そこが分かってて、僕たちもカメラ回してたわけじゃないんですけれども、結果として小林がけんかを売ったために、横田さんが裸になるってなって、あの映像っていうのはそういう自分たちを、さあ、お前たちどう見る?っていうふうな、それこそ、どう見る?あんたたち、どう見る?確かに俺たちは差別されてて、自分たちも何かしようと思ったけど、自分たちは誰かの力を借りないと生きていけない。確かにそうだと。で、どうなの?どう思う?っていう問いを突きつけてくっていうような意味をあの裸のシーンが持ったわけですよね。だから、あの裸のシーンに至るまでの物語っていうふうに言えなくはないんですけども。

Q:そういったシーンの積み重ねであの映画はできてると思うんですけども、原さんとしては、その取り組みによって、障害者に対する社会の何をどう変えたかったかみたいなところっていうのは?

基本的に、どんな映画だってそうなんですけど、なんとかって、なになに問題、そのなになに問題が内包してるいちばん本質的なこと、全部が全部と言いませんが、だいたいそういう社会問題っていうのは、われわれが持ってる社会の価値観というものによって、なになに問題っていうものが発生してるっていうケースが、考えてくと、だいたい多いんですよね。だから、なになに問題を根本から解決しようとすると、価値観そのものを変えなきゃいかんと。価値観を支えてる、その圧倒的に大多数の、言ってみれば市民であることのほうが多いんですよね。 その価値観を持ってる市民そのものが、あまりほとんど気がつかないと。しかし、システムとしてだけはちゃんと成り立って、法律みたいなことがあって、運営されてて、ということで、その価値観からシステムが生まれ、そのシステムによって排除されてる少数者、弱者っていわれる人が生み出されてるっていう、だいたいそういう仕組み。だいたい、障害者の問題に限らず、ほとんどの社会問題っていうのはそういう構造を持ってるので、したがって、僕らの脳性マヒ『さようならCP』で考えたのも、根っこにある価値観をどこまで壊せるか、壊すためにあえてこういうことをやって、それを映像作品として世に出すというふうに考えたわけですもんね。

Q:その根っこにある、障害者に関しての価値観というのはどういうものなんですか?

つまり、身体に対しての美醜という価値観をひっくり返すと。さっきも言いましたけども、脳性マヒという身体はあってはならない身体、あってはならないから、それは醜い、汚い、否定されるべきっていうのは、いろんな負のイメージがいっぱいついてます。だけど、それを全部1つずつひっくり返して、そうじゃない、そうじゃないと。脳性マヒという身体はもしかしたら、美、美しいかもしれないじゃんっていうこととか。

身体を巡る価値観、価値観っていま具体的に言いますと、それが美醜という問題で出てくる時もあるし、労働できるかどうかっていう価値観、労働観っていうものを支えてる身体を、労働を支えてる身体を階級してランクづけしていくっていう、そういうことも、そういうふうに発生することもあるので、その根っこにあるものを皆壊すと。1つ1つ指摘をして壊すというふうな考え方ですよね。

Q:社会のリアクションというものはどうだったんですか?

いちばん最初は、とにかくそう簡単に世の中に受け入れられたわけじゃないんですよね。 映画が出来ました。どこでどういうふうないきさつだったか、ちょっと細かいこと忘れましたけれども、東大全共闘の学生の人たちが、東大の駒場の中で上映会をやってあげましょうということになったんですよ。で、上映会やってくれるっていうのは私たちにとってうれしいことなんで、じゃあお願いしますってことで、上映会が実現しましたけどね、結構大きな教室で、200~300人入れるすり鉢型の教室だったと思いますが、上映をされまして、で、私たち、作った本人なんで、会場にいました。終わったら、「作った監督です」って紹介されました。で、Q&Aが始まりました。 のっけから、「この映画はひどい」と。あなたたち、僕らですね、「なんであなたたちはこんなひどいことをやらせたんだ」と。僕たちがやらせたと。で、「映画を作る人間ってそんな権利があるのか」というような論調で批判されたんですよね。ほとんどがそういう論調だったと思います。それはもちろん答えようとするんですけどね、圧倒的に向こうの学生の連中のほうが言葉が豊かっていうか、鋭いもんですからね。ほとんど一方的に批判されてたんですが、横田さんたちも会場に呼ばれていたんですよ。 で、1時間ぐらいそういうやり取りがあって、やり取りじゃありません。私が一方的に批判されてたんですが、横田さんが手を挙げて、「発言したい」と。それで、横田さんが、言語障害ですからね、みんながみんな分かったと思いませんが、何を言ったかっていうと、ずっと聞いてると、「あなたたちは原君が僕たちをこういうふうにさせたというふうに言ってるけども、あなたたちのほうが間違ってるんだ」と。「この映画は、原君と自分が対等にけんかをして作った映画なんである」というふうに発言したんですよ。 たぶん、言語障害なんで、全文分からなくてもね、持ってる意味は分かりますよね。人間が一生懸命話をすると。それで、会場が一瞬のうちにしーんとなって、横田さんが言ってる意味が理解できたと思うんですよね。やらせたっていうそもそもの見方そのものが間違ってるって。横田さんが言うところの、これはまっとうにけんかをしながら撮ったんだって言われると、確かにけんかのシーン、いろいろありますしね。それは横田さんが頑張って、仲間が非難されてるシーンはあってもね、それとてもまだ映画は続いていくわけだから、横田さんに言わせりゃ決して自分はあそこでひよってないと。自分は頑張ったと、原君とけんかしながらやったんだからさって思ってるわけですよ。で、その横田さんの言い分が正しいと、そういうふうな見方をするべきかというふうに学生たちが気がついたんですよね。それで、本当にその横田さんのひと言で、空気が変わりましたからね。 ただし、ただしです。横田さんの言うとおりかどうかっつうのは実は、その場ではそういうことは言いませんでしたけれども、冷静に考えると、横田さんの言ってることが100%妥当性があるわけじゃないんです。あの映画は、見る人が見れば分かりますが、あるいは学生たちがひどいことしたっていうふうに受け止めたっていうのも理由があると思うんですね。あの映画、実際に私のカメラワークが、ものすごく横田さんたちに対して加害者、SM、サディスティックなカメラワークっていうふうに、私がそう思いますもん。 カメラワークっていうのは意識してそうしたわけじゃないっていうように私は思うんですが、つまり、横田さんに、もっとやってよ、もっと頑張ってよ、もっと何かないの?って始終思ってましたからね。その私の気持ちが、カメラワークってね、カメラマン、乗り移るんですよね。で、カメラワークという私のカメラの動きに、横田さんに対する不満がにじみ出ちゃってるんですよ。だから、こんなひどいことをしてっていうふうな印象持つのは、私に言わせれば、半ばごく当然のことであるっていうふうに、私、思うんです。だけど、横田さんの言ってることもそのとおりです。そういう横田さんは目いっぱいふんばって、奥さんとけんかしながらでも、半年間は必死につきあってくれたわけだからね。そういう意味じゃ、横田さんの言ってることも妥当性がある。

Q:映画が作られたのが70年代で、各地の大学とかで上映されていったりしたと思うんですけども、あの映画が社会と障害者との関係にどういう影響を与えてきたかっていうのは、振り返ってみてどういうふうに感じますか?

結局、1年ぐらいは上映会やるたんびに私たちはつるし上げを食うというような現象続いたんですよ。で、そのたんびに、いや、実はねっていうふうな話をしながら、1年が過ぎていくんですが、映画が完成して、あちこちで話題になり始めて、しばらくしてだと思いますけれども、大阪の運動やってる人の1人が訪ねてきましてね、1年間貸してくれって言うんですよ、フィルムを。大阪で上映をして、それで、青い芝(「青い芝の会」)の大阪における支部、全然なかったんですが、支部を作りたいと。で、1年間貸してくれってことで、いいよって貸してあげたんですよ。 つまり、運動の何にもないところで、まず上映会やりますって打ち上げるでしょ。そうすると、お客さんが来ますけれども、中に脳性マヒの人が何人かいるんです。あの当時まだ字幕もなかったので、言語障害の言葉って聞いてる人はほとんど分かりません。だけど、脳性マヒの人は分かるんですよ。言語障害の独特の言葉、発語のリズムが。いちばんおもしろがる、げらげら笑いながら、脳性マヒの観客がいちばん喜んであの映画を見るわけですよね。 脳性マヒの連中はあの映画を見てどう思うかっていったら、「ああ、おもしろいことやってる、この人たちは。自分もやりたい」って、こうなるわけですよ。ね。その人たち、そのおもしろい、やりたいっていう人を、フィルム貸してほしいっていう人が、その人をリーダーにして、運動隊を作っちゃうんですよ。そういうふうにして、大阪で青い芝の支部をぽこぽこぽこっと作っていきよったんです。で、実際にできていった。 もう1つはね、私たちお金がないものだから、当時まだ映研っていうのがあって、映研の人たちが予算を持ってたんですよね。その人たちからお金を借りてたんです。映画ができて、完成したら上映会をやってもらいたいと。そのお金を前貸しさせてくださいって言って、そのお金で映画を作っていったわけですが、実際に上映されていくようになって、あの映画が持っているメッセージが少しずつ理解され始めたんですね。 そしたらね、こういうことになったんですよね。社会学部とか、教育学部、福祉学部、そういうような学部の新人の1年生にとにかくこの映画を見せると。で、ショックを与えて、それで、障害者をめぐる問題をまずレクチャーすると。そういう上映会のされ方が結構ずーっと続いたんですね。それで、まず基本的な障害者に対する見方っていうところから考えていくというようなことをね、つまり、1つ先輩たちが後輩に向けて教えていく、言ってみればバイブル、聖書みたいなものですよ、この映画が。で、学んでっていうような見られ方をするようになっていったんですね。 実際に映画の世界でも、この映画の作り方に刺激を受けて、養護学校の問題、なんで養護学校なのかと、養護学校というあり方がおかしいんじゃないかって、普通学校に障害者も一緒に行くべきじゃないかっていうことをテーマにした『養護学校はあかんねん!』(1979年/企画制作:市山隆次)っていう映画も作られたりするわけです。それがこの『(さようなら)CP」という映画があって影響を受けて、その映画がで出来ていくでしょ。というふうに、いろんなところでいろんな影響を与えていくようにはなります。この映画がね。

Q:障害者に対する社会の考え方をどういうふうに変えて、どういうふうな影響を?

障害者と言えども同じ人間じゃないかっていうヒューマンな見方っていいます?・・という考え方が持ってる欺まん性という、つまり、価値観がひとつめくれたわけだからね。人間に対する見方っていうのが変わったと思うんですね。ひとつ、見方そのものを変えた大きな力にはなったと思います。この映画があることによって。そういう役割を果たしたと思いますけどね。この『さようならCP』はね。

Q:障害者っていうのはヒューマニズムで優しく接してあげるものじゃない?

じゃなくてね、もっとちゃんとまっとうにつきあえばいいんだよねっていう、言ってみりゃ、いまなら普通のことのように思いますけども、別に障害があったからどうのこうのっていうことじゃなくて、まっとうに1対1でさしでつきあって、そういうものとしてつきあえばいいんだよっていうふうなことに変わっていったと思いますね。 もう1つ分かりやすく言えば、街が障害者を排除するこの都市というものに疑問を持つという考え方が出てきて、最初何から始まったかっていうと、車イスの人が街へ出て、段差が困るんであると。だから、段差をなくそうという運動から始まっていったんですよね。段差が問題なのかよっていうふうに私たちは思ってましたけどね。それでも世の中はおかしなもんで、段差をなくす。段差をなくすっていう運動、実際に段差をなくすことによって、車イスの人が街へ出やすくはなりますわね。 映画館だって、車イスの人が入りやすいトイレを作る、あるいは車イス席を作るというふうなことになって、出やすくなると。街の中で障害者がそこに存在しているっていう風景がだんだん日常的になってきますわね。そうすると、やっぱり風景が変わることによって意識も変わっていくという力にはなるなぁという感じが私の中でしましてね。それはそれでなるほどなというふうに思ったことありますけど、そういうさまざまなところに影響を与えて、この映画が全部とは言いませんけどもね、大きな世の中の見方が変わっていくきっかけの1つにはなったかなって、そういう感じはしますよね。

表面的にはっていうか、第一義的にはかなり障害者の人を受け入れるっていうか、障害者の人が街に出ても、それは風景の1つとして日常的になったっていうか、認知されてるなっていう感じは受けます。それはひと昔とは全然違うっていうか、変わったなっていうふうに思いますね。 ただ、そうは言うけど、「障害者」っていう言葉もずいぶん守備範囲が広いんですよね。

で、いままではなんとなく漠然と障害者っていうことでひとくくりにしてましたけども、ひとくくりじゃ実はとけないんですよね。障害っていっても、精神の障害、身体の障害、身体の障害もいろいろ実は、脳性マヒもあれば、ダウン症もあって、それから、

筋肉が弱っちゃう問題、何でしたっけ。固有名詞が忘れちゃった。筋ジストロフィーとかね。いろんな障害の病名がいくつか出てきてますよね。いままでそんなに1つ1つを取り上げるってことはなかった。でも、個別に取り上げていくと、個別の病状における考え方、対応のしかたがそれぞれに非常に違うんですよね。そういうデリケートな問題がいろいろあると。 で、それぞれに固有の問題を抱えてるっていうふうになってきましたので、だから、筋ジスは筋ジスにどのように対応すればいいのか、向き合えばいいのか。それから、生まれた時はどうってことなくて、事故で欠損という障害の人もたくさんいるじゃないですか。その人たちにはその人たちなりの問題の立て方、対応のしかたが違うので、それはずいぶん多様になってきたように感じますね。その多様になってきた障害者の問題に、周りが全部対応できてないような感じしますね。 例えば、水俣病を身体障害っていうふうな問題で捉えかえして、対応できてるかっていうと、実はそんなことないでしょ。それは政治と絡んできた時に、ものすごい複雑な状況に追い込まれてるっていうか。だから、問題が複雑になってきて、複雑になった分だけ対応する側、どう考えればいいのかっていう問題が追いついてないような感じはします。それはそれで、それぞれにおいて難しい問題を抱えてるんじゃないでしょうかね。

Q:原さんがその映画の時に撮りたかったのは、障害者に対する根本的な価値観の転換だとおっしゃってましたけども、その価値観っていうのは変わったんでしょうか?

それは少しは変わったと思いますがね。全く変わってないっていうふうには言えませんし、基本的なところでだいぶん変わったっていうふうには思ってます、それはね。 だけども、まだまだ10段階あるとすれば、まだまだ最初の2段階、3段階ぐらいで、まだまだいろんなことの問題は残ってるなっていうか、解明しなくちゃいけない問題は残ってるじゃないかって気はしてますけど。

Q:原さん自身はカメラで障害のある方と対じされて、ただ、立場としては健常者で、障害があるわけじゃないじゃないですか。 ともすれば何かしてあげる、要は彼らの自己表現を助けてあげるっていうような立場にもあったわけで、自分が健常者であるってことをどう感じながら映画撮ってたんですか?

ある時ね、まだ映画を作ってる最中のことなんですけど、何を巡ってかは忘れたんですけど、ある時、横田さんとけんかになったことがあるんですよ。言い合いに。その時にね、私はこうやって立って、横田さんにいろいろ、けんかだから、言葉を投げつけるでしょ。何だよ、何だよって。横田さんはしゃがんでますわね。横田さんはしゃがんでて、私は立ってるという状態でけんかしてたと。 それはそれで過ぎて、しばらくたって、あの時、なんで横田さんは、何が原因で怒ってたのっていうふうに聞いたら、「原君はあの時私を見下ろしてたでしょ」っつうんですよね。見下ろしてた。確かに見下ろしてたけど、気持ちとして見下ろすというような気持ちでけんかしてたわけじゃないんですよね。私は立つのは普通ですもんね。横田さんはしゃがんでるのが普通じゃないですか。それがたまたまけんかになった時に、私が立ってた。それを「原君は僕を見下ろしてた」っていうことが横田さんのけんかのもとになってるって言われて、私はちょっと言葉がなかったんですよね。 つまり、身体のありようそのもので、そもそもが差別関係というものの根っこをはらんでるって、それはもう健全者っていうふうに自分が言われてみても、どうしようもないっていうふうに思ったことがあるんです。じゃあ自分が障害者になればいいのかよっていうふうな話にはなるのかっていったら、それはならないじゃないですか。自分は自分のいるところからしか物事って始まらないし、自分の考え方を組み立てようとしても、自分がいまここにいるこのようなありようをしてるということでしか考えようがないというようなことを思い知ったので、だから、変に引け目とかいうことを感じることはないよなっていうふうなことは思うんです。 ただ、これもまたおもしろい問題が含んでるなと思うのは、よく恋愛ごとで、昔の時代劇にあったはずなんですが、タイトル忘れちゃった。「お琴と佐助」っていったか。女性のほうが目が見えない、男のほうが目が見える。で、2人が恋仲になった時に、あなたが目が見えるじゃないかっていうことを女のほうから言われて、じゃあっつうんで男のほうは目を潰したっていう話がありますね。悲恋が。 つまり、本当に相手の世界の中に入ろうとすると、相手の世界の中に自分自身を追い込んでいくっていう考え方はありますわね。それは物語の世界の中で、そういう考え方ってなくはないんですよね。じゃあ私が脳性マヒになるかっていったって、私は自分で脳性マヒに自分がなるかっていったら、別になろうとは思いませんわね。私のいまいるところからさまざまなことに対して興味を持って、考えていくっていうか、生きていくしかないよなっていうのが私の気持ちですがね。

Q:僕たちも含めてですけど、健常者と言われる人と障害のある人たちっていうのが一緒に暮らしてくためには、どうしていったらいいんですかね?

結局は異質な人、他者っていいますよね、普通。異質な何かを持ってる人、世界観、身体、民族が違う、何でもいいんですけど、つまり、他者といわれる人に対して、絶対に無関心であっちゃいけない。無知であってはいけない。基本的なことは、他者に対して、きちんとコミュニケーションをとって、他者のことを知らないといけないっていうか。 で、知るってことは今言いましたけども、私が立ってて、横田さんがしゃがんでて、それ自体が「僕を見下ろしてるんじゃないの」っていうふうに彼らが思ってしまうことの違いを理解しないと始まりませんから、そのことを理解した上で、他者っていうものをこちら側から知っていく。向こうからじゃなくて、こちら側から近寄っていって、知って、どういうふうなコミュニケーションをそこで図るかっていうふうに考えるっていいますかね。そういうことしかないような気がしますけどね。

Q:立場が違うっていうことを認識しながらきちんと関心を持って、コミュニケーション取るっていうことですか?

言葉で言うときれいになりますがね、いかにそのことがいま世界の中でできてないかっていうことでしょう。いわゆる他者に対して無関心、無知、誤解、偏見、もう山のように充満してるじゃないですか、あちこちで。沖縄に対してだってどうか。福島に対して、本当に放射能被害を受けた人にまっとうに、被害を受けてない僕らが安全なところにいて、彼らの苦しみを知ってるかっていったら、なかなか知らないじゃないですかね。 知らないということがあるからドキュメンタリーを撮って知らしめようって、みんないろんな作り手が映画を作って発表するわけですけど、客観的にいうと、なかなか他者のことを知るっていうのはそう簡単なことじゃないですよね。 それができてたら、もう少し平和になってるはずですが、実際に平和になってないっていうこの世の中を見た時に、他者のことを思いやれとか、もっと知るべきであるっていうフレーズがあまりにまっとうすぎて、無力感を持つことのほうが多いですけどね。実際にはね、これじゃいかんなと思うんですが、かといってどうすればいいのかなって思案に暮れるというような構図になりますね。

つまり、平等っていうのが、どこかの理想を、価値観を仕入れてきて、それを当てはめるんであって、リアルなものとして、横田さんと私がリアルったって、体のありようは違うんだからね。「平等」っていう言葉は非常に上っ面になるじゃないですかね。平等じゃないじゃんって。 だから、よく言われる、それに対してじゃあどうすればいいのかって、考え方の上で言えば、それぞれが違うんだから、それぞれが違うっていう前提で、あなたはこう、私はこうという生き方、自分にとっての1つ夢を語っていくっていうふうにするしかないよねって。考え方としてはそうなりますよね。 だけども、実際僕らがいま世の中生きてて、興味を持つっていうのは、実は他者に興味を持つんですよね。自分にも興味を持ちますけど、自分が知らないことに対して興味を持つってことはあるじゃないですかね。知らないから興味を持つ。知らないっていう、知らない世界を持ってる人のことを他者っていうわけじゃないですか。そういうように、他者のことに対して興味を持つというその前提には、他者に対する、よく言うリスペクト、尊敬がないと成り立ちませんよね。差別するために他者がいるんじゃなくて、違う世界を持った人だから、違う世界を持ってる人っていうのは知らない人にとってはすごくおもしろい未知の世界であると、そういう尊敬があって、その人に対して関わってみたいとか、知らないことを知りたい、教えてもらいたいとか、知らないことに関わることによって自分自身のおもしろい生き方を追求したいとか、そういう基本的なところでの差別構造の中に組み込まれていく他者との関係じゃなくて、未知なものとして、知らないからおもしろい、知らないから楽しいんであるというふうなリスペクトっていうものがベースにあって、他者、異質な人と関わっていくというような世界になると、この世界はもっとおもしろいんだというふうに考えるしかないですよね。 だから、「平等」っていう言葉が上滑りで、違いも何もひっくるめて、みんな一緒っていうわけにはいかんと。だから、みんな一緒という、昔はそれを「ヒューマン」っていう言葉でくくってたんですけれども、「ヒューマン」っていう言葉をそのように、つまり、欺まんとして使うのはやめようということは、これはたぶんだいぶん浸透されてきたとは思うんです。だけど、いまの世の中、実際には、違いが、リスペクトがあって、その違いを認め合うんじゃなくて、違いがいま憎悪を生んでるという構造になってますもんね、根本的にね。憎悪ってやっぱり戦争っていうか、殺し合いを発生させますもんね。だから、憎悪が目指す他者との関係っていうのは、やっぱりこれはおかしいんであるというようなことの問いかけをずーっとまだまだ継続して、問いかけていくしかないなって、そう思うしかないなぁ。そういう感じしますけどね。

プロフィール

『ゆきゆきて、神軍』などドキュメンタリー作品で知られる映画監督。20代で故郷・山口から写真家を目指し上京、障害者問題と出会う。養護学校で介助職員として働くなどの後、脳性マヒの人たちを主人公にドキュメンタリー映画『さようならCP』(CP=脳性マヒ)を製作。脳性マヒ者団体「青い芝の会」のメンバーが障害のある体をさらけ出して街へ出る様子を描き、社会に衝撃を与えた。

1945年
山口県にて生まれる
1966年
写真家を目指して上京
 
障害者施設に写真を撮りに通う
1967年
脳性マヒの人が共同生活を送る「マハラバ村」を訪問
 
脳性マヒの横田弘・横塚晃一らと出会う
1968年
東京都立光明養護学校(現・特別支援学校)で介助職員として働く
1972年
『さようならCP』 完成
1974年
『極私的エロス・恋歌1974』完成
1987年
『ゆきゆきて、神軍』完成
1994年
『全身小説家』完成
2001年~
日本映画学校 専任講師
2006年~
大阪芸術大学映像学科教授

ページトップ