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証言

タイトル 「自己信頼の回復と感情の解放 自らを語ることの意味」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 安積 遊歩さん 収録年月日 2015年12月8日

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チャプター

[1] 治すことへの恐怖  09:49
[2] 「助け合う」ことを教えてくれた母親  04:03
[3] 抑圧された施設生活  07:16
[4] 障害者運動との出会い(1970)  11:32
[5] アメリカに行く(1983)  12:10
[6] ピアカウンセリング ~自己の回復をめざして~  07:01
[7] ピアカウンセリング ~自己の回復をめざして~(2)  07:42
[8] 差別のない社会のために  06:38

再生テキスト

私にとっては名前も全然気に入らないんだけど、本当に医学って残酷だよなと思うけど、骨形成不全症という。誰が不全っていうのね。人が決めてほしくないわっていつも思うんだけど、障害があるって診断されたのが生後40日だから、すごい大変な時代が始まって、生後40日目に障害があるっていうことが分かるってことは、徹底的に体に対する介入が始まるんだよね。

めっちゃ実験された気がして。男性ホルモンを2年間注射されるし、そのせいかどうか、全部頭の毛がなくなったら、今度電気マッサージ頭にかけられるし。効くか効かないか分からない男性ホルモンとカルシウム剤もずっと飲まされてたのを覚えてるし。それで、折れるたびに手術でしょう。

体に対する自己決定権を完全に失わせたよね、 自己選択とか、自分の体を自分で面倒mえ見る能力っていうか、自分の体を自分でコントロールする能力を 医療が完全に失わせたから。

Q:骨形成不全症。

いやらしい名前だ。

Q:弱いっていうこと?

そう。もろい。20回骨折したし、8回以上、8回は手術したけど。もろいって、人から比べてだよ。

Q:入院生活は長かった?

入院生活長いっていうよりも、13歳までの人生は、とにかく寝たきりの、1回入ったら2~3か月のギブスがさ、20回とか8回とか。とにかくずっと5年間ぐらいは、延べにすれば寝たきりだったんじゃない?

そうそう、何を言いたいか。すっごい恐怖だったんだよね、怒りと恐怖が。だから、恐怖だけで多くの人は終わって、恐怖が従属っていうか、従順っていうものを生むと思うけど、うちのお母ちゃんは怒らせてくれたからね、えらかった。怒りを。

Q:恐怖っていうのは、何への恐怖ですか?

だから、痛みへの恐怖とか、医者への恐怖とか、大人への恐怖とか、そういうもので恐怖に、最初の13年間結構、彩られてたと思うんだけど。

要するに、その施設を出たくて、出たくて、出たくて。手術が失敗して寝たきりになった友だちがいるのに、目の前にだよ。子どもを甘く見てんのかね。「次は純子の、安積の手術だな」なんて医者が言うからさ、どういうこと考えてんの、この人たちと思ったよ。殺されるわと思って。 歩いてた人だったのね。その子が、手術が失敗して。そうそう、背骨の手術は難しいんだってみんなで言いながらだよ。それでさぁ、手術してまっすぐにして寝たきりになって、もう私、信じらんなかった、あの人たちの言ってること。いくら犠牲を作っても、進歩とか向上するために、私たちのことはモルモットでしかないんだと。

Q:医療のモルモット状態に結果的になってしまった。

そうそうそう。それで、私の中でも、足はまっすぐになるのが当然なんだみたいな。

まっすぐにならなきゃなんない。優生思想と、美意識とか。だから、本当美意識も嫌い。曲がったものはまっすぐになんなきゃいけないと。

Q:なんで遊歩さん、そういうふうに思っちゃったんですかね?まっすぐになったほうがいいとか、治んなきゃいけないとか。

だって、お母ちゃん以外はすべてその情報しかないんだよ。お母ちゃんもそうだよね。まっすぐっていうより、骨がまっすぐになんないと死ぬとでも思ってるのかね。分かんないけど。だから、私があんなに手術嫌がってたのに、それでまっすぐになって、骨折回数を減らさないと。骨折回数も減らせるってふうに医者は言うわけだよね。ピンを入れて抜いて。でも、抜くなって言ったわけ。抜かなければ骨折しないんだったら抜くなって、いま入りっぱなし。それも13歳の時の決断。

Q:まっすぐするために針金を入れて矯正しようとしてたってことですか?

うん、そうそう。矯正するわけよ。だって、2か所も3か所も切って、まっすぐにそろえてからそこにブスッて刺すんだから。すさまじい手術だよ、ものすごい痛い。帝王切開がいちばん痛いんだよって言われてたけど、私は骨切りのほうが痛いと思う。だって、1か所骨折しただけで痛いのに、2か所か3か所切ってだよ、まっすぐに並べ替えて、その上、棒を通してその上、肉を切ってるんだから。あんな痛い手術ないよ。

そうそうそう。中学1年の時に養護学校だったから、現国って言ってたよね、あの時ね。現代国語の先生に弁論大会に出ろって言われて、それを書いたんだよね、私。そういうふうに見られてるっていうのを知ってたから。重い障害を持つ人は医学の犠牲になって、クライエントっていうか、モルモットになって、この社会に体を提供するのが生きる道なんだと思うみたいな。私たちはそういうふうにして、障害を持つ人たちが提供してくれた医療を使って、(回復したら)少しでもこの社会に貢献できるかもしれないみたいな。自分のことは全然なかったね。 そしたらさ、現国の先生が、「安積、お前はこんなこと本気で思ってるのか」とかって怒られて、「思ってる、みんなそうしてるじゃん」って言ったら、こんな文章じゃ弁論大会に出れないとか言われて、「出なくていいわ。なんで本当のこと言って悪いんだ」と思って、そういうけんかしたのを覚えてるけど。

私は中度の障害だから、体を提供した人たちのあとで、その恩恵を受けて少しは社会に役に立つことができるかもしれないって書いたんだと思う。

そうしたら、「それは障害を持つ重い人に対する差別だ」っていうふうに言ってきたわけね、彼は。 でも、差別ったって、目の前でそういうこと見てるし、させられてるわけじゃん。ところが、自分は障害が重くないって信じてたのに、次はお前の番だと、背骨を手術するのは。当たるのか当たらないか、成功するかしないか分かんないけど、お前がとにかく犠牲になれって言われて、やっぱ違うって思ったんだろうね。こんなところにいたら殺されると思ったんだろうね。 それから、絶対、親に、私はここは出るって言って、だけど、どうやって?だって、親に電話かけることすら許されないんだからさ、公衆電話があっても。でも、ある朝、私はそこに電話しに行って、朝の時間って職員がちゃんと来る前までは空く時間があるから電話して、「お母ちゃん、私ここを出たいから、絶対出るから早くお迎えに来て、応援して」ってことを言ったのを覚えてるもんね。 たぶん殺されると思ったからだろうね。寝たきりにさせられると思ったからか。それで、園長に抗議に行ったんだよね。私は絶対ここを脱出するって言って。「ここは出ます。これ以上体はよくならなくていいです」。よくなるっていう幻想の中にいたからさ。

外に出る時は全部親がおぶって学校に行ってて、小学校4年までの普通学校では、図書館や保健室に親が待機してて、おしっこのたびにおんぶしておしっこに連れて行ってくれたり。まぁ、本当にいい母親だね。私、障害を持つ子どもの親ってみんなそうだと思ってたわけ。養護学校義務化の闘争の時ぐらいに初めて、私と同じ障害の子でも、親にたたかれたり、1回も送り迎えもしてもらえない子がいっぱいいるんだってことに衝撃を受けたよね。

だから、医者からされてることも、お母ちゃんにしてみれば、本当に私を助けるため。

うちのお父ちゃんの給料が安くてだよ。1本70円だから150円だか忘れちゃったけど、1日おきにそんな注射をするなんてありえないんだよ。3000円だか7000円だかの給料で。 それなのに、ありえないのに、とにかく注射しろって言われれば注射し続けて私を助ける。助けたくて。でも、そんなこと子どもには分かんないからさ。

すごい怒ってたわけ、ちっちゃい時。なんで医者に連れて行くんだって。でも、お母ちゃんにしてみれば、それ以外に方法がないんだよね、助けたくて。だって、生まれた瞬間から「この子は3か月で死ぬ」とか、またうそばっかり言う医者の間にね、「結局二十歳までしか生きない」とか言うわけ。

絶対、ああいうお母ちゃんのもとに育ったから、人と人とは助け合っていいのだと知っていた私としては、隣の家も精神障害者が4人もいるような家だったんだけどさ、そういう言葉も全然差別的じゃなく、いつ聞いててもものすごいけんかが始まると、お母ちゃん、きゅうりのお漬け物とか持ってくわけ。止めようとしてか。

本当にやさしいの、うちのお母ちゃん。本当にさ、貧しいからきゅうり1本だって大事なおかずなんだよ。夜、お父ちゃん帰ってきたら、おかずが少なすぎるっていっつも怒られてんのにさ。 本当に私がいまこうやって全部あるのは、お母ちゃんのおかげだもの。助け合うっていうことしか、人生の目的はないんだっていうか、共に生きるっていうことしか。

Q:そういうお母さんのもとに遊歩さんは育てられて、 遊歩さん自身もお母さんに隠されない・・、昔はよく障害を持ってると、座敷ろうじゃないけど、家に隠して外に行かないとか。

隠されないどころか、とにかくお茶飲みするのが好きなお母ちゃんだったから。家に呼ぶのも好きだけど、自分が行くのも大好き。私と同じだね。私、お母ちゃんそっくりだ。 それで、ずっとおぶって背負って連れて行く。世の中高度経済成長になるから、お母ちゃんが呼んでも、うち貧しいからそんなに来てくれないし、でも、お母ちゃんは恥ずかしげなく行くわけ。私、恥ずかしいからやめろなんて言うようになるわけよね。迷惑ってことも、どこで聞いてくんだろうね。みんなでしゃべってるのを聞いてるから、「迷惑だから行くのやめよう」とかって言うようになるんだけど、全然気にしないで、本当によくそういうことできたもんだ。お茶飲みに連れてってくれてたから、私、自分が隠されるべき存在なんていうのも・・

分かってなかったね。とにかく出まくるのがうれしくて。

Q:遊歩さん、小学校も普通に行ってましたけど、そのあと中学1年生で入院を?

小学校5年で。 寮育園に入るわけ。

Q:(小学校5年で)寮育園入って、寮育園の中で2年8か月。

そう。1日目にお母ちゃんに、「帰る」って言ったんだからね。着いた瞬間に、大変なところに来た。「お母ちゃん一緒に帰る」って言ったら、さすがにそれだけはお母ちゃんも、「お前が来たいって言ったんだぞ」とか言ってさ。お前が来たいって。みんなぼう然としてるわけだから。帰るって言ってる私に。私、1週間泣き続けたから。

Q:なんで1日目で帰りたいと思ったんですか?

だってさ、入った瞬間に、廊下にベタッて脳性まひの子が座り込んでたけど、いまはだよ、ちっちゃい私の気持ちをもっと解説してあげれるけど、すっごい、あの頃は誰もケアしてないわけじゃん。座り込んで、よだれ垂れて。私としては汚いと思ったわけだけど、それって惨めだと思ったんでしょ。自分がそこの中に見られるってことが、すごい惨めで嫌だと思ったんだろうね。汚いとか、惨めだとか。そっちの仲間になるってことがすごい嫌だったんだね、たぶんね。一瞬にして分かったからさ。 子どもって賢いね。だから、帰るって言ったの。そうしたっけさ、入るって言って来た子が帰るって言うから。自分で入るって言ったんだからね、それもね。お母ちゃんは反対してたんだから。

Q:なんで入るって言ったんですか?

好奇心で。すべてが好奇心。

Q:(療育園に)行ったけど、衝撃ですね、遊歩さんにとっては。

誰にもケアされてないっていうのは、私にはありえないわけ。母親と一緒にいて、いつもいつも大事にされていた私がだよ、何かこう、ベタッて座り込まされて、周りから、またこの子はみたいな目で見られていることが。

Q:療育園で、遊歩さん自身が受けた扱いっていうのは、どんな扱いだったんですか?扱いって言うと変ですけど・・

だから、とにかく1週間目に泣き暮らしていた私を、格好のその上では婦長そっくりな主任看護婦がやってきて、婦長じゃなくて、婦長のナンバーツーがやって来て、私を、「話があるからレントゲン室に来なさい」とか偉そうに言って。私、そういう言葉もすごい嫌だったんだけど、でもさ、お母ちゃんがそばにいないと従順になるんだなって、あとで思ったけど行ったんだよね。 そしたら、ガーッと怒られて、「いつまで泣いてるんだ。ここに自分で入るって来たんでしょ。ちゃんと手術して頑張って早く歩けるように、足まっすぐにして」。足まっすぐにすることだけが目的だったんだかんね。

それが、怒られたのにだよ、私、すごすぎるよね。頭にきて、「ここは地獄か」とか言って、「お前は地獄の番人か!」って叫んだんだよね。それで、「私は天国から地獄に落ちたようだから早く天国に帰せ」って言ったら、怒った子に怒り返されるっていうことが初めての経験だったらしく、スクッと立ち上がって「ふんっ、絶対電話して、親に来ないように言ってやる」って言われたのね。それから、ガラガラッて戸を閉められて。 虐待っていうのは、子どもを従順にするための技術なんだよ。従順さを大人は要求してるのに、従順にしないから虐待するんだよね。虐待を受けたわけ。本当に人生で初めての、あれは虐待だよ。だって、閉じ込められて2時間だよ。放っとかれたんだから。ギャンギャン泣いて、ギャンギャン泣いてると、これはいつまでも開かないってことが分かったから、静かになったのかな。とにかく従順の第1歩。大人の顔色を見るように育つ。本当にあそこまでは、大人の顔色見なくて済んだよね。

そうそう。卵に血が入ってるから焼いてって言ったんだよね。うちのお母ちゃん、いっつも焼いてくれてたから。卵に血が入ってたら、血をとって焼く。これがルールっていうかさ。

「焼いて」って言ったらさ、すごい怒られたのね。それも1週間目か2週間目。あれもびっくり。生意気な子が入ったっていうね。お嬢様が入ったって、うわっと広がったらしく。 それに、とにかく子どもの世界も厳しいから。まだちっちゃいほうでしょう。高校の子とか中学の子が牛耳ってるわけだよね。だから、私が焼いてくださいって、命令系統飛ばして焼いてくださいって看護婦に言ったっていうこと自体も、部屋にいたドンみたいな人にしてみれば、生意気な子になるでしょ。看護婦からも驚かれる。こんな忙しいのに、看護助手から。だから、看護助手からも、看護婦からも、何となく阻害されるし、部屋の中でも、表向きはそういう子だから、ものすごくはいじめられないんだよね。何となく仲間はずれにする。寝たきりになって、5月19日に手術になって。トイレするたびにみんなに笑われてさ。純子のうんこは特に臭いみたいなね。誰だって臭いのに、本当にそれは嫌だったね。 あと、おしっこを何回も頼む。これが許せないわけね、看護婦とか。看護婦が忙しいと、歩ける子がやんなきゃなんないから、おしっこ出まくってる私が。おしっこっていったら我慢しないっていうのがよくないから。我慢ももちろんするようになったんだけど、6人部屋のうちで4人、我慢してほかの病院に移らされてるんだからね、腎臓病になって。真紫のおしっこ出るんだよ、真っ赤っていうよりは。真っ赤な子もいたな。でも、真紫。おしっこってこんな色になるんだ、赤と混ぜるとみたいな。びっくりして。

Q:そうなるまで待たされるいう・・、トイレにも自由に行けなかった?

うん。だって、ここまでギブス入ってるから。次々に手術して、脱臼の子とかやけどの子とか手術すれば、トイレに行けない時期が来るわけ。そうすると、そこの間にいじめられるわけ。しびん持ってきてとか。だから、みんな我慢するわけ。次々に我慢して、1日1回とか2回の子がすごい増えるわけ。手術してる子は。私なんか、手術の回数も結構多かったよね。3~4回はしたんだよね。それなのに我慢しないから、本当に生意気だったんだろうね。だって、本当に我慢できないよね。だって、無理してびちゃびちゃになるより。

とにかく、寮育園の衝撃、いくらもあるけど。

Q:寮育園に2年ちょっといて、そのあと、高校へ行かずに家にいらした。

寮育園に行って、とにかくまた中学校に戻ろうと頑張って、中学1年の2学期に寮育園を出てきた。3学期は今度、差別にあったわけ。優生思想と闘うためのすべてが用意されてるね。3学期はうちにいなさいと。中学校の校長が私を排除したわけだ。

Q:学校に来ちゃだめって言われた。

そう。骨の弱い子を受け入れることはできないから、養護学校に戻れ。養護学校に入れたんだろうみたいな。

中学1年の3学期まるまる、1人ぼっちの在宅障害者をやってたから、すごい孤独で、中学1年の3学期に、本当にいろんな自殺未遂を試みたね。本当に絶望的だった。

Q:学校に行けないとか、受け入れられないってことに絶望?・・何に絶望したんですか?

そうだと思う。それそれ。だって、自分としては小学4年まで地域の学校にいたんだからさ、当然帰れると思ったわけよ。

Q:それで中学にまた復帰できるようになったんですね。

2年、3年はね。

中学2年、3年は、本当に背中が痛かったんだよね。だから、吐き戻しながら、吐き戻すっていうか、すごく痛すぎて。だから、ほとんど5~6校時は保健室にいる時が多かった。 それでやっと卒業して、だから、学校に行くっていうこと自体に、無理だっていうのと、あと、送り迎えが無理だっていうのと、両方本当に。親としては送り迎えしてあげれないっていうことが、すごく罪悪感になったろうし、私は私で学校が嫌だし、体が疲れるし、卒業してからは、「行きたかったら通信教育にしろ」って父親に言われてたんだけど、でも、成績はそれなりによかったから、なんで通信教育なんだっていう、それの反発もあって、15、16、17、また中学1年の時の3学期のような状態に戻って、あの時も自殺未遂何回かしたよね。何回かっていうか、とにかく本ばっかり読んでた。

Q:「青い芝の会」の白石さんたちに最初に会って、彼らたちは何をしてたんですか。

お花見会に誘われたからね。とにかく外に1回出て街頭カンパ活動して、車を手に入れて、在宅訪問しようとして、外に出て、路上で街頭カンパ活動して、お金を集めて車を買って在宅訪問するっていうのと、街頭カンパの目的はね。 そうそう、何をしてたか。思い出した。『障害者はモグラになれない!地下歩道建設阻止運動』なんてしてたんだよね、私が始めたころ。その中で障害者を集めるために花見会をしてて花見に誘われたんだけど、福島駅前に地下歩道がエレベーターなしでできるっていう情報がきて、それに地下歩道反対阻止運動してた。エレベーター作れっていう。

Q:障害のある人たちが、障害のある人のところに在宅訪問をしてた。

その活動と、だから、活動としては、アクセス運動だよね、いまで言う。地下歩道建設阻止だから。アクセス運動でしょっちゅうあれにも行ってた、県庁とか市役所とかにも行ってたし、それから、仲間が出てきたら生活保護を取んなきゃなんないから、生活保護課にも行ってたし。あと、在宅訪問で1軒1軒回って、本当にその時代に重い障害の人に何人も私も会っていくわけなんだけど、在宅訪問活動でしょ。

そのうち、映画作ろうとか言って、18ミリビデオが、4ミリか?あの頃。8ミリだ、8ミリビデオが福島図書館に寄贈されたから、そのうち見て映画作ったし。とにかく、市民啓もう活動と称してあちこちでさ。

Q:障害を持ってる人たちが、市民を啓もうする。

そうそう。

Q:啓もうっていうのは、自分たちのことを分かってほしい・・どういう啓もうだったんですか?

分かってほしいを飛び越えてるよね。共に生きる社会を構築する。差別なき社会の構築だね。共に生きるって、あの当時は使わなかった。差別なき。

Q:それは、なんで行ったんですか?

家に1人ぼっちだったからね、19歳の時も。通信教育始めてたんだけど、全然おもしろくなかったからね。そうそう、花見の中で差別を変えていくんだ、止めていくんだって言ってた言葉が、やっぱりね。変えれるのは俺たちなんだぐらいに。 自分の人生を投げ出した、ジンノさん(福島県青芝の会の支援者)って人がね、彼は障害を持ってる人たちに怒っててさ、酒飲んでるから、「なんでお前たちこそが、やれるのになんでやらないんだ」ぐらいにさ。橋本さんとか白石さんのこと投げ飛ばすぐらい。そうすると、またかかっていって相撲みたいになって。簡単に投げ飛ばされるのに、またかかっていって、危ないなんて思ったし、骨折するぞみたいに、私は表面的な意識で思ったけど、すっごい衝撃だったんだよね。こんなふうに健常者っていうか、障害のない人と渡り合っていいんだっていうかさ。差別っていうことを本当にやめたい人がここにいるんだっていうことがさ。 考えて見たら、差別の歴史じゃん。差別っていうのは助け合えない社会の中に、お母ちゃんと2人で風前の灯火で生きてたのに、助け合える社会を本気で作ろうとしてる人たちが、それもただ単に表面的なところで助け合うんじゃなくて、生活を投げ出して助けてる人と、人生をかけて。はっきり言うけど、路上に座り込んで街頭カンパやってさ、つば吐かれる時だって、蹴られる時だってあるのに、街頭カンパなんてほんといちばんやりたくない活動の1つだよ。それなのにやり続けてる2人がいてさ、橋本さんと白石さん。そこに人生をかけて、それを応援しようとする彼がいて、これは衝撃的な出会いだったね。

22で親元を出たでしょ。これも、その出方もすごかった。お母ちゃんが、「なんで出なきゃなんないの?」って言うんだけど、「こんなとこにずっといたら、自分で恋人探すとか、一生結婚できない。一生恋人もできないで終わるのは嫌なんだ」って言って。 妹のほうにちーっと、まだ二十歳の妹にお見合い写真なんて持ってくる人がいるかいないかのような時代でさ、私だけは無性の存在みたいな。なんで私だけが。 お兄ちゃんも、いわゆる普通の就職とか期待され、私は何も期待されない。妹も期待されるし、結婚も。とにかく性別役割分業とかそういうのがあとから言葉が入るけど、その時には本当に、結婚したいとか、男の人に選ばれたいみたいな、それも優生思想だよね。ぐっちゃり入ってたから。だから、「こんなところにいたらお見合い写真の1枚も来ない。お見合い写真100枚用意したらいてやるわ」って、泣いてるお母ちゃんにそういうふうに言って出てきたのを覚えてる。本当にすごい。 さっき言った、ものすごく私たちに、自分の人生を投げ出して、共に闘った健常者の人が、小型トラック、軽トラで、私、アパート見つけてさっさと出るからって、軽トラで迎えに来てくれて、その人全部、小さいタンスと布団と茶碗だけ持って出たんだけど、それ全部運んで詰め込んでくれたら、お母ちゃんがぐるぐるぐるぐる回ってるわけ。“何なの?あの人”っていうくらい。 軽トラックの前で、「お前、こんなふうにして出なくても」って泣きながら言ったから、「お母ちゃんお見合い写真100枚用意しな。そしたらいてやっから」って、バーッて。「もう出て、出て、出して、出して」。 かわいそうすぎない?本当になんであんなひどいこといっぱい言ってきたんだろう。

Q:遊歩さんとしては、家は出たかったんですか?だって居心地はそんなに悪くなかったんですよね?

悪くないっていうか、だから、それもまたね、自立しなきゃいけないとか偉そうに言ってても、家に帰ってきてお母ちゃんに全部洗濯させて、ごはん食べて。これは自立と言えるんだろうかってね。介助の人とか、介助っていうけど仲間に、社会を変えるためには周りの人を巻き込んで、介助とかを分かち合って、家族介助だけではだめだっていうのは頭へ入ってたから、そうやって橋本さんと白石さんは生きてたから、

共に生きようとした彼らと出会って、生活が成り立ってるのに、私だけは運動の合間に帰ってきて、服を取っ替えてさ、ごはんも偉そうに食べて。そういう生活が嫌だったんだよね。自立が中途半端っていうか。本当に共に生きる社会を周りの健常者にちゃんと伝えてないっていうことを、自分の生活をかけて。だから、自立しなきゃ、親から独立しなきゃって、本当に思ったんだよね。 あと、恋人がほしかった。これだね。22歳で出たんだけど、その時もすでに6歳年下の恋人だったんだけど、16か17の恋人ができて、17ぐらいのね。22歳で。家の中だと2人っきりで会えないじゃんね。それがめっちゃ大きな動機だった。アパートを借りて、2人でデートする場所。

Q:アメリカに行っていちばん遊歩さんが衝撃を受けたのはどんなところですか?

自由だね、自由。自由の国アメリカっていうから。いまは全然そう思えないけど、やっぱりこう、自分の人生の自由っていうものに、自己判断とか自己決定とか、 みずからをよしとするって書くじゃない、自由って。本当に自分でいいんだっていう。私自身のまんまでいいんだっていう、自分の人生に対する、たった1回きりの人生なんだっていうことを徹底的に、みんなが生きてるっていうことにすごい衝撃を受けたね。

Q:遊歩さんがアメリカに行って、アメリカの体の不自由な人たちの生活というか、システムを見たわけですよね。それでいちばん感動したのはどういうことですか?

アメリカの自立生活センターに赤ちゃん連れて、自分が生んだ赤ちゃん連れて、自立生活センターに来てる女性とか。それはそれですごい感動したけど、

社会的に障害を持つ人たちが地域の中で生きていいんだっていう認知があるっていうこと。

介助者に応募してくる人たちがいっぱいいる。本当に貧しいぐらいいっぱいいるんだけど、最低賃金だから。そういう負の部分が分かってくるのはあとからだけどさ。とにかく、みんな出まくってるよね。とにかく出まくってた。

どんな人も、自分の世界みたいな、誰も恥ずかしがってもいないし、堂々としまくりみたいな。

人に迷惑をかけちゃいけないっていう、くだらないプロパガンダがないんだろうね、あっちはね。アメリカンドリームっていうのも日本にないように、自分の人生は自分で生きていかなきゃいけないんだなんていうのが全くないように、全然ないじゃない。

迷惑をかけちゃいけないなんて、アメリカで聞いたためしがない、そういう言葉。

Q:それはどういう場面で。

英語にない、迷惑に匹敵する言葉が。私、お金をねだられるっていうのもびっくりした。私、街頭カンパ活動をやって、ずっとお金ねだる側だった。お金っていうか、自分たちの活動資金を。「カンパお願いします」とか言ってきたけど、私に、本当に普通に見える、普通の背の高いお兄ちゃんが、「僕、電車賃なくなっちゃった。恵んでくんない?」みたいなさ。「ギブ ミー サム チェンジ」とか言って手出してきてるよ、この人みたいな。超衝撃でさ。でも、私、どう見たって日本人で車いすに乗ってるのに、道聞かれるのも半端なくあったし。これも驚いたね。差別がないってこういうことなんだと思った。道は聞かれる、金はねだられる。いろんな人がいる。

Q:アメリカだから価値観が違うということなんですかね。

それも、すごい苦しいんだよ。1回障害を持つ人に家に行ったらさ、自分で勝ち取んなきゃなんないから、何にもないの。家具が。本当に徹底的に、自分でそれ選んだんだから、それを自分でクリエイトしなきゃならないっていうさ。孤独だよね。周りの人のお世話するっていう感覚がないからさ、たぶん。 衝撃は、5時になったらピタッと閉めちゃうの、自立生活センター。だから、みんな自分の人生を楽しんでいいから。 私なんてさぁ 24時間365日、困った人が来たら開けますよ。

金貸してなんて人が来るわけじゃん、仲間が。生活保護はあるけど、ちょっと取れない時代だから、金貸してって来る。

だけど、自立生活センターに行ったら、目の前で、人が、障害持ってる人が倒れてるのにだよ、寝てるのにだよ。「あした来ればいいのよ。きょうは業務終了」みたいな。それも衝撃だったね。そうか、業務なんだみたいな。金をもらって仕事をして働くから・・ってことは、これでいいんだ。

Q:アメリカの自立生活センターっていうところを、遊歩さんは見学に行ったんですか?

うん。見学じゃない、研修。

びっくりしたのは、介助者に、身ぐるみはがれて大変なことになってるから助けに来てくれとか言われて、えーっとか思ってさ。全部のものが盗まれてる。バークレーって過酷だよね。日本にいると、介助者が私たちの身ぐるみをはぐなんていうことは絶対発想もなかったから。1人の人間として生きるっていうことは、そういう危険にもあうんだと。リスクを担うっていうのは。障害者からものを奪う、取るなんていうのは、あの頃は本当に発想もなかった。

Q:向こうではどんなことを具体的にやったんですか?

モーテルのアクセスを調べに行くっていうプログラムに、くっついて研修に行って、だから、バークレー市内のモーテル全部回ったのはおもしろかったね。

自立生活センターっていうのは、私は介助の仕事をしたいですっていう健常者の人を登録し、あと、介助の人が必要ですっていう、障害者の人を両方登録してマッチングするお仕事だからね。

介助者の人に1人1人電話して、介助者としての登録をどうしますかっていうことを、研修生だからやらせられるわけ。

登録しても2年間、全然働いてない人に対して、働く気があるのか。働いてて、それが記録に残っていないなら、どんな働き方をしてどうだったんですかってことを聞きなさいっていう。これがノイローゼになるほど胃が痛くなって、英語ができないのにね。そんな、電話なんてして、しゃべるのだって難しいのにさ、聞けとか言われて。

Q:大きな気づきとしては、障害を持ってる人たちが自分らしい生き方をしてるっていうことを感じた?

そうそうそう。いちばん最初に、自由というもののあれを学んだよね。本当に自由でいいんだっていうことを徹底的に。だから、(自立生活センターを定時で)閉めていいし。閉めていいに決まってるんだけど、そこの中で仲間意識をどう作っていくかっていう課題を、アメリカはもっと認識していいんじゃないかと私は思ったけど、アメリカはアメリカなりにめっちゃやってるしね。

Q:なんで自由でアメリカはいれるんですか。

分かんないけど、その分、ある意味厳しいからね。自由なわけだから。

Q:自立生活センターを使って生活してる障害を持ってる人たちの暮らしはどういうふうに見えましたか?

ここで子育てしてる、自分の。とにかく重度だったら最低限しか介助者を使わない。自分でやれることはいいことなんだってことはあったよね。 この人、街で見かけたことあるんだ。なんで介助の人に頼まないのかなって、無邪気に思った。その時に。なんで一生懸命、一生懸命、自分でやんなきゃなんないのかなって。

Q:みんな、自分でやるっていうことを大事にしてた。

それで、本当にギリギリのところで介助を使わなきゃなんないっていうふうに思った時に、介助を使うんだぐらいの。そういうふうに見えた。アテンダント部門の人は大学に行く時、階段をハイハイしながら上り下りしたんだって。私が会った時は電動車いす使ってたけど。階段しかなかったから。紹介所の流れだし、友だちの何人かは、友だちに助けられて階段上ったり下りたり。

Q:いわゆるその、介助者の人に依存してないっていうことですか?

アメリカは?

Q:はい。

依存っていう言葉じゃなくて、助けを求めてないって私からは見えるけどね。

Q:ある意味、ドライな世界が成り立ってた?

すごいドライ。ドライ乾燥機、ほんと。ドライだけど多様性がありまくるから、自分は進行性筋ジスの恋人がいながら、彼の家は自分があんまり住みたくない家だからって、別な家に住んでて、健常者の男性と暮らしてるのね。健常者の男性も別な街に恋人がいて、彼女は子どもが1人いる人で、連れ子っていうか、子どもがいながら、恋人は進行性筋ジスで、通って恋人生活を楽しんでるんじゃない?でも、住んでるのは男の人と3人家族に見えるから、行ったらさ、私は3人家族なんだなと思って、障害のない友だちができて、すごいなと思った。 それぞれ恋人がいて、ここは、家がお互いに気に入ってるからシェアメイトしてるだけだなんて言われて、ちょっと想像つかないじゃん。

でも、びっくりしたね。みんなでいろんな、介助者とか障害のある友だち、時速15キロも、アメリカの電動車いす出るからさ、「あの店に行こう」「きょう閉まってるんじゃない?」とかって、5~6人でね、路上で言い合って、「私見てくる」って飛び出すのが、15キロで走れる電動車いすのいちばん重い障害者だったりするから。介助者いるのに、介助者と私でしゃべりながら待ってるみたいな。発想がすごいでしょ。 「私見てくる」って、介助者が行くのかなって思うわけよね。でも、介助者が早足で歩くより、15キロでドドドドッて行ったほうが早いから。「(店が)やってたやってた」、なんてさ。「イッツオッケー、カモン」とか言いながら帰ってくるから、どっちが障害者だみたいな。障害者っていうか、障害者だと思わないけど、そのときに思った。すごい、とにかく発想の自由さがね。それなのに日本は6キロだからね、最高時速。

Q:ピア・カウンセリングの目的っていうのは何ですか?

自分が自分の人生をデザインして、自分の人生を自分で自分らしく生きるっていうか。

Q:なんでそういうことが必要だと思われたんですか?

とにかく自分じゃない人生を生きてるわけでしょ。親によって隔離されて。施設に入ってたら、食べ物っていうか、生きるための最低のあれが確保されるように見えるけど、行動の自由っていうか、考え、それを実現する自由が何もないわけじゃんね。

Q:行動する自由も考える自由もなかった。

ないし、感じる自由さえないよね。施設、隔離状況、排除の世界にあっては。差別社会にあっては。考え、行動し、感じていく、そういうすべての自由を奪われてるところに、障害を持つ人たちは本当にいたわけだから。

Q:ピア・カウンセリングっていう手法はもともとアメリカからやってたもので、それを日本流に遊歩さんがアレンジしたというか、プログラムを作ったわけですよね。目指したものっていうのは、具体的に言うと、行動とか考えるとか感じる自由を作るために、具体的にはどういう・・?

取り戻すためだよね。取り戻すため。具体的には、助け合うってこと。カウンセリングって最も基本的な助け合う形なんだよね。2人の人間が必要じゃん。1人じゃできないからさ。だから、対等にっていうんで、ピア、仲間どうしで、まず最初の痛みや置かれてる状況のつらさを聞き合うみたいな。日本流のアレンジかもね。そうだね。

Q:聞き合う場面を作るっていう意味合い、それは逆に言いかえると、そういう場がいままでなかった。

全くないよね。どの世界もそうだけど、話し合うことはいいけど、聞くっていうことに注目が本当に置かれてないじゃない。偉そうにしゃべってる人の話を聞くっていうんじゃなくて、“自分の心の声を聞く”だよ。それを聞いてもらって、自分の感じてることや考えてることを聞いて、出すことで、聞いてもらって、助けてもらって、聞くことで、それがまた行動につながっていく。だから、本当に多くの、ここにピアカン(ピア・カウンセリング)やった人たちが、外に出ようって思うまで聞こうとしてる。自分で生きていこうっていうか、人と助け合って生きていこうって思うまで聞いていくっていうことは、大事なことだなって思ってやってたよね。

ピア・カウンセリングで目指したことは、自分の心の声を聞くっていうか、自分の本当にしたいっていう感性、それから、嫌なことは嫌だって感じてる心があるのに、それを表現できない仲間たちの声を聞き合うっていうことがね。それで自分らしい生活や生き方を、自分でもこんなこと考えてたんだみたいなこととか、具体的なこともいっぱいあるしね、聞くことによって。

教えなきゃいけないとか、伝えなきゃいけないってことじゃなくて、聞けばいいんだって。本当は、その人の人生を知ってるのはその人自身なんだっていう。

Q:それまではみんな在宅で、親が決めるわけじゃないでしょうが。

決めまくりだよ、その人の人生を。はっきり言って、養護学校出て、施設にぶち込まれてる友達に、「なんで施設にいるの」って言ったら、「だって、親がそういうふうに言うし、親の幸せのために」って言う人が本当に多いから。親死んじゃったら出るのかなと思うと、今度、親死んじゃったら死んじゃったで、また不安で出れないわけだけどね。

聞くことと同時に、自分がロールモデルで、エンパワーメントしてるんだよね、ピア・カウンセリング。エンパワーしてる。ピア・カウンセラーの目的は、ロールモデルになることっていうのは大きいよね。

私の中では、プログラムの中では、私の中では、本当に自分の体に注目する時間とかを、自分の人生とか、いままでの自分の生きてきたところに注目する時間とかがあまりになさすぎたから、意味はすごく、最初はというか、ずっとあると思ってるよ。

Q:注目する時間をわざわざ作って・・、手法としては徹底的に聞き合うんですか?

聞いて、さっき言ったように、泣いてもいいとか、震えても、怒ってもいいっていうかさ。

我慢して怒らない人のほうが圧倒的に多いからさ。自分の尊厳が傷つけられてもね。

Q:遊歩さん自身は感じない、我慢を強いられてきたっていう思いはありますか?

いやいや。それを私はお母ちゃんに怒りを出すことで、自分の感性を全面的に黙らせることがなかったから、ピア・カウンセリングとかそういうことをやれるようになったんじゃないかね。

人が人でいるためには、人が自分らしくいるためには、感性と行動と思考、この3つがすごく自分の中でバランスを取れている必要がある。社会全体にもね。バランスを取れている必要があると思うんだよね。

Q: 実際ピア・カウンセリングを、

集まってやってくると、みんなどんな感情を出していたんですか?

ここの中にいる人に言われたことがあるんだけど、その時はピア・カウンセリングっていうことじゃなくて、施設に訪問して、「ずっとここにいたいの?」なんて聞いてた時代ね。「もっと行こうよ」なんて言って。私だって、その時、親元離れてたから、親元離れて1人でなんとか暮らしてるから、養護学校の友達だった。「絶対できるよ」なんて言って、エンパワーメントしながら聞いてて、その人がいまこういうふうにちゃんと時間取ってみんなの話を聞く、リーダーシップをとってる人の1人なんだけど。 彼女はそこから、いつもでもないけど、時々その話をピア・カウンセリングのプログラムの中で、とにかく聞いてくれて、励ましてくれて、遊歩がいたから私はここにいまいれるっていうか、子どもも産めたみたいなこと言ってくれるから超うれしいけど、そうやってピア・カウンセリングっていう体系しっかりしたものをやってない時代にも私はやってきたし、そして、彼女は私を見て、自分は今度、私が作ったプログラムみたいなことの中でも、聞くっていうことを中心にしてやって、いいリーダーシップをとってると思うんだけどね。

Q:システム自体、ロールモデルと合わせながら自分は鏡にしていって、抱え込んでいたり、押し込めていた感情をどんどん出していく、安心した相手に出していくっていう。

そうそう。聞くよっていう態度でいれば出してくるからね。絶対無理だと思うとか、そういうふうに、例えば、施設から出たいなと思いながら来てるんだからさ。無理だと思うっていうふうに言い続ける中で、「いや、無理じゃない。なんで無理だと思うの」って聞いて。話せば話すほどクリアになっていくからね、聞いてもらえばもらうほど。

(入院生活をしていた障害者が)ピア・カウンセリングのプログラムに来て、私に会って、

「病院の外に出て暮らせると思うかな、遊歩」って言ったら。「暮らせるかな、私」って言ったんだって。

長い間、人工呼吸器で、病院以外で暮らすなんていうのはありえないっていう世界の中に絶対いたからさ。でも、

人工呼吸器つけながら病院以外で生きる。それを、「ピア・カウンセリングの中で何を言ってもいいんだよ」というふうに言って、そしたら、“暮らしてみたい”と本当は思ってて、「雨にあたってみたい」、「傘さして雨にあたってみたい」とか、言ってみたんだって。そしたら、「もちろんだよ」って、あまりに爽やかにっていうか、「絶対できるよ」って言ってくれたから、そうかな、できるかなって、本当に思ったって言ってくれたよ。

Q:語っていく中で、自分がどうしたいのかが見えてくるってことですか?

そうだね。施設にいたくないなっていう思いを、誰も聞いてくれないからさ。そんなの無視ですよ。そんなことありえないんだから。そんなこと、思ってもいけないことみたいな社会に生きてるわけだからさ。だけど、「1回雨に当たってみたいんだよね」とか。そうそう…、なんて言ったんだろうね私。(忘れて正確には)わかんないけど。「病院以外の暮らしできるかな」みたいに言った時、「もちろんできるよ、何したいの?」とか言ったらさ、「雨に当たってみたいんだよね」みたいな。「いいね」ってね。「雨が傘に当たる音を聞くっていうのと、窓ガラスをたたく雨の音ってまた違うもんね」みたいにね。

Q:家の中にいる時の聞いてる雨の音と。

うん。「傘に当たる雨の音って違うよね、確かに」とか、私が言ったか言わないか分かんないけど、そういうふうにどんどんどんどん話を引き出すことで、「やっぱり違うよね」とかさ。あと、「あじさいの葉っぱにカエルがとまってるところを、自分の目であじさいを、折られたことなく見てみたい」。彼女、詩人だから、そんなことも言ったかもしれないし。とにかく自分がしたいことを言語化していくってすてきなことだよね。

Q:感情を引き出すっていうこともあるし、あとは、対等っていうことをすごいキーワードにしてるのかなと思ったんですけど、その意味合いって何ですか。

優生思想は価値作りじゃない? この命とこっちの命とは、優生思想はこっちのほうが価値があって、こっちのほうが。でも、私は優生思想じゃない社会、優生思想のすぐれているとか、劣っているっていうものはない社会というのは、みんな同じというか、対等だと思うんだよね。ある意味、違っていても対等。命に価値づけのない社会。命はすべて命であることですばらしいっていうか、生まれてきたその1点で、どの人も大事にされるのがいいと思うんだよね。

足が曲がったって、それは別に足が曲がってるっていうことで生まれたんだったら、その子が決めればいいと思うわけね。だから、対等っていうのは、命に対する異様な介入、優生思想的な介入のない関係っていうかな。

Q:健常者もみんなそうなんですけど、ピア・カウンセリングを受けた人の話でいうと、施設なり、親なり、誰かがいつも決めていた。

そうそうそうそう。食べる時間とかね。おしっこの時間まで決められるってひどくない? トイレに行く時間まで決められるっていうのはありえないよね。非人間的っていうか、人間の尊厳に対するありえない心外だよと思う。我慢してさ、社会に合わせて。真紫のおしっこが出るまで我慢させられるとか。本当にそれは。 だから、全部つながってるからね。自分が一生懸命一番にならなきゃなんないって思わされてるっていうことと、障害を持った子が我慢させられて、おしっこまで我慢させられて、腎臓を壊していくっていうことの、その社会のあり方が全部つながってるんだっていうふうに、健常者の人にも気付いてほしいっていうか、健常っていうか、排除・隔離の中にいない、差別する側に置かれている人にも気付いてほしいっていうのが、ちゃんと気付いてすべての運動だよね。 だから、障害持つ仲間は、優生思想、社会を揺さぶる仲間っていうか、それおかしいんじゃないかって。助け合う社会って、いままで見たことないからさ。

見える存在と見えない存在、排除される側と排除されない側、排除する側とされる側を作らない。それにはどうしたらいいかっていうと、排除されることの苦しみや悲惨を聞くことが大事なんだなってすごい思うわけ。

Q:これからどういう社会が1人1人生きやすい社会だと思いますか?

終わらないっていうことが、ネガティブじゃなくて、生きやすい社会っていうのはやっぱり1人1人なわけでしょ。だから、しみじみ思ったんだけど、自分が思ってるんだけど、本当に1人1人が決めるしかないよね。

でも、差別がなくなることはないかもしれないみたいなね。でも、圧倒的な、全体で見れば差別がなくなることはないかもしれないけど、いま1人1人の現実の中では、差別をなくし続けてきたことによって、自分の現実は変わってるわけじゃない?差別があったとしても、そこで黙らないことで差別ではなくなってるわけだよね、ある種ね。

差別っていうのも、優生思想っていうのも。古い習慣だから、簡単には変わんないかもしんないけど、人間の命にとってどうやったらいいのかなっていうことを、それぞれがそれぞれのペースで考え、行動し、感じていけば、1人1人の住んでる社会は生きやすくなっていって、それが増えていくといいなと思うけどね。

だから、まず自分がどうしたいか、どういうふうに生きたいかっていうことを行動し続けて、自己主張し続けていくっていうことは、すごいすてきなことだよね。それがエンパワーメントであり、お互いに対する、自分にとっても、自分の命を、変化の中で、多様な関係の中で、楽しみ。

Q:それは障害のある人だけの世界じゃないですよね。

だから、全然違います。だから、障害持ってる人のところにだけとどまんないで、あちこち好奇心あって動きたくて、歩きたくてね。そのとおり。障害のある人だけが変わったとしても、全然、硬直化した関係っていうか、そういうのは変わんないわけだからね。古い習慣の考え方っていうか。 命には、1番と2番と3番と100番があるとかさ、そういう考え方。

Q:いま、健常者と障害がある人の世界の狭間にあるものっていうのは、どういうふうにしたら近づけるっていうか。もちろん遊歩さんたちの働きもあるけども。

物質的に隔離的な状況があることはめちゃくちゃ確かだから、在宅訪問はしなきゃなんないでしょ。閉じ込められてるんだからさ、施設とかなんかに。とにかく出会い続けるっていうのはすごい大事。だから、子どもたちにも出会い続けなきゃと思うし。大学の先生をやってるのも、私の中では出会いの1つだからね。活動の1つだよね。

Q:出会いで、伝えると、向こうの反応って変わってくるものですか?

もちろんだよね。障害者なんてかわいそうだとしか思ってなかったとかさ、惨めだとしか思ってなかったとかさ、全然それが、一緒に旅をしようとか、一緒にいたいって思うわけじゃん。すごく。寝たきりの言葉のない友だちにも会いたいって思えるしね、本当に。

私をジーコ、ジーコとしか呼べない、いわゆる重度の知的障害の友だちがいたんだけどさ。体も動かない、重複っていうかな。ジーコ、ジーコ、ジーコって。何言ってるか分からなかったんだけどさ、そしたら、純子、純子って言ってるんだって周りの人が気づいてくれて。 なんか分かんないけど、人ってすごいよね。その人が亡くなった時に、私、そんなにその人が、在宅訪問しなきゃとか、するべきだと思って行ってたのかなっていうのも本当正直あったんだけど、でも、涙が止まらなくて、その人が亡くなったって聞いた時。大号泣したからね。えい子ちゃんっていうんだけどね。やっぱり人って、すごい、自分の命がつながってるってことをすごく感じてるんだなと思ってね。いまでも泣けるね。

Q:その人は、遊歩さんが在宅訪問した時に会った人ですか?

そうそうそう。だから、本当に寝たきりのっていうか、重い障害を持つ人たちと一緒にお風呂に行ったりとか、それがきっかけで、周りにその人が存在するんだってことに気づいていくし、私も気づいてほしいなんていう理念でつきあってたけど、やっぱり、すごい大事な人なんだよね。

Q:遊歩さんの中で気づきがあったってことですね。在宅訪問して、どうしてるのって行くわけだけど、遊歩さんの中にもその人からもらったものがある。

もちろん。生きるとは何かっていうことは、障害の重い人たちからしかもらえないくらいに思ってるよ。

本当おかげさまでっていうか、お互いに影響し合いながらだからね。私の人生の中に、本当に重度の障害を持った寝たきりの、さっきも言ったえい子さんね。ジーコ、ジーコとか呼んでくれる人がいなかったら、私は本当にもっともっともっともっとわけが分かんない人だったろうと思うよ、傲慢な。

人間性回復へのアプローチだよね、障害っていうのは本当に。人間性を回復するための。だから、障害はスキルであるとかって言った友達もいるけど、私は、障害は本当に古い習慣の優生思想を越えるためのすごい力だと思うね。力っていうか、メッセージっていうか。

プロフィール

1980年代、アメリカの自立生活運動に触れ、障害者の尊厳が守られていることに衝撃を受ける。帰国後、日本の自立生活運動に携わる。日本初の自立生活センター「ヒューマンケア協会」でピア・カウンセリングを実践。障害者同士が悩みや抑圧している感情を表す中で自分を肯定し、自立する力を付けていくことをプログラム化した。多くの障害者がこのプログラムを受けて自立生活を始めた。

1956年
福島県福島市に生まれる
 
生後40日目の検査で「骨形成不全症」と診断される
1976年
「福島県青い芝の会」の活動に参加
1983年
障害者リーダー米国留学研修生として、バークレイの自立生活センターで研修を受ける
1986年
ヒューマンケア協会の自立生活部門でピアカウンセリングを始める
1994年
カイロ国際人口会議で「優生保護法」と「子宮摘出問題」をアピール
1996年
長女・宇宙(うみ)さんを出産

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