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証言

タイトル 「障害者が生きやすい社会は 誰もが生きやすい社会」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 藤井 克徳さん 収録年月日 2015年11月18日

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チャプター

[1] 障害者運動の原点は「教育」  08:02
[2] 「共同作業所」の立ち上げ  12:50
[3] 「共同作業所」の立ち上げ(2)  07:12
[4] 障害の種別をこえて  04:46
[5] 自らの視覚障害とどう向き合ってきたか  07:54
[6] 障害は“自己責任”か?  12:28
[7] 自立支援法違憲訴訟  12:19
[8] 「障害者権利条約」の意義  10:51
[9] 当事者参加の「障がい者制度改革」  05:15
[10] 東日本大震災が示したもの  07:40
[11] 障害者が暮らしやすい社会は、誰もが生きやすい社会  13:28

再生テキスト

まあ、私自身もまず視覚障害があってね、一時、盲学校に入ったっていう経験もあったんですが、今こう考えてみて、やっぱり自分の原点っていうのはね、最初の就職が東京都立の小平養護学校っていう、肢体不自由児の養護学校、今は都立小平特別支援学校っていう名前なんですがね、そこに勤務して、途中から資格を、教員免許を取って、教員職に変わるんだけれども、その最初に就職した頃ですね、いわゆる養護学校の義務化以前の段階で、学校の職員会が子どもを選ぶっていう時代だったんですね。で、私が、まだ当時、まあ、もちろん若かったんだ、20代前半だったんだけれども、その職員会の光景は、やっぱり今でも自分の原点で、もしその一瞬の永遠、ってよくカメラマンが使う言葉がありますが、まさに一瞬の永遠っていうのは、あの職員会議の長々とやった議論なんですがね。まあ、簡単に言うと、翌年度、学校を希望する子どもを集めて、そして、様々な検査をして、そのデータを持ち寄って、職員会議で決められた定員を絞り込むと。最後は議長さんが多数決を促してね、で、決めてく。その時に、子どもの教育の権利っていうことを、多数決で決めるっていうことの疑問ですね。まああの、当時はうまく言えなかったんだけども、そもそも教育権っていうことを、多数決で決めるってこと自体が、自分には納得できない、と、懸命に食い下がった覚えがあって。まあ、当時ですね、その、それを仕切っていた教頭先生なんかは、「あの、お肉の塊のようなこういう子を藤井先生は教育して、可能性があると思ってるんですか?」てなことを返されてね。まともに反論できなかったんだけれども、それはおかしい、ってことだけは繰り返し言ったことを覚えてますが。まあ、そういう中で、この権利、っていうことのね、意味を自分なりに深めていったのが、その頃だったと思うんですね。

当時はですね、1979年当時になると、当時、文部省が普通教育は1947年に義務化したんですが、それから遅れること3分の1世紀たちますけども、義務化をするんだけども。で、それまではですね、重い子どもは学校に入れなかったんですね。みんな、在宅っていう言葉があって、お家でこうずっとこう過ごす、と。母親とせいぜいテレビがあるぐらいで、どこにも出れない、ちっ居状態っていう言葉がありますが、そういう状態で過ごしていて。ですから、例えば福井県鯖江市なんかの脳性マヒのデータでこう“短命である”というデータが当時知らされたりね。その点でいうと、学校に行けないことは、健康面だとか、命の長短にも影響しちゃうっていう、そんな状況だったんですが、まあ東京都は、国よりも5年早く、1974年度から、希望する子どもの全員就学っていう、全員入学っていうことで、国より早く始まったんですがね、それでもやはり、重い子どもはね、それまでは東京都でも入れなかったわけで。だいたい、私がいた、東京都立の小平養護学校では、定員の1.5倍くらい、まあ、定員が10人から15人だったんですが、教室の限りがありますんでね。したがって、いつも10人から5~6人は落っこちる、という状況でしたね。

Q:職員会議では何を基準に、入れる人、入れない人を選んでいたんですか?

結果的にですね、基準はややあいまいだったんだけれども、約70人くらい教員と介助員とが会議に参加するんですが、その中でやっぱり教育可能な子どもと発達の可能性が高い子ども、っていうことで、軽度、中度から順番に入れましょう、と。ですから、例えば知能検査があったり、運動年齢検査っていうのがあるんですがね、こういった検査のデータで、全体として、軽度、中度から入れていく、っていうのが、それまでの空気だったんですね。

まあ、そもそも、例えば日本の教育に関して言うと、憲法26条にあって、国民っていうのはあまねく教育を受ける権利があるんだ、と、いうことからするとね、そもそも、その重、中、軽度っていうことでね、まあ軽度、中度、重度っていうことで、障害の程度で、その権利の重みが違うっていうことは、これは平等に反するだろう、と。まあ、やや青っぽい議論ではあったんだけど、その権利に差がつくっていうこと自体がね、自分では理解できなかったし、どうしても定員があって難しい場合、私はもう、くじ引きでもいいぐらいの意見を言ったことがあるんですがね。

圧倒的、多くはですね、その、「藤井の言ってる意見は理想だけれども、それはやはり学校の教室の規模とかね、教員の規模とか考えたり、あるいは何よりも、東京都の教育庁、まあ普通は教育委員会の事を東京都は教育庁っていうんですが、教育庁っていうところに、やはり、指示があってね、定員が決められている以上は、それを守るのが普通じゃないか」、ということで、特にベテラン教員たちは、私の意見にはみんな反対、で、当然私はそうなると若い教員を捕まえて、懸命にですね、それに支持して欲しいというようなことも随分行ったわけですね。

まあ、結果的にはそういう主張がだいぶ通ってですね、私のいた養護学校では他の養護学校よりも、実は定員を超えて、学校の自主判断でね、子どもを入れることがだんだんできてくと。その代わりに、職員室を潰しちゃって、今でいうプレイルームにしたりね、図書室をなくして、そこを大きなプレイルームにして、廊下に棚を作って、図書を並べるっていう、そういう学校独自の、みんなで教員が努力し合ったっていうことの、そんな効果はあったんですね。

Q:その作業所の活動というのは、どういうきっかけで始められて?

これはですね、忘れもしない1973年の3月だったんですがね、私がいた勤務地が東京都立小平養護学校っていう、東京都の小平市っていうところで、当時人口が当時は十五万数千人のベッドタウンなんですがね、まあここに、いらっしゃった、住んでいた、本家慶昭っていう、本家、って書いて、モトイエさんっていうんですが、彼自身がポリオで、頸髄までやられて、不就学、学校に一回も行っていない方だったんですが、

この彼から連絡があって。彼がね、「自分は学校に行ってないし、何かこう、障害者問題で、問題だと思って、社会にアピールしたいって思ってた」と。で、ついては、まあ、「藤井っていう名前は知ってたので、いっぺん会わないか」って、いうことがあって。まあ、彼のお家に私がお邪魔して、で、そこでまあ、いろんな議論する中でね、何回かお邪魔したんですが、「やはり地域にそういう団体、まあ、運動する団体をね、作んないと、なかなか地域は変わっていかないんじゃないか」と、いうんで、その本家さんっていう彼との出会いがね、地域の団体を作っていく、私の組織的な、こう、運動とか、あるいはその交流団体を作った、端緒はそこでの始まりなんですね。まあ、彼と会って、会ったのが3月、1973年のね、で、まあ、どうせそういう組織自体を作るんだとしたら、ちょうど東京都議会(議員)選挙があったものですから、6月に。公開質問状を出すのもいいし、早めに作ろう、というんで、その年の6月23日に「障害者の権利を守り生活の向上をめざす小平の会」っていう会を作るんですね。で、ここで何が、何をするかっていう時に、最初に行ったのが、市内の障害を持った子ども、大人の実態調査をしたんですね。で、当時は、個人情報保護法なんてなかったわけで、心あるケースワーカーだとか、保健師さんだとかね、あるいは養護学校にある名簿等、いろんな名簿を集めて、当時、身体障害者手帳、それから、療育手帳、あるいは0歳児健診なんかの名簿を集めてね、そん中の350名弱を抽出して、で、養護学校の若手教員と、大学生にお願いして、その年の7月の下旬から8月いっぱい、要するに養護学校の教員の夏休み中ですね、40日フルに使って、2人ペアを組んで、教育、生活、医療、労働、っていう、この基本4分野の調査を行うんですがね、ま、これで得たデータが、実は、その目指す会、っていう先ほどの会のそのまま活動になり、また、私自身もね、そこで出た、得られたデータが非常にこう、その後の物事を考えていく上での、あるいは運動を進めていく上での一つの基本になっていったと思うんですね。

この調査結果の中でですね、やっぱり50数名の方が、働きたいっていう希望を持たれてるっていう実態が分かったわけですよね。で、これがまず一つのこう、大きなエネルギー源になったんですが、同時にですね、今度は74年の3月の、卒業式、高等部、私がいた養護学校の高等部の卒業式が、卒業式の日を迎えても、ほとんど全員がですね、一般就職は難しいし、それから当時東京都にですね、心身障害者福祉作業所っていう、都の独自事業があったんだけども、これとて、重い障害者は入れないという中で、また家へ帰るしかない、っていうことがあって、その子どもたちがやはり、卒業式の日になっても、また明日から学校へ行きたい、というふうなことがあってですね。私がいた養護学校じゃなくて、東京都立北養護学校を取材した、取材したある新聞がね、そのお通夜のような卒業式、っていう表題で、当時新聞出たことがあるんですね。それは私の養護学校じゃなかったんだけど、まさにその光景は、もう同じ光景で、晴れやかな卒業式とは全く違うわけですね。そういう地域の調査の結果と1974年のその卒業式を迎えて、どこへも行き場がない、って私たちの教え子たちですよね、その状況。ここの2つの理由からね、もう即、作ろう、というんで、1974年に共同作業所の設立準備会、っていうのを作って、で、もう学校を卒業したあと、家ににいちゃ、あんまり長い間家にいちゃいけませんから、6月の10日ですね、に、その「あさやけ作業所」をオープンすると。まあオープンと言ってもですね、その、当時はノウハウってなかった訳なんで、全部、まあ言って見れば自己流、っていうか、我流、なわけですよね。で、あれこれみんなで考えた結果、5つの要素がないと出来ない、ってことが分かったんですね。それは1つは、まず場所を、どう確保するか、それからもう1つは、その最低のその資金がいるわけですね、電話を引いたり、やれ、その改造をしたりね、最低の備品、テーブルを買ったりっていうね。こういうような準備資金と。それから、誰がその支援をするか、っていう、人的な体制をどうするか、っていう問題。それから、今度は仕事の中身、やっぱり作業所である以上、仕事ってことですから、どういう仕事を準備するかと。最後に、この送迎体制、送り迎えの体制をどうするか、っていう。これを短期間に準備をするわけですね。例えば場所問題は、本来、こういうのはやっぱり公が作るべきですから、市役所に掛け合うわけだけれども、決まった答えは“前例がない”ってことだとか、“実績がないものには、公は場所は貸せない”という、まあ決まり文句で、何度か交渉を折衝するんだけれども、まあ、ダメだ、と。で、アパート4畳半一間をね、貸してくれるっていう大家さんがいらっしゃって、まあ、ここに車椅子のメンバー5人も入ったわけですから。もう想像を絶するんですが、そんなふうにして最初、これでもみんなうれしくてね。始まっていくっていう。

Q:藤井さんが、どうしてもやっぱ作業所が必要だっていうふうに思った、 当時、立ち上げなきゃいけない、っていうモチベーションていうのはどういう気持ちだったんでしょう?

まあ1つはさっき前段に言ったね、教育っていうものを、権利として主張してきたんだけども、教育っていうのは小中、高等まで行っても12年間っていう、この限られた年限な訳ですよね。

教育っていうのは何かって言ったら、これはよりより社会人になるための準備期間を教育、っていうわけですから、もし卒業したあと、どこにも行き場なくてですね、家へ戻るようじゃ、本番なき準備みたいなもんな訳ですよね。だから、自分らの、やはりその教員としての実践をこう本当に深めていこうとするとね、当然その後の準備を備えてね、いっそう意味を発揮するという、やっぱり教育との延長、っていうのは1つ大きかったですよね。まあそれと、調査をした結果、みんなこう、働く場を待ってる、っていうことが、あったってこと。さっき言った卒業式で、卒業式でね、明日からも来てもいいか、ってことを問われた時に、どの教員ももう何も言えないわけですよね。まあこういうのが、こう複合的に重なって、そういう場を一気に作ろう、という、準備がこう、加速していくわけですね。

まあ、従来はね、その働くっていう能力は、かなり限られた論が前提にあって、例えばその、一定のスピードで物を作るだとかね、そういうある程度、労働能力が前提だったんだけれども、教育に下限がないっていう、さっき私たちが、どんなに重い子にも教育の権利っていうのは、限界がなくあるんだよ、というのと同じようにね、労働においても、その、全く寝たっきりだとかね、まずは医療が、医療面が優先すべきだっていう人は別としておいて、ある程度、医療を終えて、教育も終えた方はね、やっぱ私たちは、重くても働く、ってことは、一つ、やっぱ権利としてこれは考えるべきだろう、という、その大きな、仮説というか、前提論をそこに置いたわけですよね。だから、今、振り返っても、たぶん世界的に見てもですね、ややオーバーだけれども、ああいう重い状態の方、障害者に対する労働っていうのは、たぶんですね、歴史的にもたぶん、あんまりなかった経験じゃないかな、と、いうふうに思うんでね。だからその、今、こう雇用っていう体系とね、福祉的就労と、二元体系になってるんだけれども、これ自体、問題、本当は問題あるんですけれども、とりあえずまあ福祉的就労と言われている分野でですね、重い障害を持った人に、年金だとか、所得があればいいんだよっていうんじゃなくて、やっぱりお金の面だけでは解決しないね、労働、生産活動に参加をするっていうことから来る、成人、まあ二十歳を過ぎたね、大人としての、何か誇りとか、そこまでいかないんだけども、生きがい、とかね、いう点でいうと、この共同作業所が果たした、重い障害者の労働実践っていうのは、とっても私は大きな意味があったと思うし、そういったことまで、整理は、当時は整理はできていませんでしたけれども、とにかく無手勝流で挑戦したことの意味はね、歴史的に私は大きな意味があったと思うんです。

Q:その「共同作業所連合会」、「きょうされん」の基となるような組織を作っていくっていうのは何か理由があったんでしょうか?

当時ね、こういうその共同作業所を、どれくらい出来上がってるか、っていうことに、目を転じますとね、まあどうやら十数か所あるな、っていうことが分かったのが、70年代半ばなんですよね。で、その中で「全国障害者問題研究会」っていう、ま、全障研っていうのが、当時団体があったんですがね、そういうところの分科会でも、皆、共同作業所がプロパーっていうか、集まる場がないもんですから、そういう他の団体、ま、他っていうか、別な、いろんな障害団体の研究会や交流会に参加して、顔を合わせると。で、やっぱり少し、やはり、私たち専門の団体を作りたいね、っていうことが、パラパラ、こう言われたんですね。で、そういう中で、1つは、その無認可っていう、大変過酷な経営状況で、さっきの「あさやけ(作業所)」も3年間、補助金0ですからね。全部自前でお金作るわけですから。そうするとやっぱり、とにかく集まってですね、励まし合わないと、もう、その継続が難しい、っていう心配が一個あったのと、で、考えてみれば、もともと、国の制度がないことから来る、自主的な運営、実践、運営なわけですから、これ、まとまって国に運動しないと、これダメだと。全国的な励まし合い、っていう意味合いと、まとまった国への運動、っていう2つのテーマ掲げてね、それじゃあ、その私たちの分野だけの団体を作ろう、っていうんで、これは愛知の作業所の先輩であった「ゆたか共同作業所」に、当時、身を置いていた鈴木清覚さんっていう方との出会いでね、これは一挙に連絡会を作る方向に動いて、1977年の8月の6日に、「共同作業所全国連絡会」と。当時、各地で散見された16の作業所がね、集まって、結成の会には、30人程予定していた部屋だったんだけれども、90人ぐらい参加者があってね。ある旅館を借りたんだけれども、超満員でね、そういう会を結成したと。まあ、実は、まあ、今でみれば乱暴な作り方で、会則もなければ、ちゃんとしたこう事業方針ていうか、そういうものもない中でですね、まず結成の会をやっちゃった、っていう。その翌月にですね、やっと会則が出来上がり、文章での当時の運動方針とか、事業計画ってものが、あとでこう作られていくっていう。そんな作られ方をしたんですよね。

Q:どういう社会にしなきゃいけないっていうようなことが、その共作連の活動のベースにあるのかな、というふうに思って・・その辺はどうですか?

まあ、やっぱり大きく3つの、こう、ずっと視点をね、我々は持ってきたし、たぶん結成当初も今も、ここはたぶん原点として変わらないと思うんですが、1つは、そのずっとこう言ってきた、障害の重い、社会から排斥されやすい人に対する仕事を通してね、社会参加を果たしていこう、と。まあ、言い換えれば、やっぱり障害を持った人が主人公の、そういう働く場を作りたい、という。で、言い換えると、それまでの障害者の施設っていうのは、理事長さんがいらっしゃって、施設長さんがいらっしゃってね、職員がいて、こう何か主人公は、こう反対の感じでですね、まるで非障害者が主人公のような状況が、もう一般的だったんですね。で、みんなそこで従順に、こう従っている、っていう感じが、どこに行ってもそんな光景がある中で、やっぱ改めて主人公は誰かっていう、障害者、そして重い障害の労働を実践化しようと。もう一点は、これとも関係しますけれども、事業体自身の、そこに民主主義を持ち込むっていうんですかね、つまり関わってる人が、ある面では役割は、施設長さんもあれば、職員さんもいらっしゃれば、家族の障害当事者もいるんだけれども、みんながある面では、対等な関係でね、事業を作っていこうよ、と。

それからもう一個は、3つ目はですね、やっぱこれは地域のね、障害者運動のやはり、拠点的意味を持とう、と。で、今までは障害者の、この障害をどう見るか、っていうときに、環境要因って言葉があるんだけれども、そういう言葉を使わなくてもですね、当時僕らが実感したのはね、作業所の中でいくら楽しい思いをして、あるいは、場合によっては力がつく、というのがあっても、その玄関を一歩出た瞬間にですね、あそこから出てくるやつはおかしいんだ、っていうことを言われるような地域では、ある意味では営んできたことが半減しちゃうわけですね。本人からすると、とてもつらい地域っていう。そうすると本当に力を発揮できるためには、当人がこう、力をつけるっていうことと同じくらいね、ついた力を真っ当に見る地域にしていかないと、これは本当に力がついたことになりにくいんじゃないかと。こういう議論をしてね、そうすると作業所っていうのは、一方で、当人への働きかけはあるんだけれども、もう一つはやっぱり地域へ働きかけを怠ってはいけないと。それを私たちは一種の作業所自体が地域の運動のセンター、あるいはその、今ふうで言うと、啓発だとかね、センター。で、実際、実務、実践的にもボランティアさんが関わって、たくさんそこで変わっていくとかね、と、いうことがあるんだけれども。そういう点で、広い意味の、広義の運動の拠点機能と。そういう点において、モチベーションというか、自分たちの考え方の基礎はそこにあったと思うんですね。で、これは今でもたぶん、変わらないと思うんです。

Q:共作連(共同作業所全国連絡会)の活動から、藤井さんの活動・・いろいろその障害の種別をこえていろんな団体が一緒になっていけるような活動とかですね、そういった形にこう藤井さんのお仕事も変わってきますけども、そういうふうに活動を広げていかれたのは、いつ頃からどういうきっかけだったんでしょうか。

そうですね。「共同作業所全国連絡会」、略称、共作連っていうふうに言ってきたんですが、まあ、これが80年代の国際障害者年っていうのが、1981年にあったんですが、この頃にですね、全国の障害団体が集ってね。当時、「国際障害者年日本推進協議会」、現在の「NPO法人日本障害者協議会」。これが出来上がっていくんですが、ここに加わって、もう少し広い視点で、障害問題を語らないとその、無認可問題だけではなかなか発展しにくいだろうというんで、私たちはこう・・・の専門団体と、もう一つは他の団体との他流試合を含めてね、さらに大きなまとまった運動に関わっていこうというんで、・・・私も共作連に足場を置きながら「国際障害者年日本推進協議会」に関わっていくと。で、当時まだ教員やってましたんで、もう、そうなると、「あさやけ」(当時、藤井さんたちが運営していた「あさやけ作業所」)の経営はあるし、共作連のこの運動をね、引っ張って行く仕事はあるし、さらに共作連が加盟する団体の仕事もってやっていくなかで、もう到底、学校の教員はできなくなっちゃって、82年の1月に学校退職をするんですが。まあ、それ以来更に、「あさやけ」っていう作業所、まあ途中で精神障害者の作業所を一か所作るんだけども、これも日本で初めてなんですが、そういう小平の現場と、共作連の運動の場面と、それからNPO、まあ今でいう「日本障害者協議会」(旧・国際障害者年日本推進協議会)への参加と、いうふうになっていくのが80年代の序盤でしたね。

Q:それまではそれぞれの障害に応じた運動なり、政策ってのが中心だったんでしょうね。それがやっぱり変わっていかなきゃいけないと思われたのはどうしてかな、と思うんですが。

んー、まあ地域でこう障害問題やってますとね、例えば1人の人がそういうような障害を併せ持っているの当たり前であったり、それからどうしてもこの障害別で見ますとね、身体障害者が先行してそれに知的障害者が続いてね、精神障害とか難病ってのは全然制度が遅れていると。そうすっと、もうその種別にこだわっているとですね、ますます差がつく一方だし、そういう地域の個人がこう多様に障害を持っているという実態と、制度のこう実態の障害を示す間の目に余る格差ということに遭遇した時はね、やっぱりそれはまとまってやんなきゃだめじゃないかということで、私が、あるいは私たちが精神障害者作業所作った思いも、ここにやっぱり光を当てないと、結果的に身体障害の分野までね、まだあんたたちはまだマシでしょうということで発展しにくくなっていくし、やっぱ底上げを図っていくということで全体が変化していくんじゃないかとか、こんなこと感じたんですよね。

Q:藤井さん自身の視覚の障害は、いつぐらいにご自身としては自覚されたんですか?

えっとね、私自身はね、私自身は、元々弱視だったんですね。 で、当時そういう中で普通学校にもちろんいたんだけれど、私の父親の関係でですねえ、福井県生まれなんですが、滋賀を経由して、青森に行くんですけども。その当時ですねえ、盲学校の子どもを勧誘って言葉があってね、教員がずーっと県内を回って歩いて、一定の児童生徒を確保したかったんでしょうねえ。で、私がいた青森県の三沢市という中学校にも来られて、そしてまあ学校として、0.2~0.3だったんですけどね、視力は、その後も不安定な面があるというふうなことで、また弱視の強度化が心配なこともある、というんで、盲学校に入るんですね。そこで過ごすんだけども、結局盲学校は高校3年終わって、専攻科っていうのが2年間また上続くんですね。

その頃にまあ東京に将来、来たいなっていうふうなことで、翌年3月に東京に来るんですよね。で、ま、あのー私も、そういう鍼とかマッサージとかって免許は持ってましたから、関東逓信病院、今でいうNTT病院ですね、そこに一旦就職のあれを。物療室ってのがあって、行くんだけども。

その後、人材確保法案っていう、高校卒業程度で試験を受ける、もうこの法律も今は消えたんですがね。社会人から教員を募集するっていうのがあって。ま、これが、ま、偶然だと思うんですが何百人か受けて、ちょうど私も受かったんですが。数人か、もうほんと少なかったんですがね。で、まあ、平行して通信教育で教員の免許を取ることも準備していって。そんなことで25の時に教諭っていう道に身分を切り替えてもらって、まあ試験が受かったもんですからね。そんな経過で養護学校へ勤務していったということですね。

Q:その、ご自身の視覚障害に関してはどういうふうに受け止めておられて、 どういうふうに自分の中でこう受け止めていかれたかっていう、障害に関しての受け止め方っていうのは、藤井さんの中ではどうだったかなと・・

うーんとねえ、それはねえ、まあ大体、教員時代は大体普通に自転車乗り回していましたから。特に何て言うかなあ、うんと不便だとかいうのもなかったんですよね。で、だんだん教員を辞める頃あたりから、もうとにかく物を書くことも多かったし、とにかく徹夜に次ぐ徹夜だったもんですからね。でその頃に角膜移植を1回80年代初めに1回やるんですがね。その辺から、もしかしたら将来、まあその頃は将来まで考えなかったんだけども、だんだん目が悪化していくことがあったわけで。こりゃ困ったもんだなと。だからまあ、今で言う受容とか何かっていう意識よりもですね、移植をすれば良くなるだろうと、いうぐらいの気持ちでいたもんだから、決定的にもし障害の受容だとか、まあ今ふうでいうね。自分の中でこう受け入れるってなると、これはやっぱり40代後半の活字と決別をする頃が本格的に自分の・・これは緑内障っていう病気を併発しちゃって、もう治る見込みは・・まあ将来、あの山中教授のiPSとかっていうのが臨床、実用化すれば別だけど。それはやっぱ数十年、20年とかね、かかりますから。まあ網膜をこう緑内障で眼圧上がって圧迫して、網膜の視神経が壊死状態ということが分かった時に、完全にこれはもう回復は難しいなあと。まあ全盲という状態で、これからまあ、生きていくんだよなというのは40代やっぱり後半ですよね。

Q:その40代後半のその時には、どういうふうに自分のことを受け止められたんですか?

自分がねえ、障害問題やってきて、障害持った人たちに、まあいわば励ます側にいて、そして制度を変えていく側にいたわけですから。まあ、私の場合には、逆に体験をすることによってね、自分が行ってきた実践というか、行政なり社会の働きかけなんかがね、ある面では試されるっていうか。本当に的を射た言動であったかというあたりがね、検証できるわけですから。ある面では悲観的っちゅうよりも、まあ人間っていうのはその人の個性もあると思うんですがね、私は楽観、楽天的な面が強いもんですから、まあ何とかなるだろうっていうのと。むしろ障害問題やっていくなかでね、自分の障害っていうこと、またいきていくというのがあるんじゃないかというぐらいで。ただまあ、そう思ったのもですねえ、音声パソコンがやっぱあったからかも分かりません。音が出るパソコンがちょうど出来上がってくる頃でね。それがもし無いとすると、一体どうだったのかな、という。これは今考えてもぞっとするような感じなんで。それこそ障害ってのは僕の場合には眼球っていう機能障害だけれども、まあ、その間の権利条約でね、環境との関係で障害が重くもなれば軽くもなると言われてますけども、パソコンという、音が出るパソコンっていうね、この今のICT(情報通信技術)機器が環境として無ければですね、どうだったのかっていうのは大変、今になってみればね、やや恐ろしい感じがするんですが。ま、そういうこともあってか、そんなにものすごいショックとかっていうことは。それはショックはショックだったと思うんですよ、ええ。でもなんかこう落ち込んじゃうようなね、ことはなかったですねえ。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

2003年、国は、こうした障害者へのサービスを、全国一律に広げるための新たな制度を打ち出します。 障害者支援費制度です。 障害者自らが利用するサービスを自由に選択し、税金でその経費を負担する仕組みでした。 ところが、制度が始まってまもなく、大きな壁にぶつかります。2年連続で100億円を越える赤字となったのです。 利用者が予想を超えて増えたためでした。予算を越えた分の財源のめどが立たなくなります。

2005年10月、障害者のための新たな法律が成立します。 「障害者自立支援法」。福祉サービスの予算を「義務的経費」として確実に確保するものでした。 しかし一方で、障害者に一律、利用料の1割を負担してもらう仕組みとなりました。

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Q:なぜその支援費制度は大きな赤字になってしまったのかっていうのは、どういうことが考えられましたか?

さっき言ったように、私はね、大きな赤字ってないと思うんですよ。今はその障害者の政策費がね、1兆円を超えて・・って言ってるけど、当時、二百何十億円で大問題ってなことを、もうなんか厚労省がもたないようなね、そういう言い回しで迫ってくるんですが。元々は障害を持った人たちが地域で暮らしていくための元々の見積もりが、やっぱりしっかりしていなかったっていうこと。それからもっと言うと、障害者に関する基礎データがこの国の中に全くなかったっていうこと。従ってそこのところを曖昧(あいまい)にしておいてね、結果として二百何億円の赤字だってことを言うんだけども、それは私はそこ自体もおかしいし、ま、その後の自立支援法の台頭してくる経過を見るとね、そこにつなげていくためのまあ、その作られた失敗劇、さっき言いましたけど。作られた失敗劇ではなかったかな、と私はそう思っているんでね。金額的にもべらぼうな話じゃないわけですから。

Q:応益負担。利用者が負担をするっていう考え方を初めて聞いた時にはどういうふうに感じましたか?

私は・・それが後々裁判に繋がっていくんですけども。

もう一つはそのたった1割でもね、その所得が少ない障害者にとっては1割がキツイから制度利用をやっぱり断念しようとか、減らそうとかっていう。ま、利用抑制っていう効果がとても障害者には効き目は大きいと思うんですね。今は高齢者も、そういうのはなくはないと思うんですが、特に障害者の場合は年金しかないわけですから。1割っていう、例えば数百円でも数千円でもね、我慢しちゃおうというふうになるわけで。

1割っていうその額の高じゃなくてね、額のその数量じゃなくて、障害っていうことをどう見るかと。で、まあ、さっきも言ったように障害問題っていうのがね、本格的には戦後始まった政策だと思うんですけども。ま、それまでも戦争障害者は一部救済措置はあったけども、一般の障害者は戦後出来上がってくるんですが、流れはね。まあ特にヨーロッパの影響を受けながら、障害っていうのは個人責任っていうんじゃなくて、社会の、このみんなで支えていこうと、あるいは公的な責任で考えていこうっていう、これをですねえ、財政上も理論上もね蓄積してきたわけですね。作ってきたわけですね。これがたとえ1割であっても、障害を自己責任、自分の責任で考えなさいというふうになった時に、これはそのさっき言った、1割って数字だとか金額ってことよりも、障害者政策のこの根幹、障害をどう見るかっていう、そこがいちばん大きい問題だったように思うんですね。やはり当時、折からの財政構造改革っていうその、小泉首相になった後続くんですがね、全体にこう自己責任論っていうのが、あらゆる政策でキーワードになっていくんだけども、とうとうこの分野まで自己責任っていう考え方がね、来たのかって問題と、さっき言ったように障害っていうのは自己責任で片づけられたら、立つ瀬がないというふうなことで。これはですねえ、

今度は障害をどう見るかっていう障害問題の根本にいわば手を突っ込まれたっていう印象があって。これは、やっぱり闘わないといけない問題じゃないかということを、自分の中にそういう思いが増していったというのがあのグランドデザインの前後ですね。

Q:障害の自己責任論っていうのはどういうもので、それの何がおかしいかっていうのを藤井さんのご意見をもう一回聞きたいなと思うんですけど。

元々この障害っていうのはね、おそらく私の考えではね、好んでなる人はまずないと思うんです。例えば結果として、自殺未遂で後遺症が残る場合もあるかも分かんないけど、障害を持ちたかったわけじゃなくて、目的は自分で命を絶ちたかったってことで、そういうことで私は誰一人ですね障害を好んで自分は障害を得たかったとかね、持ちたかったってない。しかし、障害っていうのは、それは発生率は例えば脳性マヒであっても、あるいはその統合失調症であってもね、まぁ古今東西を問わず一定の割合が人類にはいらっしゃると。これは個人ではどうしようも防ぎようがない問題。医学が進歩しても、今度は命は取り留めたけども重い障害は残っていくっていうのはもう現状でいっぱいある訳でね、障害って問題はその個人を越えて、社会または公的にみんなで考えてもらわんといけない問題じゃないかと。そういう個人ではいかんともし難い問題を金銭面であなたは負担しなさいっていうことはね、これは障害の一つの自己責任形態ではないかと。これは障害者にとってやっぱり屈辱だと思いますよね。つまり、自分が好き好んでなってない障害についてですね金銭面で自分が負担しなくちゃいけないっていうのは、これは酷な話であって、障害を持ったことだけで、なんか山にいつも登っているような感じがするんだけども、これの応益負担っていうのは、今度山登りにまた鉛の服でも着せられたような感じでね、そういう感じをきっとみんな持つと思うし、私自身もやっぱり考え方においてはね、そういうふうな考え方に至ったわけですね。

Q:財政がそんなに豊かではないっていう中で、やっぱりその障害の分野に関してもそういう負担をしてほしいって、そういう社会の国の財政状況っていうことに関していうと藤井さんはどういうふうに感じますか?

まずいくつか感じるんですけどね、私はこの財政問題で言うと、今や一千兆円まぁ当時も七百兆円とか八百兆円の赤字があったって言われてる頃なんですが、まぁ一つは解せないのが一体誰が赤字を作ってきたかっていう、何て言うのか、総括も十分じゃなくてね、全部一網打尽っていうのはやっぱ解せないっていう思いがあるのと、もう一個はこの国のあらゆる政策経費、それは予算全体で言ってもいいし、まぁGDPっていってもいいと思うんですが、ここに占める障害者に使われる経費の分配率。これはよく言われるように、OECDの中で34か国で比べるとね、若干基準が曖昧な部分は難しいんだけども、どう見ても中間より下にしかないと。これは中間位から中間よりちょっと上に持っていくだけで相当な財源ってのはできてくわけで、やっぱりお金の使われ方ですよね、まぁ私は行政府だけじゃなくてね、他での配分は立法府が決めるわけですから、まぁ行政府・立法府のやっぱり障害問題に対するやっぱり認識の弱さっていうのがあるんじゃないかなぁと。それと同時にですね、さっき言ったように、そもそも基礎データとかね、ちゃんと正にエビデンスっていう問題になってくるのですが、証拠としてですね。データがはっきりない中でそもそもどれくらいの費用があった時に障害者の社会参加がね、どの程度できるのかっていう辺りが非常に曖昧なまま来てると。厚労省に言わせると、この頃からですよ、この頃から言われているのは、今でも言ってますけども、前年度比すごい上がってるんだと。この一点張りなんで、しかしこの前年度比の言葉のおかしさっていうのは元々の発射台が妥当だったかどうかっていうことは分かんないわけですから、元々低すぎた部分から出発してればね、いくらその前年度比プラスであってもね、有効値には達してないわけですから、そこら辺のところがですね、私はやっぱり非常に曖昧なまま進んでる。最後に今の答えではやっぱり、僕はやはり極め付けはね、本当にそれが必要だったらね、私は、国っていうのは借金してでも障害問題に関してはやはりきちんとした支援を出すべきじゃないかなと。それぐらいの正に障害を持った人の負担とね、苦しさっていう点でいうと、社会はそれくらいあってもいいんじゃないかなっていうことを思うんですがね、私は。

Q:その後この自立支援法に関しては裁判という形で展開していかれると思うのですけども、なぜ裁判で訴えようということを思われた訳ですか?

結局私たちはですね、厚労省との話し合いはその後継続して持つわけですよね。行政との交渉を繰り返し持つんですが、同時に国会でも質問を、これ与野党からもしてもらって、与党も野党からもね、やると。しかしこの答えがやっぱりよくない。変えようっていう考えが生まれてこない。一種の言い訳だけする。つまり自分らの論を説明するだけになってるわけですね。そうすると行政府や立法府にいくらやってもですね、それでも正当化するだけであって、なかなかその思いが届かないと。最後残っているギリギリは司法府っていう三権分立の建前でね、ここにまだアプローチしてなかったと。さっき言ったその障害自己責任論というとても屈辱的な被害の立件ができないかということを含めてね、司法府に持ち込む道を追求する訳です。

まぁ結果的には月一回勉強会をしようっていうんで、2006年の12月からね、ほぼ毎月勉強会をずっと2007年、2008年と持って、2008年の10月31日に第一次分訴訟が始まるということで。メインはやはりその障害の自己責任て問題に対する国家賠償ですよね。ここをメインにしてやっていこうと。

Q:どれぐらいその勝ち目というか、そういう勝つ可能性とか、見込みっていうのはどれぐらいあったんでしょうか?

まぁ率直に言って、運動っていうのはね、私の運動の考え方はですね。それは堀木訴訟(障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止規定の合憲性を争った訴訟)とか、朝日訴訟(生活保護給付の打ち切りの合憲性を争った訴訟)がその前にいろいろあったんですけども、その勝ち負けということよりは、もしかしたらもっとずっと後にね、それの影響も出ることもあるし、私が死んだ後も含めてですよっていうことはありうるわけで、運動っていうのは政治だとかそういうものと違ってですね、すぐ答えが出ないわけですよね。で、その頃から私の一つの持っていた信念っていうのは、運動っていうのは裏切らないと。どこかでそういうものをね、形を変えて伝わっていくはずだし。少なくともですね、これが司法の場でね対等に論陣を張れると、これ自体は行政交渉もちっちゃな部屋でやるわけだし、立法府においては政治家が代弁してくれるんだけれども、やはり被害者が直に物が言えるっていう点で言うとね、その裁判所での、この物言えるっていう機会はとても大きいということもあって、即座に裁判の結果ということよりは、私なんかはもちろんその結果は得たかったけども、結果だけを見るよりもね、新しい運動論としてそれから障害分野としては初の、おそらく初の集団訴訟としてですね、そういう新しい運動論の創造っていうことで、従来の運動ではきっとこの問題は多分立ちいかないだろうと。だから結果は分からないけれども、新しい運動論を司法に持ち込んで集団訴訟でいっぺんやってみようという。だからそういう確信あるかって言われたらまずないし、もし確信って言うんだったら、いずれこのことの意味がね後世を含めてつながっていくことは間違いだろうというのはありましたがね。

Q:自立支援法が始まって、やっぱり裁判で訴えなきゃいけないぐらいのその影響というのは出てたんでしょうか?障害者の自立支援法は。

それはやっぱり国も慌ててですね。

どんどん特別措置っていうんで、実際にじゃあどんどん軽減してるわけですよ。お金の軽減が、2回も3回も新しいのがこう、制度が塗り替えられるんですよ。

もう法ができあがってすぐにですね、この軽減措置。確かに障害者の側はね、これはうれしいですよ、軽減措置だから。所得のラインが変わったりね、制限の払う、国に払う額の部分の金額とそこに所得のラインがこう、どんどん緩和されてくんですね。本人はうれしいんだけども、よくよく見ればいかに制度が、設計が失敗したかってことを本当は裏打ちするようなものなのですね。そういう意味で言うと、実際の裁判の準備が始まった過程で、国も修正していくし、それから中にはやはりつらいという声が我々の中にいっぱい届いたわけです、声としてね。

Q:和解という話が出てきた時はどういうふうに思いましたか?

2008年から裁判が始まっていくんだけど、訴訟を起こすんだけども、2009年の8月の31日が総選挙があって、ここで民主党政権が誕生して、9月の16日にその新政権発足して、その3日後に民主党が自立支援法に関しては、これを公約通り廃止していくというふうな方向を出したんですね。まぁ我々も政権交代にあんまり過度な、なんていうか期待っていうのはね禁物なんで抑えてたんだけれども、はっきり公党がそういうふうな方向を出してくれたわけなんで、まずその9月19日の新聞で出た報道がね、とっても公約通りやってくれるんだなというふうな安堵感があって期待感を持てると、しかもその政権発足後3日目ですから、結構プライオリティーが高い問題として民主党は多分位置づけたんでしょうけどね。そういう中でその月の9月29日に広島地裁で厚労省がこれ以上は闘わないと、争わないというふうなことを言って、これが和解の始まりなんですがね。だからこの和解っていうのは、直感的にね、政権交代っていうその一種の何て言うのかな、アクシデントっていうか、それがあったにしてもね、国家として和解に応じるっていうことは、これは一種の勝利的な意味があるんじゃないかなということと、やっとね障害自己責任論がまぁそのどれぐらい浸透したかは別だけども、少なくとも表面上はですね、ある面のジャッジがあったわけですから、和解とはいっても非常にこれはうれしかったですね。

少なくともこの障害があっても一割払うっていう国の考え方が旗を降ろしたわけですから。これは一つ一旦、その後のことまで展開は予想しにくかったけれども、旗を降ろさしたっていう点でいうと、まぁ食い止めたっていう点においてはね、大きな意味があったなと。歴史的な和解であったなと、こんなふうなことを当時直感として思って、この先さらに残り13地裁が続くことで、多分同じ和解になると思うんだけども。しかしじゃあ今度は厚労省と、国家とこの訴訟団、つまり原告弁護団がね、どういうふうな和解文書を発展させた形で収束するのかなっていうのはやや心配であったんですけどもね、あったんだけども。ただ和解っていうのは一旦旗を降ろすことですから。そうだと思う。

Q:それで実際にね基本合意というふうな和解の文書を交わされたわけですけども、その中でも特に重要だなと思う点ていうのはありますか?

重要なことは応益負担を廃止っていうことを明言したっていうのがいちばん大きいんですが、それ以上っていうか質が違うけれども大事なことはね、その基本合意文書の大きな二つ目の項目のなんか2番目に入ってる項目でね、こういうのはですね、今回の自立支援法はその実態も把握できずに拙速にやったと。ついてはその多くの障害者のこの尊厳を傷をつけたと、ひいては心から反省をするという、陳謝という言葉は入らなかったんだけれども、心から反省という言葉が入ったと。こういう実態を踏まえずに尊厳を傷つけて、かつ反省をするっていうことを、国家としてね、国民に約束したってことはね、これは正に勝利的な和解であって、単純な和解でなくてですね意味があったなと。と同時にこの公文書は、ある意味で永久に残っていくわけですから、これからの障害者関係の立案のね一つの新しいベースキャンプになっていくんじゃないかなと。言い換えれば実態をちゃんともっと明らかにしたり、拙速にしなかったりね、あるいは尊厳を傷つけるようなことは理念上盛り込まないとかね、ということが裏返しであれば入るわけですから、これは単に厚労省の政策だけじゃなくてね、国家と結んだ、国務大臣と結んだわけですから、これからの障害者政策には少なくとも有用な意味を持つ合意文書だったんじゃないかなって、そう思いましたね。

国連にはですね、国連というのはどちらかというと、経済問題っていうことよりは平和と人権問題がメインな活動がね、ずっと特に第二次世界大戦の猛省から反省からできあがった国際機関なわけですからね。国連はですねその法的な効力のあるものとして条約っていうのを位置付けて、これを実際障害者権利条約ができる前に二十数本上げてるんですね。まぁ有名なところでは国際人権規約のA規程、B規程、あるいは女子差別撤廃条約だとか、あるいは子どもの権利条約とかね。実はその70年代、80年代と90年代ですか、それにいろいろな条約ができあがっていったんだけれども、障害者に関しては1975年にね障害者権利宣言っていうのが13項目でできあがって、それをテコにして81年から国際障害者年。

その後イタリア、スウェーデンが法的な効力を持つ条約を障害者にもって提案するんだけれども、時期尚早でこれは否決されると。2001年になってメキシコ大統領が提唱するんだけれども、まあ2001年っていうのはお分かりのように9.11があって、世界中が人権とか命とか傷痕おって落ち込んでいた時期であって、そういう環境もあったせいか、一気に受け入れられるんですね、世界的には。そういう点でいうと、条約の一番の違いっていうのは宣言とか規則とは違うのはその国が認めさえすれば、どの国においても法的な効力を持つっていう事。日本では憲法98条の規定にあって締結した条約っていうのはこれを誠実に遵守するっていうことがあって、これは憲法解釈では、一般法の上位にくるっていうことですから、簡単に言ってしまえば権利条約のレベルと一般法と比べっこして一般法が遅れている場合には条約のレベルに合わせないといけないっていう。そういうものでね。そのためには国連が決めただけではだめで、各国々が自国に持ち帰って、批准という手続きをふむと法的な効力をその国で発揮すると。まあ日本の場合には批准手続きは憲法の規定で国会承認が前提でそして政府がこれを批准書を作成するということで、日本の場合にはお分かりのように2013年の12月4日に国会で承認されて2014年の1月20日に批准書を国連に届けると。この日をもって批准と。こういう事で一番の違いは法的な効力があるかないかっていうことですよね。

Q:ということでいうと、目的はどういう事に?

目的はこの権利条約はですね、本則50か条からなっているんだけれども、35回出て来るフレーズがあるんですね。それはその「他の者との平等を基礎として」っていう表現が35回この趣旨が出てくるんですよ。要するにこの権利条約は市民一般との平等性、さっき言った障害者に新しい権利とか特別な権利っていうのは一言も言ってないんです。もっぱら一般市民との平等性、これがいちばんの眼目でこれは形を変えれば差別禁止って言ってもいいか分かんないし、いろいろな表現があるんだけれども、徹底した市民との平等性をこの条約は通底していると。こう言っていいと思うんですね。

Q:権利条約を作っていく過程に藤井さんけっこう関わっていかれたわけですが、そこで特に印象に残ったこととかありますか?

この権利条約はですね、他の条約とは違っていて、一つ経過面でおもしろかったのはね、僕なんか英語言えないから参加できなかったんだけれども、NGOが毎日打ち合わせをして朝、大きな部屋をあてがわれて、専用の部屋を貸してくれるんですよ、大きな部屋を。コピー機もあれば通信も全部自由にできるんですよね。そこから始まったんだけれども、よくよく見ていると当事者を加えてこの議論をしましょうと、当時のアナン事務総長ですね、それから特別委員会の2人の議長、一代目、二代目、共に障害者当事者を加えましょうと。国連の場っていうのは、あるいは条約の作られる過程は政府間交渉、政府同士の交渉事なので、民間は入る余地がないっていうのが建て前なんだけれども、はじめから障害者を入れましょうと、討論に。これは国連の考え方が主人公は障害者だから当然主人公が入っているのは当たり前っていう考え方なんですよね。

それを今回一挙に“Nothing About Us Without Us”、「私たち抜きに私たちの事を決めないで」っていうフレーズからしてですね、一挙に全面にこれを出してね、国連の方もその取り計らいをしてくれて節々で障害者が発言できるというふうなことになっていて、だから私はもちろん内容もキラキラしているんだけれども、作られる過程にいわば勝負があったというか、素晴らしいっていう点においてね、それを実感をしたんですよね。やっぱり「私たち抜きに私たちの事を決めないで」。それはちょうど国連での審議が佳境に入っていくのは2002,2003,2004,2005,2006となるんだけれども、ちょうど自立支援法の同じ時期なんですよね。ちょうどだぶってくるんですよ、時期が。だからそのコントラストがね、日本ではさっき言ったように当事者不在とは言わないけれども、当事者軽視っていうか官僚主導というか、いう流れとは全く違った生成過程、事を生んでいく過程があったわけでね。この辺は私なんかは両方に関わっていたこともあって、コントラストが非常によく見えたわけですね。

Q:藤井さんが「私たち抜きに私たちの事を決めないで」っていう言葉に出会ったのはどういう時ですか。

もう1回目の特別委員会の傍聴のその第1週目の中でね、フィンランドの当時「世界聾連盟」っていうのがあって、そこの会長だった女性が手話の人をたてて、主張していた。それから「世界盲人連合」のこれはスウェーデン人の女性なんですけどね、も発言をする。その中で初めて私は、前から知っていた人もいたと思うんですけど、私は初めて聞いたんですけど、その“Nothing About Us Without Us”っていう言葉を国連議場で響かせて言って、まあ通訳から入って来る言葉は、「自分らのことをはぶいて自分らの事を決めないでほしい」という事を言ってると。これはですね、何て言うか非常に新鮮味と同時にですね、なるほど国連っていう場は違うなと、国連っていう場の特別性っていうか、そんな事を感じましたね。それ以来、特別委員会の半分くらい私、傍聴しに行ってるんですが、8回のうち4回は行ってるんですが、その言葉があの国連の議場の分厚い壁にしみいるように繰り返し繰り返し、100ぺんどころじゃないと思うんです。何百ぺんだと思うんですけど、繰り返し言われて、その言葉をみんなかみしめるように、これは政府代表も使ったし。

それはこれまで障害者っていうのは、法の対象として誰かを支援してあげるとか、やってあげるとか、それからもっと言うと、そんなにやってあげるんだからだまっててよっていうふうな発言の機会さえ封じられることが多くあった中で、これがですね、一方で口では障害者は主人公だとか、主役はあなたよって言われるんだけど、どうも実感と扱われ方のギャップがあって日本であまり実感できなかった人が多いと思うんですね。僕らだってともすると、そういう振る舞いがあったかも分からない。これがちゃんと言語としてそういうフレーズにまとめられてね、かつさっき言った、政府間交渉の中に割って入って、NGO代表が胸をはって発言するというのは実に格好のいい光景ですね。胸のすくような感じがやっぱりしたわけですよね。だからやっぱり本当の意味で法の対象からまさに主体として名実ともに飛び出るというような事の裏打ちするフレーズじゃないかなと。

Q:「障がい者制度改革推進会議」っていうのはどんな目的で?

結局ですね、障がい者制度全体をいったん総点検をして改めて問題点を洗い出そうということで、個別の改正改正っていうことでなくて、制度全体を見直そうっていう事が眼目だったんです。特徴っていうのが

一つは委員の過半数が障害当事者だったと。26人中オブザーバーも含めてですね、14人が障害当事者、それでさっき言ったように、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」っていうものの日本版だったんですね。それから二つ目には障害当事者が委員になるからには、そこに合わせた配慮、支援、例えば、手話通訳なんかも資料整理要員まで含めて4人も5人も配置されたり、僕なんかにも1人アシスタントがついてくれたり、知的障害者の人には討論が分かりにくい場合にはイエローカードとかレッドカードというものを持ってもらったり、部屋の温度まで考えたりね、そうやって当事者参加ならではの支援なり配慮があった。それが2点目ですね。今で言う合理的配慮って言ってますけど。

Q:イエローカードとかっていうのはどういう時に使うんですか?

イエローカードはいったんここで難しいから説明とか外来語だとかカタカナ文字だとか難しい熟語なんかは説明してほしいと、いう場合はイエローカード出すし、レッドカードっていうのはちょっといっぺん議論をストップしてほしいと。ちんぷんかんぷんだし。それを出す事はめったに・・。イエローカードはしょっちゅうありましたがね。ブルーカードはよく分かったとか。そういう事で、そういうふうな理解の度合いによって3色のカラー板で、それを示すっていう事をやったっていうことがありましたね。

Q:藤井さんそこに委員として参加されていてその場の空気とかどういうふうに感じていましたか?

私は委員長代理っていう役割にならせてもらってね、実際上高齢の方が委員長だったから議長だったから全部私が議長やったんですがね、さっき言ったように、参加をしているなっていう。参画って言ってもいいかも分かりませんが、そういう初めての実感ですよね。そういうふうなことがまずあったのと、確かに時間を要するけれども自分らで作っていってるなっていう策定の実感ですよね。それはさっき言ったように、僕なんかは今でも障害者基本法は関わっただけに帰属意識がやっぱりありますよね。自分が関わっただけに不十分さと同時にですね、もっとここはこれからこうなっていくはずだとかいうのがあるっていう点では、策定への実感っていうことがあるし。それから同時になるほど行政の壁とか、こういう理由でこれは難しいんだなっていう、初めて難しさの理由が今までは在野からあれこれ言って来たんだけど、なるほどこういう理由で壁があるんだなと、いうふうなことはとかね、そういうのはいっぱい感じましたから、これはいい学習になったと思いますね、関わった委員の皆さんは。

やっぱり当事者が参加をして自分たちの政策を行政と一緒に後半は立法府と一緒に作っていったという。これは一緒に作ったということは、当然行政府、立法府は専門家がいっぱいいるんだけれども、障害者も入って作ったっていう事はね、これは日本で私はそれまではなかったと思うし、その後も今ややトーンが下がっちゃっているので、でも日本でもあそこまでできたんだっていうことは、未来において一つの資財になると思うので私がいちばん大きいのはやっぱり一緒に作ったっていう、これがいちばん大きな成果じゃないかなと。

Q:震災の時、障害者で亡くなった方の死亡率が2倍だった事の事実がありますけど。この事態は藤井さんはどういうふうに受け止められてますか。

ちょうど権利条約が生まれてね。私たちは新しい社会作りに向かうんだと。

世界ともつながる共通言語を持ったと。こう意気揚々としていた時ですよね。日本も近々批准も、そう遠くないし。制度改革推進会議で着々と準備してたと。 その最中に起こった震災でね。あっという間に障害者の死亡率が2倍。全住民の死亡率2倍っていうのが入って来ると。つまり非常に強力な助っ人を得たはずなのに、しかし一旦事が起こってしまうとね、2倍の不利益っていうの、たちまち不利益っていうの表れて来るっていう。その脆さっていうか。障害分野の実相っていうかね。これを強く感じたのがですね、2倍の死亡率で。ですからその権利条約を得ただけでは、やっぱり・・・解決してかないし。この権利条約を元にして、よほどこれは我々がね普段から頑張らないといけない。で、2倍の死亡率ってのは、もちろん先ほどの権利条約が言ってるように、社会のイエローカード。つまり社会全体がどうもこう強者の論理で、基礎が作り変えられてしまっていると。これに対して、障害者も沿岸部にはいっぱいいて地域が出来上がってたはずなのに、結局逃げれる人は逃げれて、逃げ遅れた人がいっぱい。障害者の中には少なくなかったはずなんで。一旦事が起こるともろいなっていう意味がひとつとね。 もう一個は2倍の不利益って問題は、これはもしかしたら、震災っていうのは、より矛盾をよりクリアにする事であって。本当は日常生活、平時の中にね、日本列島のそこかしこに二倍の不利益は眠ってる、潜んでるんであって。そこをえぐり出さないとね。事がある度に、こんな事を重ねてくんじゃないかと。いう点で、東日本大震災に対する障害者の特別支援という我々の活動と。もう一度日常の、平時の障害者の生活の有り様とかね、2倍の不利益を発見する努力っていう事を。両方やっていかんといけないっていうのが、あの東日本大震災が教えてくれたね。ひとつの2倍っていう数字の意味であり。 その時に改めて2倍問題と、権利条約を重ねた時にね、たぶん権利条約の新しい活用のしかたがあるんじゃなかろうかと。こんな事を感じたのが東日本大震災であり、それから、そのまぁ直後に批准されるんだけども。権利条約の見直しっていうよりも、権利条約の我々の、なんて言うかね。改めてもう一度条約を捉え直ししようという気持ちになったのは、そんな時でしたね。

そのまぁ理想論で言うとね、本来等倍ってか同じ倍率でね、人間である以上は、もしああいう大震災なった時はね(同じ倍率で)被害を被ればいいんだけど。やっぱ2倍っていうのは障害があるが故に被った余計な不幸なわけですから。これはやはり余計な問題としてね、捉えなくちゃいけないっていう事で。自然災害は避けられないけども、2倍っていうのはこれは人災の要素が大きいと。いうふうに私は考えて。2倍はもう人災であると。こう断言してるんですがね。

Q:2倍の格差っていうの、どういうふうにしたら埋めていける可能性がありますかね。

まぁそれはいろんなね、

明快な答えはないんだけども。私はやっぱり防災政策でもね、街作りでも、やっぱり当事者が参加してない中で作られてる事からくる予測の間違いっていうか。なると思うんですよね。私はやっぱり結果まだ、さっき言ったように分かんない面があるんですよ。また大きい災害であればあるほど結果厳しく分かんないけど。一旦できる事はね、その災害に関係する政策作りや、あるいはその防災と防災を意識した街作りにあっては、当事者が参加して議論をし一緒に作ってくっていう事が、まずやって欲しいと。でもう結果としてですね、復興委員会、都道府県ごとに作られたりね。それから市町村でも作られたけども。都道府県の復興委員会に障害者が入ったっていう事は聞いてないんですよね。それから市町村レベルでもほとんどない。っていう事で言うと、ああいう事をくぐってもね。ああいう事って2倍っていう不利益っていうのを目の当たりにしながらも、やっぱりそこはね当事者は加わってない。だから私はまずそこから始めるべきじゃないかなと。

かつて国際障害者年の時にね、国連の決議の中の一節に、「障害者を締め出す社会は弱くもろい」って明言したんだけども。やっぱりそれは2倍の死亡率はね、明らかに障害者がやっぱり締め出されてるって事になるわけですから。残念ながらこの国はね、この社会まだまだ弱さもろさを露呈したというふうに、私はやはり社会の側の敗北ではないかなと。先ほどそれに対するあるべき答案、答えあるかって言われたけどもね。さっき言ったように明快に策ないけども。一旦とにかく参加をする事でね、何か活路が出てくんじゃないかっていうのが私の持論で。これから東南海だとか首都圏直下型なんかがあるけども。私改めてですね、この震災政策においてはね、もう大至急やっぱ当事者参加をやはり考えて欲しいし、実現して欲しいし。と思うんですね。

Q:これが絵本ですか。

これが絵本ですね。

Q:どういった絵本になりますか?

これはですね、「障害者権利条約」を、これは版画と文章とで組み合わせた絵本でね。なかなか難しいと思われている権利条約を小学生の高学年ぐらいから分かるような表記で書いてあるものなんですけれどね。こうしてめくると、ずっと権利条約が国連の議場で生まれてくるあたりから始まって。

Q:これが生まれてくる場面ですかね。2006年。

条約を擬人化しましてね。そして・・

Q:黄色い髪の赤ちゃんが権利条約を擬人化してるわけですね。

これが条約。 例えば20ページぐらいを見ていただくと。

Q:これが20ページですね。

これはだいぶ発展しまして権利条約が日本の国も定着をして。将来こんなふうな社会になればいいなっていう、未来の予想図ですね。

Q:この町の絵っていうのはどういう意味があるんですか?

これは今度の権利条約の1つの貫いている考え方が“インクルーシブ”っていうふうな考え方でね。“インクルーシブ”っていうのは簡単に言うと分け隔てしないっていう事で。これまで障害者っていうのは例えば施設に入ったり、ずっと長期に病院に入れられたり。そうじゃなくて一緒に同じ町の中に住んで行こうと。将来はこういうふうにあってほしいと。そういう願いを込めながらね。将来の近未来の社会のあり方を表したというふうに考えてもらっていいと思うんですね。

Q:これは文章にも絵にも、障害のある人だけじゃなくて、例えばお年寄りだったりとか。お子さんだったりとか。

病気の人とか、ベビーカー、あるいは一過的に重たい荷物を持った人も含めて様々な人が社会にはいらっしゃるし。逆に言うと障害を持った人が住みやすい社会というのは、みんなが住みやすい社会ですよと。これを表したんですね。

言い換えると、今やれ効率中心とかね、あるいは生産性が高い人が人間的に価値があるんですよっていう事を、それをずっと突き進みますとね、当然障害者はそれとはやや相容れない、生産性も厳しいし、効率もあんまりよくない場合もあるし。でも結果的に考えていけばそういう強いもの中心の社会っていうのは障害者だけじゃなくて、恐らく女性も子どももね、高齢者も病気の人もそれはきっと住みづらくなるはずだと。そうするととっても厳しい条件にある障害を持った人に、そこを支えていく、あるいは住みやすくなればね、これは結果としていろんな厳しい条件を障害者ほどじゃないんだけれども、いろんな厳しさを持っている方たちみんなが住みやすくなるっていう、いわば社会の住みやすさの底上げって言いますかね、そういう役割を障害を持っている人たちには持っているんだということで、国連はこれをいち早く今から30数年前ですかね。国際障害者年という時に大事な決議文を国連総会で決めたんですが、その一節に「障害者を閉め出す社会は弱くもろい」と。こういう事を言ったわけで。逆に言うと障害を持った人を大事にする、あるいは住みやすい社会っていうのはとてもしなやかで本当の意味で力のある社会だっていう事。これをなかなかどう表すかってずいぶん苦労したんですが。今回こういう絵にして表してみたと。そんな感じですかね。

今この国は様々な問題や課題を抱えていますけど、一つでも遅れた分野を残してしまうと、それが社会の最低基準値になってしまう可能性があるんですね。つまり障害もった人が遅れているとすると、高齢者やあるいは母子家庭の方たちを含めてシングルマザー含めて、あなたたちは障害者よりまだましでしょってことになってくわけであって、つまり障害分野の遅れというのは単に障害持った人の暮らしにくさだけじゃなくて、社会のひとつの最低ラインを、より押し下げてしまうというようなことになりかねない。逆に言うと遅れている分野を引き上げることによって社会全体の生活のレベルラインがね、上がっていく、あるいは底上げされていくってことになっていくわけで。障害者問題というのは社会のありようと深く関係してくるという面を持っていると。

今障害者のことを私は話をしたんだけれども、しかし高齢者になって例えば老齢年金だけで暮らしていく状況になったり、あるいはどちらかが倒れて、奥さんと、ご主人となってく、あるいは認知症が進んでいくと、ほとんどこれは障害問題というのはいずれこの国の超高齢化の問題とほとんどオーバーラップしていくはずなんですね。つまり、今、この障害問題を取り組んでおくということは、今後の超高齢化社会に向けての非常に、いわばいいリハーサルをすると。これしっかり基礎を作ればね、おそらく安心社会の、私は、方向出てくると思うんですね。そういう点で言うと障害問題というのは日本の否が応でも避けられない、高齢化社会や認知症の方が増えていく状況を一緒に社会が受け入れるわけですから、そこの前段階でのね。大事な取り組みがこの障害問題には内包されていると思うんです。

もちろんそれは高齢化社会だけじゃなくてね、やはりシングルマザーにしましてもね、いったん病気になった時に全体の生活のバランスを崩していくと。あるいは外国人の日本在住者、つまり全体として生活困窮者が増えてる中でね、私はそのいちばんの縮図的、凝縮的、集積的問題を含んでいるのは障害分野じゃないかなというふうに思いますんで。単に障害者の生きやすさ、暮らしやすさだけではない。社会の一つの方向性を示しているのは障害問題の基本じゃないかなと思ってます。

やはり私たちは今ですね、社会全体が他者のことをあまりにも考えなくてことが進んでいる、あるいは他の価値観を共有するということが減っている、あるいは想像力をね、高めて、本当に苦しんでる人のことを考えてみようとか、これも減ってる。そういう点で言うと、他の人の在り方だとか、他の価値観だとか、想像力ということがいま社会全般問われてますけども、障害問題と私一般市民の関係というのはそういうことだと思うんですね。もちろん障害持たない人が障害にならなければすべて障害者問題分かってくれないってことは思わないけれども、もう少しそこは想像力を働かしていくということが問われてるんじゃないかなと思うんですよね。と言いますのは、障害を持った人の数っていうのは日本国内でこそ厚労省の統計では今、約780万人、2014年度現在ですね。人口比に対して6パーセントなんだけども、これは世界保健機関の統計では2012年なんですけど、人口の15パーセントということを発表してますし。あるいはアメリカの統計では人口の20パーセント。そうなるとマイノリティ、少数派と言えないわけですね。まさしく自分を中心として親兄弟子どもなんかを視野に入れると6人に一人が障害を持つわけですから。そういう点で言うと、もはやこれはですね、社会全体のあるいは自分の身近な問題として取り組んでいく、そういうことで単に想像力だけじゃなくてね、数字上も普遍的課題になってるはずなんです。

Q:そうするとまず想像するっていうことが一歩、大事なスタートになるんですかね。

まず想像することと、もう一つは私も先ほどの権利条約の話じゃないけども、やはり知ってもらう機会をね、私たちは提供していきたいし、また市民の側も知る努力をするってことも考えてほしい。そのためにはですね、努力だけじゃいけませんから、私は障害を持った人と接する機会ですね、これをどれくらい意識的にね、多くしていくのかと。残念ながらこれまではインクルーシブ社会なんて言われながらも、いわゆる分離された状態、結構少なくなかった。それは教育にしてもね、あるいは遠くの施設に入ったまま地域に帰ってこれなかったり。精神病院にずっと閉じ込められたりね。そういう点で言うと社会の在り方も問われてくるんだけども、個人個人のレベルでもね、いかに障害を持った人と接するかということは、ものを読んで知ることよりも、あるいは人から聞いて知ることよりも一番知る方法としては得がたいものだと思うんですね。それはもっと具体的に言うとボランティアっていうこともあるかも分かんないし。あるいはちょっと町で接した時に声をかけるということ、目が見えない人がいた時に、どうですかって声かけることもね、接する方法だし。いろんな方法でそこは接する方法はあると思いますね。

プロフィール

子どもの頃から弱視で、40代後半で全盲となる。養護学校で働く傍ら、障害者が働くための「共同作業所」を立ち上げ、その全国組織の結成や運営にも携わる。2004年、権利条約批准をめざして国内の代表的な障害団体が集まった「日本障害フォーラム」結成に動き、国連の障害者権利条約ができる時には日本の障害者の声を伝えに度々国連に飛ぶなど、日本の障害者運動をリードしてきた。

1949年
福井市生まれ
1970年
東京都立小平養護学校(現・特別支援学校)勤務
1974年
あやさけ作業所 立ち上げ
1981年
共同作業所全国連絡会(現・きょうされん)事務局長
1982年
あさやけ第二作業所 所長
1994年
共同作業所全国連絡会(現・きょうされん) 常務理事
現在
きょうされん 専務理事
 
日本障害者協議会 代表

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