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証言

タイトル 「私は人形じゃない」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 三井 絹子さん 収録年月日 2015年10月12日

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チャプター

[1] 1日目 施設入所 衝撃の体験  34:06
[2] 2日目 紙芝居「なきむしかめさん」  10:33
[3] 2日目の続き 移転問題 勃発  08:40
[4] 3日目 「テント闘争」に込められた思い  24:23
[5] 4日目 施設を出て地域へ 自立生活のはじまり  07:35
[6] 最終日 なぜ闘い続けてきたのか  07:51

再生テキスト

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*********

Q:体調はいかがですかね?

まだ残ってます。

Q:ちょっとお疲れですか。疲れが残ってますか。お疲れのところ申し訳ないですけど・・

いすに、どうぞ。

Q:ありがとうございます。 施設に入る前の家族との暮らしはどういう生活でしたか?

うちは貧乏だった。それで、母は近所の家に借金してて、その家の手伝いもしてて、家計を助けていた。

Q:お母さんは絹子さんたちの面倒だけじゃなくて、他の家の面倒もみてくれていた。

そうそう。

Q:お母さんは絹子さんに対してどういうふうに接してくれていましたか?

普通の子どもとして、いい悪いをちゃんと教えてくれてた。

Q:ご自身の障害のことっていうのは、いつどういうふうに意識されるというか、考えられる、きっかけとか思い出とかありますか?

やはり障害・・兄弟たちが学校に行くけど、私は家にいて学校に行けなかったし、行けなかったから、その辺で、今で言う、障害者と感じてた。

Q:どんなお気持ちでうちにいたのかなと思うんですけど。

音楽が、流れてきたし、

Q:学校のですか?

そうです。生徒の騒ぎ声がよく聞こえてきて、いいなあと、思ってた。

Q:学校が近かったんですかね。聞こえてきたんですね。

そうです。

今でも、就学猶予ですね。

Q:当時、就学猶予ということで学校に行けなかったんですよね。今でもっていうのは、今でも猶予されている状況だということですかね。

そうそう。

Q:学校へ行っていない間は、おうちでどういうふうに過ごされていたんですか?

兄弟に文字を教えてもらったから、日記を書いたり、よく

NHKの教育テレビを見てて、学んだ。

Q:施設に入るきっかけというのは、どういうことで施設に入ることになったんですか?

きっかけは、兄の結婚話からです。 私ともう一人の障害を持った兄を施設に入れてくれということからです。

Q:そういうふうな話が出たとき、どういうふうに感じましたか?

ひどいと思った。なんで、なんでそんなことを言えるのかと。自分だけよければいいのか、と。恨みましたね。

Q:何がつらかったですかね?

何しろ、私引っ込み思案で、家でもお客がくると、ふすまの陰に隠れちゃう子だったのね。 だから、もう家を離れること自体が信じられなくて。

捨てられる気持ちでいっぱいでした。

Q:今でも思い出すとつらい気持ちになりますか?

そうですね。そこを忘れたらまた、施設にいかされちゃいますね。そんな世の中ですね。

だまってたら、いいように社会の都合で隅にやられちゃう。

Q:今でもそういう不安って感じますか?

そう。それは、常にあります。

*********

初日は、まず着いたとたん、ストレッチャーに寝かされて検査室に運ばれて、そこからいろいろな検査して、衣類もセンターのものに変えられて、それだけでもびっくりした。 それで、裸にされて、撮影されて、座位と立位と寝てる姿勢と撮られて、それでもうショック受けて、私は病人じゃないのに、と。 施設というとある程度、私物や、私物の持ち込みも許されるんだけど、センターは一切だめでした。

Q:そういう対応に対してどういう気持ちになりました?

何だと思っているんだろう、私たちを。何のために裸の写真とるんだと。後から何度もその写真を返せと言った。

Q:理由は教えてくれないわけですか?

はい。

Q:施設の生活の中で絹子さん、どういうことがつらかったりしましたか?

やはり、トイレの時間が決まってて、それ以外の時間に言うと、すごく嫌み言われたり、時間まで待たされたり、または、トイレに入れてくれても、そのままいくら呼んでも来てくれなかったりとか。

Q:トイレにおきっぱなしにされるわけですか?

はい。最高、2時間。

Q:2時間トイレに置かれたままだったんですか?

へとへとになったとき、とか。飯、食事が遅いと、さっと持って行かれたり。

Q:食べ終わってないのにですか?

はい。髪も、みんなは言うことを聞いて、カッパ。

Q:おかっぱですか?

(おかっぱというよりももっと短いんだそうですね。すごく短い。)

Q:なぜ短くするように言われるんでしょうか?

職員の、洗う手間を省くためですね。

Q:職員の洗う手間を省くために髪は短くしてほしいということだったんですか?

そう。私は抵抗して伸ばしていた。お下げ?ここまで?ここまで伸ばしていた。

Q:絹子さんは、職員が言うようには短くしないで長くしてたんですか?そうすると反応はどうだったんですか?

ものすごい弾圧というか、嫌がらせされて。

Q:それでも髪を伸ばそうとしたのはどうしてだったんでしょうか?

だって、私の意志でどうして伸ばしてたらいけないんだと思ったから。服だって、病人じゃないんだから、昼間はきちんとした服にしたかった。

Q:病人じゃないから昼間はきちんと着替えてそういう格好したかったけど、それも、センターでは基本的には普通の服じゃなくて、センターの服をずっとみんな着ていたわけですね。

同じ、誰もみんな同じパジャマ、ダブダブの。

Q:絹子さんはご自分の服を着られていたんですか?

はい。

だって、私動けなくても人形じゃない。ちゃんと意志を持ってる人間だもの。

Q:そういうご経験されて、絹子さんは施設というのはどういうところだと感じました?

入ってる人には悪いけど、社会のゴミ捨て場ですね。私、つくづくそう思う。単に殺せば問題になるけど、施設を作って入れておけば騒がれない。

単に、飼い殺しの思想ですね。昔から、変わらないと思う。

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Q:絹子さんはこれで何を伝えたかったんですか?

思想、私の思想。

言いたいのは、自分は自分なりに生きていけばいいのだということ。人の言う、人の真似をしたってできないし、うらやましがってても何もならないし、自分を出して生きていこうという物語。市民祭りで子どもたちに、紙芝居としてやってたの。

Q:この話を考えられたのは、絹子さんのご自分の体験もその背景にはあるんですか?

そうです。

10代の頃、私ちょっと歩けてたのね。寝起きだと、ちょっとだけ散歩してたの。その時、近所の子にいじめられてね。そういうことが重なって、だんだん閉じこもるようになって、思春期というか、恥ずかしさもあってね。

Q:どういう人にいちばん伝えたいなって思ってこういう絵本をつくったんですか?

子どもたち。

大人になってからだと、なかなか意識は変えられないでしょ。

私は、自分の子に、差別をしない子させない子、そして差別を許さない子に育てたかった。だから、他の子にも、社会を担っていくんだから、私たちのことを排除しない子を願って、この絵本を、紙芝居をやってました。

世の中には、いろんな人がいるんだよと。それを、お互い認め合っていこうよと言いたいの。ちょっと他の人と違うと、もう排除する。そんなことしてたら、この社会はロボットしかいなくなる。人間としての温かみや切なさがあってこそ、気持ちが通じていくんだから。みんな違ってていいんだというメッセージのようなもんです。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

センターに入所した人のおよそ半数は、体の障害だけでなく、重い知的障害もある「重症心身障害者」でした。 自分で呼吸や栄養の管理ができない人も多く、医療的ケアが欠かせません。 しかし同時に、絹子さんのように、体の障害は重くても、医療的ケアを必要としない人も、多くいました。

当時、都の担当者や専門家が施設運営のあり方を検討した委員会。 医療の必要の程度が違う人たちを同じ場で処遇することは酷であり愚かであると認めています。 これを受け東京都は、医療の必要が少ない身体障害者を別の施設に移すことを計画。 しかし、当の本人たちへの意志確認はなく、移転先は町から離れた山の中の施設でした。 絹子さんたちは「たらい回しにするのか」と反発、移転を拒否します。 学生運動に取り組む若者たちが支援に入り、反対運動は激しさを増しました。 1972年9月、都庁前にテントを張り、座り込んでの抗議行動に訴えたのです。

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Q:移転の話はいつどういうふうに知ったんですか?

外部からの情報です。

Q:そういう話を聞いたときに絹子さんはどういうふうに思いましたか?

またか。私たちの意志を無視して移転させられるのか。

私たち身体障害者は、問題ばかり起こしてるというのが本音でしょ。管理者側は、うるさいやつは分けてしまえと。

管理者側は、障害者は本来介護されるから、黙っておとなしくしてるのが常識だと思ってたと思うのね。 それを、私たちは問題提起ばかりしてたから、もうこれだと人里離れた場所に隔離しておくしかないと考えたんだと思います。そのことは事実です。

Q:実際に移るかもしれない場所に見学にも行ったりしたんですか?

はい。

最初は、バラックが立ってた。小高い山で、道もひどかった。何度も見に行って、センターにも都にも、移転をするのかと聞いても、知らぬ存ぜぬ。

木がうっそうと茂って、暗くて、人も通わないようなとこ。

本当に、下界と切り離される感じだった。

Q:なぜ移転に反対したのか、その理由を教えてもらっていいですか?

社会と切り離されることが恐怖だった。

Q:本人、移転されるみなさんの意志を「どうですか?」って確認とかはなかったんですか?

全然なかった。

本当に無視の一言ですね。だから、私は絶対移転はしないと固く決めて院長や管理者に文章を出した。

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適当にいすを使ってください。

Q:ちょっと準備させていただきます。ありがとうございます。お気遣いありがとうございます。 絹子さんたちの怒りとか、その気持ちが、何をきっかけに都庁前での抗議活動につながっていったのでしょうか?

これ以上、社会から切り離され、そこで、生きていくのが我慢できなかった。どうせ死ぬなら、一日でも、自分の意志で生きたいから。捨て身で座り込み、挑んだ。

私も、こんなに1年9か月も持つとは、思わなかった。

Q:なぜそれだけ長期間になったんでしょうか?

都が、東京都が、障害者の問題を、真剣に考えて取り組んで、くれなかったからだと思う。 それまで美濃部都知事は、福祉の美濃部と、もてはやされてたから、私たちの行動は、考えにものぼらなかった。考えにも及ばなかった。

Q:それだけ長い間、毎日テントでどういう気持ちで過ごされていたんでしょうか?

悔しいし、情けないし、なんで障害者が、障害者の私が、ここまでやらなきゃならないんだと、毎日、思っていた。

Q:体力的にも精神的にも結構きつい日々だったんじゃないかなと思うんですけど、どうでしたか?

そう。特に都庁前は、交通が激しくて、排気ガスがひどくて、時々、具合悪くなって、アパートに寝に行き、ちょっと良くなってはまた、テントに。

Q:ときどき体の調子が悪くなって、休んでまたテントに戻って。そういう毎日だったんですか。途中でやめようとか思わなかったですか?

やめたら施設に戻るだけだから、それはできなかった。

Q:いちばんどんなことを分かってほしかったんでしょうか?どんなことを伝えたいと思ってずっと座り込み続けてたんでしょうか?

やはり障害者も人間なんだということ。みんなと同じく、生活をしたいんだ。たとえ手足が不自由だろうが、しゃべれなかろうが、姿が違かろうが、みんな人間なんだと叫びたくて、ずっと、座り込んでました。

それは、止みません。

Q:ちょうどその、テント闘争の頃に書かれたんじゃないかと思うんですけど、絹子さんが書かれた文章を読んで、そこに「私は人形じゃない」という言葉が書いてあったのが、すごく印象に残って。 その「私は人形じゃない」っていうその言葉、絹子さんのどんなお気持ちがどういう時にそういう言葉になって現れたのかなというふうに思ったんですけど、この言葉ができたきっかけっていうのはどういうものだったのでしょうか?

日常的に、いろいろ無視されてて、例えばトイレに2時間置き去りにされたり、夜、鈴を鳴らしても、職員来てくれなかったり。私が話しかけようとしても、サッと、そばを離れてしまったり。何もかも人の意志で勝手に動かされる。人形ならそれも当たり前、だけど私は人間だということを言いたくて、その言葉が出たの。

Q:人形と人間のいちばんの違いってどういうことだと思いましたか?人形と人間、何がいちばん違うと思ってますか?

命があって、自分の意志があることだと思います。

Q:ありがとうございます。今日はもうあと最後、1個ぐらいお聞きしようかなと思うんですけど。 そのことを訴えるための1年9か月の、テントでの闘争だったのかなと思うんですけど、今振り返ってみて、都庁前で1年9か月、テントで闘争されたことっていうのはどんな意義があった、どんな意味があったというふうに絹子さんは感じていますか?

重度障害者も意志があるんだと、ことと、障害者の存在を社会に知らしめたことが、大きいと思います。あと、施設はよいところだとまん延してたけど、その実態を世間に知ってもらったこと。それがのちのち私たちが地域で生きるきっかけを作った。それで、国も都も、行政の政策を転換せざるを得なかった。闘いの・・ とても、社会的には、とても有意義だったと思います。

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Q:絹子さんが施設での暮らし、府中センターでの暮らしから、地域での暮らし、アパートでの暮らしをしようというふうに、気持ちが変わっていくというか、そういうふうに思い始めたきっかけっていうか、それはどういうふうな気持ちが変わっていったかっていうのを教えてもらいたいなと思うんですけど・・

私、自分では、もともと自立生活できないと思ってた。だから、施設の改善をしようと闘ってきたの。でも、闘ってるといろいろな障害者に出会って、重度でも地域で生きられるんだと知って、その自立してる障害者のところに(行った)。どうやって生活しているのか。

Q:実際にアパートに暮らし始めて、実際にセンターから出てアパートに暮らし始めたときに感じたこととか、 特に印象に残っていることはありますか?

アパートが、とても探すのに苦労して、何しろ、私を見ると門前払い。

最初のアパートは私の姿を見せないで入居した。彼、その後私を見て、こんなに重度だとは聞いてなかったと。

Q:姿を見せなかったからようやく入れたわけですね?

そうです。その日から、2年間ずっと、出てってくれと言われ続けた。

Q:大家さんから?

(はい。)

Q:最初の頃は介護の人がいなくて大変だったですかね。本の中にも、三井さん、俊明さんも働きに行って、いなくて大変だったときのこと書いてあったんですけど、やっぱりトイレとかそういうことが大変だったですか?

トイレして、自分でやれるのは1回だけだったから。それ以降は体が動かなくなっちゃう。

Q:それでもやっぱり施設の方が楽だなとか、戻った方がいいかなとか、でもやっぱりアパートの生活がいいかなとか・・どうでした?絹子さんの気持ちっていうのは。結構大変な自立の生活を始めたときの絹子さんの気持ち。

施設に戻ろうなんて、思ったことない。

とにかく、自分の意志で生きられることが嬉しかった。

施設がどれだけ束縛してるか、入った者しか分からないと思う。

Q:絹子さんの今のそういう、施設とアパート、両方をご経験されて、障害のある人はどう生きるべきだっていうふうに、絹子さんの信念としては感じてますか?

・・

Q:今日は・・また、次回っていうふうにさせていただいたほうがよさそうですかね。だいぶお疲れ・・すみません。ありがとうございました。無理言って。

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Q:絹子さんの人生のことを聞いていると、常に闘う姿勢というか、それがずっと貫かれているような気がしたんですけども、なぜ、常に闘おうという気持ちでやってきたんでしょうか?

理由なんてない。ただ、人間らしく生きたいから、闘ってきただけ。そうしないと、施設という箱に閉じ込められしまうから。

*この日は事前に話したいことをタイプで打って準備していた

だまっていれば箱の中に閉じ込められてしまう。人形のように。闘いなんてあえてしたくない。降りかかる火の粉が飛んでくれば当然払います。命に関わることばかり起きてくる。闘わざるを得ないから闘っている。好きで闘っているわけじゃない。ほんとにのんびり生きたい。

Q:やっぱり一つの絹子さんの考え方として、ごめんなさないというふうには簡単には言わないというか、そういう内容がありましたけど、それはどういうふうな考え方でしょうか。

だって、障害者になったのは私のせいじゃない。だから別に、私は悪くない。だから、ごめんは言わない。

*この日は事前に話したいことをタイプで打って準備していた

なぜ体が不自由だからといって卑下して生きなくちゃならないのかと気がついた。本当になんなんだからごめんなさい、なんなんだからごめんなさい、と言っていたら、自分が何しにこの世に生まれてきたのか分からない。自分が悪いときしか謝らないようにした。

Q:絹子さんの人生にとって府中センター闘争って、なんだったのかなって。

人間の尊厳を教えてくれた闘いだったと思います。

命を粗末にしたくなかったのだと思う。

Q:絹子さんたちが闘争を闘ったことで、世の中や社会はどのように変わったのかなというふうに、絹子さんは、思いますか?

まず、行政の政策が施設収容だけじゃなくなったこと。そして、おおざっぱに言いますが、障害者がどんどん地域に姿を見せ始め、その後介護の保障の問題も話されるようになって、そして、障害者団体もたくさん作られてきて、今に至っています。

Q:そうすると、むだではなかったですね。大変だったと思いますけど。

はい。むだなんて何もない。

全ての私の糧になっています。

Q:長時間どうもありがとうございました。

プロフィール

脳性マヒのため、体のほとんどを自由に動かすことができない三井絹子さん。わずかに動く両手の指で文字盤を指さしコミュニケーションをとっている。絹子さんはかつて、1968年にできた障害者施設・東京都立府中療育センターに入所していた。しかし、施設内での処遇や別の施設に移転される計画に抗議し、都庁前にテントを張り座り込んで闘争。障害者福祉のあり方を根本から問いかけた。

1945年
疎開先の埼玉県川口市で生まれる
1965年
障害者施設「町田荘」に入所
1968年
「東京都立府中療育センター」に移る
1972年
施設の処遇や別の施設への移転計画に反対し、都庁前にテントを張って抗議
1974年
美濃部都知事と二度目の会談 1年9か月間のテント闘争を終える
1975年
施設を出てアパートでの暮らしを開始
 
障害者の自立生活を支援する「かたつむりの会」発足
1983年
障害者が自立生活の練習をする「かたつむりの家」開設
1993年
「ライフステーションワンステップかたつむり」として一時休止していた活動を再開
 
現在に至るまで、知的障害者の自立生活の支援などに取り組む

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