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証言

タイトル 「「福祉指導員」として」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 岸中 健一さん 収録年月日 2015年11月29日

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チャプター

[1] 手探りで始まったケア  05:20
[2] 「座敷牢」から外の世界へ  08:40
[3] 施設の処遇に対する入所者の不満  02:26
[4] 移転問題からテント闘争へ  06:21

再生テキスト

Q:センターに、出来た時から入られて。岸中さんはどういうお仕事をされてたんですか?

私は「福祉指導」という職名で採用してもらいました。ですから、まぁただ私も「福祉指導」っていうの何やるのかっていうのは分かりませんでした。でも指導って付いてるから何か指導しなきゃいけないのかなっていうような。障害児、まぁこの重度の人たちの障害児を触れる事っていうの全くありませんでしたから。ですから、あそこの職場行って、あ、こういう人たちも元気に生活してるんだという事を知ったんで。ですから最初に入所させる時、皆さんやっぱり知識ありませんので。ですから療育センターでは5つの観察室を。でも観察っていう言葉が適当なのかどうか分かりません。人間が人間を観察してっていうのちょっとあれなんですけども。観察室が5つありまして。今までの生活。この人はどういう形で今まで生活してきたのか。どういうような形でこれからケアするのに、十分に知識を得たいという事で、一週間ひとつの部屋に入れまして。ほいで動作から何から仕草。それからどういうふうにやったらば危険なのか。足を折ったり手を折ったり。結局変形してるような人たちもいますし、アテトーゼ(自分の意志に反して起こる付随運動)が強い人たちもいるんで。それを思いっ切り伸ばしちゃったら、それはもう折れちゃうですし。ですからそういうように、これから関わって行くのにどういうふうな処遇をするのがいいのか。どういうような仕方、どういうようなサポートをしてったらいいのかという事で。各職種が観察室に、その人を観察に一週間入れて、毎日その生活状態を確認したんです。それから病棟に入れるっていうような。ある面では慎重にって言うんでしょうか。まだまだ今まで触れた事のない人たちでしたから、その頃は。

Q:じゃあ入る時はすぐ入所しますって事ではなくて。

ストレートには病棟の方に入れなかったです。ですから全部十分に職員の人たちがよく関わって、どういうふうにしたらいいのか。どういうふうにやったらこの子についてはダメなのか。そういう事を全部、親御さんからも聞いて。確か観察室の時、親御さんも一緒だったと思いましたけどね。ちょっと記憶あれ(曖昧)なんですけども。ですから、ご家庭でこう生活してた、それも聞きながら。安心して病棟の中に入れられる。不安のない形で入れるという事で慎重に対応しましたけども。

Q:それだけ慎重に観察しようっていうのはどうしてだったんですかね。

結局障害者自体を知りませんから。看護師さんたちも病院での看護はできるでしょうけども、治れば退院して行きますから。ですからその障害が継続的にきてるのに、その障害と一緒にそれから生活して行くのには、どうしたらいっかっていうの。あんまりみんな知りませんでした。

Q:そういう施設がまだ前例があんまりなかった。

はい。

Q:そうですか。じゃその分きちんと観察をして。

そうですね。非常に慎重にという事で受け入れは最初やりました。

確かに本当に、おうちの中にじっとしていて当然だっていうような時代でしたから、おうちの人も知られたくない、見られたくない、うちの子にそんな・・いるなんて知られたくないわ、っていうような、そんな意識もありましたし。ですからその、お客さんが来ても分からないように、ふすまを閉めちゃって。カギはかかってなくても座敷ろうっていうかね、意識はね、その頃。

Q:それはなぜ皆さんこう外になかなか出ないというか、そういう状態だったんですかね。

偏見だと思いますね。障害児っていうのはやっぱり親も隠したがってたんじゃないでしょうか。あそこに変な子がいるよとか、なんだとかっていうような時代でしたからね。今じゃねもう障害者でも堂々と自分のね、認知されてもう世の中に。本当一人前の形で受け入れて貰えるし。でもその頃はやっぱり親御さんにも引け目があったんじゃないかなと思うんですよ。

ですからそういうような意味では療育センターが出来る事で、障害児の人たちの人間としての動きを十分に吸い上げたんではないかなと思いますけども。

Q:それで入所されてきた方たちに対して、岸中さんたち指導員っていうはどういうふうに結局関わるっていうか、どういう仕事をされてったんですか。

この子たちに、まぁ今やってる、何を教えたらいいのか。全くもう模索してますから分かりませんので。何をやって上げられるのかなっていう事で。本当に毎日が。年齢的にも学齢児の子たちがいますから、そうすると読み書き、それからいろんな外のニュース、そういうようなものも伝えたらいいのかなとか。分からないなりに指導員同士でミーティングなんかもやったりとか。プログラムを作るのにどうしたらいいのかっていう事で、本当にディスカッションやりながらやって行きましたけどね。その中での車いすの競争とかっていうようなのは出てきちゃうんですけども。それから車いすのダンスとか。私たちも男だけでも、男だけど女性好きだよなって。それじゃ彼らだって同じだから車いすでやりながらダンスをやってみようかとかって、初めて車いすのダンスなんかもやったりとか。全く例がありませんので。自分たちが作って行くしかなかったんで。

Q:いろんな方が関わってたと思うんですけど。どういう方がセンターの中では関わられてたんでしょうか。

病棟の中では看護師です。それから看護助手さん、それと保母さんが病棟職員として入ってました。ですから、あとまぁ当然医者もいますけども。本当に看護師、准看護師、看護助手、それから保母という4職種が病棟の24時間。まぁあれは三交代制でしたっけね。勤務でやってました。

Q:岸中さんたちはそうすると、どういう部分での関わりに・・

各病棟を担当。10人の指導員がいましたから。

各病棟に1名ずつ配置されまして。

Q:じゃ病棟に通いながら。

そうですね。朝行く時にはもう、出勤してすぐ病棟行って、みんなに朝のね、お話をして。それから病棟の中では、保母さんがどちからという指導的な仕事なもんですから。保母たちと一緒に一日の生活を「指導」という立場からやってました。ですから当然に医療サイドとして見れば、とっても心配な部分ての沢山あるわけです。「指導」ですから。

Q:どういう事が心配?

けがしちゃいけないとか。そんなふうに扱ってもらっても困るとか。当然に看護師たちも初めてですし、慎重だったし。やっぱり我々の仕事としてやっぱりぶつかっちゃいますよね。「あなたたちに医療的なものの責任なんか取れないでしょ」って言われるのが、いちばんつらかったですね。「そうですよね」って言いながら。

Q:看護師さんたちは医療的な健康を守るって事で。岸中さんたちの「指導」っていうのはもうちょっとこう、どういう感じの?

やっぱり動かす事が結構多かったです。車いすで外へ連れ出したりとか。月に一回ぐらいはセンターにマイクロバスがありましたから。それを利用してバスハイクという。バスハイクはまた別個に大きなバスハイクがあるんでけれど、その頃はバスハイクなんて考えられなかったですね。「外に出して動かしてケガしたらどうするんですか」っていう。「あなたたちに責任取れますか」って。だから「取れないよね」って。でも「やっぱりこの子たちだって本当に遊びたいよ。動きたいよ、でもその中でアクシデントがあったらその時にね、無理のない処置をすればいいんじゃないか」っていう事をやって。「そういういい加減な事を言わないでください」って言われてね。そういうあれだったですけれどね。でも私たち無理のない形で徐々にやっていましたけれど。ですから運動会なんかもできるようになったりとか。

Q:生活の部分をどう張り合いを持たせていくかっていう。

そうなんです。はい。医療じゃなくて、生活の方で。我々が自然にやれる事がこの子たちだってやりたいだろうと。だからそれに近づけるサポートをしようよっていう事で。

それにあの子たちがキチッとついてきてくれたっていうか。ですからいろいろと自意識も強くなってきたりとか。自分の意見というのをだんだん持ってくるようにもなってきましたけどね。本当いい事だと思うそれはね。それはいい事だと思います。

Q:どうしてそういう不満が出てきたんしょうか。

時間に拘束される事じゃないですかね。具体的に言っちゃうとね。何時から何時までっていうのがやっぱり療育センターの中では「医療」という形のもので、やっぱり強いですから。そのための療育センターっていう形で作ったようなもので。だからそうすると「医療」となるといろんな形で細かいところまで目がいったりしますからね。だからそういう形で「あれやっちゃいけない、これやっちゃいけない」っていうのがやっぱり看護師の方からも出てきますから。そうすれば「冗談じゃないよ」っていうような気持ちに出てくる、障害者も当然だと思います。「俺たちいやだよ」と、「この中でね、本当に缶詰になって隔離されているのいやだ」というような不満は出てきたんじゃないかと思うんですけれども。

Q:不満というと時間の拘束がいろいろあった。

だと思います。

Q:外出とか面会ができるかどうかとか・・ ・・皆さん慎重というか。

慎重でした。ものすごい慎重でした。

やっぱり本当に大事な利用者さんですから。そうと言って何かあったら困るという。あんな無責任な事はできないっていうのがやっぱりしっかりと頭の中に入っていますので。要は困らせない、ケガさせない、っていうようなあれですよね。

とにかくアクシデントがあっちゃいけないっていうのが最初に頭にみんなが入っていましたので。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」 より

センターに入所した人のおよそ半数は、体の障害だけでなく、重い知的障害もある「重症心身障害者」でした。 自分で呼吸や栄養の管理ができない人も多く、医療的ケアが欠かせません。 しかし同時に、絹子さんのように、体の障害は重くても、医療的ケアを必要としない人も、多くいました。

当時、都の担当者や専門家が施設運営のあり方を検討した委員会。 医療の必要の程度が違う人たちを同じ場で処遇することは酷であり愚かであると認めています。 これを受け東京都は、医療の必要が少ない身体障害者を別の施設に移すことを計画。 しかし、当の本人たちへの意志確認はなく、移転先は町から離れた山の中の施設でした。 絹子さんたちは「たらい回しにするのか」と反発、移転を拒否します。 学生運動に取り組む若者たちが支援に入り、反対運動は激しさを増しました。 1972年9月、都庁前にテントを張り、座り込んでの抗議行動に訴えたのです。

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Q:岸中さんとしては重度の身体障害の方が府中療育センターから別の施設に移られるという事自体はどういうふうにお感じになっていましたか?

だって機能別に分けて、そして本当にその人の人間、その時間を上手に活用してもらえるんだったらここに無いものが生活の中に沢山あるから、行きたいというんだったらやっぱり行っていいんじゃないのかなと。結局条件が悪くなるわけじゃないから。本人にとって条件が悪くなるんだったら、ちょっとそれはおかしいよとは言いますけども。やっぱり「医療」にべったりつかっているような状態の中で徐々によくなってきたわけなんだけれど、でもそれでもやっぱり「医療」が中心ですから。だから病気になったら病院に行けばいいんだよなっていうような発想なんかも私なんかにはありましたから。生活が充実してできるんだったらやっぱり施設を変わる事で、それができるんだったらやっぱり君たちの話を十分聞けるよって事ですから。

機能別にね、受け入れてくれるんですもの。そうして少なくとも職員としては専門家がそこにいるわけですから。作業療法士だとかね。理学療法士ですとか。スピーチセラピスト(言語聴覚療法士)なんかも十分にいますしね。当然我々の「福祉指導」の職員もいますので。お医者さんは1人いるかいないか分かりませんけれども。でも、そういう生活主体の施設にね。彼ら行きたいって言うんだったら。私は反対して阻止をするなんて事は考えられないですねっていうような話をしました。

Q:なぜ彼らは反対したんでしょうか?

濃厚な医療体制の中の療育センター。少なくとも病気だとかケガだとか、体に関しては本当に安心して生活できるかな、というそういうものもあったんじゃないかなっていうのと、あとは東京都は自分たち勝手のたらい回しじゃないかというところに反発心を持ったような感じがします。

Q:たらい回しっていうと?

結局都合のいい時だけ入所させておいて、そして都合が悪くなったらば、じゃあいい施設できたぞって事で移動させるのかとか、そんなような事も言ってましたけども。そうじゃないっていう事は言ったんですがね。

Q:そうじゃないっていうのは?

「うちでできる事は全部やります」と。「ただできない事もあるんです」と。だからそういう形のものを結局人間として生活をね、十分に考えてくれる施設。医療から離れるところの施設があって、「そこに彼らは行きたいって言うんだったら当然に移って行ってもいいんじゃないか」と。「決してたらい回しじゃないし。行政の都合じゃない」っていう事で昔は言いましたけれど。

Q:それに対しては反対している人たちはどういう。

「詭弁(きべん)を言うな」って言われました。「詭弁(きべん)。そうかそうやってとられてもしょうがないね」って。「でも我々はやっぱり障害者の立場に立ってどうしたらいいのかっていう事で毎日仕事やっているよ」って。っていう事でお話はしましたけれど。

Q:結局岸中さんは障害のある人たちにどういうふうに暮らしてほしいなっていうふうにずっと思って活動してこられたんでしょうかね。

いや、基本的なもんですよ、自立ですよ。自立。自分の考えで自分の行動で自分の生活がね、毎日がね、息を吸って生きていけるんだったら、そういうあれが最高だよねって。

プロフィール

1968年、美濃部革新都政の目玉政策としてできた障害者施設「府中療育センター」。重い身体障害と知的障害を両方抱えた「重症心身障害者」など数百人が入所した。岸中健一さんは、生活面を担当する「福祉指導員」として開所時から働いた。この施設では1970年代、入所者の一部が、施設の処遇や移転計画に抗議の声をあげ反対運動を展開した。当時を知る、一職員の立場からの証言。

1942年
東京・中野に生まれる
1967年
法務省矯正局 小田原少年院 法務教官
1968年
東京都立府中療育センター(障害者施設) 福祉指導員
1983年
都立松沢病院 精神科ソーシャルワーカー
1997年
都立八王子小児病院 医療ソーシャルワーカー
1999年
都立府中病院 医療ソーシャルワーカー
 
現在、都内の特別支援学校にて就労支援の仕事に携わる

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