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証言

タイトル 「障害福祉の仕事は「人間」を考えること」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 浅野 史郎さん 収録年月日 2015年10月26日

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チャプター

[1] 障害者福祉との出会い  05:39
[2] 「障害基礎年金制度」の裏側  07:56
[3] 「障害福祉課長」として  04:25
[4] 施設から地域へ ~「グループホーム制度化」の背景~  11:27
[5] 施設から地域へ ~「グループホーム制度化」の背景②~  10:05
[6] 「重症心身障害児 通園モデル事業」  02:49
[7] 制度作りの基本は「聞くこと」  04:13
[8] 知的障害者施設解体宣言  08:23
[9] 障害者福祉 今後の課題は「就労」  04:05
[10] 「障害者福祉の仕事」とは?  06:20
[11] 病との闘いで気づいたこと  03:52

再生テキスト

私が障害者のことにいちばん最初触れたのは、厚生省という、いまの厚生労働省、厚生省に入省した昭和45年ですね。昭和45年の4月に、どこでもやりますけど、新任研修っていうのをやりますね。その研修の中で、島田療育園(現・島田療育センター 東京都多摩市にある日本初の重症心身障害児施設)だったと思いますけども、重症心身障害児施設に行ったんですね。もちろん生まれて初めて。 そこで、その入り口のところにいた方を見たらば、頭の周りが1メートルっていう、仮分数ですよね。仮分数は頭のほうが大きいから、分母のほうが。あ、分子のほうか。それで、いやぁ、ちょっと気持ち悪いなぁって、まずね、あれが。ただ、案内してくれた指導員の人が、この子はうちでいちばん障害程度が軽い子ですって言われて、まずびっくりして。そして、中を案内してもらったらば、動けない、車いすにも乗れない、廊下ゴロゴロして、よだれを垂らして、奇声を上げてる子が100人もいたわけですよ。それを見て、ものすごいショックでしたね。物理的な感じとしてもそうだし。 思ったのが、この子たちは何のために生きてるんだろうかというようなことを思ったわけですよ。ただ、それでは終わらないでというか、指導員の人が案内してくれて、あなた方、この子たち何もできないと思ってるでしょと。だけど、昨日できなかったこと、今日できるっていうことがあるし、今日できないことを明日できるようにするっていうのが私たちの仕事ですよっていうようなことを聞いたんですね。それでピンと来たっていうわけじゃないんですけども、その言葉は残ってました。

その研修の時のレポートを書けと言われて、いろんな研修の内容があった中でいちばん印象にあることを書けと言われたんで、私はそのことを書いたんですね。この子たちは何のために生きてるんだろうなって思ったけども、その答えはちょっと出ないけども、ただ、さっきの言葉、この子たちは昨日できなかったことが今日できることもあるし、今日できないことを明日できるようにするのが自分たちの仕事だっていう答えを聞いて、ここにヒントがあるなと思った。

Q:それまでは全く、障害のある人たちにそんなには。

もうほとんど、ほとんどゼロに近い。だから、ある意味、真っさらなところに、しかも、最初に会ったのがちょっとやそっとの障害児じゃないですからね。とっても重い、さらに重症心身障害児っていう人たちだったんで、ショックも大きかったですけども、だから考えさせられるっていうかね。その時の予感としては、この問題は相当に難しいけども、突き詰めていく意味があるなっていうぐらいはちょっと思ったってことはあります。

それはね、進歩っていうことなんですよ。

Q:進歩。

進歩。それはあとからの答えの中でですよ。進歩、つまり、人間が生きてるってことは進歩を感じるっていうか、で、たぶん生きていていちばんうれしいっていうのは、進歩があったって自分で認める。そうすると、この子たちにも進歩があるということから始まって、それが障害者問題の1つの大きな基本っていうかね。これは私なりの受け止め方ですけども、進歩っていうことですね。誰にでも進歩があると。誰にでもっていうのもまた大事なことだと思うんですよ。 別に障害者だからなおっていうんじゃなくて、われわれだって、みんなだって、日常生活してる間で何か進歩っていうものがあればそれはすごくうれしいことだし、進歩を目指して、例えば高校野球を、みんな甲子園に行けるわけじゃないんだけど、前よりも、ピッチャーだったらスピードが速く投げられるようになったってうれしいことですよね。そういう意味では障害者も同じ。生きてるっていうこと、それから、人生っていうようなこと、人間っていうことの共通ということを、そんなことで見いだしたということがありました。

その次に仕事上のことで関わったのが、年金局で仕事をした時ですね。その時ちょうど昭和61年改正を間近にしていて、その時の検討の中にちょうど私が入っていったんですけども、もちろんこれはすごく大きな改正だったんですが。

Q:年金の改正?

年金の改正でね。それはひと言で言うと、基礎年金っていうのを作ったんです。

Q:障害者基礎年金。

老齢基礎年金もあるし、障害基礎年金もある。もともと老齢基礎年金っていうことで作ったんだけど、障害者の年金も障害基礎年金と。これは、当時は、特に生まれながらの障害者と言ってましたけども、そういう人たちは年金制度に入ってない時に障害になったんです。だから、本来の障害年金は出ないんですよね、年金の法理からいって。ただ、それではかわいそうっていうか、それに代わるものとして、福祉年金、障害福祉年金っていうのが出てたんですけども、非常に低額だったんですね。2級だと2万5000円なんですよね。その改正の作業やってる時に、障害者団体、身体障害者の団体ですね。脳性マヒの人とか、小児マヒの人とか、全身性障害者っていう人たちが中心となって、障害年金っていうか、障害年金っていうことで来たんじゃないんですね。来たっていうか活動していたのは、障害者の所得保障を充実してほしいと。それは自立ってことなんですね。自立生活を送るためには、こういうような所得保障ではとてもとても及びもつかないということで、とにかく所得保障を充実してほしいと。そういう時に、いまは亡き板山賢治(当時・厚生省社会局更正課長 ノーマライゼーションの普及や障害基礎年金の実現に尽力した)さんなんかも、ちょうど向き合って一生懸命やっていらした。私は私で、仕事は、メインは障害者問題ではないんですよ。年金の改正なんだけども、そういう中で障害基礎年金ということが考えられるということで、年金法理からいったらかなり乱暴なことをやったんですけどもね。それはこういう法理です。生まれながらの障害者は二十歳になった時に年金に加入するわけです。誰でもね、二十歳になった時に国民年金に加入する。その時にこの人たちは・・当時よく、国民年金の保険料の滞納みたいなのがあって、保険料滞納してる人には、そのときに障害になっても障害年金出ないんです。 それを逆にとって、この人たちは1回も滞納がないと。加入したばっかしだから。だから、障害年金出してもいいと。これ、大きいのは、障害福祉年金の場合には全額国費なんです。税金なんですね。だから、そんなに高くやれないってこともあるんだけど、障害基礎年金になると、基礎年金の財源の中に国費も入ってますから、それで高くできると。実際上、障害基礎年金にして、老齢基礎年金と同額ですから5万円になったんですよ、月。2倍になったんですね、2級の障害基礎年金。これで関わったんです。 その時に、所得保障の充実を求めてくる人たちが厚生省に来るわけですよ、車いすに乗って。で、舌ぽう鋭くってこともあるんだけど、舌ぽう鋭くっていうよりは、じゅんじゅんと説くわけですよね。じゅんじゅんと説くは変なんですけども。それに僕が対応するわけですよ。一応は守る側なんだけど、だけど、責める側の、この人たち頭いいなと。言語障害があるからなかなか聞き取れないことあるんだけど、言ってることに耳傾けるとすごいことを言ってると。それから、行動力もあるわけじゃないですか。車いすで厚生省までやってくる。そこで障害者観、それまでの、何もできないとは言わないんだけど、それからドンと違っている人たちで、この人たちはすごいということがその時に経験したことです。

それから非常に、冷静は冷静。論理的だし、とにかく何か要望だからやってくれよっていうのと違うんですね。実情を言いながら、なんとかならないかっていうことを一生懸命考えてるという。だから、なんとなく私のほうも、ある意味陳情対応というと敵と味方みたいになるわけじゃないですか。だけどね、一緒にやってやろうという気になりました。 これ、違う話ですけども、61年大改正の改正法律が出ていて、これが、なかなか審議が進まなくてね、タイムリミットみたいなのがあったからすごく焦ってたわけですよ。われわれっていうかね。その時に、これは当時の山口新一郎(当時・厚生省年金局長)っていう局長のサジェスチョンなんですけども、障害者を前面に出せと。つまり、障害基礎年金をちゃんともらえるようにしないと、それも早く。昭和61年4月っていうタイムリミットがあったんだけど、それで、国会にも障害者が車いすで来るわけですよ。で、これをアピールするわけですよね。国会議員にも。ということもあって、その法律がすんなり通ったということで、結局ある意味共闘みたいになったんですけどね。ということもありました。

Q:所得保障にこだわったというのはどういう理由から?

それは単純に、単純というか、自立です。自立生活。自立をするためには、所得がなかったらば生活できませんよね。生活保護受けなくちゃいけないとか。だから、それはちゃんと自分で。年金は自分のものですね。それと、就労とかほかのものを組み合わせながら。自立です。自立をするための絶対条件みたいなものとしての所得保障ってことですね。

最初、私は障害福祉の仕事をプロとして始めたのは、北海道庁で、福祉課長、障害福祉課長です、内容は。をやった時なんですね。この時は本当に仕事のこと何も分かんないで、いろんな吸収するってことばっかしが多かったわけですけども、そこからあと、すぐに厚生省の障害福祉課長になった。この時には心の準備もできてたし、ある程度自分なりの考え方もあった。ですから、その時から、最も重い障害を持った人たちを中心に考えると。障害福祉の世界でっていうだけではなくて、この世の中で、この社会で、最も生きる力の弱い、障害者ですね、病気になってる人とか、そういう人を中心に考える。 障害福祉課長っていうポストは、実はそれだけやってればいいわけですよ。障害者のためだけをやっていく。障害者のための中で、最も障害の重い人のためっていうのがいちばん役に立つ。だから、ある意味簡単だったんですけども、障害福祉課長になった早い時期にそういうことを思いました。

それからあとは、それと共通かもしれませんけども、1人1人だっていうかね、本人だと。本人のためにっていうのは当たり前のようなんですけども、必ずしも障害福祉の世界ではそうではないんですよ。やることが親のためだったり、養護学校のためだったり、行政の見栄(みえ)のためだったりとか、いろいろあるんだけど、本人のためにということと、あとから出てきたあれでは、「地域」「人権」「普通の生活」っていうのが私にとっての3つのワードになって、いちばん大事なのは、僕は人権だと思います。 人権っていうとちょっと、おどろおどろしいですけどもね。というよりは、人間、生きていてよかったなぁと思うことをちゃんと享受できる権利というのを人権と言いたいんですね。それは障害持ってる人も同じと。で、人権っていうためには、自分で決定すると。例えば、どこに住みたいか、誰と住みたいか、どんなことやりたいかっていうことをちゃんと自分で決められるようにする。そうなると、そういうところっていうのは地域の中でしょうと。その時にアンチテーゼとして、施設、入所施設ですね、入所施設の中に、私からすれば閉じ込められてという中では、人権というのはないでしょうということも、まず強く思いました。 それは結局、障害持ってる人、どんな重い人でも、思ってることは普通の生活をしたいってことなんですよ。普通の生活を。普通の生活っていうのはなかなか定義は難しいですけども、逆に、分かりやすく言えば、施設の中の生活は普通の生活じゃないんですよ。望んでることは、例えば、衣食住がちゃんと足りてっていうことだけではないんですね。普通の生活をしたい。当たり前の生活をしたい。そして、どこで生活をするかっていうのも自分で決めるということですね。ということが大事。 それが、「地域」「人権」「普通の生活」っていう3大話で、3つは同じことを言ってるんですけども、そういうことが障害福祉課長やって早い時期に分かったっていうか、それでいこうと。そこからあとの仕事はそれに合わせていけばいいというような感じで、簡単っていうのとは違いますけど、それに沿ってやっていったっていう感じがしますね。

Q:グループホームを作る目的は何だったんですか?

これは北海道庁で福祉課長を2年間やったっていうこと。これがある意味、予習になっていたっていうかね、そこでいろんなことを知ったわけです。特に知的障害者が北海道というところで生まれて、そして死んでいくまでの状況を簡単に図式化すると、養護学校に入りました。卒業しました。そのまま施設に入ります。そこで生活しました。そこで死にましたという、すごく・・図式化するとそういう人生。 その時に思ったのは、こういう人の人生っていったい何なんだろうかと。それはこっちの思い過ごしかもしれませんけども。だって、施設の中だって楽しいこともあるし、いろんな経験もあるし、それでつまんないとか周りから言うんじゃないって言われそうだけど、でも、やっぱりそれはおかしい。それは、その人生が楽しいかどうかっていうよりも、自分で決めてないっていうことですね。周りが決める。施設が決める。親が決める。養護学校の先生が決めるっていうようなことで、難しい言葉を言えば人権。これは人権侵害じゃないかっていうふうに思ったわけですね。そういう生活っていうのが。 というところが出発点で、そして、それは何も施設から地域へということを最初からテーマとして持ったんじゃなくて、彼らの人権を、知的障害を持った人の人権をちゃんと守るっていうかね。そのためには生活する場は地域でなくちゃいかんでしょうということで、施設から地域へってことになるだけの話であって、これからの行政は施設福祉から地域福祉だよ、その変換だよっていうことが先にあってやるんじゃないんですね。だから、あくまでも1人の人間としての知的障害を持った人、この人たちの生活っていうか、人生をどう考えるかというところを、私も北海道庁に行ってその仕事をしたおかげで、言わば現場で見られたわけですね。もっと言えば、彼らの気持ちになって、立場になって。そうすると、やっぱりやることがあるだろうと。それで、施設の中で人生終わるなんてことはやっちゃいかんと。 その時はあんまりこういう言い方はなかったけど、あなた方どこに住みたいですか、どういう生活をしたいですかって、もし質問があって、誰もそんなこと聞かないんですよ、実はね、彼らには。答える。答えるのも難しいんです。知的障害があるとうまく表現できないし。もしそれが自由にできるとすれば、「私はうちに帰りたい」と、「地域に戻りたい」と。この言葉遣いも大事なんですよ。「地域に出る」んじゃないんですよ。「地域に戻りたい」んです。もともと地域に属してたんですから。施設に属してるわけじゃないんですね。それで、地域に戻りたいと。普通の生活をしたいと。普通の場所で普通の生活をしたいという答えが返ってくるでしょうと。だったらば、それを実現してやるというのが障害福祉課長っていうか、障害福祉の仕事の目的じゃないですかね。「やるべきこと」ということをこんなふうな感じで早く思って。 もう1つは、僕ね、これははっきり言ったほうが分かりやすいんで、施設の人に偏見持ってました。偏見っていうより、敵意を。それが、厚生省の障害福祉課長になって、最初の全国知的障害者施設長会議っていうのがあって、そこには障害福祉課長は行政説明っていうのをやるんですよ。私のデビュー戦みたいなものですね。行政説明なんてやってらんねえと。やってらんねえっていうよりも、とにかく、あんた方何やってんだと。15万人の入所者がいて、毎年そこから地域に出ていくっていうのが、亡くなる人も含めて1%。その時点においては、私は20%、そういう地域に出していくっていう施設があるってことも知ってましたから。「1%。何やってるんだ」と、げき飛ばしたんですね。聞いたほうは、「何だよ、課長になったばっかしで何も知らねえのに」とか言ったりね。「何も感じない」っていう人もいたり。3分の1ぐらいは、「いや、そうかもしれない」と思った人もいたかもしれません。 そうやってげき飛ばしたからには、つまり、施設に閉じ込めておくなと。ということは地域に出せと。地域に出せって言われても、受け皿がなければできないですよ、それは。その気があっても。げき飛ばしたのと同じに、私は地域に受け皿を作ると。彼らに四の五の言わせないみたいな。そのためにも絶対やんなくちゃいけない。それがグループホーム。あくまでもグループホームっていうのは、本当に最初の取っかかりですよ。これで完結じゃないんですね。ということもありながら、まずこれをやんなくちゃいけない。最初の一手と。次の一手はグループホームだというのを早い時期から思ってました。実は障害福祉課長になったその日からです。

Q:そういうふうに思うに至るというか、施設ではないんじゃないかと、地域で暮らすほうがいいんじゃないかと思い始めたきっかけというか、原体験というか、出会いとか、具体的に何かあったんでしょうか?

そんなものはないっていったらないんですけども、要するに、たぶんこういうことだと思うんです。僕は障害福祉の仕事は本当に本人のためだと。本人のためになることをやることだと。本人のためといった時に、どれが本人のためかってことをまず分かんなくちゃいけない。本人はどうしたいかと。それは、やっぱり普通の生活をしたい、普通の場所で普通の生活をしたいという答えが返ってくる。それはグループホームだけではないんだけど、地域の受け皿っていうか、そういうところっていうことでしょうと。だったらそれを作るということで、頭のあれからするとすごく単純です。 しかも、私が初めてグループホームっていうのを言いだしたわけでもないし、実行したわけでもなくて、北海道も含めて、東京都、神奈川県もそうですね。全国のかなり先進的なところ、先進的な地域というよりも、先進的な施設っていうかね、先進的な人たちがグループホームとは言わなかった。生活寮とかなんとか、別の名前で言われたこともあったんですけども、いまで言うグループホームのようなことをやってたんですよ。それも私、見てたんです。これはいいことなんだということを、すでに知っていてということもありましたね。

北海道庁にいた時に、太陽の園という道立の福祉事業団営の施設があって、これはそういう意味では公営なんですけども、その園長さん、佐藤はるおさんって人なんですけども、すごく前向きな人で、役人なんですけど役人らしくない人で、その人がグループホーム作ったんですよ、そこで。僕が北海道庁にいる時に。だから、国で私が障害福祉課長としてやる前からやってる。 その時に、僕は佐藤はるおさんから聞いて、浅野さんね、彼らがグループホームに、グループホームって当時言わなかった。生活寮に入って最初の朝起きて、2階にいてね、2階をがらっと開けたらば、下を人が歩いてると。車が走ってると。それ見て、喜んだっていうか、最初は驚いたんでしょうけども、すごくうれしかった。そういうことを言ってたっていうことを僕が聞いたんですよ、その人から。ああ、と。移ったその日からです。 つまり、それまではどうだったかっていうと、施設内いたわけですよ、施設の中。そうすると、朝起きて窓開けても、施設の敷地しかないから、人歩いてるにしても、施設関係者しかいないわけですね。だけど、グループホームに移って窓開けたらば、外を普通の人が歩いてる。そこからあとは分かりません、どういうふうに言ったか。これが生活だ、これが私の望んでたものだって言ったかどうか分かりませんよ。だけど、その引用された言葉で、私は、彼らの喜びっていうか、それを感じましたからね。

施設に入っていれば何不自由ないってところはあるわけですよ。衣食住、優しい先生方もいるし、仲間もいるじゃないですか。何の不満もないというふうに思うと思うんですよ。だけど、グループホームに入ったその翌日からそういう思いをするということに、われわれも思いをはせなくちゃいけないなと思いましたね。結果的に望まれてるってことですね。自分たちが望んでグループホームに入ったわけじゃなくて、こういうのを用意してあって、行ってみたらそういうことが初日から分かったということに象徴されるように、どういうとこで生活するか、それは障害を持ってる人に限らず、普通の人なんだっていうことですよね。

Q:実際にグループホームの制度化が進められる時は、簡単にいくもんですか。皆さんの理解とか、制度化していく際のご苦労はいかがだったですか?

それはね、ご苦労っていうよりも、いま思い出すとあのころは、笑ってしまうぐらいな、楽しい闘いでしたね。楽しい闘いっていうのは、はっきり目標を掲げて、そして、これは絶対実現するんだと。実現というのは、その時には、予算要求を通して予算を取るということです。まず最初の1歩を絶対実現するんだと。それに向けて障害福祉課のメンバー、一緒になって一丸となってやっていく。気持ちいいもんですよ、これは本当に。そして、周りの人たちも説得しながら、まず役所の中で局長を説得しました。それから、大臣も説得しましたね。そして、大蔵省。主計局、予算つけるとこも説得して、だんだんだんだんその気になってというのをやる。

もう1つ言うと、時間との勝負もあったんですね。というのは、障害福祉課長にしても何にしても、本省の課長ポストは、課長ポストに限らず、短いと1年、普通2年、長くても3年という期間しかないわけですね。その間に実現しなくちゃいけないと。その間に実現するってなかなか難しいんですよ。グループホームの施策は法律で決めるわけじゃありませんから。これ、予算措置なんです。だから、予算を取ってこなくちゃいけない。予算を取ってくるためには予算要求しなくちゃいけない。予算要求の中身っていうか、グループホームのちゃんとした仕掛けっていうか、シナリオっていうか、設計図を書かなくちゃいけない。それを持った上で予算要求をして、予算を取ってきて、実現すると。ここまでどんなに短くても1年半はかかるんですね。 だから、どこかでつまずいたらば、予算要求が通らなかったら、その年度、来年度の予算が。それは僕の時にはできない。だから、これは僕じゃなくちゃいけないという自負もあった。あんまりそういうのは感じなかったけど、だけど、急げ急げというのはありましたね。本当に急げ急げってありました。

ただ、そのためには相当準備っていうか。例えば、具体的に言うと、百問百答っていうのを作らせたんですよ、専門家に。実はその専門家、中澤健さんっていう、いまマレーシアで、もう70超えてるんですよ。マレーシアに十何年行って、障害児を、マレーシアのですよ。ジャングルの中のあれをやってるというすごい人なんですけど、その人が、僕が障害福祉課長の時の専門官で、前の課長の時には、この問題を彼が一生懸命言っても全然動かなかったと。「もう辞めちゃおうかな、厚生省」っていう時に僕が行って、その日からグループホームやろうと言ったから欣喜雀躍(きんきじゃくやく)で、一緒になってやって、そして、僕が思ったのは、とにかく予算取らなくちゃいけないと。 予算取るためには順次、「局内の門を出る」とよく言いますけどね、その当時、児童家庭局の予算要求の中にこれを入れてもらうと。その前に、そんなのだめだって言われることがありますから、まず局長を説得する。そして、もちろん大蔵省を説得して予算取る。そのための作戦というようなこともありましたね。 朝日新聞の、具体的に言います、大熊由紀子さんという論説員が、当時、その人がこういう問題に少し理解がある。私、手紙出して、資料をいっぱい送って、そして、社説書かせたんですよ。グループホームが必要だと。例えば、こういうような作戦っていうかね。 それから、審議会。審議会でこういう答申を出させた。これは必要だというのを。

そうやって固めていって、そして、あとは本当の現場の、予算要求が最後のあれだから、予算のセッションの時の、大蔵省を説得しなくちゃいけないということで、百問百答っていうのを作りました。 それから、これは予算要求を通すっていうだけじゃなくて、もう1つは、この事業は絶対に失敗できないと思いました。絶対失敗できない。こうやって打ち上げてやったけども、いろんな形でうまく回んなかったとなったら終わりだから。だから、絶対これは失敗できないというふうに強く強く思って、そこでない知恵を一生懸命絞って、失敗しないようにということを考えました。 できたあとのことも考えて、失敗するっていうためには、運営が必要ですからね、グループホーム。グループホームは建物じゃないんですから。だから、実は予算要求の項目は、グループホームという文字は全く使われてないんですね。知的障害者の地域生活支援事業という名前。これ、ソフトなんです。グループホームという場で、知的障害の人が地域で生活していくために必要なもので足らないものを支援するというようなことなんだけど、それをやるのはヘルパーさんていうか、その人たちなんですね。その人たちが直接関わるわけですから。 グループホームでそんなことやるのは初めてなわけでしょ。そんなに専門家がやるわけじゃないんですよ。専門家じゃなくてもできるっていうふうに組んだから。そのためのマニュアル作りをものすごい細かくやりました。ちょっとした知恵ですけども、そのマニュアルは当然ながら口語体で分かりやすく書いて、注をいっぱいつけて、こういうふうにやってもらうっていうのはこれはこういう意味ですよって、注をいっぱいつけてやりましたね。 それを、役所ですから、予算取った時に、これは実際県がやる事業になるんですね。だから、県の担当に対して、障害福祉課長通知を出すわけですよ。普通、役所の文書ですから、である調で書くし、堅苦しいんだけど、それはマニュアル調で書きましたから。だから、行政文書には見えませんね。それは奇をてらってやったんじゃなくて、とにかくこれは絶対成功しなくちゃいけないと。だから、その担当の人も、グループホームっていうことの精神っていうか、狙いというのをちゃんと理解した上で、こういうことに注意して運営するっていうことを、最初の時期にちゃんと知らしめなくちゃいけないと思ってやりましたね。

Q:絶対に失敗できないっていう気持ちはどういうところから?

失敗したら終わりだもん、これは。とにかくこれは、100か所から始まったんですよ、全国で。いま8500ぐらいになってるんですね。そういうふうになっていかなくちゃいけないと思ってるんだけど、最初のとこで失敗したら、そこでもう増えないじゃないですか。それは絶対許されないということで、本当に強く思いましたよ、失敗できないと。

Q:局長なり大蔵省を説得する際はどういうふうに言って。

それはもう正面からぶつかって説明しました。大蔵省対策はちょっと違うところがあって、大蔵省ですから金を出したくないわけですよ。とにかく金、金、金っていうかね。こっちは欲しいっていうことだけど、向こうは出したくないっていうか。出したくないとは言いませんよ。ちゃんと効率よく、出すなら出す。 そこで作戦として言ったのは、作戦っていうのも変なんですけど、グループホームというのは金かかりませんと。むしろ、施設で囲って、そこで24時間べったりやるわけでしょ、重い人も軽い人も。職員もいっぱいつけるわけでしょ。そっちのほうが金かかりますよ。しかも、グループホームというハード面は別に予算として取ってませんからね。大蔵省はそちらの面から、この施策がどれだけいいかっていうのは、別としてもとは言いませんよ。別として、いいことはいいんだけど、それでも、金がかかるとなったらば、ちょっと二の足踏むだろうと。それをかなり強調しました。 これは安上がりの福祉ですって捉えられちゃ困るんだけど、大蔵省対策としては、効率的な、施設で使うようなお金まで使わなくても、ちゃんとこれだけ、4人なら4人の人をグループホームで支援していけるという経済効率っていうかね、予算効率もいい施策ですよっていうのをかなり強調したと。それが受けて予算をつけたんではないと思いますけども、僕はこの施策がいいと思ってもらったんだと思うんですけどね。それに加えて、費用のことも強調しましたね。

ちょうど同じ時期にやったのが、重症心身障害児の通園モデル事業なんですね。これは、実は具体的な場所っていうか、先例があって、それはいまでもやってる、横浜市栄区桂台にある「朋(とも)」っていう施設なんですね。僕が障害福祉課長になって、そこがちょっと変わったことをやってるっていうんで、行ってみようと。それは、まだできて2年目ぐらいの時だったんですけど。 当時は、重症心身障害児なんていうのは、昼間どこかに通っていくなんてことはできないと。障害福祉課のメンバーもそう思ってたんですよ。「課長、あそこは変な施設ですよ、『朋』なんていうのは。日中通ってきて、そこで訓練というか、生活して、また戻っていくなんてこと、そんなところに通える人は重症心身障害児といわないですよね、課長」って言うんですよ。それは、僕は北海道でちゃんと知ってたから、「そんなことはない、できる人もいる」ということもあって、実際にやってるところを見に行って、それで感動したっていうか、それよりも、こういうことができるんだと、ちゃんと。これはもっと多くの子どもたちっていうか、重症心身障害児っていう人たちが、同じようなサービスというのを受けられたらいいだろうなっていうんで、これは頭も使わないで、そこでやってたやつをこんなようなことでやろうといって、モデル事業をやったんですね。 これも最初4か所からやったのかな。5か所だったかな。全国で。いまもう350くらいこういうことをやってますから。それもまさに、いままで重症心身障害児というと、うちの中にお母さんと一緒にこもりっきりになってるか、重症心身障害児施設に入りきりになってるかだったのに、日中は出ていくんですから。そこでまた活動もするっていうんですから。これも地域というようなこととか、自立っていうか、進歩っていうかね。そういうことをうたった施策になりました。

僕は障害福祉課長になってやったことは、特にお母さん方に聞きに行ったんですよ。

Q:聞きに行った。

うん。知的障害の人たち相手の仕事ですから、知的障害の人はなかなか返ってこないので、お母さん方。私のあれでは、「何困ってますか」っていうことを取材に行ったわけですよ。「これ困ってます」と。 例えば、自閉症の親の会に行って、その時のあるお母さんの述懐で、私、重症心身障害児というのを見ると、うちの子がこの子のように、重症心身障害児のように動かないでくれたらどんなに楽かと思ってるんですよっていうのを聞いたんです。それまでは、重症心身障害児っていうのが障害ではいちばん重くて、いちばん大変だと思ってたんです。そしたら、自閉症児のお母さんがそういうふうなことをおっしゃったんですね。 毎日足を子どもと結わえて寝ると。寝てるところに、どこかに行っちゃったりする。トイレに入ったら3時間も4時間も出てこないと。突然道路に出て車にひかれそうになった。スーパーマーケット行ったら棚のものをガーッと落として、電車の中ではワーッと騒いで、そのたびにお母さんは、ごめんなさい、ごめんなさい、すみませんと謝ってる。そういうことで、身も心もなってる。だから、この子が動かないでくれたらっていうようなことを聞いた。 それから、いちばん大変なのは、もちろん本人というよりもお母さんも含めて、これは自閉症なりの障害が重い人たちだろう。それで、「強度行動障害児」っていうのを自分で作ったんですけど、私が。いまでも使われているのがなんかうれしいんですけども、それも1つの例です。 それの調査研究事業から始めたんですけども、そういうのも、現場を見たり、さっきの重症心身障害児の通園モデル事業もそうですけども、それから、何困ってますかっていうことの取材だったり、そういうことから出てきたということなんで、私はそのことには自信を持ってるっていうか。今世の中で、この分野で必要とされているのはこういうことだってことを教えてくれるわけですね。それは、聞きに行かなくちゃいけないんですよ。聞きに行くってことは、僕は得意ですからね。いっぱい教えてもらえますから。それがあの当時の僕の仕事を支えてくれたっていうか、私なりに成果を上げた原因だと思ってます。

「何困ってますか」って言うと、「死にそうだ」って言う人もいるわけですよ。こんな困ってるっていうのもね。ちょっと言えば、いままで行政の人にそんなこと聞かれたことなかった。こっちから陳情に行ったりとかっていうのはあるんだけど、何困ってますかなんて聞かれたことなかったっていうこともあって、喜々として話す。喜々としてっていうのも変だけど、そういう感じはありましたね。

Q:解体宣言のきっかけというか、そういう宣言をした理由というのは。

これはね、知事とは何かみたいなこともあるんですけども、私は障害福祉課長やった時から、自分にとっては障害福祉の仕事はライフワークだと思っていたわけですね。いまでも思ってるんです。知事になったということですから、そのライフワークの中で、障害福祉の仕事としてもまだやり続けると思ってたんだけど、知事はそんなことできないんですね。 できないというのは、僕は「Everything Something」と言ってるんですけども、県政のこと全部やるわけですよ。それは福祉だけにとどまらないで、道路造ったりとか、医療だったり、いっぱいあるわけです。それを少しずつやるしかない。時間的にも、労力としても、情熱としても。だから、障害福祉はライフワークといいながら、障害福祉の仕事ってことにピンポイントできないという恨みはありました。 その中でも少しやっていったんですね。普通学級に重い障害の人を同じ教室に入れるっていうモデル事業。ただ、これは教育委員会の仕事だったんで、教育委員会は知事と独立してるんですね。だから、これやれと言ってもやんないんですよ。やんないっていうか、3年かかりましたからね、教育委員会を説得するのは。とか、知事というのはやりにくい部分もある。そういう中で、何かやらなくちゃいけないと思ってやったわけじゃないんですけども、施設解体宣言というのをやったんですね。 これは伏線があって、それは、同じ宮城県内の施設で船形コロニーという、特に重い知的障害の人を入れるために昭和40年代に作った施設。300人ぐらい入ってる大規模施設なんですね。そこは宮城県福祉事業団が運営していて、その理事長に、障害福祉の私の先生、ほかの意味でもすごい友人というか、尊敬する田島良昭という人間が理事長になった。彼は長崎の人間ですけども、私が知事になって、宮城県に引っ張ってきたってこともあるんですね。 その田島理事長が船形コロニー解体宣言を出したんですよ、まず先に。それは、彼も最初に理事長になって船形コロニーの職員の人に会った時に、彼の言い方も大変厳しいっていうか、「あんた方恥ずかしくないのか」と。「入ってる人にすまないと思わないのか」と。「ここにこのまま入れて、全然地域に出してっていうことはなくて、それでいいと思ってるのか」みたいなことガーッとハッパかけて、それをやったんですね。 それを知って、私は、船形コロニーっていうのは、入ってる人は重症の人なんですよ。その人が入ってる施設を解体しようというんだったらば、ほかの宮城県内の施設はそんなに重い人ばっかしじゃないんですから、だったら解体できるはずだろうと思って、宮城県知的障害者施設解体宣言というのを出したわけですよ。 これはもちろんびっくりされました。悪い意味でも。いろんな反応もありましたよね。親御さんなんかは、「うちの子を、解体されて外に出されたらどうしようもない、なんてことするんだ」みたいなこととか、それはある意味、当然予想されるようなことでしたね。タイトル自体が、かなりどぎもを抜くでしょ。施設解体宣言ですから。それはわざとやったわけでもないんですけども、ある意味わざとっていうか、分かりやすくっていうか、分かりやすすぎたんですね。薬が効きすぎたってこともあった。 それはいままでやってきたことの連続線です。それは、こういう施設に入ってるということが当たり前になってはいけない。それは、実は施設解体宣言といいながら、知事ですから下に行政を持ってるわけですね。障害福祉課っていうのもあるわけです。そこに対するメッセージとしては、これからは地域福祉だよと。グループホームだよと。それに集中してやりなさいと。 本当は解体っていうのが先にありきじゃなくて、地域でちゃんと受け皿をしっかりできるようにすれば、その施設から全部出ていくようになるでしょ。施設からその地域に全部出ていくようになれば、施設が空っぽになるんだから解体できますね。これが宮城県の知的障害者施設の福祉の目標だと。 目標っていうのも、私はあえて100年先みたいなことも言ったのね。つまり、きょうあしたの話ではない。できっこないんだ。だけど、あそこに行くんだっていう目標をちゃんと関係者もみんなも示さないと、300年たったって、1000年たったって、そんなのできないということで、目標としてそれを示す。その目標は、解体が目標じゃなくて、地域でみんな暮らせるようにする。これの施策を進めるっていうか、それが目標だということを言ったつもりなんですけども、いまどうなってるかあんまり、怖くてやってないんですけども、知事も替わったし、頓挫してますね。

Q:そもそも解体が目的っていうわけでもない。

もちろんそうです。解体が目的じゃないんですね。解体できるようになるっていうことが目標です。地域でちゃんと住めるように、生活できるようにするということをやると。

ただ、実態と照らし合わせていくと、実態を実際に感じてる親御さんなんかが、いま施設に入ってる。子どもが。そういう時に解体は困る。それはそうなんで、そこのところをどううまく説明するか、時間がかかる。その場合も、最初の船形コロニーというところに入ってる人、お母さんが不安なのは当たり前なんです。それはどうやって解消するか。実態を見せるってことなんですね。それは大和町ってとこにあったんですけども、大和町の町の中にグループホームを実際作って、入っていってそこで暮らしてる。もう実績は出てきてますから。そこにお母さん方も見にいって、そして、こうやってやってんだな。それを信じられなかったらば、頭の中だけだったらば、出ていったら不安だと、うちの子なんか施設出たら生活できないと思ったりしてるでしょうから、そういうことを見てもらう。そういうような実績も踏まえながら、この目標を達成していくということですね。

私は次の方向として、いまグループホームにしても、地域ケアにしても、地域で住むっていうだけの話になってるんだけど、私は、特に最近特に思っているのは就労です。それはいろんな意味があるんですね。もちろん就労によって金を稼ぐわけですから、自立っていう意味でもかなり進んでいくようになるんですね。ということもあるんですけども、もっとほかの意味もあって、それは障害者自身の自己実現っていうかね。就労で自分で金稼いでやれば、金稼ぐだけじゃなくて、働いてるっていうことは、一般の人にとって仕事できないというのは、金が入ってこないだけじゃなくて、自分の存在に自信持てない。それは就労することによって、知的障害の人中心ですけども、そういう人たちは自己実現で幸せになるんですね。だから、就労を進めたいと。 もう1つは、就労っていうことになると、世の中に見える存在になるんですよ、ものすごく。グループホームで生活してるっていったって、近所を散歩して会うなってぐらいだけど、就労っていえば就労の現場で、企業の人たちに入っていくわけですね。そういうようなことによって障害福祉が変わると思ってます。ものすごく期待してます。 それはいまだってやってるよと。これはいまの施策の批判になりますけども、雇用率ってありますね。いま1.8%になって。雇用率でこうやってやっていく。それで就労を進める。これは雇用されるとなったら結果なんですね。結果で率を上げるというのは。僕はいま必要なのは、就労させるにはお互いに技術がいる、経験がいる。お互いにというのは、1つは福祉関係者です。もう1つは企業です。就労というのは当然ながら、企業と福祉を結びつけるようなものでしょ。これがいま徐々に広がりつつあるっていうか、深まりつつあるんですね。だから、すごく期待しているんです。 就労というのは必ずしも、その企業の中で働くだけではないんですよ。それはいちばんの目標ではあるんだけど、それだけじゃない。それは、企業に関わってもらって福祉的就労をする。つまり、具体的に言えば、だんだん具体的になるけど、就労継続支援事業A型っていうのがあるんですね。これはちゃんと福祉の関係のところと労働契約を結んで、そして働く。その働く場が、多くのところは福祉の施設っていうか、自分のテリトリーのとこでやるんだけど、進んでるところは企業でやる、場をね。企業でやる。そこに福祉のほうから請負契約で仕事をやらして、そして、労賃、給与は福祉のほうが払う。例えばね。そういうような動きが広がってきてます。実績も上げてます。

Q:戦後70年のいまの障害者の状況とか、社会の障害者に対する目線を、いま浅野さんはどういうふうにお感じになられているか。

それは間違いなく、いい方向に変わってきてるとは思います。それは20年前、30年前、50年前、70年前と比べれば、社会の状況も変わってますけども、障害者自身も変わってる。障害者を取り巻く社会も変わってる。いい方向にということは感じますね。 それはいろんな施策が整ってきたからと言いたいですけども、自分が関わってきたから。それだけじゃなくて、社会全体が、障害を持ってる人もちゃんとした1個の人間として、かっこよく言えば自己実現を目指しているから、それに協力していこうというような、みんながみんなじゃないですよ、そういう人たちが増えてることは間違いない。そういうこともあって、間違いなくいい方向に進んでると思います。これをもう少し早めるっていうこと。 それから、落ちていくというか、施策に乗らない人たちもいるわけですよ。それから、障害が重すぎて対応ができないとか、そういう人たちをどうするかっていうのは残ってます。ただ、進んでるほうの人たちは自己実現という意味で、例えば、就労が進んでいく。就労の中で、ものすごい進歩ですよね。進歩があるというような、その意味で先を走ってる人たちもいますけども、一方においては取り残されてる人もいるってことも忘れてはいけないなと思いますけども、全体としてはずいぶん、単純によくなっている、いい方向に行ってるということは思いますね。

障害福祉の仕事をやって、これは深いと思いましたしね、仕事として。それから、おもしろいっていうことも。おもしろいっていうと、やや軽薄に思いますけども、どっちかといったら深い。それは何かっていうと、障害福祉の仕事は、人間を扱うっていうか、人間を考えさせる。人間の存在を。というふうに思ったんです。だから、私はある意味、夢中になったんですね。 人間を考えるっていう時にも、それは障害を持ってる人、重い人も含めて、それは1人の人間だと。1人の人間として生まれてきて、人生を送ってるということを強く思ったんです。それを、いろんなハンディキャップとか、偏見あるけども、それにも関わらず、それでも人間として生まれてきたってことを、大げさに言えばまっとうっていうか、ちゃんと生きられるようにする。これが障害福祉の仕事だとすれば、こんなにすごい仕事はないと思ってるわけですね。それは大げさではなくて。少なくともそこに関わっていってるということで、私はこの仕事に、のめり込んでいくってこともないんですけども、いい仕事だなと思った。 別な意味で、例えば、私みたいな人に対する偏見があるかもしれません。偏見というのは、逆にですね、「浅野さん偉いですね。そういう障害を持った人を助けてあげて一生懸命やってるということで、なかなかできないことですね」とかっていって褒められる。ちょっと違うんですね。私は、好きでやってるっていうのも変だけど、「この仕事をやっていくと、ほんとに教えられることがあるんですよ。それは、人間というのは何か、人間の存在とは何か、人生とは何かということを教えられる。これは非常に自分にとってもいいことなんですね、個人的な生き方からしても。そういうものを、変な意味ですけども、提供してくれるこの仕事というのが、魅力がないはずないでしょ」と。 うまく言えないんだけど、人間存在っていう意味です。だから、最初の重症心身障害児に会った時に、この人たちは何のために生きてるんだろうかというようなことを考えたってことに、実は戻るようなものなんだけど、逆に、この人たちはこんなに何もできなかったりするけれども、生きている。生きているってことを自分たちで感じて、それを多としてるっていうか、ちゃんと持ってることを知ったっていうことから始まるかもしれません。つながっているかもしれません、そこに。 そういう仕事だからというんで、言ってみると、いろんな行政の仕事の中でも、これはすごく恵まれた仕事っていうか、特異な仕事だと思ってます。ちょっと我田引水的なんですけども。そういうものであるっていうことが、私がこの仕事にすごく夢中になったっていうか。 だからね、障害福祉課長になったのは、人事課長の気まぐれでなったんですけども、その内示を受けた時に、僕は、神様がいるんじゃないかと思ったんですね。それは、運命としたらば、とてもいい運命をここでつかむことができたというぐらいに、思うぐらいに、仕事が意義深いっていうかね、そう思いましたね。

Q:浅野さん、病気とも闘われて、だいぶ克服されてこられたということですけども、自分が病気と向き合うことで、障害問題への考え方に、何か気づいたり、変化したりしたことはありましたか。

違う形でお答えしますけども、私がATL(成人T細胞白血病)という、大変な、死ぬか生きるかの病気になって、最初に入院してベッドに横たわった時に、あ、自分もチャレンジドの1人だと思ったんですよ。それは実は障害福祉の仕事をしていたからそういうふうに思ったということなんです。 「チャレンジド」っていう言い方が、ある障害福祉の仕事をしてる人から聞いたんだけど、浅野さんね、アメリカで障害者のことを「チャレンジド」という言い方をするんだよと聞いたんですね。私は、なんでチャレンジャーじゃなくて、受身形のチャレンジドになってんのと思って聞いたんだけど、それはね、主語が「The God」。「The God Challenges them」、この人たちっていうことで、神様が障害っていうか、ハンディキャップですね、足が動かない、手が動かない、しゃべれない、聞こえない、見えない、知的障害があるというハンディキャップをその人に与えるっていうか、この障害をはね返してごらんというふうに言われて、そういうものを与えられてる。つまり、チャレンジされてるんですね、神様から。だから、その人たちは神様からチャレンジされてる。だから、「Challenged by the God」なんです。 それはとても、その時聞いても、これはいいメッセージだな。「チャレンジド」という一語のことなんだけど、メッセージが入ってる。それは、障害者っていう人も神様から選ばれてる。選ばれてるっていうのは、実はもう1つ、見込まれてる。「こういうハンディキャップをやるけども、君ならはね返してできるはずだ。だからこれをやるんだ。はね返してごらん」。そういうメッセージつきで与えられてる。そういう存在なんだと。 そう思っていて、入院して、こうなった時に、病気をもらったわけですよね。死ぬか生きるかの大変な。運命を恨むっていうのがあってもいいんだけど、私は、これは神様からもらった。あんまり神様とは意識しなかったけど、でも、自分はチャレンジドの1人なんだ。だから、この病気をとにかくはね返すってことを期待されてると。もっと言えば、見込まれてこの病気になった。それで、病気と闘うすごく大きな勇気っていうか、この病気を治すっていうか、闘うってことだけを考えて治療をしているっていうことになったと。で、これはまた、治療効果もあったと思ってるんですね。

プロフィール

元厚生省児童家庭局障害福祉課長として、障害者福祉の問題に取り組む。知的障害者が、施設はなく地域で少人数で暮らすための「グループホーム」の制度化など、障害者が、本人の意思や選択に基づいて、地域で普通の生活を送るための仕組みを考え続けた。宮城県知事に転身後の2002年には、宮城県内の知的障害者施設の「解体宣言」を公表し、話題を呼んだ。

1948年
宮城県仙台市に生まれる
1970年
厚生省 入省
 
社会局老人福祉課長補佐、在米日本大使館一等書記官、年金局企画課長補佐など
1985年
北海道庁福祉課長
1987年
厚生省児童家庭局障害福祉課長、生活衛生局企画課長など
1993年
~2005年 宮城県知事
2006年
慶應義塾大学総合政策学部 教授
2013年
~現在 神奈川大学特別招聘教授

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