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証言

タイトル 「「国際障害者年」という黒船」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 露口 長さん 収録年月日 2015年11月8日

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チャプター

[1] 厚生省は「国際障害者年」とどう向き合ったか  10:54
[2] 障害者団体との関係修復  09:04
[3] 問われた行政官の姿勢  09:06

再生テキスト

Q:国際障害者年っていうもの、当時どういうふうに受け止められてました?

国際障害者年は昭和56年だけど、その準備はもう前からやってますよね。で、こうイタマさんの、が課長になってから動きだしたんだと思うんですが、ですから53年の秋ぐらいには外務省から情報が入ってきて、国連では

この年を国際障害者年にするぞということの情報が入ってきて、わが国としても遅れてはならない、準備しなきゃいけないというような頃ですね。それが大事ですよね。来年からすぐやろうと思ってもできるわけでないので。

板山さんがアピールしたのがね、日本の近代化の幕を切って落としたのは4艘の黒船だったと。で、国際障害者年を黒船にしようじゃないかと。日本の近代の障害者対策の黒船だと。こうやってですね、全国の会議とか障害者団体にアピールしてましたね。

で、特にノーマライゼーションという、その前に、あれ何年だったかな、「障害者の権利宣言」(1975年に国連総会で決議された障害者の基本的人権に関する指針)っていうのがあって、国連で生まれて、それを今度それを具体的にしようというのが国際障害者年なんだけども、その時にノーマライゼーションっていう理念、これはかなり私たちにとっては清新な気持ちでしたね。ノーマライゼージョンっていうのは、障害者がいる社会が当たり前の社会ではないかと、そういう前提に立って施策を展開しなくちゃいけないと。特別なんではないんだと。ごくノーマルな姿だという前提で施策を伸ばそうということですね。

そういう理念として言葉として具体的に出されたっていうのが清新ですよね。ああそうか、と。ということでしょうね。言葉っていうのはやっぱしね、大きな力ありますね。それがきっちり理念として言われたことで、ああそういう整理になるのかと。なんとなく分かってますよね。当たり前でしょ?障害者の方がいたら、気の毒だなとか、あるいは助けてあげたいと思うのは当たり前なんだけども、それが、それはもうごく当然、それが社会なんだと。当たり前なんだと。何%かそういうハンディキャップを持った人たちがいるのが社会なんだと。これ改めてね、理念として整理されると納得しますね。

そういう意味で、ノーマライゼーション、理念の浸透、それから障害者自身もアメリカ辺りからIL運動っていって、自立生活運動っていうのが始まって、自立生活を目指すと。人に依存しないで。そういう動きが高まってくる頃でしたね。だからそういう意味では福祉理念の転換の時だったんだと思うんですよ。

Q:そうするとそのノーマライゼーションという前の日本の障害者の状況っていうのはまたちょっと違う・・。

それは、福祉がね、もう日本の福祉の伸び方っていうのは、まず貧しくなったら、あるいは歳を取ったら、障害になったらという、そういう状況になって施策を、手を差し伸べるということですよね。だからあの、まずそれは施設だったんですよね。施設から伸びて始まっていったと。まずそういう人は施設に入って、そこで訓練なり生活なりリハビリなりして、そこで生きていけるようにすると。で、在宅という分野が遅れてたと思うんですよ。それが、自立生活を求める障害者にとっては、皆さん施設に行きたくないわけですよね。やはり自分の家で誰にも頼らないで自立生活を送りたい。そういうような、関係者にとっても障害者本人にとっても丁度変換の、これを機に変わった年じゃないかと思うんですよね。それは自分ひとりひとりが考えてるよりは、(板山)課長の日ごろの言動とか、それから国際障害者年っていうことでマスコミとかあるいは団体とかいろんなうごきの中で働いてる自分たちも教育されて、なんていうのかな、そういうことかと。そのために我々は仕事してるんだと、こういう気持ちになりましたね。

Q:そうするとその国際障害者年を板山課長は、黒船という言葉もありましたけど、どういう年にしたいていうふうなことで考えられたんですかね。

そうですね、これを機会に関係者も意識を変えて、今言ったとおり、障害者自身も自分が主人公、自分は主人公だと。自分がそういう生き方を、自分が自立してやっていく。そういう年にしなくちゃならないと。

それからもう一つは、障害者対策イコール厚生省だったのではなくて、さっき言った通り、幅広いですよね。もう政治経済、文化、教育、雇用、あらゆる分野に、あるいは国土交通分野にわたるものですよね。そういう全般にわたる問題として国際障害者年を捉えなくてはならないということで、総理府の中にそういう具体的に調整、役所の調整機構が出来たけども、その前にね、昭和45年だったかな、心身障害者対策基本法っていう法律が生まれたんですね。各法律のそれぞれ身体障害者とか知的障害者とか精神障害者とかあるけども、そうではなくてそれを1本にしたまとめた基本法が出来た。その時に心身、中央心身障害者対策協議会っていうのが生まれて、それの事務局が厚生課だったんですよ。だから厚生課は事務局として自分たちの仕事だけではなくて、他省庁にもなんていうか影響を与えていろいろ提案をしていくと。束ねていくと同時に提案もしていくという意味で、板山さんは割合そういう点では物事をきちんと整理されてるんで、やっぱ引っ張っていったんではないかと、いわば事務局長としてね。そう思いますね。で、考えが開明的で、前向きで、火中の栗を拾うのをいとわず、という、しかも性格も明朗闊達(かったつ)ですから、みんな付いていくんですね。だからあの、部下が勇気を持って仕事をできたんじゃないでしょうか。役所って昔からイメージあるでしょ。なんか、言われた以上のことをしてね、出る杭(くい)打たれるっていうのあるじゃないですか。そういうことは一切なかったからね、新しいことをどんどん考えようと。ということですね。

厚生課っていうのは本当にね、忙しかったんで、廊下で外から見られるとね、なんか厚生課の人間はみんな立ち上がって電話してると。で、電話かけても誰も出ない、そんな状況だから。課長はいない。もうすごいバタバタしてましたよ。課長がいないっつーのは、さっき言った中心障害者対策委員会の事務局でいろんなプロジェクトやってましたから、そのプロジェクトに参加するためにしょっちゅう出かけなきゃならない、国会にも呼ばれるっていうことで、まあ忙しかったですね。でもそれを、今になって思い出としてはみんなやりあげたと思ってるんじゃないでしょうか。

だから、障害者対策の近代化ということじゃないでしょうか。今までと変わるんだと。変わって、これを機会に黒船によって新しい時代が来たように、国際障害者年によって障害対策が変わるんだと。変革、それを一つの共通にしたのかもしれませんね。

簡単に言うと、誤解を与えるといけませんが、やや施設偏重、障害者自身もそう思ってるわけ。あの当時実態調査にすごく反対されました、その前。毎年5年に1ぺんやってる実態調査が10年間やらなかった。その障害者団体の反対理由は、我々障害者の調査して何にするんだと。施設に入れるための数の調査じゃないかということですよね。

板山課長が就任した時に、まず一つの気持ちとしては障害者団体との関係をよくしようっていうのが大きなテーマでしたね。さっき言ったように、例えば障害者の実態調査が45年にやって以来、本来50年にやることがやれなかった。反対運動で。それはさっき言った理由ですね。それから55年になって、やれたわけです。そこに至るまではもうかなりの数に、の障害者団体との交渉してます。で、それは施設へ入れるための調査じゃないと。やはりデータ無きところに計画は立てられない。障害者年を機会に新しいいろんなことやろうと思ってもデータがなかったらどういう対象者が何人いて何で困ってるんだっていう状況分からなかったら何もできない。データ無きところに計画無し。計画ないところに行政無しと。こういうことで、かなり辛抱強く団体とやりました。で、団体の方もほとんどの方が分かってきて、実体調査に協力しましょうとなって、できたんですね。だから、国際障害者年の成功の一つは、やっぱり障害者団体との関係の修復。これだったと思いますね。行政だけでやれませんよね。周りが、周り、しかも大事なことは、当事者である障害者の方々が理解しないで勝手にやるものじゃないですよね。その人たちと一緒になって進めるものですよね。

Q:そうすると板山さんが就任したばかりの頃っていうのはそういった障害者団体の一部の方たちとはどういう関係だったんですか?

ですから例えばね、全部の団体、いろんな団体ありますよね、いろんな団体あるので全部が険悪でもなんでもないんですけど、一部やはり特に重度の、重い方々は、例えば言葉をうまく伝えられないとか、全身性の脳性マヒの障害の方いらっしゃいますでしょ。そういう方の陳情が厚生省に来ると、厚生省が門を閉めたと。これはいろいろあったからそうなったんだと思うんだけど、それを板山さんは止めようと。ともかく話聞こう、というところですね。で、それでもいっぺんにそれによって議論がかみ合うわけではないんだけど、そういう積み重ねですね。それでまあ厚生課のリーダーである課長と、それから団体の方々との人間関係も信頼できるということになったんですね。それでまあ、合意を得て実態調査まで持っていけたと。これはいちばん基本かもしれませんね。

Q:板山さんはなぜそこの障害者団体との関係にまず着目されたんでしょうか。

もともと板山さんは常に考えとして当事者対象者を大切にする、それがあって行政じゃないかっていうのを持ってましたよね。

しかも実態調査やるためには障害者の方の同意がなきゃできないということで、そこにまずいちばん主眼を置いたと思いますね。

Q:大体どれくらいの時間話し合うんですか?

普通陳情とかああいうのっていうのは大体約束ですよね。これがもう普通の流儀で、ある会議室に何人、1時間なら1時間って決めるでしょ。時間無制限。ですから、向こうが帰るまでは付き合ってる感じ。それがある程度もう定着して、そういう関係取れてくると、大体約束でやれるようになるけど、最初の頃はそれがなくてね、特に一部のさっきの団体の場合はもう、向こうがいいよというまではないから、真夜中までありましたよ。

そいでね、暁の脱走っていうね、エピソードがあんです。

もう駄目だとこれは。で、向こうは攻撃的になって、しかしこれで打ち切りたいんで、もうそれで終わりにしますと言って。

交渉の場で。もう時間無制限に長々続いて、そいでもう合意ができる見通しもないから、この辺でじゃあ今日は打ち切りましょうって言ってもそうはいかないということで、しかし明日のこともあるから課長にはじゃあ退席してもらって、で、外へ出て霞が関の道路を地下鉄の駅まで歩いて帰ると、車椅子で追っかけてくるとかね。だから、見通しさえあればそうはならないんだけど、もういくら話しても駄目だと。

Q:何時くらいまでやる・・。

10時か11時かを回ってたんだと思いますよ。暁の脱走と笑ってみんなで思い出すくらいですから。

Q:その時のことはやっぱり行政と当事者の方との関係って少し変わりましたか?その前後で。 

もうね、その後ね、国際障害者年がもう動くとなって、それで中央心身障害者対策協議会の中に部会を作って、人数を増やして更に国際障害者年を進めていく上での審議を深めようという時に、そういう団体の代表みんな委員にしたんですよ。それまではね、限られた団体の人だけだったのをね、脳性マヒの「青い芝の会」とか、そういうかなりしっかり、あの人たちは考えはしっかりしてるわけです。ただしそういう審議会委員にはなってませんでしたけども、そういう人を審議会委員にしてやはりこう、国際障害者年を進めるというバックボーンにしたんですね。常に対象は障害者であるし、障害者がそこにいなくては、結局絵に描いた餅で、障害者の方に喜んでいただかなくてはね。まあ全部喜べることができるかどうかは別としてね、意見に入れないとね。そういうふうに、障害者団体との長い交渉で実態調査が実現し、さてじゃあその計画を元に障害者年の事業展開すると。その時にどんな事業を展開するっていうのを中央心身障害者対策協議会があって、そこにこう部会を置いたんですね。あの、また組織図見ていただけると当時の分かると思いますけど、そこに委員をね、かなり委員の数広げてそういう計画を練る委員になってもらいましたね。だから、それにはすごく意味があったことですよね。

結局脳性マヒ者の方は、自分たちは自立したいんだと。施設に入るんではなくて自分の力で自分の家で暮らしたいんだということですね。それを研究しようっていうんで板山さんが来て、立ち上げたんですね。社会局の中に私的諮問機関みたいな形で立ち上げた。 で、何年か後に報告書が出ましたね。その結論はそのためには所得保障だと。やはり自立で生活していくための第一は所得保障だ、生活できるための経済力だということになって、今度それが発展して今まで局内の私的諮問機関が省内の、ちょっとなんていいましょうか忘れましたが生活保障問題検討会のようなものに格上げしていくんですね。大臣も、当時園田厚生大臣ですが、肝いりで、厚生省全体で検討しようと。ということで、それまで、特に年金っていうのは拠出して拠出することによって積み上げたものが20歳になったら年金で返ってくるっていう制度ですが、20歳前に障害になってる方、生まれついて障害をお持ちになられてる方はそういうことできませんよね。年金払える経済力ない方はできない。そこで、そういう方であっても納めてなくても20歳からは年金もらえるという、障害基礎年金というように発展したり、あるいは福祉手当とかそういう制度はあったんですよ。福祉的措置で、年金とか20歳前の方で、そういう人には今度は特別障害者手当として手当額も大きくして、これ昭和61年からそうしたと思うんですが。だからそういうことを通して特別障害者手当、それから国民年金の中に障害基礎年金を作るという制度に発展しましたね。これは国際障害者年の具体的成果だと思いますね、大きな成果ではないでしょうか。

Q:所得保障が大事っていうの、なぜそれがメインテーマになってきたかっていうのは?

だからそれは、そうだと思います。脳性マヒの方の本当の重度の方、これを全身性障害者というふうに定義したんですけど、結局誰かの介護がなくては生活できない、24時間、っていう方もいますよね。朝起きる時から寝る時まで誰かに介護してもらわなきゃ、で、24時間介護っていうのは結構当時問題があって、そのためにはそういうことを全面的に、じゃあ国で24時間介護を保障できるかっていうとなかなかできませんので、障害者自身も自分たちが雇える、介助してもらえるのを雇える、あるいはボランティアにいったら御礼を払える、そういうような所得保障っていうことじゃないかと思いますね。だから障害者の方が何もかも、お金ほしいんだ、全部助けてくれじゃないんだと。自立したいんだと。自立して自分の力で介護者をお願いしたり、お金を支払ってあげる。そういうふうにするには所得保障だというところへたどり着いたんじゃないかと思いますね。

Q:今振り返ってみて、板山さんのやってきたことで、他にすごく露口さんの印象に残ってることとか、記憶に結構刻まれてるような出来事っていうのはありますか? ずっと下で一緒に働かれてたわけですね。

行政官の姿勢じゃないですか?一つ一つのことよりは。先例をまねするな、自分で知恵を出せという、行政官の知恵ですよね。なんだ、同じことやってたら前と君は変わらないじゃないか。前の担当者と変わらないじゃないか。君はどこで存在してるんだと。だから、先例はあくまで参考だと。知恵を出せと。それから前向きに、ともかくがむしゃらに取り組むと。そして、我々福祉行政やってますから、その対象となる人が喜んでいただけるものはなんだろうかというところを突き詰めていくということですかね。結構勇気いるんですね。それまでいろいろ仕事やってても、なんとなくマンネリ化しがちですよ。繰り返し毎年毎年同じことやってればいいのかというとこあるけども、そうではなくて、常に新しいことを考えて、今までやってないことにチャレンジすると。勇気を持ってやると。これは大変勉強になりましたね。

障害者福祉都市を指定した市町村を集めて発表会やるセミナーがあったんですが、その席で板山さんから今までの障害者福祉行政は間違ってたと。ややもすれば障害者が希望することとズレがあったというような趣旨を発言して、それに対して新聞があくる日の朝刊に出たんですね。

あくる日の新聞にちょっとこういうことを発言したと出て、委員会にも呼ばれたけども、それについてはきちんと答えてあれしましたね。僕は随行して行きましたけどね。

Q:国会にですか。

国会に。

Q:なんのために国会に呼ばれたんでしょう。

新聞に、天につばを吐くような、ということでちょっと新聞記事出たけども、その真意は何かということですね。それがどうこうじゃなくて。そしたら、一通り答えたら、野党の席から、「厚生省、瓦礫(がれき)に咲く一輪の花だ」っていう野次(やじ)が飛びましたね。板山さんの発言に対して。

Q:それはどういうことなんですか?

素晴らしいっていうことじゃないですか?瓦礫(がれき)に咲く一輪の花。瓦礫に咲く花だって野次を、野党一流のユーモアこめた野次が飛びました、終わった後。

Q:板山さんは何をお話しされたんですか?

それはね、正確にはちょっと今ね、出てこないんだけどね。要は今言ったことですね。まずそう言った主旨を言って、否めない事実だと思うと。我々はそこで障害者の方がどう思い何を期待してるかをきっちりやった上で行政を進める、そのための予算要求もして実現をする。それが私たちの福祉に携わる行政官の仕事だと思うと、こういう言い方したと思いますね。

プロフィール

1981年、国連の国際障害者年は日本の障害者政策にとって大きな転機となった。「完全参加と平等」をテーマとした世界的キャンペーン。障害者も他の人と同じように社会で暮らすべきだというノーマライゼーションの理念が広まった。日本での推進役を担ったのが当時、厚生省社会局更生課長だった故・板山賢治さん。板山さんの元で係長として働いた露口長さんに当時を振り返ってもらった。

1941年
東京都生まれ
1961年
厚生省入省
 
社会局保護課を振り出しに、同更生課、官房総務課国会係、社会局老人福祉課、書記室、監査指導課、保健医療局老人保健課、鹿児島県国民年金課、老人保健福祉部老人福祉振興課、同部老人福祉計画課、国立身体障害者リハビリテーションセンターなどを経て、1999年退官
1978年
~1984年 社会局更生課 板山課長の下で予算係長、総務係長を務める
2003年
~現在 社会福祉法人浴風会 理事

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