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証言

タイトル 「“ふまれても ふまれても たちあがる” 脳性マヒ者の会」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 高山 久子さん 収録年月日 2015年3月5日

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チャプター

[1] 差別や偏見にさらされて  08:51
[2] “小児マヒ患者も人間です”  07:19
[3] 「青い芝の会」結成  07:29

再生テキスト

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Q:会をつくる前、高山さんはどういうことが不満だったり、今の状況を変えなきゃなっていうのはどういうことを考えてたんですか?

なぜ みせものとしか、とらえないのか?

Q:みせものっていうのはどういうことですか?

そこが、出発点では、ないか。

Q:高山さんがその頃、嫌だったというか、みせものにされてるのかなっていうふうに、いやな気持ちになった体験ってありますか?

ことばに表された差別用語です。

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Q:高山さんが書かれた文章なんですけど、覚えてますか?

はい。

Q:これ読んですごく印象に残ったところがあって、ちょっと読んでみてもいいですか? この文章の中で、最後のほうなんですけど、当時の、高山さんたちのことがよく分かるなぁと思って。 「私たちは人並みに、いや半人前にでも、一人で生活することを本当に理解してもらわねばと必死になっています。私たちは誰でも何は劣っても感情だけは立派に持っています。」

覚えています。

Q:いちばん最後に、 「私たちに光を与えてください。私たちに社会の一部をさいてください。例え道化役者の肢体を持っていても思い出してください。けいれん性小児マヒ患者もまた、一個の人間であることを。」 すごく印象に残ったんですけど、この文章は、どんなお気持ちで書かれたんですか?

それ(高山さんの思い)は、いまも変わっておりません。世の中の表面もです(変わっていない)。 ただ それ(障害者のこと)が分かり始めただけです。

Q:この記事に書いたような高山さんの思いが、「青い芝の会」をつくろうというところにつながったんですか?

はい。

Q:高山さんは「青い芝の会」で何がやりたかったですか?目的というか、どういうことを「青い芝の会」で達成したかったんですかね?

ひとの思いの分かる人。例えばいたわりを持てる人。

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Q:「青い芝の会」の名前は、どうして「青い芝の会」という名前にしたんですか?

ふまれてもふまれても、たちあがる会であること。

Q:その通りの会になったと思いますか?

はい。

Q:最初にこういう会をつくりたいなというふうに思った理由はどういうところにありましたか?

おごりでした。自分がやってみせる。

Q:今思えばっていう、今の歳になって当時の若い頃を振り返るとっていう感じですか? でもいまは徹底的におごりです。

Q:「青い芝の会」立ち上げて、戦後70年たったんですけど、今障害のある人たちが置かれている状況は、よくなったと思いますか?悪くなったと思いますか? 今の障害のある人たちの状況、高山さんどう感じていますか?

格段の差だとは感じますが、気がかり(もある)。

プロフィール

1970年代に障害のある当事者の権利を激しい運動によって訴えた、脳性マヒの人たちの会「青い芝の会」。高山久子さんは、1957年、最初に「青い芝の会」を立ち上げた一人。戦前にできた日本初の公立肢体不自由児学校・光明学校の出身で、卒業生の仲間を集めて結成した。最初は、家に閉じこもりがちだった脳性マヒの人たちが交流するためのレクレーションなどを中心とした会だった。

1926年
東京に生まれる
1933年
東京市立光明学校(肢体不自由児学校) 入学
1957年
「青い芝の会」設立
1976年
「空飛ぶ車イスの会」会長
 
(障害者の社会参加のための活動)
2004年
子育て支援NPO「こあら村」理事長

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