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証言

タイトル 「「コロニー」が果たした役割」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 遠藤 浩さん 収録年月日 2015年10月23日

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チャプター

[1] 「コロニー」はなぜできたのか?  10:36
[2] 欧米と逆行した 日本のコロニー政策  05:41
[3] 国立コロニー誕生 社会の反応は?  06:30
[4] 声をあげる障害者たち  07:21
[5] 施設から地域へ 障害者政策の大転換  13:35
[6] 「コロニー」が果たした役割  02:17

再生テキスト

Q:コロニーっていうものはどういうものなんですか?

コロニーという言葉を使って、いろいろな方がいろいろなことを語ってるんですが、

いろんな文献を調べてみますと、いわゆる心身障害者の村とか、生活共同体とか、そういったようなイメージを持つ、あるいは捉え方をする方もいますし、終生保護施設、一生そこで安心して暮らせるような施設、あるいは庇護授産所といって、いろいろ保護されながら、あるいは指導を受けながら、障害のある人が働くような、そういう大規模な場所とか、あるいはいろいろな機能。障害の重い人も、軽い人も、あるいは福祉だけでなくて、医療とか教育が必要な人も、その施設の集合体でだいたいすべてが対応できるような、そういう総合的な施設として語る人もいたわけです。そういうことで、コロニーという言葉でひと言で言ってしまうんですが、その意味するところはかなり広い、あるいはまちまちだということは確かだと思います。 実際には昭和40年に、

心身障害者の村懇談会、コロニー懇談会といってますけれども、そのような懇談会が設置されて、どういったコロニーを作ろうかということで議論をしたわけでありますけれども、

このようなコロニー懇談会での議論を経て、この国立コロニーを作るための法律ができたわけなんですけれども、その法律の中では、当時精神薄弱といってましたけど、知的障害などの程度が著しいために、独立・自活の困難な心身障害のある人を、必要な保護とか指導の下に生活していただく総合的な福祉施設なんだと、そんな表現をしております。 また、この法律を国会に出す時に、厚生大臣が提案理由説明というのをしてるんですけれども、その提案理由説明というのを見ますと、独立・自活の困難な心身障害者のため、保護・指導・治療・訓練等、各種の機能が総合的に整備され、これらの障害者がそこにおいて安心して生活を送れる1つの地域社会ともいうべき総合的な福祉施設、こんな説明もしているわけであります。

Q:国立でコロニーを作ろうという動きのきっかけとなったのは、親御さんたちの声ですか?

そうですね。

社会の実態として、本当に障害の重い人たちが取り残され、家族の献身的な介護でようやく命を長らえてると、こういったような実態があったわけですから、そして、そういう実態をなんとか改善していこうということで、親御さんたちをはじめ、福祉に取り組んでる人たちが結集して、運動を展開するというのが昭和30年代半ばから40年代にかけてでして、そういう意味では、行政が積極的にというよりは、そういった保護者の方をはじめとする関係者の力を結集して社会に訴えて、それがコロニー建設の大きな推進力になったという歴史的な事実があったと思います。

当時の施設体系は、例えば、肢体不自由であれば肢体不自由児施設、目が見えない人のための視覚障害者施設、あるいは耳の聞こえない人の施設、そして、知的障害がある場合には知的障害の施設。そういう障害の縦割りで施設体系があったわけです。それで、身体にも知的にも重い障害を持ってる人たちは、どこかの施設に入れれば、それはそれで当時としてはまだよかったんですけども、結局、そういう重い障害の人を受け入れることができる施設が実際にはなかったということなんですね。 それは、そういう重い方を受け入れた時の職員の体制とか、施設運営というのを考えた時に、現実的には無理だったと。むしろ当時の傾向としては、障害の比較的軽い人たちをいかに施設で教育なり、訓練なりをしていただいて、社会で自立していただけるか。そういう方向での実際の施設運営ですとか、当時の方たちの関係者、あるいは国民の考え方、そういう考え方が強かったんだと思います。

Q:それでも、重い人たちのための施設ではなくて、総合的なものを目指したのはどうしてだったのかなと。

そういう重い人たちの施設を作るということで、仮に制度的に実現しても、きっと施設に入所できる人の基準っていうものが設けられて、その基準に該当しなければ施設に入所できないということになってしまうだろうと。そうではなくて、本当にそういう施設での生活が必要な人であれば誰でも入れるような、そういう意味での総合的な施設を実現してほしいというのが、当時の運動を展開していた、主な中心的な人たちの考え方だったかなと思います。

Q:基準があると漏れちゃう人がいるっていうことですか。

どうしてもこういう公の制度として運用していく場合には、対象者なりについて基準を設けるわけです。すると、その基準に該当しない人でも、いろいろな事情があって対象者としたほうがいいと、なるべきだという人たちが必ず出てくるんですね。それは、基準というのがどうしても、どこかで線を引くという、そういう基準ですから、引いた線の外に出てしまうような人たち、その人たちについても、実際の必要性みたいなものを考えて、もっと弾力的に、柔軟に利用できるような、そういう施設、総合的な施設があったらいいんだと、望ましいということだったんだと思いますね。

それは、例えば先ほど言ったコロニー懇談会の委員となった方たちの中には、欧米の施設を視察したような方も少なからずいましたし、特にヨーロッパのドイツとかオランダとか、そういう施設を視察した人たちは、いま申し上げたような総合的な施設というよりは、むしろ1つの生活共同体的な、そういう施設、そういうのが望ましいというような考え方を持っていたと思います。 ドイツやオランダの施設というのは、長い年月をかけて、初めは小さな施設だったものが長い年月を経て、いろいろな必要性に応じていろんな施設が出て、それが地域の理解もあって、地域に同化していくっていうんでしょうかね。特にここが施設ということではなくて、地域社会の中にそういう障害のある人たちを 包み込むような、そういう施設群っていうんでしょうかね。そういうものをご覧になった人たちは、これは非常に望ましい、こういうものが日本にあったらいいと、そういうお考えを持っていたんだと思います。

Q:一方で、当時ヨーロッパは施設をやめていく方向にあったとも伺ったんですけども、そういう状況だったんでしょうか。

ええ。例えば、スウェーデンとアメリカはよくその典型的な例として引用されるんですけれども、スウェーデンでも昭和30年代の半ばぐらいから、ノーマライゼーション(障害者には他の人々と一緒に地域で暮らす権利があるとの考え方)的な理念がだんだんと出始め、普及し始めていたと。施設よりも地域でという流れがあったということですし、アメリカでも、ケネディ大統領が大統領に就任して、そして、当時のアメリカの州立の大規模な施設ですね、その大規模な施設を存続させるんではなくて、むしろ地域でケアする。そういう流れに変えるんだという、ケネディ教書っていうんでしょうかね、そういうものを出して大きく流れを変えようとしてた。そんな時期でありました。

Q:ヨーロッパのほうが大きく流れが変わっていったのはどうしてだったんですか。

これもスウェーデンのノーマライゼーションという理念の中で、そういう説明をする中でよく語られるんですけれども、保護者の中にそういった大きな施設での生活に対する疑問を持つ人たちが、地域で生活できるようにという、そういう意見を出し始めた。そういう主張を始め、それがだんだんと有力になってきたという流れありますし、大規模施設としての運営・管理、その限界というのが明らかになってきたということだと思います。 その限界というのは、どうしても、大規模な施設で限られた職員でということになると、画一的な団体生活、そして、効率的なという意味で、個人個人の個性とか、あるいは希望というものをあんまり重んじないような、そういう施設生活を実際は強いていたと、強いられていたと、そんな実態がだんだんと世の中の人に分かってきたということだと思います。

Q:ヨーロッパとか海外のほうで状況が変わってくる中で、日本はその逆で、施設を作っていくような感じになった。そういうふうになった理由というのは。

当時厚生省などでもいろいろ情報収集してて、ヨーロッパとかアメリカの状況というのはある程度情報を持ってたということが記録として残ってます。 ただ、当時の日本の障害者福祉の状況を見ると、そもそも施設自体が足りない、不十分である。そして、重い障害があって優先されるべき人が取り残されてると。そういう実態の中で、そういった問題を一挙に解決できるような方策は何かということを皆さんが考えて、そして、いちばんいい方法はコロニー的な大きな施設を作ることだと、そのような方向で考えが集約していったということがあったと思います。 それはいろいろな問題があって、それを一挙に解決するために何があるかと考えた時に、まずは大きいものを作って、そこで当面、ニーズがある人たちのニーズにとりあえず応えると。そういう考え方もあったんだと思います。

そういう大規模な施設は、ヨーロッパとかアメリカから見ると、いまや時代遅れというんでしょうかね。時代の要請に合ってないということは分かっていながら、日本としては大きな施設を作るニーズがあったと。そして、そういった大きな施設を作るという運動が非常に本格化して展開されていたし、マスコミとか政治家も、そういうのは必要なんだと、そういう大きなうねりみたいのが現に出来ててですね、それにあらがって、そういうのは必要ないと、その代わりにこういうものを、こういう対策をしますと。それはできなかったし、それに代わる対策というものも当時はまだなかったということだと思います。

Q:それができて、社会の反応というのはどうだったんでしょうか。

当時、国だけでなくて、都道府県でも同じような大規模施設の構想・計画が同時進行してまして、20を超える都道府県で規模の大小はあるにしても、同じような、いわゆる地方コロニーと称されるような施設、あるいは施設群もできていたわけです。当初は、それまで取り残されてた人たちがようやく安心して生活できる場ができたということで、保護者をはじめ、かなりほっとした、ようやく念願かなったと思った人たちも多かったんだと思います。

Q:その後、そうじゃない意見もやっぱり出てきたんですか。

結局、そういう大規模な施設を作るという時に、どうしても立地条件の悪い、アクセスの悪い場所に建設しなければならない。そうしますと、家族との面会なども限られますし、社会参加の機会も非常に乏しくなる。そして、大規模施設ということで、いわゆる団体生活っていうんでしょうか、画一的な生活リズム、あるいは生活スケジュールで暮らしていくと。そういうことについて不満とか疑問を持つ家族、あるいは関係者っていうんでしょうかね、有識者。そういう人たちも出始めて、昭和50年前後に大規模施設に対する批判っていうのが出始めてます。

Q:どうしてそういう批判が、出来てまもなく出てくるようになったんでしょうか。

大規模施設が実際に運営され始めてみると、いま申し上げたように、非常に街から離れたところに大きな施設ができている。そして、地域社会からは遊離していて、社会参加ですね、入所している人たちが社会との関わりっていうのがあんまりなくなってる。家族が面会に行こうと思っても、遠くてなかなか不便であると。そして、実際の毎日の生活ぶりを見てみると、みんな同じような生活をしてるし、皆さん比較的早い時間に夕食を食べて、そして、就寝時間も早いと。皆さん同じ時間ですね、画一的に。そういうことに対して不満とか、おかしいなと思う方が出てきて、それは当然だと思いますね。

そういう意味で、いろいろな時代の要請、あるいは社会の要請とかニーズに対応するためにできた施設ではあるんですけれども、それによって、そこでようやく居場所を見つけられた、生活する場ができたという意味では評価されるべきなんですけれども、しかし、いわゆる個人個人の生活という目で見た時に、これはちょっとおかしいなと、もっと普通の生活に近いような施設運営、あるいは施設形態があってもいいはずだと。そんな疑問とか意見が出てきているということだと思います。

Q:政策を進める行政としては、進めたとたんにまた反対の意見が出てくるという、なかなか難しい状況だったんでしょうか。

そうですね。いま国立もそうですが、地方コロニーなんかもできてということなんですが、当時の施設入所を希望する人たちの数から見ると、国とか地方のコロニーに入所できた人はほんの一部なんですね。ですから、なお施設入所を希望する人たちはかなりの数いましたし、国としても、そういった施設入所のニーズに応えるということで、年々計画的に施設整備を進めていったというのは平成の時代まで続いたんですよね。 ですから、そういったコロニー批判的なものはある、あるいは大規模施設に対するいろいろな問題点指摘はあるんですが、施設そのものに対するニーズはずっと続いていたという意味では、大規模施設だから不要であると否定されるような批判ではなかったんだと思いますね。ですから、おそらく、あり方論としてもう少しいろいろ改善する余地があり、時代のいろんな要請に応えて、そして、いろんなニーズにきめ細かく対応するような、そういう施設運営に変えていくという努力は必要だったんだと思います。

ほとんど連日に近いでしょうかね。障害のある当事者、車いすに乗った方もかなりいましたけども、それと、その支援者が押しかけてきて、当時、団交、団交と言って、交渉しろ、俺たちの意見を聞けということで来てまして、だんだん押しかけてくる人たちの数も増えてきて、最後のほうは、当時の厚生省の旧館のいちばん上に大きな講堂がありまして、そこで厚生省の担当課長、これは児童家庭局の障害福祉課長と、それから、社会局の厚生課長、これが身体障害の関係担当してましたんで、その2人が団交の・・団交って言うんでしょうかね、交渉の当事者になって、皆さんからのいろんな意見とか要望に応えていたと。そういうのが何回かありました。

Q:講堂を使うっていうのは、それぐらいたくさん。

そう。たくさん来て、押しかけて。担当課長がトイレに行くのにも後ろをついてきたり、まさにここで夜を徹していろいろ話し合うんだと。そういうすごい意気込みと熱意みたいのがあって、われわれも、こりゃ大変だ、きょうも徹夜かみたいな、そんな時期もありました。

当時まさに行政の担当課の職員ということで、当時の職員という立場から言えば、彼らの主張はそれなりに分かるんだけども、障害福祉行政を全国的に展開していく。そのためには、当時実態調査というのがいちばん問題になったんですが、そういう実態調査も必要だし、そして、彼らは身体に障害のある人たち中心だったんですけれども、知的に障害があって、こんなに困ってる人たちもいると。そういう中で、行政を進めていく立場からは、彼らの主張は理解しても、なかなか満足するような答えは出せないというのが当時の率直な考え方でした。

Q:主張としては分かるものがあるわけですか。

結局、彼らとしては施設は嫌だっていうわけですね。自分たちの望むような生活を実現する、そういう方向で応援するのが行政じゃないかと。だけど、現に自分の意思に反して施設に入らされて、そして、また実態調査やって、これだけ障害のある人たちがいるから、これぐらい施設作ってそこに入れてしまおうみたいな、そんなことを考えてるんだろうという、こんな主張だったと思いますね。 彼らにしてみれば、全然施設なんか入る必要はないと。自分の望む生活ができるように、いろんな条件整備してくれるのは、それが行政でしょうという主張で、それはそれで分かるわけですよね。しかし、そうかといって、そんなすぐにそういう施策をいろいろ作って実施するというのも、現実的には無理な話でしたんで、段階的にそういう方向に行くにしても、いまは少しずつ行政を前に進めていかざるを得ないんだという意味で、彼らの主張にはなかなか応えきれない、ついていけないなと思いました。

Q:話し合いというよりは、そういうふうに激しくなってしまうのはどうしてなんだろうと思ったりするんですけど。

それはおそらく、彼らの主張と行政とが、かなりかい離してるわけですね。ですから、そこをいろいろ話し合い、知恵を出して埋めて、これならいいですねということでコンセンサスを得るというようなことではなかったんですね。ですから、結局それぞれの主張というんでしょうかね、立場、主張、そういうことでギャップが大きくて、普通に話し合いをして、相談をしてまとまるということではなくて、結局自分たちの、彼らにしてみれば自分たちの思いをとにかく思いきりぶつけて、そのうちいいくらかでも改善してほしいんだと、そういう強い気持ちだったと思いますね。

団体との関係で言えば、激しすぎて、ちょっと行政も腰が引けちゃうみたいなことはあったんだと思いますが、だけど、障害のある人たち全体のことを考えれば、そういう感情に左右されてっていうことではなくて、できることは着実に実施して、少しずつ前に進んでいくというのが、これが行政ですから、そういう出来事があって、むしろ、ある意味ではそれが少し行政の背中を押して、そういうのがなかった場合よりも、少し前へ進んでいったのかなという気もしますね。

Q:日本も地域へということに政策も転換していくわけですが、どういうきっかけがあってそういうふうになったんですか。

それはまさにノーマライゼーション理念とか、そういうことが普及・定着していったと。そのきっかけは昭和56年の国際障害者年というのがあったんですが、それをきっかけにしてかなり、理念的には施設も大事だけども、まず地域で生活できるような、そういう対策ももっともっと力を入れるべきだという流れが強くなってきて、それで、わが国においても地域にもっと力を入れる。そして、そういう理念に照らせば、施設で一生を過ごすということは不自然であると。個人個人の生活を思い描いた時に、地域の中で自分らしいというんでしょうか、気ままな、あるいは自分の希望する生活をするというのが自然であるという意味で、一生施設で過ごすというのは、これはそうではなくて、地域で生活できるような、そういう支援をすべきだという流れが大きくなってきたということですね。 そして、ちょうどここが独立行政法人に変わる時期ですから、平成の15年ですかね。その少し前ぐらいから、地方コロニーなどで、宮城県の船形コロニーとか、長野県の西駒郷とか、そういうところで施設入所してる人たちを地域に戻すと。で、知的障害のある人たちの親の団体である育成会ってありますけども、育成会も、ふるさとに帰ろう運動みたいな、そういう運動をし始めたということで、行政的にも、地域移行というものをもっともっと力入れてやっていこうということになったわけです。 その象徴的なものとして、国立コロニー。これを、独立行政法人に組織変えするのを契機に、従来のついの住みかの施設から地域で生活できるように、総合的に応援するような、そんな施設に生まれ変わるようにするという大きな政策転換をしまして、そのインパクトを全国に示そうということがあったんだと思いますけれども、独立行政法人化を契機に、「のぞみの園」で入所して生活している500人の人たちの3~4割は、地域移行できるようにしようと。こういう大きな目標を立てて、独立行政法人として再出発した「のぞみ」が、地域移行に取り組むということになったわけです。

Q:遠藤さんとしてはどういう気持ちで取り組もうと。

結局、ここに入所し、生活されてる人たちっていうのは、かつては取り残されて、本当に生活する場もなくて困ってた人たち。その人たちがようやく安心して生活できる場を見いだして、30年にわたってここで落ち着いた生活をしてるという方たちだったんです。そして、その家族の人たちも、重い障害があっても、のぞみの園で安心・安全な生活を送ってるということで満足されてたというか、安心されてたということなんですが、それが、福祉の理念も変わって、いまや地域で生活することが望ましいんですということを大きく方向転換することを、いかに理解してもらうかというのがいちばん苦慮したところでした。 ですから、私が最初に申し上げた、当時保護者会の会報というのがあって、第1回の保護者会の総会というのがあって、その時に私があいさつをして、いよいよ地域移行をやりますよということを説明したんですが、その時に申し上げたのは、そもそもこの「のぞみの園」という施設が旧国立コロニーから変わったんだと。先ほど申し上げましたように、ついの住みかから、これからは地域で、「希望すれば」という言葉を入れたんですけどね、希望する方は地域で生活できるように総合的に応援するような、そんな施設になったんです。 したがって、ここにずっと生活したいという方はそれでもよろしいんですけれども、地域で生活したいという希望のある方は私どもが全力で応援しますということを申し上げて、そして、地域移行というのは強制的に地域移行じゃないんですと。そして、地域移行っていうのは家庭に引き取るとか、そういうことでもありませんと。あくまでも本人が地域で望むような生活を実現するということなんですと。そういう意味で、地域移行というのはご本人の人生を考えた時に大事な選択肢の1つなんですと。そこをよくお考えくださいと。こんな説明をしたんですよね。

それから、地域移行を目指してということで、まずは地域生活を体験するような施設を作って、そこで地域生活のような生活を体験してもらうと。そういうことをやり始めると、ご本人の表情がだいぶ変わってきて、かなり活動的になったりとか、変化が見られるようになってきて、また生活寮に戻るということを、ちょっとそれは嫌だと拒否するような人たちも出てきたりして、ご本人たちはうまく自分の気持ちは伝えられないんだけれども、少なからずは、こういう施設での生活よりは外に出て、環境を変えて、違うところで生活してみたい。おそらく違うところで生活してみたいという中に、ご家族の近くでもっともっとご家族と会えるような、そんな生活をしてみたいんだっていう思いを持ってる人たちが少なからずいるっていうのが、実感として分かったんですね。

Q:遠藤さんとしては地域移行を進める意義というか、意味の部分ってどういうふうに感じていましたか。

やはりこの施設で生活している人たちは、本当に本人が望んで生活の場をここに決めたということではないんだと思いますね。それはいろいろな事情があって、かつてはここしか生活の場がなかったと、そういう人たちだったと思います。 したがって、本人たちがここでの生活にある程度適応して、満足してるということは、こういう施設を運営している者としては、それはそれでありがたいんですけれども、しかし、本人の人生を考えた時に、ここで生活してる人が、このまま死ぬまで生活してるというのは何か不自然かなと。一応別の生活、地域での生活みたいな、そういうチャンスを作ってあげる。本人がそれを希望すればそういう生活が実現するように全力で応援する。そういうことを行うことによって、本人の希望している人生を実現してあげるというのが、この地域移行だと思うんですね。

Q:すでに地域に移行された方たち、元入所者の方たちをご覧になられてて、施設にいた時からの変化とか、そのへんって実際ご覧になられてどう感じますか。

地域移行した人については1年後とか5年後に、定期的に職員が面接に行って状況を確認してますし、実際に面会しなくても家族にアンケートとったり、移行した事業所と連絡取り合いながら、日々の生活の様子はずっとフォローしてます。その結果として、皆さんだいたい元気に、「のぞみの園」で生活していたように、あるいはそれ以上に元気に生活してるということが把握できてます。 具体的に言うと、かなり表情が変わってきて、笑顔が増えてきてるとか、それから、家族との面会なども増えて、とてもご家族も本人も喜んでるとか、それから、これは一部の人なんですけれども、「のぞみの園」の中の生活ではあまり社会的なスキルがないなと思われていた人も、実際地域に出て、グループホームとかそういうとこで生活し始めると、コンビニに行って買い物をしたりとか、あるいはバスを乗り換えて日中活動の場に通ったりと、そういう人も出てきて、実は施設の中にいる時は、そういう社会的なスキルというものが身につかない。やはり実際地域に出て行っていろいろな経験を積んで、そういうスキルを身につけて、地域で生活できるようになっていくんだなと、そのように思われる人も何人もいます。 そして、職員が面会に行って、本人にまた「のぞみの園」に帰りたいですかと聞くんですけども、意思疎通できる人は半分もいないですから、全員がそう答えるわけじゃないんですが、意思疎通できる人は、「のぞみの園」は戻りたくない。いまの生活がいいと。こんな答えをしているということです。そういう意味で、こういう施設の中で生活してる人たちも、地域で生活できるのかなと、そういう懸念を持ったりもするんですけれども、実際出てみるとかなり変わってくると。いい方向で変わってくるというのが、これまでの事例の積み重ねの結果でしょうかね。

Q:障害者福祉の歴史の中で、コロニーというものが果たした役割、意義というのはいま改めてどう考えていますか。

いまの福祉の理念とか、福祉の政策を基準にして考えてみると、いろいろ問題点ばかり目についてしまうのかもしれません。でも、当時の時代の要請とか、取り残されて困ってる人たちの受け皿となるような、そういう施設を要望する社会的な運動があって、それが実現して、実際に安心して生活できる場を得ることができた人たち、そういう人たちが少なからずいたという意味では、歴史的に評価されるべきものだと思います。いろいろな問題点は内包していたかもしれませんけども、当時の状況としては、そういった役割を果たし、積極的な評価をすべきだと、こう考えてます。

総合的な施設っていうんでしょうか、必ずしも大規模っていう言い方はよくないのかもしれませんが、総合的な施設を願う人たちがいて、それが、十分に実現したかっていうってのはあるんですけれども、それなりに実現してみて、こうだったということを国民として理解したと、実際にそういう姿を見て理解して、次どうあるべきかを考える。そういうきっかけにはなったと思いますね。

プロフィール

1971年、群馬県高崎市に大規模な障害者施設「国立コロニーのぞみの園」が設立された。コロニーとは障害の種別も程度も様々な人が共に暮らす総合的な施設。障害児の親たちの要望がきっかけで、欧米の施設をモデルに設立された。遠藤浩さんは、厚生省勤務を経て2003年に理事長に就任。国の障害者政策が、施設から地域生活へと移り変わる中、入所者の地域生活への移行を進めてきた。

1952年
生まれ
1975年
厚生省入省 児童家庭局障害福祉課
 
以後、厚生省、環境庁、社会保険庁、内閣法制局などの各部局にて勤務
1990年代後半
厚生省障害保健福祉部障害福祉課長、企画課長を務めるなど障害者福祉に深く関わる
2003年
~現在 国立重度知的障害者総合施設のぞみの園 理事長

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