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証言

タイトル 「「非国民」「米食い虫」と 言われて」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~
氏名 花田 春兆さん 収録年月日 2015年10月15日

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チャプター

[1] 戦争中の障害者  13:23
[2] 防空壕の中が怖かった  03:45
[3] 戦後の食糧難  05:44
[4] 障害者たちをつないだ「しののめ」  09:59

再生テキスト

やっぱりあの頃は軍国少年だった。軍国少年以外にはなれなかった。

Q:軍国少年っていうとどういうことですか?

軍隊に入ろうって、思ってばっかりでした。

それ以外に考えられなかった。

そういう時代でした。今の70歳以上はそうだったと思うよ。

Q:軍隊に入りたいと思う人がたくさんいたわけですか?

入らなきゃならないように仕向けられちゃうんだ。

思うように。それ以外には考えようがないように、思わされちゃうんだ

Q:そういう時代に障害があるっていうことはどういうふうに感じておられましたか?

障害があるっていうことはあんまり思わない。思うようになったのは、東京から疎開して田舎に行ったとき。田舎に行ってから思うようになった。

Q:どうして田舎に行ったら思うようになったんですか?

周りが戦争から遠くなるから。周りは軍歌ばっかり。田舎にいくとそれはなかった。やっぱり自分のことを思うようになったから。 

Q:徴兵検査を受けられたことはあるんですか?

ある。書いた。書いてある。

徴兵検査して。その頃あんまりない乗用車、親父が借りてきて、(お父さんが)官庁にいたから。 それでともかく、兵営の裏門まで車で行った。そうしたら、担当の将校が、車のそばに来て、ドアも開けないで帰った。一緒に来た人がついて行って、丙種不合格っていうのを受けて帰ってきた。それで終わり。

Q:春兆さんは車に乗られてたわけですね?

中も見ないで行っちゃった。

Q:将校は、検査に来たのに花田さんのお顔も見なかったんですか?

顔はのぞいた。でもドアも開けなかった。窓越しに、見ただけで帰った。

Q:なんで窓越しに見ただけで帰っちゃったんでしょうか?

なんでだか分からない。見たって言うことだけで、終わりにしたんだろう。

Q:春兆さんその時どういうふうに感じましたか?窓越しに見て、それで検査が終わっちゃった時。

ばかにすんなって思って。

人間扱いしてないんだ。

Q:戦争中、障害のある人の存在はどういうふうに見られていたんですかね?周りから。

文献があそこにあるだろ。米食い虫。これを読めば分かる。 『米食い虫、非国民とののしられながら -戦争を生き抜いた肢体障害者たちの証言-』

非国民扱い、書いてある。非国民扱いするなということを書いてある。

Q:米食い虫、非国民ってどういうことですかね?

やっぱり食べることは食べるから、兵隊にいかないで、食べるだけ食べてるって、そういう意味だ。

兵隊に行けないから、非国民だっていう考え。

Q:空襲とかで防空壕(ごう)に避難するときはどうするんですか?

うちの裏の崖に、広い穴を掘って、そこに入ってた。僕は、中にいるよりも、表の家族がやられたらどうしようかと、その方が怖かった。

Q:どうしてでしょうか?

(春兆さんだけ中に、防空壕に入ったってこと、家族は外で)バケツリレーとか、やっていたから。

Q:春兆さんだけ中にいたんですか?

うちにいると危ないから、(防空壕に)入ってたんだろう。焼夷(い)弾が、うちの裏に落っこった。裏に落ちた。

Q:怖いですね。

中にいる方が怖かったよ。

Q:どうして中にいる方が怖かったのでしょうか?

家族がやられちゃうと、どうしようもないじゃん。

Q:動けないから?

そう。

Q:一人怖い思いで穴の中で待ってたんですね。

はい。その方が怖かったよ。

Q:戦争が終わったあと、障害のある人たちの暮らしはどういうふうになりましたか?

よくなったと思うんだけど、お米やなんかがなかったから、大変だった。親が。

Q:食べるものがあまりなかったんですか?

なかった。学校の近くで畑をやって。学校の校庭で畑をやって、お芋を植えて。それを食べてた。

Q:国とか行政が障害のある人を支援してくれる、そういう福祉ってあったんでしょうか?

あんまりないね。

Q:そうすると自分たち家族でどういうふうに暮らすか考えないといけなかったんですかね。

あんまり思い出したくない。

Q:戦後のことはあまり思い出したくないですか?

はい。よく覚えてるのはね。軽井沢のうちで、おふくろが沢ガニを捕まえてきて、金だらいに入れて、ごそごそはい回る音が、足音が、一晩中聞こえて眠れなかった。そういうことをいうと、食べ物がなかったっていうことなんだよね。

Q:沢ガニをとって食べてた?

動物があんまりいなかったからね。食べ物なかった。

Q:障害のある方たちはどんな気持ちを「しののめ」に載せたいと思っていたんですか?

慰め合ってた。最初は、そういう感じだった。

こうやって生きててもいいんだ、いいんだ、よかったんだ、そういう思いをお互いに確認していた。

Q:みんな生き方に悩みがあったんでしょうか?

悩みないわけないでしょ。普通の人でも悩みあるのに、障害があればもっと広がるよね。

Q:「しののめ」という名前はどういう由来があるのでしょうか?

東の雲。東は東京の東、ほんとは東京光明学校で「東光」でもよかったんだけど、それじゃあんまり文学的じゃない。それで東の雲で「しののめ」なんだ。

Q:東の雲にはどんな意味を込めているんでしょうか?

障害者の夜明けという意味。

夜が明ける。明るくなるぞという意味。

(「しののめ」が)変わったのは安楽死特集をやってから。社会的な雑誌になった。

個人的な慰め合いじゃなくて、社会に訴えていこうって言う。

Q:どういうことを社会に訴えようとしていたんでしょうか?

こういう問題があるよっていうことを、毎号やってた。

Q:例えばどういう問題がありましたか?

教育。目次にあるだろ。毎号毎号変えて。

Q:教育はどういうことを訴えたかったのでしょうか?

教育は、障害者でもできることはある。それを見つけるのが教育だって。

学校はあるけど、障害者のための教育じゃないんだ。

Q:安楽死というテーマは何を訴えたかったんでしょうか?

あれは確か、イギリスであった、英国であった裁判の記事が、きっかけで、親の方に同情してるけど、殺された障害児にはあんまり及んでなかった。こんなばかな話あるかってこしらえたのが、安楽死特集。

Q:当時、そういう問題を世の中の人はあまり知らなかったんでしょうか?

あんまり用がないもん。障害者には。

Q:障害者に対して世の中の人はどういうふうに思っていたのでしょう?

あんまり用がないと思ってたよ。あんまり関係ないって。

Q:そういうときに「しののめ」はどういう役割を果たそうと思ったんでしょうか?

まあ自分たちの考えはこうなんだって、殴り込み、殴り込みをかけたつもり。

プロフィール

生まれたときから脳性マヒのため、手足や言語に重い障害がある。日本初の公立の肢体不自由児学校・東京市立光明学校を卒業。東京・麻布で大空襲を経験。光明学校時代から俳句をたしなみ、俳人・中村草田男に師事、俳誌「萬緑」に参加し俳人として活躍する。戦後、光明学校の同窓生たちと、障害者たちの文芸雑誌「しののめ」を立ち上げ、長くその編集に携わった。

1925年
大阪に生まれる その後 東京・麻布へ
1934年
東京市立光明学校(日本初の公立肢体不自由児学校)入学
1944年
光明学校 卒業
1947年
障害者の同人誌「しののめ」創刊
1954年
俳人・中村草田男に師事 「萬緑」に参加
1957年
「萬緑」新人賞 受賞
1980年
国際障害者年日本推進協議会 副代表に

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