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証言

タイトル 「公害・環境行政の中心から見た 日本50年の歩み」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 加藤 三郎さん 収録年月日 2015年5月29日

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チャプター

[1] 四日市に学んだ -公害対策基本法づくりに向けて-  08:03
[2] “バトルをしあいながら”つくった基本法  05:57
[3] 異例の速さでつくられた環境庁  03:12
[4] 小さいが活気に満ちていた環境庁  05:21
[5] 公害への反省を世界に発信 -大石長官の演説-  13:00
[6] 世界の環境対策に水をかけたオイルショック  03:07
[7] OECDの日本レビュー  07:40
[8] 切り開いたものと限界と - 『環境基本法』 -  09:00
[9] 20年先を見てほしい -地球環境時代の世界のために-  08:47

再生テキスト

四日市にも何度も行きました。なぜ行ったかと言うと、昭和41年に役所に入った時に『公害対策基本法』という法律を作る、非常に準備課程にあったんですね。厚生省の中に公害審議会というのがその前年にもう出来てまして、公害審議会でいろんな議論する中で、基本法が必要だっていう議論になってきて。じゃあ、基本法というのはどういう中味を持つものかということを議論していく中で、ひとつ公害防止計画というのを基本法の条項の中にひとつ入れよう、それから救済制度、公害被害のすでに起こってまして、救済制度が必要だという、そういうものを『公害対策基本法』の中に入れようというそういう議論になってました。そういうものがもし入った時にはすぐに動き出すわけですから、そのための準備を始めたと。 まず公害防止計画について言いますと、基本法の中に公害が現に著しくて、総合的な対策を取らなくちゃならない地域として、そのいちばん典型的な例として四日市というものを位置づけたわけですね。そこで、その担当官である私が四日市に出かけて行き、四日市の関係者、県の関係者にもお会いし、それからまた厚生省の中にですね、公害防止計画を作るための基本方針、これはまあ総理大臣が出す基本方針なんですが、その基本方針というのがそもそもどんな内容のものなのかというのを検討する委員会を作りまして。その検討委員会の先生方とご一緒にと言いますか、事務局としてですね、実際四日市に行って市長さんとか県知事さんとか、それから担当、いろんな方々にお会いをするということをしました。それが昭和42(1967)年の8月に『公害対策基本法』という法律が出来まして、準備したことがそのまますぐに使えるようになったということですね。それで四日市行きました。

Q:四日市で実際加藤さんが目の当たりにした光景はどんな状況で、それを行政側からどういう受け止めされたか。

それはですね、まず環境の面で言いますと、やっぱり大気汚染がひどいということですね。

石油化学工場が盛んに活動してるわけですけども、石油化学コンビナート特有のフレアスタック(石油などを精製する際に出る余剰ガスの害を減らすため燃焼させる炎)って言いましてね、煙突の上から火が、炎がぼうぼうぼうぼう出て、それに伴ってにおいもしますし。さらに石油施設から海に流れ出る油っていうのがあって、海を見に行きますと油が臭って、海水面がぎらぎらしてるとかですね。そういうことですね。それから住民にも当然お会いしたわけですが、その方々が口々に公害のひどさっていうのを訴えてるということですね。やはりこれが日本のもっとも最先端的なですね、石油コンビナートで起こってしまった、それが引き起こしてしまった公害の厳しさ、それに対する住民の怒りとかですね、そういったものは感じましたですね。

Q:当時まだ新人でいらっしゃたから、ショッキングな。

それはそうですね。ただ私自身学生時代からですね、今で言う環境工学を大学院で勉強してましたので、四日市のことについては役所に入る前から、もちろん知っていたし、関心は持っていたわけですね。文献的には見ていたわけなんですが、実際に現場に行って人々の話を聞き、担当者の話を聞くと、これはやはり大変なもんだということを感じましたですね。それからもう一つ基本法にですね、先ほども言いましたが公害健康被害者を救済する措置をですね、講ずるという条文がありましてですね、それは実は、もう基本法が出来るずっと前にですね、四日市自身が自分で独自に始めた制度があるわけですね(1965年、四日市市で医療費負担制度が発足)。それは県と市のお金を使い、企業からの拠出金を使い、四日市市内の石油化学コンビナートによってぜんそくなどの健康被害を受けた人に対する医療費の支払いという制度をすでに四日市が始めてたわけです。それを国としても取り上げるための制度を作ろうと。それも担当者になってですね、指定をするとしたら地域はどういうところを指定地域として定めるかとかですね、それから医療保障の内容ですね、そういったものを事務局として検討する、その時の一員で、これもまた、四日市に何度も出かけていきました。当時の四日市の医師会長さん、今から40年以上も前ですけど、非常に熱心な医師会長の話などを聞いてですね、これは国としてもしっかり作らなきゃいけないなということをひしひしと感じましたですね。

Q:そのプロセスにおける労苦というか、まだ入りたてでいらっしゃる時に非常に大変荷が重い仕事でもあったとは思うんですが、そのあたりは。

荷が重いと言ってもですね、当時私は課長でも区長でもないです、一担当技官ということですね、ですから労が重いというよりは、まさに自分が学校で勉強してきた環境問題、それに対する対策を講ずると、国の立場で最善のものを作るということで、むしろ荷が重いというよりは使命感に燃えて、若者としての使命感に燃えていたと言っても過言じゃないと思いますね。

厚生省で基本法の原案作りをまず始めたわけですね。しかし公害問題というのは厚生省の範囲の中でとどまるわけじゃないですね。もちろん通商産業に関わる問題もあるし、運輸だとか農林水産ですね、そういう問題にも関わる、もちろん都市計画にも関わる、それから科学技術にも関わるということで非常に幅広いわけですね。ですから当然て言えば当然なんですが、厚生省で考えたものがそのまま政府の対策になるわけじゃなくて、いろいろないわゆる調整というのが必要になるわけですね。これは相当大変だったと思います。どちらかと言うと被害者側に立つ役所というのは厚生省と農林水産省ですね。農作物に対する被害だとか水産物に対する被害がありますからね。農林水産省と厚生省がやや近い立場に。それに対して産業、当時の高度経済成長を推進する側にあった、当時の通産省、それから科学技術庁、さらに身は一歩も二歩も当時は引いてたと思うんですが、土地利用に関わる建設省とかですね、そういう役所がまさにくんずほぐれつの状況だったと思います。

日本がどういう方向を向いてたかというと、明らかに高度経済成長ですよね。技術を伸ばして成長するんだと。これがもうあえて言えば国是に近いようなもんですよね。そこから引き起こされるこれまた非常に深刻な大気汚染、水質汚濁、騒音、振動といろんな公害があって、しかもそこに健康を害する人、人命まで失う人がいるわけですから、だから本来ならばもっとも政治のもっとも高いレベルでですね、きちっと調整をすべきだったと思うんですが、なかなか政治がそこまで、常に出て来るというわけには行かないもんですから、したがってそれを担当する役所同士がお互いにバトルをしあいながらですね、着地点を求めてるっていうことだと思うんですよね。

官庁全体、政府全体としては一枚岩じゃないですね。それぞれの役所のミッションがありますんでね。厚生省という役所は国民の健康とか人命、そういったものを守るというのがミッションですよね。通産省は産業を促進すると、経済を伸ばすというのがミッションですから。当然ながらこれはもういつの時代でもどこの国でも起こる議論ですけど、日本の場合にはそれがかなりシビアだったっていう気はしますね。

Q:顕著だった。

顕著だったと思います。理由はいろいろとありますけども。一口で言えば非常に不必要なぐらいなバトルをせざるを得なかったかなという感じはしますね。本来ならば不必要だったというふうに思います。

今でもよく覚えてますけどもですね、当時でいう公害対策ですね。公害対策をすると経済に悪いと。それは国にとってもですね、それから企業にとっても個別の企業にとっても、ちっともよくないんだと。ある人はですね、公害対策というのは必要悪なんだと言い放つ人もいましたですね。つまり本来ならあんまりやりたくないんだけども、しょうがないからマスコミが騒ぐから、新聞でたたかれるから、あるいは国会でいじめられるからしょうがなくてやるんだと。そういう感じでですね、公害対策をやると当時の日本の非常に大きなモチベーションであった高度経済成長に差しさわりがあると、そういう意見が多かったわけですね。だけどもご存じのとおり四日市ではですね、公害訴訟というのが起きました(1967年提訴)。公害訴訟が起こってですね、昭和47(1972)年の7月なんですが判決が出ます。四日市の公害訴訟の判決。その中で裁判官がですね、何と言っているかというと、経済にばっかり配慮しちゃ駄目なんだと。やはり人命とかそういうものに関わる場合には世界で最良の技術を使ってやらなくちゃいかんと。そういうことを判決の中で言ってるんですね。今から40・・ずいぶん前の話ですけども。当時よくこういう判決が書けたなと思いますけどね。いずれにしてもそこで決着がついたというんではなくて、その後ずっとこの問題は今の地球温暖化の問題までですね、ずっと引きずって、あるいは原子力問題も含めて引きずっていると言っていいと思いますね。

71年、昭和46年に環境庁という役所は出来るんですが、その前の年45年1970年というのはですね、公害がもう噴出したんですね。例えば静岡県の田子の浦でヘドロ問題が起こる、それから少し前にはですね、7月ですが東京で杉並の立正高校というところでですね、校庭で運動していた女性がバタバタと倒れる、40名前後の人が倒れる、これは光化学スモッグだということになって。もうちょっとさかのぼってみますと同じ年ですけど、5月にはですね、東京の牛込柳町というところで、そこは自動車が非常に渋滞するところなんですが、排ガスに含まれている鉛によってですね中毒事件が起こる、例えばこういうことが当時の新聞を見てもらうとわかるんですが、一面トップで次々次々と出て来るわけですね。私がある政治家から聞いたのはですね、佐藤栄作さん(佐藤栄作首相。1964~72年在任)が特に光化学スモッグ事件で非常にショックを受けて、「それ以前の、やれ厚生省だ、やれ公害対策本部(1970年7月、佐藤栄作首相が設置した内閣直属の組織)だ、というようなことではとても済まない」と。「一元的な役所を作るしかないんじゃないか」ということを決断されたらしいんですね。それをまず決断と言いますか、必要性を痛感されたらしいんですね。それを佐藤さんに最後に背中を押したのは多分ですね、10月にやって来る、アメリカの当時ニクソンさんが大統領ですが、ニクソンさんの特使としてラッセル・トレイン(大統領直轄の環境問題諮問委員会委員長)という人がやってくるわけなんですが、日本に。そして山中貞則さん(総務長官)と会談をするんですが、多分その席で日本も環境担当、当時の言葉で言えば公害環境担当の一元省庁を作るべきじゃないかということを多分示唆されたと思うんですね。それで佐藤栄作さんがそういうことを含めて最後に決断したのが12月28日だと聞いています。12月28日に環境庁を作ることを決めて、年を明けて1月8日の閣議で閣議決定をすると。そしてその年の5月には法律を通すという非常に極めて今から考えると超スピードで役所が出来たと。そのことは、そういうものを必要とするぐらいの社会的な必要性、政治的な必要性があったということだと思うんですね。

私自身は厚生省の公害部というところから7月1日に環境庁の大気保全局というところに役人用語で言うと出向という形で、転籍みたいなものですが、出向して来まして。その時の雰囲気というのは、まず役所はですね、一つの建物に収容しきれてない、ここにひとつ、あそこにひとつ、こっちにひとつという具合にですね、もちろん東京都内ですけども分散していてですね、しかも人数は500人少々です。正確に言うと502人だそうです。予算はまだ非常に小さい。あっちこっちに分散してですね。だけども時代がテレビも含めて新聞もとにかく環境、公害対策をしなくちゃ駄目だという非常に大きな強い要請がありましたのでね、ですからみんな張り切ってました。私自身ももちろん張りきってます。若い、まだ20代ですのでね。張り切っておりました。周辺を見てもですね、皆さんそれぞれ使命感を持って、500人しかいませんけども、使命感を持ってやっていたと思います。もう一つ環境庁が出来たことによって自然保護というのがですね、環境行政の一翼に正式に加わってきたわけですね。それ以前はどうしてたのかと言うと、それ以前は例えば厚生省時代だと、観光、国立公園とか観光地との結びつきでやってたんですが、環境庁という役所が出来たんで自然保護という部門が一部門きちっと位置付けられて、単に公害対策だけじゃなくて、自然保護というのが出来たということですね。

Q:これで大きな前進。

まさに極めて大きな前進だったと思います。

Q:省庁間のバトルは相変わらずあった?

バトルは相変わらずですね。それはある意味やむをえないし、ある意味では先ほど来何度も言ってますようにそれぞれの役所がミッションを異にしてますのでね。それは何ともやむをえない。しかしですね、今の環境行政と比べて言うとですね。当時出来たばっかりの若い環境庁という役所は小さかったけども今と比べても権限は小さいと言ってもいいと思いますけど、国民世論の非常に強い支持があったんですね。ですから今考えるとすごく大きな仕事ができたと思うんですね。典型的な例で言えばね、自動車排ガス規制(1973年から本格的に導入)なんてね、ものすごいことをやったっていうことですよね。それだけじゃもちろんありませんけども、例えば当時アメリカでマスキー法(アメリカの1970年大気清浄法改正案。日本に影響を与え、厳しい排出ガス規制へとつながった)というのが問題になっていて、マスキー法がアメリカで通るか通らないかという時に、日本にもマスキー法的なものを作るべきじゃないかということで自動車排ガス規制をやったわけです。それ以前と比べると桁違いの非常に厳しい規制強化をしたわけですけども、そういうことができたと。今ですね地球温暖化問題でそれがまったくできてないじゃないですか。当時の環境庁と比べて今の環境省の方がよっぽど図体が大きいし、予算も大きい。それにも関わらずですね、私は必要なバトルが十分なされてない、経済に飲み込まれてしまった、環境保全というのがですね、そういう状況だと思うんです。それはやっぱりなぜその差は何だったかと言うと、やっぱり国民の支持と言いますか、メディアを通じてですね、国民の支持というのが非常に大きかった。それからメディアだけじゃなくて、例えば裁判だとかですね、国会だとか地方議会とか、地方の首長さんだとかですね、そういう人たちが力強くですね、公害対策はやらなくちゃ駄目なんだと、経済はもちろん大事だけど経済だけじゃ駄目なんだと、ということをずっとおっしゃってくれたのが小さな所帯の環境庁、出来たばっかりの環境庁にもそれだけの力を与えたんですね。今と比べるとですね雲泥の差があると言ってもいいと思いますね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

環境をめぐる議論は世界でも、広がっていた。 1972年にスウェーデンのストックホルムで開かれた「国連人間環境会議」。 環境問題についての初めての本格的な国連会議に、113か国が参加した。 キャッチフレーズは、「かけがえのない地球」。

会議で、環境庁長官の大石は、戦後日本の公害をめぐる歩みを語った。

「度重なるこのような悲惨な経験を通して、日本国民の間に深刻な反省が生まれてまいりましたのは当然であります。誰のための何のための経済成長かという疑問が、広く提起され、日本国民は、より多くの生産、より大きいGNPが人間幸福への努力の指標であると考え、これに最大の情熱を傾けてきましたが、この考えが誤りであることに気がつきました」

*****

まずストックホルム1972年のストックホルム会議(国連人間環境会議)が開かれた時の日本の立場みたいなものを申し上げますとね、当時日本はですね、まさに経済としてガーッと伸びて行って、

西ドイツを抜いて(国民総生産=GNP)世界第二の経済大国になったということがまずあるわけですね。しかしそれを世界の特に欧米諸国の人たちがかなり懐疑的な目で見てたんですね。それはなぜかというと、日本は公害対策をちゃんとまともにもやらないで、そして製品を安く作ってですね、それをアメリカの市場だとかヨーロッパの市場に流しこんで来ているんじゃないかと。つまり公害患者を犠牲にして経済をどんどん経済でもって責めて来てるんじゃないか、という思いがあって、現にそういうことをその当時伝える欧米の週刊誌だとかそれから単行本だとか、たくさんそういう主旨で出たんですね。私はいまだに覚えてるのはですね、ちょっと作家の名前は忘れましたが、スウェーデン人のジャーナリストなんですが、日本は公害が大変だよと、白いマスクをかけてるのは日本じゃマスクをかけなかったら生きられないとか、交通の警察官の交番は酸素ボンベをみな備えていてですね、警官が外に立っていたらすぐに酸素ボンベに飛びつかないと大変なんだというような主旨のことを書いてですね、そして日本は大変だということがあったわけです。それに対してそういう、当時日本を取り巻くそういう世界の一種の世論に対してですね、やっぱりこれはきちっと反論はしなくちゃいけないと。その反論だけでなくてですね、やっぱし日本としてやるべきことを内外に鮮明にしなくちゃいけないということで、大石演説というのは出来たわけです。私は実は最近読み直してみたんですが非常によく出来てると思います。私自身も執筆に一部関わってるわけなんですが、日本は古来万葉集を引きまして、古来自然を愛好する民なんだと、けっして経済、エコノミックアニマルが日本の本性ではないんだと。日本人の本性というのは自然を愛好する民なんだ。ところが戦後復興の中で経済を何とかしなくちゃいけないという中で猛烈な工業化を進めた結果、非常に意図しない公害が起こってきて、実際にひどい公害状態が発生したと。水俣病とかイタイイタイ病も確か触れたと思います。そういうものが発生して死者まで出たんだと。そういうやり方を反省をして、日本国民は反省をして新しい経済のやり方といいますか、そういうものを求めてるんだということをですね、力強く述べたんですね。で、もちろん日本の状態を説明するだけが目的じゃ、それは一つですけど、もう一つ国連が準備してきたいろんな、ストックホルム会議のために準備してきたもの、例えば人間環境宣言だとか、組織の問題だとかそういったものに対して支持を表明するとともにですね、もうひとつ私にとって非常に忘れられないのはですね、大石演説のなかで6月5日から始まる週を世界が環境問題の重要性を振り返る週間にしよう、「世界環境週間」として提唱したんですね。実は大石さんていうのは3番目に演説をしてるわけなんですね。3番目にですね。これは非常にいい順番を外務省の担当者がとったわけですが、3番目にやったためにあとからずっと続ける人がですね、先ほど大石さんが言った環境週間というのは非常にいい、世界環境週間というのはとってもいいということを次から次へとエコーしてくれる人がいてくれましてね、それでグーッと盛り上がってきてですね、しかし週間、ウィーク(Week)というのは長い、ディ(Day)にしてほしいというのが国連事務局からご要請でですね、いいよと、それじゃあ何も週間でなくて日でいいと。それで“World Environment Day”というのが出来たわけなんですね。これはとってもいいことで、今皆さんご存じの通り6月5日というのは新しい『環境基本法』の中に「環境の日」として位置づけられた。世界中で6月5日、いろんな形で記念する行事をやっているというのは、そのきっかけは大石演説が作ったという問題もありますね。という具合にですね、世界に対しても当時の日本の非常に厳しい公害をめぐる状況と、それからそれにも関わらずこれからやっていくんだと、反省してやっていくんだということを訴え、同時に国際社会に対する貢献も表明したと。今43年たった今読み直してみても大変優れた演説だったと思うし、私自身正直言ってその起草の末端に加わった人間として非常に嬉しく思っております。

Q:加藤さんはどのあたりのどんな文言を?

私は実は先ほど言った世界環境週間にしようというのは、まさにそこをやりました。それからもうひとつですね、万葉集を引くっていうのは、有名な万葉集の一節(「石ばしる 垂水の上のさ蕨の 萠えいづる春になりにけるかも」)を引くというのは私が書きました。実はそれは私の別に発明でも何でもなくてですね、その前にモーリス・ストロングさん(カナダ出身の実業家。国連人間環境会議に尽力。同年設立された国連環境計画の初代事務局長)という方が、準備のための事務局長ですが、モーリス・ストロングさんが日本に来た時ですね、日本の皆に向かってスピーチをした時に、実は芭蕉の句を引いてるんですね。私はカナダ人であるモーリス・ストロングは芭蕉の俳句を引いてるというのに非常に感銘を受けてですね、なるほどやっぱし世界のリーダーというのはですね、こうやって文学的な素養とか歴史的な知見とかそういったものを持ってなくちゃ駄目なんだなということを学んでですね、大石武一さんの演説の中にぜひ、そういう文化的な文学的な要素も入れたいと思ってその2点は少なくとも私が頑張った部分ですね。

Q:そうやって出来た大石スピーチが与えた影響というのは世界的にもある程度インパクトが。

インパクトがあったと思います。繰り返して言いますように日本は公害対策を犠牲にして、経済開発に血道をあげてるという思いがかなりあった中でですね、そうじゃないんだと。そういうことは確かにあったけれども反省して、これからやるんだっていうことですね。それとストックホルム会議の結果出て来るUNEP(国連環境計画)、そういったものの支持とかですね、してるわけですから、日本のことを言うだけじゃなくて世界に対する貢献もあったんで、それは世界にも響いたと思います。それから日本国内でもですね、大石さんの哲学というのはですね、非常に明確に打ち出されたと思います。当時新聞だとかテレビをご覧いただくと非常に好意的にですね、書かれている評価されていると思います。

しかし残念ながらですね、大石さんはそれから1か月足らずのうちに環境庁長官は交代になるんですね。内閣の改造によってですね。ですから大石さんとしてはストックホルムで述べたことのフォローアップをしっかりとですね、大臣として見るというか、そういうことは残念ながらなかったと思いますけども。実際ですね、大石さんがその後環境庁時代の思い出を書いてるんですが、思い出の中にはストックホルムのことは出てこないですね。

ただ大石さんのことは多くの国民が覚えていてですね、何かにつけて言及されますよね。ですから大石さんが伝えようとしたことっていうのはその後いろんな形で心の中に。私たちはもとよりですけど、私たちと違った立場にいる人たちも含めてですね、それなりに響いたとは思うんですね。

オーバーに言えば価値観を形作るとか、いろんな形で支えになると思いますね。現実にさっきも触れましたけども、自動車排ガス規制とかですね、ちょっと今考えてもよく出来たと思うような規制がですね、今温暖化で非常に苦しんでるのを見てますとですね、まるで次元が違うようなことをやり遂げてるわけですからね。ですからそれは大石演説の後の話ですが、まあきちっと引き継がれていったと思うんですがね。その時ぐらいまでは。

私は実はOECD(経済協力開発機構)に73年の9月から、OECDの日本政府代表部というところの環境担当書記官ということで赴任するわけですね。赴任した翌月、まさに10月に第一次石油ショックっいうのが起こるわけですね。そうすると、非常に当時パリにおったわけですが、パリで発行されている新聞なんか目を通しますとこれで環境の時代は終わったとか、そういう漫画が新聞に掲載されたりですね、そういう論調が出て来たり。

要するに、一時期の公害、環境の対策に燃えていたのがですね、水をかけられたというか、石油をかけられてですね、また石油との戦い、経済との戦いということに転換していくのは私も目の当たりに見ました。ただ日本はですね、すぐにそう政策はすぐには変わったとは思っておりません。むしろ国際的な社会の方がより敏感に反応したと思います。例えば具体的な例でいきますと、おもしろいなと思ったのはOECDの中に環境局という事務局があるんです。1970年に出来た事務局なんですが、その70年に出来た事務局は非常に本部のいい所に場所を与えられていたんですね。だけども石油危機が起こるとですね、IEA(国際エネルギー機関。OECD枠内に1974年設立)という国際機関を作らなきゃいかんと、急きょ作ることになって。

その事務局のために場所を移されて、ちょっと場末の方に追いやられるというのを見てましてですね、ああこれは現金なもんだなあと。環境、環境と言って大騒ぎしていたOECDも、いざ石油危機が起こるとこんな変化が起こるのかなあと。事務局の単なる場所の問題で別に環境局をつぶしたわけでも何でもないんですが、そういうことが私が当時見ていて非常に印象深かったですね。たださっきも言ったように日本はそう急速に、石油危機が起こったからさあもう環境の時代じゃなくなったとかそういうことにはならなかったと思います。

私はOECDの日本の環境政策レビューというのは、まず最初の段階はパリにいた担当書記官としてOECDの事務局の意向を日本側に伝えるという、日本政府側に伝えるという役割をし、最後の段階ではですね、3年間の赴任から東京へ戻って来て引き続きOECDの環境政策レビューを担当したという非常に得難い経験をしているわけですが。まずですね、なぜ日本を環境政策レビューの対象国にしたかというのは非常に明確です。それはですね、日本が非常に特殊な、ヨーロッパ・アメリカから見ると日本は特殊な状況にあったと。特殊とは何かというと非常に高密な人口、経済活動ですね、狭いところで人口が多く、都市化していき、自動車もたくさん走り、経済活動もたくさん行われて。高密度の中でしかも急速に公害が出て来たと。そしてその結果として繰り返し言ってますように、いろんな公害病だとか環境汚染だとか起こって来る、しかしそれに対してですね、結構日本は対応を取ってですね、かなり短い時間にですね、ある程度の成果を出し始めたと。しかもこの成果を出すに当たって日本は当時あまり経済的な考慮をしないで、コストをどのぐらいかかるなんてことをあんまりしないで、当時の言葉で言えばノンエコノミックアプローチとOECDの人たちが言ってましたけども、経済のことあんまり考えないでめちゃくちゃに投資をしてですね、やったと。それがOECDの他の諸国にとって事務局にとって非常に貴重な経験じゃないか、ぜひですね、OECDの環境委員会として日本の政策を徹底的に調査してみたいというふうになったわけですね。それでそういう意向、最初は事務局から出て来た意向ですが、その意向が担当書記官である私のところにやってきて、私は事務局はそういう意向でいるってことを東京に伝える。そうすると予想されたように東京から最初はですね、そんなモルモットみたいになるのは嫌だとかですね。

最初は受けたくないという反応が予想通り帰って来るわけですが、それが何回か事務局とやってるうちにですね、特に環境省の中で当時大気保全局長であった橋本道夫さんとか当時官房長であった金子太郞(環境庁長官官房長)さんとか、そういう幹部が、いやそんなこと恐れることはない、むしろ日本の公害行政、環境行政というものをOECDの目から洗いざらいみてもらったらいいじゃないか、それは日本にとっても役に立つし、メンバー国にとっても役に立つんだから引きうけようというとになって引き受けることになったということですね。その事務局はですね、議長さんがプリュードムさんて方なんですが、この方は根っからの国際公務員ではなくて大学の先生だったんです。大学の先生が環境局の次長として来られた方が経済学が専門なんですが、その方が日本のことを非常に関心を持ってですね、徹底的に日本のこと調べるんです。一つの例が日本で発行されている英字新聞をずっと取り寄せて英字新聞を隅から隅までよく読むとかですね、それからパリに来る当時の日本人関係者できるだけの人に会って話を聞くとか、もちろん自分も日本に出張して来た時はいろんな分野の人に、役人だけ会うんじゃなくていろんな分野に人に会う。宇沢弘文(1928年- 2014年。経済学者。公害・環境問題に深く携わり、水俣などに足を運び続けた)さんとかですね、都留重人(1912年- 2006年。経済学者。学際的研究組織として1963年に発足した公害研究委員会の初代委員長を務めるなど、公害・環境問題研究をリードした)さんとかそういう人たちに会って意見を聞いてるわけです。そういうのを聞いてですね、レビューのための事務局の一つの下書きみたいなものを作るわけですね。そういうものを見た上で環境委員会のメンバーが日本にやってくる。

日本にやってきて、そして東京の中で会議するだけじゃなくて、4つのグループに分かれて、例えば千葉市原地域に行く人、四日市に行く人、当時コンビナートとしても非常に問題になっていた鹿島に行く人、さらには川崎・横浜地域に行く人、4つのグループに分かれてですね、それぞれの現地で市長さんとか知事さんとか企業の方とか住民代表だとかそういう人たちと会ってですね、自分たちが日本の環境政策というものの現状、そしてそれを企業なり市民がどう受け止めてるのかっていうのを自らインタビューをしてですね、そしてそういうものを持ち寄って77年・・現地を視察したのは76年です。

76年に現地を視察して、77年にOECDとして結論を出すんですね。結論は今見ても非常に示唆に富んでますけれども、一口で言えばですね、日本は公害対策との戦いには勝ったけれども、全体的な環境の質、生活の質、というものについてはまだまだ問題があると。土地利用だとかですね、そういうような、文化的な環境、今で言えば観光資源とかそういう言葉になるのかもしれませんが、そういうものに対する配慮がまだ足りないとか、そういうのが出るんですが、公害との闘いには勝ったということでですね、それが日本の当時無我夢中でやっていた公害対策に携わっていた人たち、国の役人はもとよりですけど、地方公共団体で公害対策に必死になって取り組んでいた人たち、企業で公害対策やってた人たち、そういう人たちに対する非常にポジティブなメッセージとして伝わったということですね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

公害対策から環境保護へ。大きく転換していく時代の流れに、政府も対応した。 1993(平成5)年、 『公害対策基本法』にかわって、新たに、『環境基本法』を制定した。 「現在及び将来の世代の人間が、健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受する」。 また、「環境への負荷の少ない健全な経済」を発展させることもうたわれた。

*****

92年に開かれた「地球サミット」(国連環境開発会議)ですね。「地球サミット」のテーマが持続可能な開発ですから。それは先進国も途上国も含めてですね、今のままで言ったら持続可能ではないと。ですから持続可能な開発を求めていろんなことを総動員しましょうと。例えば気候変動の問題については条約(気候変動枠組条約)を作る、生物の問題についても条約(生物多様性条約)を作る、その他にですね、いろんな青年だとか民族問題、少数民族とか女性とか科学者とかメディアとかですね、いろんな社会にいるセクターのすべてをですね、網羅して対策を取ろうというのが地球サミットの広い意味でのメッセージですよね。それを受けてですね、まさにそのメッセージをそのまま受けて、92年からもうすでに「地球サミット」が終わるとすぐにですね、政府内では『環境基本法』、『公害対策基本法』というのでは枠が狭すぎると。もっと広い『環境基本法』というのを作ろうという動きになって。で、私自身もですね、当時(環境庁)地球環境部長として地球環境問題を取り入れる責任者を務めてですね、そして作って、翌年の93年にですね、『環境基本法』というのが出来るわけですね。公害と違うのは、『公害対策基本法』と違うのはいくつもありますけども、一つは自然環境部門が明確に入ってきたとかですね、それから理念ですね。国の環境行政の理念ていうのを3つほどですね。いわば前文のように、憲法でいえば前文のような形で3つの理念を明確に打ち立てたということですね。その他にも、もう一つは当然ながら地球環境問題というのを『環境基本法』の大きな一部門として入れた。公害対策時代には、『公害対策基本法』(1967年制定)には地球環境問題というのは全く無いし、理念ももちろん無いし、それから自然保護、自然環境を守るっていうのは『公害対策基本法』の枠外、事実上置かれてましたので。まあ『環境基本法』が出来たということでですね、総合的に環境問題を捉えて対策をとる基盤が出来たということだと思うんですね。

Q:いままで経済と調和ということがずっと問題になってたと思うんですが 経済とのバランスというのは相当考えられた?

いや、相変わらずのバトルですね。実はですね、『環境基本法』を作る時に非常に大きな問題が2つほどあったわけですね。理念を作るというところまでは私の理解ではそんなに大きな問題なかったと思うんですが、経済的な方策をどう作るかと。これはもう本当に私はその部分は直接担当しませんでしたけども、担当する課長さんと経済産業省、当時まだ通産省ですね、通産省との間でですね、ものすごいバトルがあってですね、出来上がった条文というのはですね、『環境基本法』の確か21条だったか22条だったかなんですが、その条文はですね、誰が読んでも何が書いてあるかよく分からない、典型的な霞が関文学という言葉が使われてた。霞が関の役人たちがああでもないこうでもないというバトルを何か月にわたって繰り広げて出来上がった文章というのは普通の一般国民が読んだって何が書いてあるかまったく分からないという類の文章になってます。実際その通りでですね、それは経済と環境というののバトルというのは私が若い時からずっと続いていて、今も続いているということですね。何も基本法の条文だけで終わったわけじゃない。 具体的に言えば、端的に言えばですね、2つほど例あげますが、1つは気候変動問題ですね。この気候変動問題に日本がどう対応するかということについてはですね、相変わらず経済と環境という、調和という点でつまづきが出てますよね。もっと端的に言えば安い石炭とか原子力を使って安い電力を作りたい。石炭なら安い、原子力はぜひ稼働させたい、再稼働させたいという経済との配慮が優先されてですね、そこの力が今非常に強いわけですね。一方で気候変動問題についてはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)からこのままで言ったら大変なことになると。現実に異常気象やら、いろんな形で現実に一般の人だって気がつくぐらいの、十分に気がつくぐらいの状況になりつつあるんだけども、やっぱり今日明日の問題は経済は強いわけですよね。政治家もですね、別に10年先30年先50年先見通せないわけじゃないけども、現実の行動に結びつかないわけですね。だけども経済は今日の株価が上がったか下がったか、円安になったか円高になったかっていうのは今日明日の問題で日々動いてますよね。そちらの方の配慮が政治家だけじゃなくて役人だけじゃなくて国民も含めてですね、全部とは言いませんが一部かもしれませんが非常に発言力政治力がある人たちが、そういった非常に短期的な何か利益とかそういったものに押し込もう、そういう観点から押し込もうとする、つまり石炭もっと使え原子力使え、再生可能エネルギーなんてそんなもの使わなくたっていいじゃないか、できたら少なく使えというような動きですよね。なぜかというと再生可能エネルギーって高いじゃないかと。送電線を張り直さなきゃいかんじゃないか、これには金がかかるじゃないか、それよりは石炭たけばいいじゃないかという非常に短期的な視点と、10年とか20年ぐらい時間がかかる中長期的な視点との間のバトルの決着がまだついていないってことですね。

私は国民の命と安全な暮らしというのは何も軍事的な問題だけじゃないと。今や気候の変動によってもですね、それは危うくさせられているんだと。現にそうなりつつあるんだけども、なぜそれにもっと力を入れないのか、それをやることによって例えば新しい技術が出来、新しいビジネスが出来るんですよ。ちょうど1970年の日本がそうだったように。そしてそれは日本のそれこそ自然愛好の民である日本のメンタリティに非常に合うし、世界からの尊敬も得られるわけですよね。尊敬も得られながらいい技術を作って、そしてもうちょっとうはうはもうかる世界ではないけれども、心豊かに暮らせる社会ができるはずですよね。私はそういう意味で経済と環境というのは非常に大きな問題だと思っています。

今でさえもう環境が悲鳴をあげてるのに、自然環境が悲鳴をあげてるのに、海でも山でも川でもみんな悲鳴をあげているのに、自分たちがもっと豊かになりたいもっと豊かになりたいということで、今までのやり方をやってったらこれは駄目ですよ。だけどもね、じゃあ経済はどうでもいいのか、そんなこと私全然思ってないです。この地球環境時代、人口が80億になんなんとする時代にふさわしい技術とビジネスとそれからそういう経済、私たちの言葉でいえばグリーン経済というものを作る努力を意識的にやるべきですよね。株価が上がるだとか、円が安くなって輸出企業がもうかるとかそういうレベルの話ではなくて、もうちょっと長い、せめて10年20年の視点でもって新しい経済というのを作るべきだと思うんですよ。その経済は別に架空に、空中に浮いてるわけじゃないんですよ。少なくとも私たちの頭の中には明確にあるしですね、いろんな人たちがこういうふうにしたらいいじゃないですかって具体的な提案をしているわけですよね。それを聞こうとしないか、それに真剣に耳を傾けるかによって我々が本当に日本の1億2千万の日本人も含めて、70数億の世界も含めて、きちっとした人間らしい尊厳がある生活ができるかどうかっていうものがかかっているわけですから。別に仮想でも理想でも空想でもないです。じゃあ言ってみろと言ったら、私はいつでも言ってお見せすることはできます。そういうことを私たちNPOはやってるわけですから。

私自身ですね、役所を離れてもう22年過ぎますが、残念ながらですね、今の環境行政というのは経済の中に飲み込まれてしまったという思いが非常に強いですね。いわばこの経済が大きなワニのような大きな口を開けてですね、環境行政をパクッと飲み込んでしまったというような印象が私には強いです。この前ですね、ある自治体の環境行政の人と話をした時ですね、その方が今のままの環境省ならむしろ経済産業省の一部門になった方がまだましじゃないかというような発言があって、私はかつてOBとしてもですね、非常につらい思いをして聞きましてですね。経済産業省の一部局になると、環境省がですね、そんなことがあっちゃならないし、そんなことをしたら日本のまさに自殺そのものですね。経済は言うまでもなく大切です。当たり前です。これは私にとっても経済は大切。しかし環境というのはですね、空気とか水とか、鳥とか魚とかお花とかこういうものはですね、私たちの生きる基盤であり、人間だけじゃなくていろんな生き物の基盤であって、しかも経済活動のベースでもあるんですね。それを掘り崩してしまってですね、一時的な短期的な利益のためにですね、環境を守るという大事なことを忘れてしまったらですね、これはもう全く暗黒の世にまた戻るという感じになってしまいますから、そんなことがあっちゃならない。そのためにはやっぱり経済と環境というものを環境省の人もしっかり見つめ直してほしいと思います。それからそれだけじゃなくて国民も一体本当に毎日毎日の足元の経済というのは重要だけども、一方で子どもの時代、孫の時代というものを考えた時に一体どうなるのかということも、国民も一緒になって考えてほしいと思います。そういう時ですね、じゃあ考えろって言ったって材料もないじゃないかということがもしあればですね、それは私のところも含めてですね、市民団体、NPOがですね、いろんな材料を作って出しています。これはけして架空物語を作ってるわけじゃなくて、私たちからすれば現実に可能なものを提供しております。それをもちろんいろんなそのまま受けるんじゃなくて、いかようにでも批判をしたり議論してもらいたいと思いますが、そういう厚みがなかったらですね、それこそ環境行政が経済にパクッと飲み込まれた状態でですね、非常に21世紀を生きる日本人は厳しい苦しい時代を迎えざるを得なくなってしまうというふうに私は思っています。

Q:みんなで考える。

ええ、みんなで考える。その材料は誰かが提供しなくちゃいけない。もちろんいろんな経済学者もいるし評論家もいるしメディアもあります、そういう人たちがいろいろと出すでしょうけど、私たちも出してますので、そういうものを一つの材料としながら、せめて50年先100年先とは言いません、10年先20年先ぐらいまでは見てほしいと思います。考えてほしいと思います。それすら怠ったらね、これは相当厳しい、悲惨な時代がやがてやってくるということを覚悟せざるを得ないんじゃないかと私は思ってます。

それは日本のためだけじゃなくてね、世界にとってもいいことですよね。それはね。常に日本は世界の中にあるわけですから。日本だけが良くなりゃいいってわけじゃもちろんなくて。私たちの考えたこと、私たちの経験したことを率直に外にも伝えると、いうことによってまた向こうからもいろんな反応があるでしょう。反論もあるでしょう。オブジェクション(異論)もあるでしょう。そういうことをしながら、やりとりをしながら高めて行かないとこの21世紀人類社会というのは、崩壊するんじゃないかと心配している人だって少なからずいるわけですからね。そういう努力をすべきだと思います。私たちは少なくとも、微力でありますけれどもしているつもりです。

プロフィール

1966年に厚生省(公害課)に入省、1971年発足した環境庁へ出向。一貫して公害・環境行政に携わる。公害対策基本法、国連人間環境会議と「地球サミット」への準備、環境基本法など、日本の公害・環境行政の根幹を定める文書の作成を担当してきた。現在も、NPO代表として環境に対する提言を発し続ける。

1939年
東京に生まれる
1964年
東京大学工学部土木工学科卒
1966年
東京大学工学系大学院修士課程修了
 
厚生省に入省
1971年
発足した環境庁大気保全局へ
1972年
国連人間環境会議に出席
1973年
日本初のOECD環境担当書記官としてパリに駐在
1978年
環境庁大気保全局企画課交通公害対策室長
1981年
環境庁大気保全局大気規制課長
1984年
厚生省生活衛生局水道環境部環境整備課長
1987年
環境庁企画調整局環境保健部保健企画課長
1989年
環境庁長官官房国際課長
 
環境庁企画調整局地球環境部長
1990年
地球温暖化防止行動計画の策定
1992年
~1993年 環境基本法作成に参画
1993年
退官。直ちに「環境文明研究所」を設立、所長となる
 
「21世紀の環境と文明を考える会」を設立し、その代表理事
 
(1999年 同会は「NPO法人 環境文明21」となる)

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