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証言

タイトル 「編集者が語る「異能の人」」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
第8回 宇宙から生命を見つめて~手塚治虫~
氏名 丸山 昭さん 収録年月日 2014年11月25日

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チャプター

[1] 編集者泣かせだった手塚治虫  09:57
[2] 天才マンガ家 手塚治虫  10:34
[3] “悪書追放運動”の中で苦悩する手塚  10:10
[4] 手塚治虫の遺産  03:07

再生テキスト

ここです。このつきあたりが、手塚先生が住んでたまんまの建物です。で、奥の、2階の奥の左の角部屋が、手塚先生のいた部屋です。

Q:最初にここにいらっしゃったのは?

ええと、昭和29年。1954年ですか。54年の10月ぐらいですかね。

Q:60年前ですね。

そうですね。いやもう、ここをくぐる時はもう、あの話を聞いてましたから、とてもこれから先は、えらいことになるだろうなとは。とても私生活はないだろうと、すごく覚悟を決めながら入る、門のところでしたけどね。

Q:そういう話を、先輩から聞かれてたんですか?

ええ、もうやっぱり、有名でしたからね、あの頃もう。難物中の難物で。

*********

手塚は昭和29年、仲間のマンガ家たちと暮らしたトキワ荘から、並木ハウスに移り住んだ。

*********

この部屋です。で、これがその裏階段で、ここでこっそり待って、というところなんですけどもね。

Q:ああ、ここに隠れて。

ええ、隠れて。

Q:待つわけですか?

多分、先生も前からは来なくて、裏から入るだろうということで、こっちで。

Q:ここでこっそり。

そうですね。

Q:息をひそめて。どれぐらい待つんですか?

これはですね。もう1晩ですよ。もう。ですから、

牛乳屋がカチャカチャカチャ鳴ってきて、新聞配達が来る頃「あ、これでまた夜が明ける。今日もダメだ」っていう。だんだんもっと慣れてくればね、どこが今缶詰にしているかっていうことを見当をつけて、そこが缶詰にしているとすれば、どこの旅館だとか。あそこに泊まっているに違いない。それで、そこに行くわけです。 そうすると、向こうもその、例えば旅館の入り口で、「手塚先生がいますか」って言ったら、「いません」って言うに決まってますからね。

そのほかの会社のあれ(名前)を語るわけです。それで、「どこそこの原稿料を持ってきましたよ」なんて言ったら、「手塚先生にお届けにまいりました」と。「その方はいません」って言うの。「困ったな、今日お金が要るって言ったんだけど、じゃあ、別を探します」って言うと、「いや、ちょっと待ってください」って言うんで、通されるんですよ。そういう手をいろいろ使うわけです。

あともうこのドアで、もう非常に思い出があるのは、石森章太郎と、赤塚不二夫と、それから長谷邦夫って。その当時、まだ石森さんは高校生で、赤塚さんは高校出て18ぐらいだった。ここで僕が中でもってこうやって待っている時に、夏の、8月の10日に来ましたね。それで、ここでコンコンと来て。それで戸を開けたら、その何かわけの分からないような高校生が3人いるんですよね。だから、「ダメだ、もう、こんな今先生忙しいんだから、サインならね、今度月の終わりに少し暇になるから、またいらっしゃい」って言って、バタンって閉めたらね、3人でここんところで、もやもやもやもやして帰らないんですよ。 で、その内にね、「先生、小野寺です」って。石森章太郎の本名は小野寺。そしたらね、先生がね、コンとペンを放り出してね、来て、だっと開けて「どうぞ、どうぞ」って入れちゃったんです。で、小野寺章太郎は、もうその前の年かな。先生に呼ばれて、電報で呼び出されて、ここで手伝ったことがあるんだ。

それは手塚先生にしたら、もう前の晩から寝かせなくて、何とかしてひと休みしたくてしょうがない時に、そんな連中が来たから、もう「救いの神」と、上げちゃって。それでもう、どんどん話をし始めちゃう。僕はねもう「ちきしょう、こんな時に、こんなやつらが来やがって」と思って。 それが、結局僕にとっては、後で救われるんだけど、石森章太郎と、赤塚不二夫と初対面がその時だったんです。それで、2人ともあんまり売れなくて、それで、石森さんは頼りにしていた『漫画少年』っていう雑誌に描いて、東京でもって生活しようかと思ったら、その会社がつぶれちゃって。で、たまたま僕と会った時に、僕の名刺を渡していたんで。その名刺を持って、講談社に訪ねてきた。それで、僕のところで石森さん、描くようになった。そういうね、因縁の場所なんです。

Q:今ここに立たれて、どんなお気持ちになりますか?

そうですね。なつかしいって言うか、当時はもうこの蹴飛ばしてね、「この野郎、顔も見たくない」って言ってね、どんって帰りたかったですけどね。だんだんだんだん時間がたつとね、「もういっぺん担当してもいいな」と思うようになってきましたね。まあそういう、よく「手塚先生って富士山みたいな人だ」って、よく聞かれると言うんですけどね、そばにいるときは、もうがれきの山で、登るのは苦しいし、「もう2度とこんな山、登るまい」と思うんだけども、それがやっぱり離れてみると、だんだんだんだんあの高さと、美しさが分かって。それであの優れている人だっていうことが、離れれば離れるほどこう、見事に分かってくる。そばにいた時は、もう。ほんとにね。蹴飛ばしてね、原稿ビリって破って「こんなもの要らねえや」って言って帰りたいぐらい。これはもう、ずっとそう思ってましたけどね。

Q:こんなお部屋でしたか?

ああ、もう、全然、そうですね、あの、建付けやなんか、全く昔のまんまだそうですけれども、あんまりよく覚えてないですね。もう、ほとんど、もう、目を三角にして、タバコをチェーンスモークで、こうやってもう、じっと睨(にら)みつけて。先生が「5分寝かせてください」って。「ダメです」「じゃあ、3分でいいから寝かせてください」「ダメです」。

Q:「寝かせてください」っていうのは、手塚さん?

そうそう。でも、ほんとはね、5分でも3分でも寝かせたほうが、あと、スっと行くんですけどね。そのまま、グッと寝られちゃ困ると思って、寝かせない。でもね、手塚先生っていうのは、だいたい普段時計持ってない人なんですよ。時計もないんですよ。だから、後でみんなに言われて、そういえば時計なかったなって、当時の・・・みんなで感心したんですけどね。それで、15分寝かせてくださいっていう時には、ほんとに15分でね、パッと目が覚めて、パッと起きてね、さっと仕事に掛かれる人なんです。だからほんとは、後から考えりゃ、寝かせてくださいっていった時に、ほんとは、3分でも5分でも寝かせてやったほうがよかったんですけどね。

何て言いますかね、物がいっぱいあって、そして原稿がバラバラあって。僕たち行ってもね、居場所がないんですよね。それで、僕が最初に行った時は、1人、ちょっとした年配の人がいまして、で、紹介されて。それで、手塚先生、ああ、そうですか、よろしくお願いしますで、やあやあなんてやっているときに、その人がお茶を入れてくれたんですよ。ああ、マネージャーがいるのかと思ったんですよね。そしたら、そうじゃなくて、それは僕の前の番の編集者なんですよ。で、編集者も慣れてくるとね、お茶入れたりなんかするようになっちゃうんですよね。 僕がね、「『少女クラブ』の丸山です。よろしく」って言ったら、その人が、秋田書店の『漫画王』の方、北さんって、「北山です」なんて言ってね、名刺くれましたね。それでびっくりしたんですよ。いやあ、編集者も、ここへ来たらもう、お茶も入れたりなんかしなきゃなんないかなと思って。

Q:じゃあ、もう、ここにしばらくいて。

そうです。

Q:帰れないっていうような感じなんですか?

まあ、そうですね。だいたい、その頃は、私がいた『少女クラブ』っていうのは、まだ、B5版になる前の、小さいA5版の、今の総合誌のサイズですけど、300ページぐらいで。そのうちの8割方が、小説だとか記事の活字なんですよ。で、漫画はたった2割ぐらいなんですよ。ですから、私の仕事も、8割方は活字の記事やなんかですけども、たまたま持たされたのが、手塚治虫と、うしおそうじという、難物中の難物だったんですよね。ですから、活字はもう、ほんとに、片手間で仕上げて、たった2割のマンガに、たぶん、2人とも3日分ずつぐらいは泊まりましたね。

昭和29年ですね、1954年ですか。『少女クラブ』で、手塚先生の少女ものの代表作って言われる『リボンの騎士』(1953-1956「少女クラブ」(講談社)連載)っていうのを。私、あの、『少女クラブ』に配属になったのは10月でしたから、『リボンの騎士』はそのとき始まっていたんです。途中から、私、バトンタッチしたんですけど。その仕事をやってました。それですから、やっぱり、いちばん代表作って言われるものを担当したのは、やっぱり、うれしかったですね。

Q:その初対面のときの手塚さんの印象ですね、どんなだった?

ええ、あれはね、手塚先生の漫画を見れば分かりますけどもね、あのベレー帽にシューベルトのメガネみたいなのを、丸いメガネを、丸い鼻で、顔も丸くて。それは全くね、似顔絵の通り、漫画の通りですからね。紹介されなくても、一見して分かりましたよね。ただ、背が高くて、そして、割合朗らかで、とても響きのいいバリトンでしたね。それで、にこやかに紹介されて。あ、これは聞きしに勝るというか、聞いてきたところじゃ、えらい、難物中の難物で、みんなもう、腹立ててるけども、「結構いい人じゃない」と思いましたね。ま、それがまあ、だまされた始まりなんですけどね。

Q:当時、手塚さん、計算しますと26歳ですね。

そうですね、はい。

Q:何て言うんですか、年齢ですね、そういう若い・・・

あ、それはね、びっくりしました、私も。大正何年生まれなのかな、僕より8つぐらい上の感じなんですよ。私、昭和5年なんですけど。そうすると、大正生まれでね、こんなに若いってのはやっぱり、と思いましたね。そしたら、案の定サバを読んでいて。それはね、私は、亡くなる、亡くなったときに、昭和3年生まれって聞いて、私より2つ上だけなんですよね。ああ、だまされたと思いましたね。 やっぱりね、東京へ出て来たばっかりのときは、あんまり若いとなめられるんじゃないかっていうんで、普通の逆のサバの読み方ですよね。年上に。だけど、私の2~3年先輩で、手塚先生の、まだ向こうにいるときに、東京に出て来る前の担当者なんか、金ボタンの服着てた時代に、手塚さんと会っているそうですから、やっぱり、そんなはずはないんですよね。 で、だいたい、子どもものの作家は、文章の作家にしても、漫画家にしても、画家にしても、みんな若いんですよね。やっぱり、何て言いますかね、子ども心を失っちゃうと、子どもものっていうのは書けないんじゃないかと。だから、だいたいそうなんですよ。だけど、それにしてもね、若かったんで、びっくりしましたね。

Q:実際には、大正生まれどころか、もっと若かったという。

僕より2つ上だけだった。ですからね、その頃、私たちはみんな、手塚さんって呼んでいたんですよね。もちろん、手塚君なんて言うのもいましたけどね、それ、金ボタンの学生であった・・。だいたい、編集者っていうのは、みんな、そこら、30ぐらい、手塚担当になるのはみんな、各社の手だれですからね、30ぐらいの押しの強いのばっかり。ですから、みんな年下な訳ですね、手塚さんが。だから、先生って呼ばなかったんですよ。で、たった1人で、僕がいちばん年下で。手塚先生よりも僕のほうが年下だった訳だから、ほんとは先生って呼ばなきゃいけなかったんでしょうけども、やっぱり、みんなと一緒にさん付けで呼んで。で、ずっと“さん”できましたけどね。ずっと後になって、あの手塚治虫の偉大さというか、アレがだんだん分かるようになってきたから、いつの間にか、私も先生って言うようになりましたね。

Q:当時、手塚さんが抱えていた仕事ですね、漫画の連載、読み切りってどれぐらいあって、原稿取るのに、どんな苦労されてましたか?

そうですね、だいたい、あのときはもう、月刊誌ばかりでしたからね。で、漫画1本って言っても、当時は、今は64ページなんていうのがありますけどね、当時はもう、最長編が8ページで。だいたい1ページ、2ページっていうのが普通だったんですよ。私の担当は7ページ、8ページでしたけどね、『リボンの騎士』は。 それが、毎月、だいたいあの頃で10本ですね、連載は。その他に、飛び込みって言いますけども、読み切りがあって。そして口絵があって。で、あと、絵本やなんかが頼まれて。ですから、そういうものを入れると、まあ、私たちは端物とか飛び込みって言いますけど、とても、人間業じゃないんですよね。 なにしろ、今のように、アシスタントになるプロダクションシステムができるまで、全部、あの人、アイディアから下書きから、もっとも下書きはあんまりしない人でしたけど、全部自分でやりましたから。10本だけでも、1本に3日しかかけられないです。と、そのアイディアから、割り付けをして、完成まで描くっていうのは、普通の人は3日じゃ上がらないですよね。まあだいたい1週間から10日かかります。新人だと、ひと月かけちゃいますけど。 それを10本っていうのはね、まあ、便所に行く時間もどうかっていうぐらいでしたね。寝る時間はもちろんありませんよ。ですから、完徹が何日も続きましたけどね。そういう状態でしたから、それでもね、休載になっちゃう、間に合わなくて休載になっちゃうっていうの“落ちる”って言いますよね、あんまり落としたっていう事は聞いた事がないですね。それだけ速い、描くのも速かった。

この辺が、あの人の異能だっていうところなんですけども、全部、自分の頭の中にはもう、構図も絵も決まって入っているんですね。ですから、8ページなら8ページで、ここから描き始めてくださいって言っても、ちゃんとそこから描き始めていける訳です。逆さまに、お尻から描いてもいいしっていうくらい、各ページがもう、頭の中に完全に出来上がっているんですよね。これはもうね、ちょっと、他の人にはできない。 それで、ですから、ちょっとコスチュームの派手なものと、変わったものは、その人物だけ、ボンボン、ボンボンと先に書いちゃうんですよね。っていう事ができる。それで、例えば、僕に中の絵の説明をしてくれるときに、『リボンの騎士』で、僕がそっちにいると、逆さまにスーッと描いて見せてくれるんですよ。だから、方角も何でもね、自由自在に描けるという。

ついでに言えば、あの人でなければできなかった、口述筆記があるんですよ。それは、まだテープレコーダーが始まったばかりのときでしたね。それで、テープレコーダー、オープンリールですよね。それでね、別のものを描きながらも、例えば、僕の前は、『ぼくの孫悟空』(1952-1959「漫画王」(秋田書店)連載)なんて漫画がありましたけど、それを、僕の前はだいたい描いてますよ。 で、『ぼくの孫悟空』のペンを入れながら、「最初のページ。4段にして、いちばん上の段、右3分の2、左3分の1。それ、右上に、お父さん。行変え、『待ってくれ』」とかね、そういうのを描きながら言うんですよ。それで、ちゃんと行変えの指定もしたりね。それから「そこに雨だれ」、あの、イクスクラメーションマーク(感嘆符「!」)ですよね、「雨だれ」とかね。「それは、字はゴチにしてくれ」とか。そういうね、指定をしながらね、こっちは別の仕事をやっているんです。

Q:『ぼくの孫悟空』の絵を描きながら、『リボンの騎士』のセリフを吹き込んでいると。

そうなんです。そういう事ですね。だから、頭でやっている事と手でやっている事が、全然別の事ができるんですね。

で、それの連続ですが、まだ、ファックスができる前にアメリカに出張して、そしてアメリカでもって、仕事を持って行っちゃって。だけども、向こうでももちろん、ギュウギュウの仕事があるから、やれない訳ですよね。すると、東京に「5ミリの方眼紙を50枚ぐらい用意しておいてください。それで、電話しますから」って。それで、電話してね、その5ミリの方眼紙に、あれは、要するに座標を言う訳ですよ。左上から5ミリ、左から何ミリに点を打てと。で、いくつか点を打って。それを繋げてアトムの顔にしろとかね。 そういう、もう、全く、想像を絶するような事もやったらしいんですよ。

そのときに、手塚先生帰って来て、アシスタントが、「先生、元の原稿見せてくださいって。自分たちが点を打ったのをちゃんとやっておるか」と。たら、「何だよ?」って言うから、「いや、方眼紙に点を打った、あの元の原稿です」って言ったら、「ああ、原稿なんか無いよ」って。頭の中で、あれを決めているんですね。 という事ができるという事は、完全に頭の中に絵があるわけですよね。そういう、だからあの人は、記憶も何も全部、アレなんですよね、映像なんですよね。だから、文字と映像がいつも一緒にあるから、漫画もできるし、アニメも作れるっていう。これ全く異能ですね。

漫画がこれほど盛んになったから児童文学が売れなくなっちゃったんだって。

それで漫画を読んでる子はバカになるって。「バカになる」とは言わない。知育のために漫画はちっとも役に立たない。だから活字を読めば自分でイメージを作ってそして理解していかなきゃならないけども、漫画は見たまんま分かるから全然頭を働かせる必要もないと、だから知能を育てる役に立たないということで「漫画を読む子はバカになる」という、これがもうダーッと広がって。

それですぐ「漫画は子どもの知育のためにちっとも役に立たないから悪書だ」ということでそれで言い出して。

そしたらそれにマスコミが乗って。 そしてその時の異常というのはもう大変、もうまるでもう魔女刈りですね、もう論理も何もないんですよ。「漫画だからいけない」って。漫画の何がいけないんじゃなくてその漫画という表現形式が子どものためにはならないということで。それで「三ない運動」なんていうのが始まって「売らない・買わない・読ませない」かなんか「三ない運動」なんていうのが全国に広まって。 挙げ句の果てに、小学校で漫画の載っている単行本でも雑誌でも校庭に積み上げて火をかけるっていう焚書騒ぎ。

Q:悪書追放の中で手塚さんはどういう対応をされたんでしょうか。

あのね、やっぱりそういう低俗で暴力的でそして中にはエログロ的なものも、これはもう少年ものよりもっと年齢の上の漫画ですけども、そういうものがあったもんですから、

そういう大きな会をどこそこホールとかどこそこの教育センターとかそういうような所でやって。 そういう時にそのパネリストっていう形でもって漫画家や私たちも行った。まあ評論家もいるけども私たちもそのパネリストという形で呼ばれた。ところが漫画家はみんなしり込みするわけだね。そうすると、やはりかりそめにも医師の免許を持って博士号を持ってる人だからこの人ならちゃんとひと言言うだろうということで、手塚さんはどうしても逃げそびれて引っ張りだされるわけですよね。 そうするとパネリストというのは非常に聴こえがいいけども、もう実態はつるし上げですよ。もうね、ひどいつるし上げですよ。それでまぁ「どこそこのこのマンガには1ページに刀が24本出てきた」とか、それから手塚先生の漫画でちょっと着替えするのに女性のももがちょこっと出ている、この一コマをとらえて「エロ」だとか「こんなもの子どもに読ませられない」とか、もうね「言葉が汚い」とかそういうあれでもってもう徹底的にやられたんですよ。 私なんかもうまだペーペーの頃ですからそんなに出されませんでしたけど、ひょこっと出たときにその、戦前から『少女クラブ』はもう大正12年からの本ですからそれで育ったお母さんが多いわけですよね。そのお母さんがそんな時の私の『少女クラブ』持ち上げて「これがあなたの編集した本ですよ、マンガが10本も入ってます、恥を知りなさい」って言われたんですよ。とこの「恥を知りなさい」はもう非常に私は応えましたね、

悪書追放の最中ですけども、ある帝国大学の有名な教授が、物理学の教授が「人間が宇宙船に乗って宇宙旅行するなんていう、荒唐無稽なバカバカしい漫画を書いてる者がいる。ああいうものを子どもに、ああいう荒唐無稽な漫画を子どもに読ましてはならん」ということを、ちゃんとした一流新聞に書いたんですよ。そのたった2年あとの1957年ですか、スプートニクが飛んだわけですよね。

だから手塚さんはそのあちこちでもって「荒唐無稽だ」「全くの絵空事だ」ってことを言われて、『アトム』を書きながらもうほんとに自分に出てくる着想にもういろいろひねって、「これ以上描いたらまたやられるということでもってかなり筆を止めた」って言うんですよね。「だから今のように自由に書けたら『アトム』はもっと違ったものを僕は書けたはずだよ、だからあれは僕の代表作じゃない」って。「言わないでくれ」っていうことを言ってるんですよね。

Q:手塚さんは、当時かなり悪書追放の中では悩んだり苦しんだりされたんでしょうか、なんかそういう様子は見えましたですか?

ここの部屋に、僕もつるし上げられた時は一緒にいて、連れてまた帰ってこなきゃなりませんからね、行ってましたけど。それで帰ってきて部屋に帰ったら、椅子の背にもたれて頭の後ろにこう腕組んでこう天井見てね、あの人はよく貧乏ゆすりするんですけど、貧乏ゆすりしたまんまひと言もないんですよ、もう腹に据えかねたんですかね。もう問答無用、言語道断何の言うことも。 手塚さんは「漫画おやつ論」というので対抗したんですがね。要するに子どもも主食だけでは育たないと、ちゃんとおやつを食べないと健康な体に育てないでしょう、それと同じように教科書だけでは子どもの精神は真っ直ぐに育たないんで、おやつに似たような楽しい読物を読ませないと健康な円満な心に育たない。だから漫画を読ませる必要があるんだということを言ったわけですけど、こんなこと誰も聞いてくれなかったですからね。 まぁそういうことがあって、僕は、普通は手塚先生、逃げたときは映画観たりなんかして帰ってきて。映画観たときは触発されてもう、帰ってくるなりバーッと広げてもう、もうスッタカスッタカ筆が進んだんですがね。あの時は「違うなぁ」と思って、もうほんとにもうこうやって天井見たっきりもうこう貧乏ゆすりして、仕事が手に付かない感じでしたね。 でも手塚さんがそれでも対抗しないで「子どもを守る会」かなんかに入会したり、なんかそういうような会の副理事かなんかになったりそういう中に入っていくということはやって、なんとかその自分もそういう中で認められようという努力はしてましたけどね。

確かにだけど漫画自体もかなり変わってきまして、特に手塚先生が戦後の漫画を始めたといいますけども、手塚先生の前は、もう割合まあ「低俗」とは言わない、たわいのない「滑った、転んだ、ワハハ」みたいなそういうのが、ギャグさえあれば漫画だって通ったわけですよね。だからギャグとかユーモアというのは漫画の必要かつ十分条件で、ギャグさえ入ってれば漫画だ。 だけども手塚先生の時はもう、ギャグは十分必要かつ十分条件、必要条件ではあるけれども十分条件じゃないと、ちゃんとしたストーリーがあってはじめて漫画なんだと。そういう形でもってストーリーでもって読ませる漫画っていうのを手塚さんが開発したもんですから「ストーリー漫画の始祖」と言われて、それで戦前の漫画と戦後の漫画が様変わりして、そして幼稚な「低俗だ」とは言わないけどもたわいのない読物だったものをもう少しレベルの高い読物にして、それがだんだんだんだん映画やなんかと同じように、かなり知的なものを漫画に載せることもできるようになって。 そして石森さんがやったあの『日本経済入門』ですか、とかあんなようなものから情報漫画というか教育漫画というものが出てきて。そして、ただ笑わせたりするだけじゃなくて、小説やなんかと同じようなストーリーやなんかをここで伝えるようになったので、漫画の地位が定まって、それでそれのために外国にも行くんです。 私たちはですから、戦前のそういう他愛のない漫画は漢字で「漫画」と書いてるんですけど。その後手塚先生からあとは片仮名の「マンガ」というので色分けをするように。もうその「漫」という字がいかにも面白くなきゃダメだみたいなあれなんで、それの字を捨てるということでもって片仮名にして。石森章太郎は「萬」の「画」でもって「萬画」っていうのを出しましたけども。そういうことでいまやもう世界的になったからローマ字でのMANGAがなっちゃいましたけどね。

そうですね、これはもういろんな評価の仕方があるんでしょうと思いますが、私はやはりまず第一に、漫画という媒体をあれだけその中にそういうストーリーやなんかを積み込んで、そしてその読み応えのあるレベルの高いコミュニケーションの媒体まで引き上げたっていうことが、やっぱりあの人の後世に残したいちばんのあれだと思いますけども。あの人がやらなくても誰かはやったでしょうね。でもあれだけの短い期間であれだけのことをできたというのはやっぱり。 それからもう一つはやっぱり、あの才能ですね。あのやっぱり、僕はまぁ人から聞かれると『リボンの騎士』あれ自分が担当したあれですから「いちばん好きな作品だ」とは言いますけども。ほんとを言うと僕は『ブラックジャック』のほうが好きなんですよね。あの毎週毎週あれだけのストーリーを、それもそのあれだけのヒューマニスティックで感動を呼ぶようなストーリーであれだけの広がりのある、それを毎週毎週一本ずつ書いていけたというあのことを見ただけでも、それが医学ものばっかりじゃなくていろんなほかのジャンルのものもどんどんどんどんこなして書いていく、あの才能というのはやっぱりなまはんかの才能じゃない。 だからやっぱり私「手塚先生を富士山のようだ」と言うけども、担当してる時はもう、「クッソーッ、この野郎」と思ってもう殴ってでも蹴飛ばしてでも原稿破いてでも「さよならー」と言いたい。それがやっぱり別れてだんだんだんだんこう離れてみると、だんだんだんだんあの峰の高さとかその美しさというのが分かってきて「ああ、やっぱり」って、今まで「手塚さん」って言ってたのがいつの間にか「手塚先生」というようになって。やっぱりあれだけの才能というのは、そうしょっちゅう出てくるあれではないんじゃないかと思いますよね。

要するに漢字の「漫画」を片仮名の「マンガ」にしたということですか。石森さんは「萬画」と言ったけども、そういう質の違うもの。本来漫画はそれだけの力がある媒体だったけどもそれをギャグでしか生かさなかったのが、手塚先生はそのほかのジャンルにも使える一つの媒体として、どういう、科学でもどんなものでも載せて表現することのできる媒体だというところまで持っていったと、世界的に通用する媒体にまで持っていったというところだと思いますけどね。

プロフィール

丸山さんは昭和28年に講談社に入社してまもなく雑誌「少女クラブ」に配属され、当時「リボンの騎士」を連載していた手塚の担当に。それから6年「手塚番」を務めた。当時を回顧して「手塚治虫は富士山のような人だった」と語る。石ノ森章太郎や赤塚不二夫、水野英子らトキワ荘に住む漫画家たちを発掘したのも丸山さん。数々の新人を育てた功績が認められ、平成13年に手塚治虫文化賞特別賞が授与された。

1930年
山梨県甲府市に生まれる
1953年
学習院大学哲学科を卒業 講談社に入社
1954年
雑誌「少女クラブ」編集部配属となり、手塚担当に
 
以来6年、「手塚番」を務める
 
当時、手塚を訪ねてきた若き石ノ森章太郎や赤塚不二夫と偶然に出会っていた
 
後に2人を担当することになり、トキワ荘に住む漫画家たちとの交流が始まる
1998年
講談社を退社
 
現在は、執筆や講演を通して、日本の漫画文化が築かれた現場の歴史を語り継ぐ活動を続けている
2001年
朝日新聞社の手塚治虫文化賞特別賞を受賞

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