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証言

タイトル 「阿波根昌鴻と共に生きて」 番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」
第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ
氏名 謝花 悦子さん 収録年月日 2013年5月1日

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チャプター

[1] 戦場となった伊江島  04:52
[2] 弾薬運搬船爆発事故  05:05
[3] 理想の農村を築こうとした阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)  07:54
[4] 再起を期した戦後  06:01
[5] 米軍に立ち向かった阿波根  06:31
[6] 戦場と直結した伊江島  02:43
[7] ミサイル撤去  02:41
[8] 新たな訓練施設が伊江島に  04:02
[9] 基地反対を訴え続けた阿波根昌鴻  04:37
[10] 基地の中へ消えた土地  03:20
[11] 阿波根の武器は カメラだった  09:53

再生テキスト

Q:戦争のとき、謝花さんご自身はどういうご体験をされたんですか?

私はちょうど発病当時でありまして、子どもでしたから。もう、死ぬしかないという状態で病院から帰されておりますから、家族ももうそういう立場で私を悲しみの中で生活していたので、父が昭和19年に支那事変というのか、15年戦争というのかから戦場に6年間いて、帰されたんですね。帰ってきて、みんな喜んだら、あとで分かったのは、ここにも軍隊がいっぱい、日本軍がいるから、その代表というか、立場での派遣だったようなんですね。それで父はこの島を見て、この島で生きる事はできないと。こんなにまで軍備をしてあるからには、もうここでは子どもたちは救えないと。生かす事できないということで、すぐ支那事変から帰ってきて、つまり私のいとこたちになるわけだけど、親族会議をおこして、そのいとこ、みんな子どもですから、この子どもたちを殺すわけにはいかないから、日本、ヤマトに疎開をさせると。決まったんだけど、私は死を寸前にした状態ですから、「悦子とおばあちゃんは置いておく」と。おじさん、父、おばさんたち全部、軍に取られているんですよ。全部私たちここにいるから、守ると言ったんですよ。だから弟が生まれた時期で、全然父親の顔どころじゃないですけども、大変だから、いとこがいっぱいいましたから。それを疎開させると、父は言ったけども、翌日、母が「家族というのは死んでも生きても一緒でなければいけないから、悦子とおばあちゃんを置くようであれば、私はもう行かない」という事になったんで、内地疎開は取りやめになったんですよ。それでも父は諦めないで、じゃ、この島からは出さないといけないという事で、隣の今帰仁のくすぬち山に私もおばあちゃんもみんな一緒に3日間の許可をもらって、向こうで壕を掘って、父が掘って、私たちを置いて、「戦争が終わったら迎えに来るからね」と言う。のがもう最後。で、翌日から(米軍の)上陸が始まりまして、終わったわけなんですよ。

ところが父はこの島で生きる事ができないと言ったように、うちは家族も全滅、もう家1軒もこの島にはないから、そういうような状況になっておりましたので、島の状態はその当時はまったく分からなかった。

Q:LCT(米軍爆弾処理船)の爆発事故というのがありましたよね、あのときは謝花さんはどんな事を記憶されていますか?

私はようやく寝たきりから動けるようになって、家には大きなガジュマルが前にあったんですよ。私の周りに近いところに同級生が8名ぐらいいるんですよ。学校に行って帰ってきたら、全部私のところに集まって、学校の報告なんかをやるわけですけど、あのときは夏休みで、みんなお昼、うちのガジュマルの木の下に集まって、木の下でいろいろ石ころの当時の昔の遊びをやっていて、「もう海水浴に行こうか」と1人が言い出したので、「そうだ」と言ってもう私1人を残して全員サーッと海に行ったんですよ。行って、そのときにそれが爆発した。 だからもう、もうそのちょっと離れているけども、もう大変なところになって、そうして真っ裸で、もう全部家に駆けつけてきたという日でありましたけど、その日私は自分のここで、家で、高台なんです。家から、家の実家から港、海まで今でも見えるわけですけども、あの、何て言うか、人の肉とか破片とか火の玉とか、もう海からうちの実家のところまでひょろひょろとして、みんな来るんですよ。あちこちに落ちるんですよね。肉なんかも。 そして私の家からはちょっと上がって、左に行ったら、人体が部分的が落ちていたりとか。もうとにかく大変な状態で、もう“戦争が始まった”という。もう何が起こったかもう本当に分からない状況でしたけども。

もうね、あの光景は夜通し親たちが叫び歩くんです、さまようんですよ。戦争の大変さを経てきて、間もない戦争の事がまだ頭にいっぱいある悲しみと苦しみのときに起こったものだから、もうとにかくあの時代のあの事は、私も鮮明に覚えているけども、夜通し泣き尽くして、そして爆発した海をずっと行き来、道から大騒ぎ、大泣きをしながら行くとか、そしてまつった墓に行ってやるとか、とにかく地獄ですね。

Q:夜通し泣き声が聞こえていたんですか?

あぁ、もう。泣きどころか、子どもの名前を呼び続けて、もう道中歩き回っているんですよ。もう頭がいかれているんですよ。戦争の大変さを持っている中に、またこうなったから、もうそれは狂うしかないですね。 だから人間がね、こういうざまを何回も繰り返されるという悲しみと怒り。沖縄には消えないでしょうね。私なんかは病気でやられた事もあって、戦争に対する憎しみは一生忘れないし、悲しみも忘れないし。とうに70年近くなった今日は、ああいう歴史もあったねと言わされるかと思ったんですけども、それが逆になってきている今日は、理解どころか許せないですね。

Q:戦争前から島に渡って開墾をして。今基地になっちゃっていますけれどね。あそこで土地を少しずつ集めていってきたわけですけど、阿波根さんがそもそもあそこで目指していた農業っていうのはどういうものだったんでしょうか?

そうですね、土地を集めなければいけない事の、まず、事は、農民学校をつくりたいというのがまず大きな目的でありましたね。農民学校ですから土地がなければできませんから。その土地を集める、準備をするのにとにかく大変な苦労で、島の人たちからはきちがい扱いされて。「外国から帰ってきたあなたの主人は頭はもうだいぶよくなったかな」というお見舞いとかをもらうような状態で土地を集めたらしいですね。という事は、主が分からないような伊江島の西、北の角なんですけど、そこはもう木も出ない、もちろん草も出ない、というところを地主を探して買い取って、そこに土地を生産者をつくるという事で頑張っているこの最初の段階ですね。島の人たちは「ここは冬になったら北風があって魚も揚がるぐらいの大変なところで草も出ないのに、こうして頭が変わっていて、そこにいろいろ夜も昼も夏も冬もずっとこうやっているのはかわいそうだね」というような見方をされたらしいけども、本人はそれは全然気にもしないで、まず沢山の種類の草を持ってきて、枯れるから、100%枯れて、いたら、もうそれを、生きる草を探すまでずっと続けて、その中で生きる草がひとつ出て、この草なんだなという事で、それを植え続けて。それでこの次には海岸ですから、防風林、木がないといけないから。木のいろいろな木を植えても、植えても植えても枯れてしまって。でもどういう木が生きるか、きっと生きる木があるだろうということで、何年も続けたらしいんですね。

そしてどんどん開墾をして、戦争前は密林ができて、県庁からも見学に来られ、調査に来られ、宿泊所は「阿波根の耕地整理」と誰がつけたか呼ばれるようになって。耕地を整理した土地であるという事の呼び名らしいですね。そして、いつの間にか「耕地整理」という事の呼び方になって、そこで自宅でありながら、そういう県庁からの人たちの宿泊所になって、また阿波根も会いたいという県の人たちの希望もあったりして、そういう自分の、もちろん戦争直後まで伊江島には宿泊所はありませんからね。旅館もないですから。ということで出張とかでこられていたと。その当時、蓄音機とかを持ってこられていて、そして県庁の人たちとかにも蓄音機を聴かすとか、やっぱり外国から計画をしてきているから、先端に行った、物の考え方であったようなんですね。

Q:阿波根さんの目指していた農民学校っていうのはどういう農園、農民学校を目指していたんですか?

明治の農民たちは、もちろん無学。そして芋と裸足の奴隷的な生活をやっていた。あのときは生産する農民の働きで人類は生きていたという事ですね。

こんな大事な仕事をする農民こそが、その農民たちは“私たちは人類のためにやっているんだ”とかという事も言わないし、分かりもしなかったと。その状態を(阿波根が)見られて、この人たちこそ教育して文化的生活をさせなければいけないという思いで農民学校をつくると。この人たちに教育できるような事をやると思っての事だったらしいですね。ですから、学校をやっぱり、つくると。それには3つの事を考えて。年齢がいらない、試験がいらない、金がいらない、その3つを条件に目的をして作られたようですね。だから勉強したいという人は、金がないからとか、年齢的にねとか、そういう事がないように勉強を本当にしたいという人の学ぶところの学校をつくるという3つの条件をつけて、そして学校をつくりたいという思いはそういう農民たちを見て、応えたいと。そして幸せにしたいという根本的な事を教育だという事を考えたらしいですね。 で、一人息子もその学校の代表として教育し、養育されて。いよいよオープンまでこぎつけたわけだけども、戦争になってしまってすべてが終わり、一人息子も殺されました。そしてその戦争からは、一生涯、人災である戦争を、それは人間の力で食い止めなければいけない、食い止められるものであるという事で、すべてをかけられましたけど、かないませんでしたね。

Q:『米軍と農民』(阿波根昌鴻 著)の中でデンマーク式の農業っていう書き方を、確か、されていたと思うんですけれど。

デンマーク式農民学校という事はずっと言われてきました。

農民の生産する食事、野菜、健康をまず守るという事で、本当に自然体で生産して、生きるという根本があったようなんですよ。それを阿波根は“これだ”という事で決めたらしいですね。

私は鮮明に覚えていますけど、わざわざ夕日のきれいな所まで、中まで連れて行かれて、見せられて。そこで夕日を見ながら、(学校)の構想を、話を聞きましたね。それにはデンマーク式農民学校とはいえ、こういう教育とこういう学校はつくるわけだけども、農民としてどうするか。という事は、それだけの土地に生産もうんとやると。サトウキビ、時代的にサトウキビが思わしくなくて数年伊江島の製糖工場も閉鎖せざるを得ないという事はここ来てからになったんですけども、

あのときに言われた事は、「賀川豊彦先生が立ち上げたのは、農業協同組合、生活協同組合があの人が立ち上げたものである」と。「それに応えたい」と。「だからキビもちゃんと沢山植えて、伊江島の製糖工場の力になればという生産の夢がある」という事が一つ。 そして、その内に、「ヤマトの寒い時期に、お年寄りたちをその期間ここに来てもらって、暖かいところで過ごしてもらうような保養地にしたい」と。「保養地はその辺の夕日のあるところに、見えるところに作って、寒い時期だけでも、応える事ができればというふうに思う」というような事を言われました。そして、もう一つはやっぱり農民であるから、農民として必要な家畜は全部飼うようにしたい。そして牧草地は土の少ないところがあるから、そこに牧草を植えて、家畜の餌の段取りをする。そして人間が例えば学校はつくるわけですけども、宿舎もつくるわけだけども、個人として阿波根自身の家としては、やっぱり戦前つくってあったような状態で、邪魔にならないところ。そして静かなところに私の住宅は戦前は力を入れたけども、もうこれからは人生下り坂であるから、住めればいいというような考え方を持っているというような事までは話されて、その3つの条件に学生たちが年齢も問わず来てもらって、そしてここで衣食住、そして半日労働をして、半日勉強をする。それには政治、宗教、哲学すべてが習える場所にしたい。その講師は世界から条件のすむ先生方が動員すると思うというような事を言われましたね。

Q:そもそもは一人息子の昌健さんが先生をやるという事を言っていたんですよね?

学校の先生どころか、すべて親の思想、考え方をこれだけ受け取る人間が用意されていたと思います。(阿波根が)目が見えなくなってからは、昌健さんの話をよくされた。それで私は「今まで寂しい悲しい話は1回もなかったのに、なんでこういう事を言われるか、もっと明るい話を考えをしましょう」と私は1回言ったんですよ。もう目も見えなくなって。あとに言ったら、目も見えなくなったからひまになったから、昌健の事も思いましてねというような話でありましたね。だから生涯、少しも無駄のない人生であったように思いますね。

土地がなければ人間は生きられない。人間が生きるには土地が必要だという事を根っこに持っているわけですよ。ただ、平和を続くという事もまったくないとは言わない、もちろんあるわけだけど、根っこに土地というものがこうして野蛮的に無理に強制的に取られるという事に対する、その人間の常識、良心というものも出てくるわけですよね。地主が反対しているのに、何故強制するか。何故こんな暴力で農民をたばってまでも強制的に土地を取るか、戦争はもう二度とやってはいけない。二度とやってはいけない戦争のために演習をする土地、一坪も使わせるわけにはいかないというような根本からの戦いですよね。

やっぱりクリスチャンという事も手伝っているかと私は思うんですけど。良心は絶対に曲げないという生き方と、そして道理を持って物事はやるというような事と、そして相手のそれは、「わびあいの里」(昭和59年開設/「わびあい」・・阿波根昌鴻が学んだ京都の一燈園で実践されている「三詫びあい」から名づけられた)という名前もつけた一燈園(創立者西田天香/阿波根はペルーで読んだ西田天香の本に感化され帰国後すぐに京都山科の一燈園を訪ねた)の思想だとみておりますけれど、自分が正しければいいとか、自分が良ければいいとか、自分が得になればいいとか、そういう事は全くなかったね。まず相手が得になるのかならないのか、相手のためになるのかならないのかが根本的にあるようになりましたね。それでアメリカに対しても、あなた方がこのような事をしたらアメリカは滅びるよと、アメリカの滅びるような事には協力はしないというようなやり方ですね。ですから、あくまでも人間として良心を曲げない、誠意のある生き方とやり方ではなかったかなというふうに思いますね。

阿波根は本当にやっぱり性格的にもやさしい人でしたけども、それでも間違っている事に対しては、相手が総理であろうが誰であろうが、まったく差はなかったですね。間違っているところはちゃんと正す。 だから、今、辺野古とか高江(国頭郡東村高江、米軍ヘリパッドの建設が進められている)の闘いを見て、あぁこの状態に阿波根なら何を言ったかなとか、阿波根ならこう言っただろうなとか、私は離れてはいますけど、いろいろ思います。それは、例えば、もう怒りですから。不満と言葉も相手を憎むとか、相手に対する嫌な感情しか人間ですから持っていないと思うけど、そういう事はやらなかったですね。アメリカに頼まれて、軍に頼まれて、あれは本にもありますけど、看板を立てて番をしている島の人がいるわけですね。「ご苦労さま、よく頑張ってね、これは私たちの土地であるから、頑張って見張っておいてね。」と言って、逆にここからまた頼むとかね。そういうような事で相手は心配も感情は嫌な思いもしないじゃないですか。もうここからこう言われているから。「違いますよ」とは言えませんからね。まぁ違う立場なんですけども、そういう言い方とか、という事があって、そしてこんな強制的に土地を取ってといっても、怒りがあるのは人間だから当然と思うけども、やっぱり軍隊に対しては、あなた方がこのような事をやるという事は間違っているんだと。間違っているから、あんた方の間違いを正すんだと、はっきりそんな事で、手を打っていくんですね。もうそういうもみくちゃな事はやらなくて。そうしたら相手もあんまり荒く出られない状態の雰囲気になるわけですよね。

ベトナムの子どもも、伊江島の、戦地にいて殺された人とかもあるし、また再びこういう戦争のために殺し合わなければいけないような演習をする土地は一坪もないんだよというような言い方で出るから、向こうも感情になれないわけですね。暴言暴力をふるえない、ふるえない雰囲気だから。(軍用地 当初は伊江島の2/3を占めていた)それで段々縮小して、あとは3分の1まで、やってその3分の1も本当から言えば解放した。だから解放できて、基地も解放して、平和憲法のもとに母国に帰るんだという大きな夢を持った私たちですよ。だが全くそれは違う結果になりましてね。

もうあの、68年前の戦争(1945年4月伊江島の戦い)を経験して、全滅になった島ですから、そこの実情を、戦場の実情を見て、人災である戦争が、このような大変な事をするというのは、生まれて初めて想像もできなかったと。だから戦後、土地闘争は戦争のためのものなので、農民としては、人間としては、土地は宝であると。それを取り戻さなければいけないという。戦いから、ベトナム戦争とか、どんどんもう演習は沖縄でもアレンさん(アレン・ネルソン/ベトナム戦争に従軍。過酷な戦場体験を経て、帰還後は平和運動に関わり沖縄を訪問した)というああいう人たちも、沖縄で演習して、ベトナムで殺害して。戦ってきた人も、最後にはここに来て、兵隊というものの大変さ、基地というものの大変さ、というものをすごく現状を訴えてきましたけども、それが土地を取り戻すという事と、戦争の基地、その基地で演習させること、そしてその演習が戦争の目的であるという事が、もう一体なんですよ。だから、そういう演習が激しくなってからは、やっぱり土地闘争というだけではできなくて、もう土地闘争も含んで、全体になってきたという事が言えるのではないでしょうかね。

だから、戦争というのはとにかく、演習というのは、海兵隊の演習も沖縄で随分やっていて、上手になったら現地に派遣されるという事とかの事実もアレンさんからはっきりと教えられて。だからもうそのすべて。根っこは戦争ですから。それに対する反対は、「どうしてもさせてはいけない」という命がけがありましたね。

阿波根は、「誰の許可を受けてここまでこの怖いものを小さい伊江島に持ってきたか」という事で驚いて聞きましたら、「村長の許可を受けて持ってきた」と言った。そうしたら、「ここには見てみると、調べてみたら、村長の土地は一坪もない。その一坪もない人が、これを侵す許可もする資格はない。これは私たち農民の土地である。土地を持っている農民に相談もなく、許可もなく、土地を持っていない人が、許可するという事は道理に合わない」と。「それはすぐ撤去しなければいけない事になっている」と。「撤去しなさい」と。「村長の許可をもらったというけども、あの人の土地はここにはないんだから。その人が許可する資格も権利もない。すぐ今撤去せよ」と言った。そうしたら、「実弾なので、荒くは扱えない。明日までは待ってください」と言って、「しかたがない」と言って、3日目には撤去させる行動になったわけですね。今のように車なんかないです。自転車の人もいたね。牛の人もいた。耕うん機がひとつあったね。そして真謝の飛行場から港まで、全区民がそのミサイルを前にして、そのミサイルの船が見えなくなるまで港で訴えるんですよ。そうして阿波根は、「これは伊江島には必要でない。沖縄にも必要じゃない。アメリカが必要となれば、すぐ伊江島から直行アメリカに向かって持って行きなさい」というような事をスピーカーで船が見えなくなるまで訴えられて、そうして村民も見えなくなるまで送り届けたという歴史というか行動がありましたね。

復帰してあとから日本の国が軍用地料を出したんですよ。金が出たんですよ。それからの状況、変わっていったというふうに思います。それで契約をしない地主が1,000戸もあったのに、そのあとからは段々減って。もう一握りしかないというような事実があるわけです。ですからとても残念に思うんですね。

Q:ハリアー(垂直離着陸機)の基地ってまさに阿波根さんの土地に造られたんでしたか?

に入っているようですね。そしてオスプレイの演習場は、ハリアーの演習場を中心にした一帯なんですよ。だからこれは当事者としての怒りが大きいわけですね。だからとても悔しいですね。

ハリアーパッド(垂直離着陸機の発着場)受け入れの事も、だいぶ伊江島は静かになりまして。そしていよいよハリアーパッドの基地も完備しまして、いよいよ実物演習の日を迎えましたね。それに対してあのときからはこういうところに参加される元気はここの中ではもう亡くなる1年前まで頑張られたけども、もう、寝ていて「どうしても」と、寝ていてまで頑張った。出るという事は難しくて。訴える文章を書かれて、「向こうで代読させなさい」という事で、代読させた事なんですけども、あのときの闘いは、本人がおられませんでしたけども、やっぱりそれなりの戦争と強制立ち退きの土地闘争と、そしてその上にさらなる危険の演習をするという事は、とうていこれはやってはいけないという内容の訴えを代読させられたんですけど。そういう事なんかに対しても、で、次々よくはならない。復帰してからはですよ。復帰してからはまったく阿波根の意志は通じなくて。どんどん強化されてくるようになりましたね。ですからそういうような状況が進んで今日があるわけですよね。

「私は資料館にあるボロをつけて、行進するんだ」と。「これが戦争だよという事を本当に見せて訴えたい」という事を言われて、もう実行ですよ。で、防空頭巾からいろいろ全部出されてきて、まとうわけですよ。私は初め、「さぁ大変だ」と。こういう格好で伊江島を行進したら、あぁいよいよ阿波根さんは頭にきて、もうぼけられたんだなという事を言われるのはもう間違いないと。そんなに早くから悪宣伝されるという事は、絶対にさせてはいけないという事で、家族も呼んで、そうしたら5~6名みんなでこっちを含めて、「こうこういう事で、おじいちゃんはこれをつけて行進すると言われているけど、これはさせないほうがいいと私は思うけど」。「あぁそれは大変だよ、これはさせてはいけないよ」と家族も飛んで来て。で、(阿波根は衣類を)まとうんですけど。やったら5~6名、すぐはずしたり、もう、“つけたら外す“ってずっとこういうことで、しばらくずっとこうしたから。あとは、(阿波根は)何も言わないで。”もうこんな事をするな“とか、”やめなさい“とか言葉は全くなくて。ずっとされているのをこうしてやっていたら、後は「あなた方は一人息子を亡くした親の気持ちが分かるか」と一言、(阿波根に)言われたんですよ。それでぎくっときて、みんな手を引きましたね。“本人の意志を尊重しよう”という事で、みんな下がりまして。そうしたら全部自分でまとって。堂々と港に行って、あのときの記録とかあるわけだけれど、堂々と港に行って、この人たちと共に、お坊さんたちと共に、伊江島の中を行進するわけですよ。まず、港から来て、行進団は役場に行かれるんです。役場で訴えるんですね。訴えて、あのときはもう村長も出て来て、こんな形で役場に行かれたら、役場の職員から、「もう、電波よりも早い宣伝になるから、本当にもう(やめて)」と言って、みんなでやめてもらう努力をしたんですけれど。本人は堂々たるもので、あの形で役場でまず村長が出てこられて、堂々と訴えているんですね。「これが戦争です」と。「この戦争のあとのこれがこれからの戦争にもなるわけです」という堂々たる演説をされていたんですけど。あのときは私も行きまして、後ろの方で聞いたり見たりしたんですけど。そういうような歴史もあるわけです。 だからもう、恥とかね、遠慮とかね、まったくないんですね。自分の本意、意志を行動化する勇気というものも、また驚きでありましたね。 何か思われるんじゃないかとか、私なんか普通の人はそう思うんですけど、そういう事はまったく阿波根の中にはなかった。そういうどんな形であっても、自分の意志を伝えるという意志の強さ、勇気、とても今でも感心します。

Q:方向はあっちなわけですね?

方向はその辺なんですよ。ただもう、行くたんびに中身が変わりまして。14~15年前は阿波根の屋敷の角の石があったんですよ。で、草を植えている人たちが、「これがおじいちゃんの屋敷の。これがおじいの土地からの印だよ」と言ってあったのに、次に行ったらこの石もみんな敷きならして平坦にしてありましたね。だからもう、行くたんびに中身が変わるから、がっかりなんですけどね。悔しいですね。

やっぱり入らないと分からないですね。このフェンスがずっと下までいっているから。下を、フェンス下いって、こうやっているから。もうとにかくこの右側であるという事ぐらいしか言えないですね。こんなのどかなところでありますけど、大きな夢と計画があったのに、とても残念なんですよ。だから戦争が終わっても土地さえ返ってくれば、ああいうような学校とか作る人生の余裕は十分ありましたけどね。だからそれがいちばん悔しいですね。亡くなって12年になる今日まで、この状態であるという事がとても悔しいことです。だが諦めてはないですけどね。うちの役員、理事長始め。どうしても阿波根の計画である夢は実行しようというような思いで今日までこられていますね。

なんでこういうような軍備をしなければいけないかという事が、いくら考えても理解ができないし悔しいだけですね。

こんな特別、伊江島というのは、地理的にもそれから地形も本当にいい島で。のどかで豊かで、空気はいいし、言う事ない島なのにね。それが戦争準備に使われているという事は、理解できないですね。

Q:これは阿波根さんご自身で買ってきたやつですね?

そうなんです。写真集のね、記録をとったのがこのカメラなんですよ。だから、明治の人のカメラとか写真とか、分からない世代に。で、そういうものも録音テープをちゃんと自分で手に入れて、戦いの武器ですね。

Q:戦いの武器。

武器。それは完全な戦いの武器ですよ。それで撮った記録が全部写真集にしてもらったり、ああいうような事の事実をちゃんと表示できましたからね。やっぱり写真がないと話だけでは伝わらないわけですけども。それはもう本当に戦いの武器であります。

Q:あそこの最初のところにあるのが、阿波根さんのさっき見て来た土地ですね?

そうですね。そうなんですよ。だから最後の最後までちょっとした、あのときはブロックじゃなくて石で家は造っていましたから。切られた石ですね。それが1~2本あったのに、もう次に行ったら、ああいい目印だねと言ったのに、全部敷きならされて、全然、何も無くなっていましたね。だからもう、なんで無駄な事をするんだろうと思うと。考えられませんけどね。だから戦争というものがいちばん悔しい事は、避難というか、壕にみんないるときに、阿波根の最後の最後の戦争の最後の壕は、湧出(伊江島の北西岸)の下りるところの右側に、隣組の壕があったようですよ。そこに最後は行かれたようですけど。そこで情報が入って、入った情報は乳飲み子を探して、殺していると。殺すと。殺して片付けているというような情報が入ったので、そこをいっぱいにしている中に、1人の乳飲み子を連れたお母さんがいて、そのお母さんは「私は殺されても構わないけど、この子だけは絶対に殺させない」と言って、その壕を出て行かれたので、阿波根が心配して、どこまで逃げ切れるかなと。追って行ったら、すぐもう、遠くに行かないところで、長い鉄砲を持った兵隊2人が現れて、このお母さんの両腕を強く撃って、抱いていた子どもは落ちて、即死であったという現場におられて、そしてこの子どもの着物がお母さんの手にくるまっていたので、(阿波根は)それを丁寧にはずして。この資料館をつくるまで、自分の自宅で置かれて、資料館をつくったと同時に、これは入り口に展示されているんですよ。なぜこのような事をやるかと言ったら、子どもは泣いたりわめいたりするから、したら、敵に見つかるから。殺して片付けておくという事で、敵の兵隊でもなく日本の兵隊2人が目の前で母親の腕から子どもを殺したという事を見られて、戦争というものは、戦というものは、その自分たちが助かるために、敵に見つかるからと言って、こんな子どもを母親の腕から取るという事は、これはもうとても考えられないという事で、それから戦争の怖さを初めて知ったと言われていましたね。だからそれはとても阿波根の目の前で殺された遺品として、大事にされていて。そして資料館をつくったと同時に、こういうふうに入り口に展示されているんですね。ですから戦争というものがそういうようなことでその上にあるのは、遺骨収集で出されたものなんですよ。

その状態を今になってみても、戦争というものの根本的な事が大変なものであるというふうに思いますね。ですからそういう遺品の数々を平和の、または武器として残して、後世に伝えることができればなというのが阿波根の思いでありましたから。活字や言葉では理解できなくても、その状況を見たときに、子どもたちが戦争のおろかさ、悲しみを知ってくれるのではないかという事で、一生懸命つくられたのが、この資料館でありますね。

ここに書かれているように、阿波根はこのボロをまとって平和行進をやったんですね。それをやって、つけて、まとって行進をする。これが戦争だよという事を、平和通りでやりたいと言われたけど、それは実行できなかったけど、やっぱり伊江島ではそういうボロをつけて行進をされたんですね。だから武器を必要とし、戦争をつくり出す人々にもこの服を着てもらいたいと、常に言われておりましたね。このボロをつけさせたいと。そうしてこういうふうに問題が。「戦争は誰がつくるのか。勉強しましょう」とか、やっぱりそういうような事を書かれているのがこの資料館のようであります。

「何を根拠にあなたはこんな事を言うか」と言われたので、「写真しかない」と言って、カメラを手に入れて、いろいろその場その場を撮ってこられたところなんですね。 こういうところも整理しないといけないんだな。何であるかが分からない。

Q:こういうのも全部大事な資料なんですね。

そう。一つの資料なんですね。だからもう結構、沖縄伊江島も冬は寒いんですよ。寒いんだけど、それをまとう衣もできなくて、捨てられた物で身をまとったというような、みんな戦後、着の身着のままで何一つありませんから。全部拾い集めた物になりますね。アメリカの捨てられた物をとってきて、利用した物なんです。 みんなよくつけましたよ。ほらこれ、スカートなんですよ。みんな何もないから手で。戦後は作って使ったもろもろの物なんですね。こういうのなんかはアメリカの捨てた物なんです。

プロフィール

戦後、島の三分の二が米軍軍用地とされた伊江島で、土地返還を求める運動の先頭に立ち続けた阿波根昌鴻。謝花さんは、その運動を、阿波根が2002年に101歳で亡くなるまで支え続けた。阿波根と共に建設した反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」の館長を務める。

1937年
沖縄県国頭郡伊江村に生まれる
1944年
本島・今帰仁村に疎開
1945年
伊江島の戦闘で父が戦死
1947年
伊江島に帰島
1963年
「伊江島土地を守る会」の阿波根 昌鴻の秘書
1984年
反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を阿波根と共に建設
2002年
阿波根の他界後、「ヌチドゥタカラの家」館長

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