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証言

タイトル 「「やめた」は許されなかった 京都議定書発効に向けた交渉」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 川口 順子さん 収録年月日 2015年6月30日

チャプター

[1] 複雑だった「京都議定書」運用ルール交渉  09:45
[2] 「このまま行ったら地球はどうなるの?」  04:42
[3] 環境と経済は、もはや対立するものではない  03:54
[4] 「公害先進国」だった日本ができること  04:35

再生テキスト

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

京都議定書採択から4年。合意に達した各国に激震がはしった。 アメリカが議定書の枠組みから離脱すると発表したのだ。

「世界第2の排出国の中国は京都議定書の(削減)義務を免れている。 もし私たちが京都議定書を批准すれば、 失業は増え物価は上がり、経済的にマイナス。 常識ある人はまともな政策だと思わないだろう。」

京都議定書では、途上国が温室効果ガス削減の枠組みに参加していなかった。

さらに、ブッシュ政権を支えた石油産業界は、一貫して反京都議定書キャンペーンを繰り広げていた。経済の停滞は許されない、という理由だった。 日本は、アメリカを京都議定書に呼び戻そうと交渉を続けた。 同時に、COPを舞台に、EUなどと京都議定書を運用するためのルール作りに取り組んだ。

「COP6を成功させ京都議定書を批准するため、政治的判断による妥協が必要です」

*****

京都議定書は実は出来たんですが(1997年に採択)、中身の具体的なことが決まってなかったんですね。それが決まらないと批准できない、各国がそれを締結できないという状況だったので、運用の細かいルールを決めていくという会合が京都議定書が出来た以降ずっと何年か続いていたわけですね。ブッシュ大統領が、アメリカはそこから離脱をしますということを言う(2001年3月、大統領就任直後に離脱宣言)前に、ハーグで大きなCOP6という会議(気候変動枠組条約第6回締約国会議。2000年11月)があって、そこでかなりまとまりかけていた。そういう状況にあったところであと一押しという感じがありましたから(COP6は結局、合意に達せずいったん中断した)、そういう意味ではとても残念でしたけれど。でもアメリカは必ずしも環境問題にあるいは気候変動問題に取り組まないと言ったわけではなくて、「アメリカのやり方で取り組むんだ」ということを言っていましたから、片方でアメリカが実質的に取り組んでいくようにどうやってできるかということと、京都議定書の運用ルールの作り方によっては戻ってくる可能性というのを、まだそれを探索できるんじゃないかという思いもあって、各国がそれら2点を考えながら(会合で議論)していたということだと思います。日本もかなり一生懸命アメリカに働きかけましたし、それからEUも働きかけていたと思いますね。

運用のルール、その決め方で問題によっては日本とEUが近いところもありましたし、日本とアメリカが近いところもありましたし、EUとアメリカが近いところもあった。イシューによって、課題によって立場がそれぞれ違っていたという非常に複雑な交渉だったんですね。例えばですね、“遵守”という問題が、実は最後まで1つの大きな問題で、これは京都議定書に決まっていることを守らない国に対してはどういう罰則を与えるか、その罰則に法的な拘束性を持たせるかどうかというのが1つの大きな問題だったんですが、日本は「法的に拘束性を持たせた罰則を決めたってできない国はできないので、むしろどうやったらできるかということを教える方がいいでしょう」という立場でした。EUとアメリカはそれに対して拘束性を持たせるということを守らなければ、ペナルティをかけると(いう考えだった)。それは一例ですけれども、(つまり)片方でEUとアメリカ、片方で日本だけじゃないですけれど、いくつかの国という形で分かれていたこともありますし、アメリカと日本が違ったことっていうのもずいぶんあります。例えば市場メカニズム(排出を目標以上に減らすことができた国が、減らした分を、目標に達しなかった国に売ることができる「排出権取引」など)をどれぐらい活かして環境問題に取り組むかという考え方については日本とアメリカは近かった。EUはむしろどちらかと言えば規制派という感じでしたから、ものによって違うんですね。

Q:そこらへんが、先生がジグソーパズルと言われているところもそういったところ・・?(川口さんは当時、交渉の複雑さを「多次元の連立方程式」や「ジグソーパズル」にたとえた。)

本当にジグソーパズル(だと思いました)、確かあれ(を発言したの)はハーグでのCOP6の会合だったと思いますけれども、1つ1つうまくジグソーパズルのピースをはめていくという作業をみんなでしていたんですね。結構まとまる寸前ぐらいまでいったという状況だったんですけれども、あの時は結局EUの中がまとまらないということがあって、それで最後の段階でダメになっちゃったんですね。ですから京都の絵を描く、そういうジグソーパズルだったと私は思ったんですが、かなり出来上がったところでダメになったという意味では残念だったということを、会合のいちばんあとで、みんなが次に向けてどういうふうに考えるかとか、この会合をどう評価するかとか、各国発言するんですけれど、私はその時にそういうふうに思ったので、そのように言いました。

これは国際的に決める話であるわけですね。国内だけで決める話でしたらもうちょっと話は簡単なんですけれども、国際的にみんなで合意できるかどうか。ですから日本が自分の立場だけ主張しているわけにもいかない、だけど実際に決まったことをやっていくのはそれぞれの国、日本なら日本がやっていく、特に産業界、大きな役割を担っているわけですよね。ですから私がずっと交渉(中に)、あるいは環境庁、環境大臣であった時に思っていたことは、国際社会で交渉する過程で日本の立場をできるだけ反映するように交渉するしかないと思っていたんですね。その交渉ができなければ、日本に持って帰って、日本の産業界の人、あるいはこれも産業界だけじゃなくて、都市づくりとか交通とかも全部に関係するんですけれど、実際にやってくれる(削減の努力をする)人がやろうという気持ちにはならないだろうと。だから外でできるだけ“取る”交渉をするしかない。しかも外で“取る”と言っても、日本は(交渉を)やめますと言うわけにはいかない国であると私は思いましたし、それから課題自体は地球的な非常に大きな課題ですから、やっぱり大げさに言えば人間の歴史の中で、これをやめたというのは許されないだろうとも思っていたので、交渉の過程でとにかく一生懸命やって、日本の方がいろんな関係者がこれはここまで日本の利益が反映するんだったらしかたがないと、反対の人も思ってくれるだけの成果を上げなければいけないと思って交渉していました。

私はCOPでの交渉(時に)、特にまとまった最後の交渉の段階で感じたのが、(参加して)いる各国の代表が、(過程)途中で自分の国の利害を言うということだけではなくて、どうやったら(交渉を)まとめることができるかということをみんなが考えていたということですね。(これが交渉の成功に大きく資したと思う。) ある時イギリスの環境大臣が、深夜に、もう徹夜が続いていましたから、深夜に私の部屋にやってきて、「日本はこういう点で困っているということのようだけれど、こういう案があるんじゃないの」って言いに来てくれて。EUと日本と対立をしていた点でもあるんですけれど、(それはそれとして、皆で知恵を出そうという雰囲気があった。)そういうことを言ってきた人もいました。 女性の環境大臣が多かったんですけれど、トイレで会うわけですよね。そうするといろいろ話をする(話が出る)場でもあるんですけれども、「日本のこういう主張はもうちょっと頑張っていてもいいと私は思う」とかね、どうやってまとめるかということを、そこは環境大臣ですから、やっぱりこれだけ重要な問題について(京都議定書を採択したCOP3のあとに)3回もCOPをやって、まだまとまらないということにはみんなしたくないと思っていたっていう、そういう気持ちの一致というのがあったと思うんですけれど。

自分の国の利益だけ考えていたらまとまらないところをどうやってまとめるか。やっぱりこのままいったら地球はどうなるのっていう感じを皆さん持っていたと思いますね。それは全ての交渉でそうだと思うんですね。経済についても、まとまればこういう利益が世界に及ぶ。そのまとめる責任者は私たちだ。自分の国の利益というのはここにある。どうやってそれを折り合わせるか、ということだと思うんですけれどね。最初からどの国も、自分の国の利害はどうでもいいからまとめることが大事だというふうには、それは言わないですよね。そこはモーメンタム(機)が熟してくるというか、国際交渉のそういう雰囲気を作るのは議長の腕でもあると思います。私がやっていた頃の国際交渉はオランダのプロンクさんという大臣(COP6と、COP6再開会合の議長およびCOP7の実質的まとめ役)が、私はこの方の役割が非常に大きかったと思いますね。献身的に、ある会合に私は国会の都合で出られなかったことがあるんですが、私とそこ(その会合)で議論されたことについて意見交換するために成田まで来てくれたことがあるんですよね。成田で会談を数時間して、彼はその足で飛行機に乗って、また次の所に行きましたけれど。そういう人でしたから。

Q:日本の役割も大きかった?その3回の会合で。

まぁ夢中でやっていましたので、ただ日本の発言権というか、日本への期待というのはあったと思います。(日本のそれまでの省エネ努力に裏打ちされた日本の発言の重みがあったと思う。) ただ先ほど言いましたように、これは実際に行動できて意味があるという話ですから、合意を作るだけじゃ意味がない。合意を作り実行できる、ということのために日本の主張をできるだけして、かつ裏では説明をあちこちしてまわってということをやったということですね。

経済界の言っていることも非常によく私は理解できると思うんですけれど、特に日本はその前に石油危機がありまして、それから石油の海外依存度、非常にエネルギーの海外依存度が日本は九十何%かになっているわけですから、省エネというのを本当に一生懸命やったんですね。これは各国とも認めている日本の努力だったと思います。それをやっちゃって、これは基準年が90年ですから(京都議定書の温室効果ガス排出削減の数値目標は、「1990年比」で決められた)、1990年という基準年ではもうやるべきことをやっちゃった、よくカラカラのぞうきん、もう絞れないぞうきんという話を当時日本はしていたんですけれども、本当に厳しいルールが出来たとして、実際に何ができるのかというのは経済界の方は本当に心配だったと思うんですね。コストに悪影響を与えるということ以前に、やる技術とかコストがどんなに高くてもやればいいという以前の問題として、何をやったらいいかということも難しい状況だったと思います。そこにいくとアメリカはそのように(京都議定書離脱を)ブッシュ大統領は言いましたけれども、それはアメリカの国内の意見でもあった。あの前にアメリカの議会は反対だという決議をしているので(「途上国の参加がなければ議定書を批准しない」とする決議を、上院全会一致で可決)、大統領としては賛成をする人が1人もいない条約に賛成だというのはなかなか言いにくかったんだろうと思います。ただ経済界はじゃあ反対だけしているかっていうと、これは日本の経済界は必ずしもそうではなくて、結果的に京都議定書第一期終わったところで日本は計算をすると目標とされた水準を上回った削減を日本はやったということなんですね。(2008-12年度、温室効果ガス排出量を1990年比で6%削減する目標を達成した)。ですからやるつもりはもちろんあって、ただ具体的にどういう方法でやっていくかということについて国際交渉でどう決まるか分からないので、非常にそれが心配だったということだと思いますね。無理からぬことだったと、それは思います。ただ今はもうだいぶ世界が変わってきていて、環境と経済というのが対立概念では必ずしもなくなってきたと思うんですね。環境にいいことをやるっていうのはそれなりに技術開発も必要ですし、設備投資も必要ですけれども、それは需要となり、あるいは研究開発となって日本の経済、あるいは産業の競争力を高めるという方向に働くということが、日本の経済界も十分に認識をしていると思うんですね。逆に環境の方も、経済が健全で発展をしているというベースがなければ、環境のための施策を採るっていうことが非常にむずかしいと。だからお互いに今は相(あい)対するということではなくて、お互いに高め合っていく要素だという認識があると思います。

世界の国が日本のことを環境に対しては一生懸命に取り組む国だと思ってくれていた、それだけの実績を日本がそれまでに作っていたと思いますね。それは公害問題についてもそうですし、それから先ほど省エネと言いましたけれども、省エネルギーをやって、まさに二酸化炭素を出さないという意味では省エネが必要なので、そこで日本はやるべきことをちゃんとやっていて、模範国だというふうにはみんな思ってくださっていたと思います。それが日本の立場を国際社会への主張として出していく時の日本の強みだったと思うんですね。日本がこれがどうしてもできないと言えば、「本当にこれだけの努力をした国ができないと言っているんだったらできないんでしょうね」というふうに交渉の過程でみんなが思ってくれたということだと思うんですね。私もずいぶん交渉の中で2国間会談というのをやって、発展途上国も含めて、日本はこういうことをやって、こういう実績をあげて、こういう状況にあって、これ以上この点というのは非常にむずかしいんだ、ということをかなり交渉の過程でやりましたので、そういう理解はかなりあったと思いますね。

公害にしても省エネルギーにしても日本がどうやってそれをやったかというと、3つぐらいの要素があると思うんですね。1つはそれを可能にするような“法制”、制度の枠組み、それからもう1つはそれを可能にする“技術”だと思うですね。それからもう1つはそういった技術を使いこなす“人材”。その3つが非常に、その3つをうまい形で組み合わせて、日本は公害対策とか地球温暖化対策をやってきたと思うんですね。ですから今後も“制度”と“人”とそれから“技術”、“制度”はほとんど今出来ちゃっていますので、やるべきは“技術”の開発、これは先ほど経済と環境がお互いに高めあっていくような、刺激となって高めあっていくような関係、プラスの影響を及ぼしていく関係に今やあるって言いましたけれど、技術というのはその1つだと思うんですね。これは日本だけじゃなくて、世界の全部の国に裨益(ひえき)をすることだと思うんですね。日本はそういったところで貢献をしていくべきだと思うんですね。

そういった日本の経験を、今まさに工業化して伸びている国に対し伝えていくっていうのは私は日本の役目だと思うんですね。日本もまだまだ公害問題の悪影響で健康を害された方は現に大勢いらっしゃるわけですよね。未だに被害に苦しんでいるという方々がいて、発展途上国でそういう人がすでにいますし、またこのままいったらもしかしたらもっともっと生まれるかもしれないという状況ですよね。ですから日本がこうすればいいんだ、ということを伝えていくっていうのが私は日本の責任だと思いますし、国際会議なんかでお会いをして日本の政策にはこういうものがありますよっていうと、意外にまだまだ知らない方が多いですね。ハードで物、設備を作っていくっていうことも大事なんですけども、政策を伝えていくということも私は大事だと思います。

プロフィール

民間から環境庁長官に任命され、省庁再編で初代環境大臣となる。
京都議定書を発効させるための、
具体的運用ルールを決める国際交渉にあたった。
アメリカが京都議定書から離脱するなど困難が増す中で、
EUなどと渡り合い、交渉の合意に役割を果たした。

1941年
東京に生まれる
1957年
AFS交換留学生として米国の高等学校に1年留学
1960年
東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業
1962年
東京・NY姉妹都市提携交換留学生としてニューヨーク大学に1年留学
1965年
東京大学教養学部卒業、通商産業省入省
1972年
(在職中)イェール大学大学院に留学し、経済学修士を取得
1990年
通商政策局経済協力部長
 
在アメリカ合衆国日本国大使館公使
1992年
通商大臣官房審議官(地球環境問題担当)
1993年
退官。サントリー株式会社 常務取締役
2000年
環境庁長官
 
COP6
2001年
省庁再編で初代環境大臣
 
ブッシュ新大統領、京都議定書離脱表明
 
COP6再開会合、COP7
2002年
外務大臣
2004年
内閣総理大臣補佐官(外交担当)
2005年
~2013年 参議院議員
2013年
明治大学特任教授

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