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証言

タイトル 「京都議定書が世界を変えた」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 浜中 裕徳さん 収録年月日 2015年6月12日

チャプター

[1] 厚生省で公害に取り組む  09:18
[2] 環境庁の初代メンバーに  09:08
[3] 環境問題、世界に広がる  06:06
[4] 地球温暖化対策が始まる  05:33
[5] 日本はなぜ京都会議を招致したのか  04:27
[6] 「ガラス細工」の国内調整  05:37
[7] 「ガラス細工」の国内調整(2)  07:07
[8] 京都会議本番  06:53
[9] 京都会議本番(2)  06:23
[10] アメリカ抜きで発効へ  11:14
[11] 京都議定書は最初の一歩  06:07
[12] 根本的な転換が必要  05:45

再生テキスト

確かに(1967年、公害対策の総合的推進のため)公害対策基本法が出来ました。それでそのもとで個々の公害の事象、例えば大気汚染、大気汚染防止法とか騒音規制法とか(いずれも1968年制定)そういう法律もちょうど私が入省した頃出来たばかりぐらいだったですかね。ですから大枠、大きな方向は固まったと。これから実施だと、こういう時期だったと思います。ですからもう、(厚生)省の大方針の1つが公害防止だっていうこともはっきりしていました。トップから大臣、事務次官以下からですね、そういう時代で私が最初に担当しましたのは、水俣病と並んで大きな公害病としてありましたイタイイタイ病(富山県神通川下流域の住民に、1950年代をピークに生じた。鉱山の廃水に含まれていたカドミウムが原因)ありましたけれど、イタイイタイ病と同じような原因ですね、例えばカドミウムっていう重金属、金属の一種なんですけれど、それを鉱山の排水でカドミウムは混ざって処理されず流れてしまう。その流域の例えば水田とかそういう所にたまるというような事例がいろいろ発見されましてね、そうすると第2水俣病じゃないんですけれど、第2イタイイタイ病、第3イタイイタイ病、っていうのが出るんじゃないか、そういう恐れがあるということで、それを防がなきゃいけない、ということで住民健康調査というようなことを当時厚生省はやっていたんですが、それの仕事、いちばん若い職員として末端で一緒にさせていただいたというそういう経験があります。具体的には私は医学の方はまったく素養がないものですから、お手伝いできるのはどちらかというと、住民の食事、それぞれの地域でもうだいたい伝統的に食べられているものっていうのは決まっていますから、それを陰膳方式って、昔はみなさんお膳を作ってその上に料理を並べて食べるわけですね。それを皆さんが普段食べているものを作ってくださいとお願いして、その作っていただいた、1食分多く作っていただいて、それをいただいて、それでミキサーで混ぜて、分析器にかけるんですね。それでカドミウムがどれぐらい入っているかとか、そういうのも調査するわけです。それとあとは住民の方にご協力いただいて、血液、それから尿とかそういう物を採らせていただいて、その中に入っているものを調べるというようなことで、どのぐらい体にカドミウムが食事を通して入り、それが体の中にどのぐらいたまっているか、排泄されるものに出ているか、そういうのを見る。医学的な調査はまさに医学の専門家が実際に住民検診をやって、何か腎臓の機能に異常が無いかとか、そういうようなカドミウムの汚染に長期間さらされると、何か腎臓障害が出るんだそうです。そういうようなことを全国いくつかの、特に鉱山の下流地域で何か所か選びまして調査をして。その調査結果をまとめるっていうようなことを最初に担当しましたね。

Q:69年に入られ(厚生省に入省、公害課に配属)、70年にいわゆる公害国会(1970年11月から12月までの臨時国会。公害関連14法案が可決された)。あのあたりは先生は実体験としてご記憶があることとか、関わられて苦労されたとか、そういったことはありますか?

もちろんありました。当時、公害対策本部(1970年7月に設置。本部長は佐藤栄作首相)というものを作って、古川さん(古川貞二郎さん。当時、公害課課長補佐から公害対策本部の一員に。のちの官房副長官)は最初そちらに行かれていたんじゃないかなと思うんですけど、私はずっと厚生省におりまして、それで十何本か14本ぐらいだったですかね、新しい法律、あるいは既存の法律の改正も含めて、沢山の法律を公害特別国会に提案すると。ですから私のように入りたての人間も動員されまして。

お手伝いをさせていただきました。立法作業というのがどういうものなのかっていうことをですね、法律事務官と言いますか、法律専門職の方々と、それから我々のような技術の人間が共同作業をして、原案を作り、これで法律として体裁がちゃんと整っているのか、大丈夫かっていうのは内閣法制局に行くんですね。そこで担当の参事官の方々がいらっしゃって、そこで説明をして審査をいただく。これがまたものすごい時間がかかるんですね。1条1条、1条1項ごとに本当に丹念に審査をされるんですね。そういうものかなということで、本当にわずかな言葉なのにこんなにも時間をかけるのかって本当に思いましたけどね、法律というものに対する重さっていうことを私などは法律専門家でもないですから、あんまりよく分かっていなかったんだと思うんですけれど、確かに1回決まってしまえば国民の権利義務を規定するわけですからね。単にいろいろな法律もある、それとの関係はどうなるんだろうというようなことも考えなければいけませんから、やっぱりそういう法案審査っていうのは非常に大事な仕事で時間もかかるのはあとから見ますと理解ができるんですけれど、当時は本当に最初の経験でしたからびっくりしましたね。

Q:その頃一気に14も法令が出来る、改正されるっていうことは、それなりに何か突き上げる力が当時あった、熱気というか国民のニーズなのか、あるいは国会内のあれなのか、その辺はどういう当時印象を受けて・・

それはですね、確かにもう新聞報道、テレビも含めてですが、これはもう連日のように公害の問題はとりあげられて、どこの地域でこういう問題が起こったというようなことがほとんど毎日のように報道されるんですよね。ですから厚生省の公害課というところにおりましたけれど、真っ先にそういうことが報道されたらやっぱり対応しなければいけない、そうすると関係の都道府県の自治体の皆さんに実情を伺ったりですね、あるいは専門家の先生に「こういうことが起こりましたが、どういうふうに対応すべきでしょうか」と、もちろんある程度こちらが考えたものをお持ちしてアドバイスをいただくというような形なんですけれど、そんなことを毎日のようにやっておりましたので、それでもう非常に忙しい思いをしましたね。特に大きな問題が起これば、国会の委員会で特に野党の先生から追求されるものですからね。そうすると省の幹部、課長、あるいはその上の局長、そういった方が呼ばれて、質問されて答弁をしなきゃいけないということになりますので、そうすると答弁の原案も作成をするということも必要になりますし、そんなことで大変慌ただしい、忙しい日々を過ごしておりました。もう本当にこれは国民的な大きな課題なんだなということを実感しましたし、それはもう恐らく政治の上の方におられる方々、皆さんそういうことをお感じになっていらっしゃったんだと思うんですね。ですから国の行政として、やはり思い切った対応をしていく必要があるということだったんだと思うんですね。それでそういう特別国会、今にいたるまで公害とか環境で特別国会っていうのは、恐らくその時だけだと思うんですけれどね。

Q:それだけ大きな気運があったってことですか?

そうですね、政治課題としても真剣に対応しないといけないと、そういう認識だったんだと思います。

私がおりました(厚生省には)公害課を含めた公害部っていうのがあったんですけれど、そこは3つ課がありまして、廃棄物を担当する環境整備課っていうのがあったんですが、それを除くあとの2つ、公害関係の2つの課は根こそぎ全員新しく作った、作られた環境庁に移るというようなことでしたので、私も皆さんと一緒に移ったという感じです。

新しい役所が出来るんだということで、いろんな省庁から皆さんいらっしゃって、悪く言う方は寄り合い所帯だなんだっておっしゃっていましたけれど、中にいるものとしては非常に皆さんやる気があって、燃えていましたね。ですから新しい「環境」という新しい仕事でやるんだということで、初代のメンバーの方々はほとんどそういう後ろ向きの方ってほとんどいらっしゃらなかったと思いますね。本当に真剣にやられた、もちろん出身省庁それぞれおありになり、いつまでもいるわけではないだろうと、数年たてば戻らなきゃいけないと、言う方が多かったと思うんですけれど、その割には皆さん本当に一生懸命になって環境庁何をやるかっていうようなことで率直にいろんな意見を闘わせましたし、でも一生懸命それこそ実質上初代の長官は大石武一先生(1909-2003 医師から政治家に転じ、1971年に発足したばかりの環境庁長官に就任)だったんですが、そのもとで皆さん一生懸命やったと、そういう印象ですね。

Q:最初の仕事はどういう仕事だったんですか?

私の場合は新しく大気汚染の環境基準を作る、そういう仕事を担当いたしました。

加藤三郎さん(1939- 厚生省と環境庁で一貫して公害・環境行政に携わる)って方、私の3~4年先輩なんですけれど、その方が(大気保全局企画課環境基準係の)初代の係長になって、私が初代の係員ということでですね、仕事を始めました。大気汚染の環境基準というのはすでに硫黄酸化物(二酸化硫黄=亜硫酸ガスなど。1968年の大気汚染防止法制定以来規制されてきた)というぜんそくの原因と言われたものがあったんですけれど。

その次は、ちょっと難題でしてね、(1970年頃から新たに問題となったのが)二酸化窒素っていう物質なんですけど、これは自動車排ガスとか、発電所、工場の排ガスとか、そういうところに含まれている、高温で燃焼すると空気中の窒素と酸素が化合して出来てしまうもの。一部は燃料中に含まれるものもありますが、多くは高温燃焼によって出てくるというものなんですね。ですから燃やせば必ず出てくるところがあって、二酸化硫黄は燃料中の硫黄分を減らせばいいという、当時中東から輸入していた石油で日本は割と硫黄分の高い燃料を割と買っていたんですけれど、それを若干値段は上がるかもしれないけれども、硫黄分の低い燃料を確保すれば、あるいは天然ガスに変えてしまえば全く問題無いんですね。あるいは脱硫技術を使ったそういう(脱硫)装置を作るっていうのもありましたけれど、そういう対応方法もあったんですが、二酸化窒素がこれはそうはいかないので、もうちょっと難しい問題がありました。 でも同時に光化学スモッグ事件っていうのが起こりまして、東京の立正高校って杉並区、環状7号線の沿線なんですけれど、そこで高校生が昼間に倒れるという、そういう事件がありました。それからもう少したって練馬の方でも似たような事件があったと思うんです。(1972年 東京都練馬区立石神井(しゃくじい)南中学校で、200人近くの教員、生徒が頭痛や足のしびれを訴えた。原因は光化学オキシダントと総称される物質)それはまさに首都のお膝もとで起こったことですから、各紙大々的にとりあげて。東京都の検査機関、研究機関の方がすぐに行って空気を分析して、それでこれは光化学スモッグが原因だとこういうことになって。大騒ぎになりましてですね。二酸化窒素が有力な原因の1つだと、それからもう1つはそういうものの大気中の科学反応によって出来るオキシダントというか、オゾンなんですけどね、そういうものがもっと二酸化窒素よりももっと悪さをするということが分かって来まして。だからそちらの方も合わせて目標を作らないといけないっていうので、その環境基準作りっていうのはすぐその後、翌年(1973年)でしたけれど、着手したんですけれど、これがなかなか大変でした。 ぜんそくなどの問題は、問題が公害として起こってしまって起こったあとどうするかっていう対応だったんですね。そこを何とか通産省との調整はありましたけれども、徐々に大気汚染防止法で規制を強化するということで少しずつ軌道に乗りかけていたんです。環境庁が出来た頃は。次の課題はそういう新しい公害の二酸化窒素とかそういう原因に対して、あんまり問題が深刻化しないうちに予防的に取り組む必要があるんだと、こういうことが大きな課題になっていたんですね。だから予防をするということはかなり安全性も見て、厳しめの環境基準を作り、いろいろそのもとでその目標を達成するような規制もしなきゃいかんということで、自動車も日本版マスキー法規制(乗用車の窒素酸化物の排出量を約10分の1に削減する規制。長い議論の末1978年実施)とか、排ガスの規制を始めようとしていたんですけれど(本格的排ガス規制は1973年から)。そうなるとやっぱり経済活動との関係ですね。二酸化硫黄のように燃料で何かいい燃料に変えればいいとかいうことでは済まない。より難しい問題だっていうことで経済界もこれは大変だということになりまして、自動車業界はもちろんですが、鉄鋼、電力とか、そういうところが今度は相手ですからね。まず環境基準の設定でも大騒ぎになりまして、でも当時はとにかく私が直接担当していた時には予防重視だと、科学者がこうした方がいいということに率直に耳を傾けて、その通りに基準を作った方がいいと、いろいろな行政的政治的配慮を加えずにですね、という考えでいきましたので、かなり厳しい環境基準を作ったんですね。ですが、やがて時間がたってきますと、それはなかなか無理があると。っていうのは1つは科学的な知見というのは年々進歩しまして、だんだんとその後分かってきたんですが、必ずしもそこまで厳しくしなくても健康との関係では、まぁいいというところがあるんじゃないかということがだんだん分かってきたということと、当初の環境基準を本当に達成しようとしたらやっぱり経済にかなり大きな影響が出そうだというようなこともだんだん分かってきたというので、亡くなられましたけれど、私がいろいろ教えていただいた橋本道夫先生(厚生省で初代公害課長を務めるなど、ミスター公害と呼ばれた)という方がのちに(環境庁大気保全局の)局長としてその問題に取り組まれて、当初の基準を少し緩めるような、緩めるというと語弊があるんですけれど、修正をされる新しい基準を作られる(二酸化窒素の環境基準緩和、1978年)。しかしそのことによって対策のほうは軌道に乗っていったんですけれどね。だからそういう経験もしました。ですから頭の中では予防が大事だ、予防もしなきゃいけない、そのためにはやはり厳しめの基準を作る必要があるんだと、いうことでやったわけですけれど、それだけでは問題は解決しないんだということですね。やはりいろんな問題を総合的に考えていく必要があるということだと思いました。本当に対策を前に進めるためにはですね。そういう意味ではいい経験だったと思います。

40年以上前になりますが(1972年)ストックホルムで国連人間環境会議が開かれて、そして国境を越える環境問題が起こっていると。例えば北欧は酸性雨(大気汚染によって降る酸性の雨。植物を枯らし川や湖の生物を減らすなど環境に影響を与える)というのが西ヨーロッパ、かなり1000キロ以上離れた所から排ガスがきて、自分たちの国の森や湖がやられるということを経験して、もう一国の中だけでは対応が難しいと。ですから国際的に協調した対策が必要だと、こういうことを訴えたいということで国連の会議をストックホルムで開催をしたということだと思うんですけれども。その結果としていくつかの環境、国際条約が出来ました。国連環境計画、UNEPという組織が出来ました(ストックホルム会議で採択された「人間環境宣言」と「環境国際行動計画」を実施に移すための機関として設立)。だんだんと途上国も含めて環境という新しい課題にどう取り組むべきなのかと、環境と開発とかグリーン開発とかいろんな考え方が出てきたわけですけれども、それがさらに80年代に入りますと、一つは酸性雨問題が北欧だけでは実は無いということが分かってきて、ドイツが例えば、当初ドイツはあまり環境問題に熱心とは言えなかったんですね。今とまったく違うんですけれど。ところが多くのドイツ人が大事だと思っている自分の国の森、例えば黒い森、シュヴァルツヴァルト(ドイツ南西部のモミを中心とする広大な森)が実は酸性雨で大きな被害を受けているということが分かって来た。ということでこれは大変だということでですね、ドイツの自然保護運動、今で言う環境NGOなんですけれど、非常に大きな団体、ブンド(BUND・ドイツ環境自然保護連盟)っていう組織がありますけれど、その団体が政治活動を強めて、それを実際に政治家としてやる人たちが「緑の党」、だんだんと支持を増やしていって、5%のスレッシュホルドって言うんでしょうかね、しきい値(比例代表制で、政党が獲得しなければならない最小限の得票率。ドイツ連邦議会では5%)を超える得票率になると連邦議会に議員が入れるということになって、80年代徐々に連邦議会の中で緑の党の議員が増えていったんですね。

ドイツが大きく変わり始めたんですね。それがきっかけになってヨーロッパのいろんな国でどんどん環境運動が盛んになって、政治への影響力も増していった。アメリカとカナダの両方で酸性雨問題がありましたけれど、アメリカも東部で深刻化して、原因は中西部の石炭を燃やす火力発電所からの排ガスがずっと長い距離運ばれて、そこで落ちて問題を起こすんだということが分かってきて、アメリカも酸性雨対策に乗り出すというようなことになって、そういうことがだんだん積み重なってきた中で、地球規模の環境問題という意識が強まってきたんだと思うんですね。オゾン層が壊れるらしいと、有害紫外線が私たちの体に悪影響を及ぼすというようなことで、モントリオール議定書(1987年採択、1989年発効。オゾン層を破壊するおそれのある物質を規制)を作るとかですね、そういう動きもありましたし、熱帯雨林は放っておいたらアマゾンでもインドネシアでもコンゴでも無くなってしまう。地球の肺だと。それが痛んだら地球が生きていけないんだというようなNGOのキャンペーン等もありましてですね、政治家の意識も大きく変わっていると。時あたかもなんですが、米ソ対立がだんだん変化してきて、デタントとかペレストロイカっていうようなあれになってきてですね、米ソの対立がだんだんとあまり深刻でなくなった中で、国際政治の中に環境問題というのが一気に入ってきたっていう時代でしたね。ですからサミットも。

パリのちょっとパリの中心街から少し凱旋門よりもっと行った所ですけれど、アルシュっていう、アルシュもアーチですからね、英語で言えば。凱旋門みたいなもので、アルシュ・サミットっていうのが開かれまして(1989年)、そこでは経済宣言っていうか、コミュニケ(声明)の3分の1ぐらいが環境問題というような、そういう時代になりましたですね。それが国内政治にもやっぱり反映したと思います。ですから竹下登先生(1987年~89年に首相)のような方が総理大臣をお辞めになったあともこれは大変な問題だということで、これからの政治家はやはり地球環境問題を語ることなくして政治家とは言えないよっていうぐらいまでおっしゃってですね、そうかっていう、かなりそれまではあまり環境問題おっしゃらなかった方々が、で、割と影響力の強い方々が、みんな環境環境っておっしゃって、だから環境族って言われる方々がだいぶ変わりましたからね。いわゆる主流というか、影響力の大きい方々が環境族を構成するようになった。そんな雰囲気があったと思います。

Q:そうした中、92年にリオで会議があったということですね。そこでかなり確認された、あらためて共通認識として確認されたことが多かった?

そうですね、もちろん環境と開発っていうのは大きな課題で、そこをどのようにして調和させるかっていうことはもう言わば永遠の課題なんでしょうけれど、そこで「持続可能な開発」という考え方ですね。開発は必要なんですけれど、それを環境面、社会面、経済面から持続可能なものにする必要があると。それはこれまでの開発パターンをある意味で変える必要があるという、そういう認識が共有されたと。ただそれは基本論で具体論に入るとなかなか難しかったんですけども、基本的な考え方はそこで1本化されたと。ただその時に責任論というのがありまして、途上国は今我々は経済的社会的に非常に困難な立場に置かれている、そのかなりの部分の原因は先進国が我々を植民地にしたりして、経済的に搾取してきた、そういう歴史があるんだということと、今日の環境をこれだけ悪くした責任の大半は先進国にあると、こういうことを言いましてですね、それを抜きにして、ブラジルに対してアマゾンの森林を壊してるのはあなたたちだからなんとかしなさいとかですね、これはおかしいと。そういうことを言うなら、アメリカ合衆国だって、昔はあそこは大森林があったのに、ヨーロッパから人が来て入植して開発して、みんな切ってしまったじゃないですか、と。それを無視してですね、今残ってるところを守りなさいっていうのはおかしいというような、そんな議論がありましてですね。でまあ、共通だけれども責任はおのずから差があるという、そういう原則とかですね、それから途上国の取り組みにはいろいろ資金、先進国がお金、資金とか技術とか、あるいはいろんなあれですね、個人とか組織の能力ですね、これを高めるような。そういう支援をする必要があるんだと、まあこういうような考え方、大体リオで出来たと思います。

地球温暖化問題っていうのは確かにそういう中で新しい課題でした。オゾン層の問題っていうのは80年代の後半、典型的な地球環境問題のひとつって言われたんですけれどね。成層圏がなんか、のオゾン層、それが我々を守ってくれるシールドだって、宇宙線から守ってくれるシールドだと。それが壊れるかもしれないという、それも原因もですね、ちょっと不用意にスプレー缶とかあるいは自動車のクーラーとかああいうものにそういうオゾン層を壊すようなガスを使っちゃってるとか、それが原因なんでそういうところを直しましょうっていうようなことで始まったのがありましたけども、そのすぐ後に温暖化が実はもっと深刻な問題としてあるんだよっていうことが科学者から出てきてですね。で、議論が始まって、でもこれはもう本当にオゾン層の破壊の問題に比べればはるかに多くの経済、多くの分野の経済活動に直接影響が出るような問題ですから、例えば化石燃料を燃やすっていうことが原因だっていうことになると、本当に発電所や工場や自動車や一般家庭に至るまで、みんなその原因を作ってるわけですね。ですから、これは大変な経済あるいはエネルギーの問題でもあるというようなことになってきて、いろいろ最初、例えばヨーロッパとアメリカで対応が分かれるとか、日本でも国内で対応が分かれるとかいうことになったんですけども。まあ最初に条約を作ろうということになって、で、まあこれもいろいろ紆余曲折ありましたが。

アメリカも参加する形にしなければいけないので、先進国が何をやらなければいけないかっていう、その約束という言葉、コミットメントっていう言葉なんですが、先進国の約束の内容については数値目標(地球温暖化をもたらす温室効果ガス排出をどれだけ減らすのかを、数値化した目標)にはしないと。ヨーロッパ、それから日本もある程度そうだったんですが、もう目標を作ってもいいんじゃないかという考え方だったんですけども、アメリカが最後まで頑として反対を、まあブッシュのお父さん、ブッシュのお父さんの大統領でした。で、したがってそれを数値目標っていうことにこだわりすぎるとアメリカが入ってこないということになるので、まあそうさせないために多少表現を妥協してでもアメリカが参加できるようなものにしましょうということで、最初の枠組条約が出来ました。

その後条約(気候変動枠組条約)が発効し、1回目の会議がベルリンでちょうど今から20年ちょっと前ですね(1995年3~4月)、ベルリンで第1回目の会合が開かれて、で、そこでまあ、これも侃々諤々(かんかんがくがく)議論があったんですが、次のステップとして議定書を作りましょうということになったわけです。で、その頃実は私はですね、90年から加藤三郎さん(1939- 厚生省と環境庁で一貫して公害・環境行政に携わる)が初代の地球環境部長、で、私その下で課長をしてたんですけども、しばらくリオの会議、あるいはそのちょっと後までやっておりましたけど、ちょうどその条約が発効して最初のベルリンで、ドイツのベルリンで会合(気候変動枠組条約第1回締約国会議=COP1)を開いた時にはですね、私はその地球環境部ということろから離れて水のほうの仕事をしてたので(水質保全局企画課長に配属)、直接担当はしてなかったんです。ただ同じ役所にいましたから、いろいろ同僚から聞いていましたけども。次の新しい大仕事が議定書の交渉であると。で、それをその、ですから2年後ですね、97年に開かれる3回目の条約締約国会合(COP3)で決めるんだと、こういうことに大体なっていたので、それならばぜひですね、その会合を日本で開かせてほしいということで、1回目の会合に出席をしておりました環境庁長官(村山内閣の宮下創平長官)がその発言をされたわけですね。日本に招致する用意があります、ということ。正式決定は更に1年後、2回目の会合になったんですが、とにかく日本が招致の意向を表明したということ。で、その背景はやはりその、新しい課題になった地球温暖化問題において、日本が国際的なリーダーシップを発揮したいと、こういうことだと思います。地球温暖化問題はすでに政権党自民党の中でも、政府の中でも大きな課題だという意識はすでに出来ておりました。で、難しい問題かもしれないけれども、こういう問題にこそ日本がリーダーシップを発揮すべきじゃないかということで、日本招致ということを提案をされた。当時の竹下(登)先生を先頭にされた、割と有力な方々が自民党の環境問題に関わっておられたということであるとかですね、それから先ほど来お話をしております世界的な80年代後半からの大きなうねり、それが日本にも波及してきたと、こういう中で、日本のリーダーシップっていうのは、まあある意味で多くの方にとっては当然というふうに受け止められたんじゃないでしょうかね。

90年頃に地球環境問題が世界的に大きな問題になった時に、日本は魚のとり過ぎとか、あるいはその熱帯の破壊に手を貸しているんじゃないか、木材輸入ということを通じてですね。で、批判をされたもんですから、ちょっとやはりそういう批判されてばっかりいてはよくない。日本はかつて公害に苦しんだけども、それを克服した。経済成長にも悪影響がなくですね、克服した。そういうその公害対策先進国なんだと。それを、そこをベースにしてですね、これからむしろ日本は積極的な役割を果たしていくべき。お隣の中国に対してもそういう日本の環境技術を活かした協力をすべきだって。そうしないと今度は中国から酸性雨が日本にも来るのじゃないかと、まあこんなこともありましたんで、割とこう合意が得やすかったと思いますですね。

Q:実際京都会議が日本に来る、京都でやるということになった時に、いろんな準備も、日本の中でのコンセンサスも必要だと思うんですが、そこにおけるご苦労というのはどんなところだったのでしょうか?

そうですね、これはあの、まあ別に地球温暖化とかそういう地球環境問題に限らずですね、国際的にいろいろ貿易交渉などもそうだと思うんですけど、いろいろな他国間で話し合ってルールを決めていこうという時に、国内の関係者の利害とどう調整するかっていうのはいろいろ難しい問題がありますよね。ですから、で、各国間で、各国でそれぞれまたいろいろな国内の関係者がいて、ですから各国の利害もいろいろ違う、そういう難しさがあると思いますけれども、京都議定書交渉の場合にはですね、先ほど申しました、ちょうど20年ちょっと前のベルリンの第1回会合(気候変動枠組条約第1回締約国会議=COP1)でですね、大体交渉の大枠というか大きな方向は決まってたんですね。で、この先進国の約束というか(地球温暖化をもたらす温室効果ガス排出の)削減を強化をするというふうに絞った。まあ途上国もっていう議論も、日本やアメリカはやったんですけれども、まあ途上国がそんなことはとても受け入れられないということで、途上国は条約で決まったことをやると。で、先進国はその条約で決まったことだけじゃなくて、次の一歩をまずリードすべきだと、こういう、先導をすべきだということだったんですね。で、その中で具体的にどうするかっていうことになりました。で、具体的な交渉事項はですね、やはり後の削減目標ということになるんですけども、最初は削減目標という言い方をしてなかったんですね、ベルリンの会合の時には。で、排出の抑制または削減の目的というようなですね、言い方で、これ数値目標なのかどうかよく分からないっていう点がひとつ、それから、抑制という言い方をしてますが、抑制っていうのは増えるのを抑えるという。削減は漢字と語感としては下げるという、減らすということですね。ですからその両方が入ってるということで、そういう点が少しあいまいだったんですけども、翌年の96年ですが、ジュネーブで開かれた2回目(COP2)の会議でですね、実はその時に日本招致、日本での3回目の会議(COP3)開催が正式に決まったんですけど、同時にですね、その時に重要な方向付けがされました。で、それはどういうことかというと、アメリカがかなり態度を明確にしてきてですね、目標は現実的である必要があるけども、同時に検証可能でそして拘束力、法的な国際法上の拘束力を持つ、そういう目標、数値目標、そういうものである必要があると、こういうことを言い出してですね。で、それはあの、ヨーロッパも望むところでしたので、アメリカとEUが一緒になりますと、これはもうなかなか誰も止められないということになりますよね。日本はちょっと、え?とかいうことで、想像しなかったような展開だったんで、中ではもめたんですけども、結局受け入れるということでですね。で、方向はまあ数値目標を作るということになりました。更にその後いろいろ、いよいよ京都会議の年になって、97年になって、G7。

アメリカでG7があったんですね。で、環境大臣会合があり、その後をデンバーっていうところでサミットがありました。

橋本龍太郎先生が総理大臣で出席をして、そこでアメリカのクリントン大統領、ドイツのコール首相が、もう激論を交わした。お互いに顔を真っ赤にして激論を交わしてる。それを目の前で見ておられてですね、これは大変な問題だと。各国の利害がぶつかる、本当に大変な問題。で、議長国だと、考えれば日本はと。これ、京都会議を成功させなければいけないけれども、そのためには議長国としてはものすごい大変な重い課題で、しっかりしなきゃ。しかし自分の足元を見るとですね、環境庁が片方でいて、これはまぁ力は弱いけど前向きでどんどんやろうと言ってると。しかし通産省はですね、なかなかそんな減らすなんて言ったって、そんなのできませんよっていうようなことで、こっちは割と産業界が後ろにいて力が強い。で、まとまっていない、溝は深いっていうことで、このままでは京都会議の成功はおぼつかないと思われたんでしょうね。それで古川さん(古川貞二郎さん。厚生省・環境庁出身)、官房副長官でおられたんですけども、官邸の力を使ってですね、官邸が調整に乗り出すと、こういうことになりました。

あの、数値目標で問題だったのは、だんだんとですね、世界的な相場、特に先進国間の相場がですね、最初はその、抑制または削減と言ってたのを、もう抑制を止めましょうとヨーロッパが言い出して、アメリカも反対しなかった。それで、削減だけになった。しかも削減もですね、相当の削減って、相当っていうのは英語で言うとシグニフィカントっていう言葉なんですが、よく統計学で有意な差っていう時に、その言葉を使うんですけどもね。それは数値で言うと1%や2%ではないと。もっと大きな削減だということを意味してるんですね。そういうことになってきて。で、しかもそれをどこから減らすかというのも大体90年から、1990年からの相当の削減だって。これが大体相場になってきたんですね。で、そうなってきたんですけれども、国内で通産省は当時どんなに頑張っても日本の排出量はですね、1990年と同じまで行くのがもう精一杯。それもかなり難しいんだけども、まあどんなに頑張ってもそれが精一杯なんで、それ以上マイナス何%とかいうのはとてもできませんと、まあこういう強い見解でした。で、しかし私たちは、世界の動向がだんだんそうなるのを見ていましたし、我々なりにそのいろいろ検討してみると、まあもう少し削減ができるんじゃないだろうか。国立環境研究所の研究者の方々ともいろいろ協力をしまして、分析をしたんですけども、5%かもう少しくらいは削減ができるんじゃないかと考えていましたんで、それを言ったんですけども、全然通産省と平行線で、まとまらないんですね。で、それは日本全体としてはそれではいけませんので、調整をしないといけないと。まあそんなことで始まったということですね。ですから、なかなか国内調整がまず大変だったということですね。いろいろ官邸に、非常に当時の大蔵省、あるいは外務省出身の局長クラス以上の方ですけども、大変有能な方、知恵のある方がいらっしゃってですね、で、いろいろうまくやっていただきまして、例えば国際的にこれがもう、このレベルでないと話にならないんだよ、ということをみんなの共通認識にするためにわざわざですね、その国際会議の場で我々事務レベルとかあるいは当時の環境大臣、石井道子先生っていう方が環境大臣だったんですが(1996年11月から1997年9月、京都会議の3か月前まで環境庁長官)、大臣レベルでも(欧州や途上国に対し)打診をすると、腹案ということでですね。「日本は実は削減というのは難しいんですと。大体90年と同じレベル、0%、そういうくらいしかできないと思うんで、京都会議の最後のオチをこの辺りにしたいと思うんだけど、どうでしょうか?」っていう打診をしたんですね。で、答えはもう大体打診をする前から分かってたんですが、「それじゃあお話になりません」と。じゃあどのくらいかっていうのをはっきり誰も言いませんけども、大体感触として5%くらい。1990年から5%くらい削減するというくらいが、でないといけないでしょうっていうのが大体の感触っていうことが分かりました。で、石井大臣から橋本総理大臣に、私が行って話した結果こうでしたって報告をして、それが官邸の皆さんにも共有されてですね、まあそうかと。やっぱりそういうことなら京都会議の最終成果は先進国全体として5%くらい削減、というふうにしないといかんなと、こういう共通認識になったわけですね。それはやっぱり、いくら環境庁が言ってもなかなか通らないんですけども、国際的に打診をしてノーと言われたということではっきりしてきた。そういうやり方を取ったんですけどもね。なかなか私自身はもうとてもそんなことまでは思い浮かびませんでしたけど、そういうことがありました。その後官邸の調整がありまして、ずいぶん大変な調整がありましたんですけども、日本の議長国提案という形でまとめまして、それが基準となる削減率、まあ基本削減率という言い方で、それは5%。で、しかし国ごとに事情が異なる。日本は80年代に大変な第2次オイルショックといいますか、石油危機で企業が省エネ投資をずいぶんやって。ですから、90年の段階には日本は相当エネルギー効率は高くなっていて、アメリカ、ヨーロッパより高いと。だから日本はある意味で先に進んだんだと。で、そこの、そこで、そこを基準年にして比較されるとですね、日本は不利になるので、そういう事情も考慮して、日本の削減率は他の国よりは見かけ上は少なくてもいいんだと、こういう言い方をしてです。日本に適応すると、5は2.5の半分になるというような理屈を立てましてですね、で、日本提案で出したと、そういうことです。ただまあ、そこに至る間でも、通産省との間では散々いろいろ調整がありましてですね、ですからそこを何とか官邸の力もあってそこまで持ってったんですけども、逆に言うとそこでガラス細工のようなところがありましてね、あまりそこをこう動かせないというところになってしまったというところありましたね。でも、国際交渉ではある国の言い分が100%通るっていうことはないんですよね。だから、これが日本提案ですって出しても、で、日本に当てはめればこうなりますって出しても、みんながああそうかって言って首を縦に振るわけではありませんから、そのままそれが京都会議の結論になるわけではないんですけども、そこの難しさはありますね。通産省の方々からすればそれを業界、産業界の方々にもみんな説明して、いろいろ皆さんも不満があるでしょうけど、まあ官邸の調整もあって、こういうことになりましたと。でもこれはこういう理解ですからとかいうようなことで大体説明はされてると思うんですね。で、そういうような政府の中の各省庁、それからその背後にある経済界の各業界の皆さん、全部含めてガラス細工のように作ったものなんですね。で、それがそのままでも実際国際交渉ではそのままにはならないという、その難しさですね。それが結局京都会議本番で出てしまうんですけども。

Q:(国際交渉の難しさが、京都会議の)本番で出てしまうっていうのは、どういったところだったんですか?

結局その、アメリカとEUがいちばんこうある意味で立場が対極、分かれていたんです。で、数値で言いますとEUはマイナス15%一律削減だと。一律削減っていうことは日本も15%減らしなさい、アメリカも減らしなさい、EUも減らしますと、こういうことなんですね。ところがアメリカは、いやいや、アメリカとしてはもう、マイナスの削減は出来ませんと。90年と同じにするのが精一杯ですと、こういうことで、言ってきて、だから0と15で大変違う。日本はその中で5。5を基準にしてこの線でみんなでまとめましょうよと。因みに日本に当てはめるとその半分で2.5でいいんですよ、という、こういうことで、みんな違うわけですね。でもこの日米EU、3極がまとまらないと、とても京都での合意は難しいということで、これは大変ね、どうやってまとめるかっていうことで。で、まあその場合に、各国でいちばんいろいろ要求はあるけれども、条件はあるけども、なにが一番拘るんですか、大事なんですかって、おのずから優先順位があるわけですね。そこを聞き出すっていうか、うまく聞き出す、知るっていうことが大事ですね。なかなか接触してもストレートには言いません、相手も。あんまりこう言うとですね、自分の手の内をさらけ出すことになるんであんまり言わないんですけど、それをなんとか引き出す、聞き出すっていうことが大事ですね。で、だんだん分かってきたのは、日本はやっぱり国ごとに差を設けると。だからまあ最後のオチはどのくらいになるか分からないけれども、でもまあ日本は省エネで比較的進んでる、だからアメリカやEUに比べれば数値は低いという、そういうことはある程度皆さんを説得できるんじゃないか。で、最終オチが5ならば、5よりは少ない数字が日本に来るということは予想できたわけなんですね。ですから、差異化っていうことがまず大事だということです。で、EUはですね、やはりEUが15の国でまとまって、で、全体として達成しますと、15、マイナス15。で、国ごとには違いますと。例えば南ヨーロッパは緩い値なんですね。そのかわり、ドイツとかイギリスは頑張りますということなので、全体として達成するっていうことを認めてもらわないと、これはもう絶対困ると、こういうことでした。15一律と言いながらですね、で、日本もアメリカもそうしなさいと言いながら、EUの中は15をバラバラに数値を分けている。それはアメリカや日本から見るとおかしいと。人に言うんだったらあなたのとこの15も全部15の国全部ひとつひとつ15に、マイナス15にしなさいと言いたいところなんですが、そこはそこまで突っ込まれると困るという。絶対それは、全体として達成をする。バブルっていう言い方をしてました。それがEUの最優先事項。それからもうひとつはやっぱり、15っていうのは持ち出しなんですけども、まあそこまでいかなくてもやっぱりアメリカがゼロでは絶対困ると。やっぱりマイナス何%かにアメリカも来ないといけないということもEUの強い要求でしたね。で、アメリカはやはりそうですね、森林の吸収(森林が吸収する二酸化炭素量を、温室効果ガス排出量削減とみなして算入できる仕組み)とか、それから排出権取引(排出を目標以上に減らすことができた国が、減らした分を目標に達しなかった国に売ることができる仕組み)のようなもの、これを是非活用したいと。それを認めるべきであると。こういうことを強く言ってましたね。で、同時にアメリカの上院で決議が、全会一致だったと思いますが、決議がありまして、バード・ヘーゲル決議っていうんですけども、京都議議定書についてはですね、途上国の参加がなければ、アメリカとしてはそれが競争相手になりますから、アメリカが批准すべきものではないと。それから、アメリカの経済に悪影響を及ぼすものであってはいけないと、こういうような決議がありまして。強制力はないんですがやはり批准をする時に上院を通さないといけないもんですから、そこが全会一致っていうことは非常に重いものがあってですね。で、京都議定書スタートの時からもう、先ほど言いましたように、途上国の約束は強化しないっていうことになってはいたんですけれども、だから今回は先進国の目標を強化するっていうことが交渉課題なんですけども、それだけ言ってたんじゃ(アメリカの)上院が通らないっていうこと。だからやっぱりまあ、途上国も何らかの形で参加すべきだ、自主的にという形かもしれないけども、まあ何らかの形で参加すべきだと、こういうことを言い出して。それも割とアメリカは強いと、こういう。そんな中をどうやってこうまとめるかっていうことだったんですけども、実際店を開けてというか、京都が始まってみますと、アメリカが削減できないと言ってたのはですね、実は条件が整えばもっと深く掘るって、深堀りって、目標深堀りっていうんですけど、マイナスに行くことも出来ると言い出したんですね。これは大変なことで、アメリカはそういうことは言わないだろうという見方が強かったんですけども、実はふたを開けてみるとそうでもない。で、具体的になんだっていうとやっぱり吸収源、アメリカの森林に吸収源をちゃんと認め、吸収量を認める(森林を温室効果ガスを吸収するものとして認め、吸収した量を排出量削減とみなすことを認める)。それから排出権取引は制限なしに使わせろと。そういう条件をみんなが「うん」って言うなら、アメリカはマイナスでもいいよと。まあ数値を幾らにするかはまだ最初は言いませんでしたけども、まあ何%かの削減は出来る。それは動き始めたということなので、EUも15は持ち出しですから、最後はもうちょっと少ない数字でもっていうことだったので、これは初めて日米EUの合意が成立する可能性が見えてきたということでしたね。で、それから3極の間で徹夜徹夜徹夜の交渉やりましたけど。

クリントン政権の中で大統領も(ゴア)副大統領も含めてそういうことを考えていたんだと思うんですね。上院がそういう状況ですし、共和党を中心に非常にこう、けん制するっていうのか、警戒して政権の動きを牽制する動きがありましたので、不用意にアメリカが削減の方向にというのは言えないので、京都会議が始まって、ちょっとたつまではおくびにも出さないということで、ゴア副大統領がハイレベル会合に京都に入った、最初の週がほぼ終わった週末に入ってきたんですが、その頃から動き出したんですね。しかも条件付き、だから日本やEUがこの条件をのむのか、のむのであれば話をしてもいいと、こういうことだったんですね。日本は森林吸収源はもう計算に入れないということを言ってたんですね。森林吸収源って計算はなかなか発電所や工場で燃料を燃やすそこから出てくる二酸化炭素を計測するって言うほど正確には測れないので、ちょっと時期がまだ早いですねって、もっと将来いろんな科学が進歩して、森林の吸収量をしっかり把握出来るようになればいいかもしれないけれど、今は早いですっていう立場だったんですけれど。だから2.5%も全部森林吸収源は考えない数値だったんですけれどね。アメリカはいや、それはもう入れるべきだって、入れればアメリカの目標は動かしてもいいとこういうことを言ってきて、考えてみるとですね、最初は我々の交渉レベルではそれほど意識がそんなに強かったわけではないんですが、橋本総理大臣とか官邸の皆さんからすれば、やっぱりこれは細かいテクニカルなことはいろいろあるだろうけれど、最後は京都会議が成功して、京都議定書が採択される、これが日本として最優先だって、それはそうですわね。そういうトップの方の目から見れば。その可能性が見えてきた。日米EUの隔たりがあったのが、埋まる可能性が見えてきた。見えてきたならそれをもちろんそれは簡単には埋まらない、日本にとって何が原因なのかって例えば森林吸収源は考慮しない、そんなのそんなにこだわるんですかって、そのことによって京都会議をあなたがつぶしてもいいのかってこういうことになるとですね、それはやっぱりね、考えざるを得ませんよね。当時森林吸収源は環境庁と林野庁が担当していたんですけれど、まぁ確かにそう言われればその通りというのでじゃあまぁもう一回交渉方針転換して、森林吸収源も考慮するという方向でいきましょうということにしましたね。でも多分環境庁にとってはその程度で済んだんですけれど、恐らく通産省にとってはもっとずっと大変なずっと産業界との間でぎりぎりで煮詰めてきたもので、ガラス細工のように作り上げたものが、もう一見するとがらがらっと崩れかねないような話になってきていると。大騒ぎになったと思うんですけれどね。どんどんその話が進んで最後は首脳間で電話協議もあったりして、先進国全体としてやっぱり5%ぐらいの削減という所に持っていきたいよねっていう話があったようでして、橋本総理大臣もそういうラインでクリントン大統領とかギリスのブレア首相、電話で話されたそうですけれども、最後日本は6%、アメリカは7%、そしてEUは8%削減ということでまとめましょうということになったんですけれど。なかなか通産省の方々がそれを受け入れるっていうのは大変な苦汁の決断をされたんだと思うんですね。でも首相の秘書官もされていた林(洋和)さんって通産省出身の方がね、最終場面ではもう当然総理大臣に対する秘書官ですから、総理大臣のためにっていうことなんで、もう事ここに至ったら、もうこれは通産省の中をまとめるしか無いですよっていうことで京都会議の現場に来られていた次官級の方で通産審議官っていう方ですけれど、その人に電話をして、いろいろ大変だろうけれど、これはあなたがまとめて欲しいとこういうような電話もあったと聞きましたけれど。そんなことで何とかまとまったんですけれどね。そういうことで例えば森林吸収源を考慮するっていうようなことをするとですね、その何パーセントぐらい見込むかによってはその一見すると2.5と最後の6っていうのは大きな差があるように見えるんですけれど、実はそれほどでも無いということなんですけれど、なかなかそこはテクニカルなこともあって、難しいんですよね。一生懸命当時の政府としては産業界に対しても実はそんなに差は無いんですよ。っていうか、ほとんど産業界にお願いしたいことという意味では今までと変わらないんですよっていう説明をしましたけれど、でもやっぱり多くの人、特に産業界の人にとっては、なんだかよく分からないけれど、でもやっぱり2.5と6ってえらい違いじゃないのって、その偉い違いっていうのは結局我々にあとでもっと削減してくれっていうふうに振りかかってくるんじゃないかってそういう受け止め方だったと思うんですね。ですから大変そこは大きな波紋が広がったんじゃないかと思いますし、それは我々環境庁の人間はあまり産業界の方と直接接触する立場にもなかったのですけれど、恐らく通産省のみなさん、関係の皆さんは大変そこで苦労をされたんだと思いますね。

ちょうどタイミングとしては環境省が誕生(2001年1月に環境庁から昇格)したばかりの頃でしたね。川口順子さんが初代の環境大臣ということで、その頃でした。 その頃の少し背景を言いますと、京都会議のあと、京都会議はいわば大枠を固めて合意するのが精一杯ということだったものですから、じゃあその例えば日本6%、EU8%とかそういう目標をどうやって実施をするのかという条件ですね。先ほども言いました、アメリカが要求したのでそれが結果通りましたけれど、森林吸収源を計算の中に入れる(森林が吸収した二酸化炭素量を、温室効果ガス排出量の削減とみなして算入する)ということになりました。日本もそれを前提にしてそれならぎりぎり6%いろいろ懸念する声はあったけれど同意したと。じゃあ6%本当に達成するためには日本が必要だと考えた森林吸収源の吸収量を確保しないといけないですね。そういう交渉が残されていたわけです。アメリカは同じような意味で排出権取引のようなものをアメリカが使いやすいようなそういうルールを作るのを絶対必要としていたわけですね。これは議会を通すのが大変難しいと考えられていたんですが、そういうところを針の穴を通すような感じで、でもわずかな可能性があるとすればそこをしっかりやらないとアメリカの経済に大きな影響が出ると、7%削減をやるとですね。そういうこともあったものですから、そういう交渉も残されていました。EUはそういうものを一応は合意は大枠で京都であったんだけれど、あまりそこを何でもいいよというふうにしてしまったら、環境のために削減するっていうふうにしたのに、抜け穴がいっぱい出来てしまう。環境団体もそれを非常に懸念をし、警戒していましたので、EUとしてもやはりそうゆるゆるの制度にするわけにはいかないというあたりで、ずっと交渉が続いていて。 大統領選挙でゴアさんブッシュさんの大接戦の大統領選挙をやっていた頃に、オランダのハーグでその最終結論を出す会議を開いたんですけれど(気候変動枠組条約第6回締約国会議=COP6。2000年11月)、残念ながら最終的には今一歩のところで合意ができなかったんですね。それが京都の3年後で、COPの6というあれです。それのもう1回そこで最後に残念ながらまとまらないんだけれど、ここで一回時計の針を止めるようなことを議長がやりまして、一回ここで中断をしますと、この会議は。来年の夏にドイツのボンでもう一回やりますと、再開会合というのをやることにした(2001年7月COP6再開会合」)。ちょうどそういう時期だったんですね。結果いろいろありましたけれど、ゴアさんがわずかに足らず、ブッシュさんが大統領になって。しばらくして3月になって、どうやらブッシュさんが京都議定書から出ていくらしいと、ヘーゲルさんという上院議員からの質問に答える形で手紙で返事を書いた、その中にはっきりと出て。そのことが報道をされまして、それで大騒ぎになりました。基本的にはやはり日本の京都という地で生まれた議定書で日本が議長国としてまとめたもので、日本としてもこれは非常に温暖化防止する上で大事な国際的な合意事項ですし、それを皆さんが実施をするというところまで持っていかないといけない。そういう意味で京都議定書実施ルールっていうんでしょうかね、そういうことに向けての国際合意を何としても実現をすると、それが必要だっていうのは多くの方がそれを考えていたと思うんです。同時にやっぱりだけどアメリカが抜けては困ると、アメリカにはぜひ国際協議にもう1回戻ってきてほしいと、今はまだ話合いを続けているところ、ハーグの会合がいったん中断して、もう1回ボンでやることになっていたので、もう1回そこの協議に参加してほしいという、そういうことでしたね。(日本の)国会も衆参全会一致の決議で同じような、アメリカはぜひ京都議定書に参加すべきだと、それから国際合意に向けて日本政府はリーダーシップを発揮して、率先して批准をすべきだというような決議があったんです(2001年4月)。ですからそれで多くの関係者はだいたいそれに同意されていたと思いますし、コンセンサスがあったと思うんですね。その時にね。 ですからいろいろ実は2つのこと、アメリカに働きかけるっていうのとボンの会合に向けて交渉を真剣にやるっていうのは二兎を追うような実なものなんで、難しかったんですけれど、両方をやっぱりやろうとしました。川口大臣以下、私も含めてですね。ヨーロッパはですね、だんだんブッシュ政権の意向が分かって最初は非常にそれは困ると懸念を表明したりしたんですけれど、割と早い段階でアメリカの意図は方針は変わらない、いくら働きかけてもアメリカは京都議定書に戻ることは無いだろうと、いう見極めをつけてですね、そうであるならば、アメリカ抜きで京都議定書発効に向けて進めていくしかないと、その場合に大事なパートナーとして一番大事なパートナーは日本なので、日本とEUが組んで京都議定書のいろんな国際合意を成し遂げて批准し発効というところまで持っていこうということでやったんですが、日本はなかなかそこが割り切れずに、やはりアメリカの参加は大事ということで、これが出ていってしまうということで最終確定しますと、やっぱり経済界を中心に非常に問題が大きすぎるということになるのではないか、そういう懸念が強かったですね。ですからやっぱりアメリカへの働きかけは同時に続けると、こういうことで、当時小泉(純一郎)さんが総理大臣になられて(2001年4月~)、ブッシュさんのところに行ってというようなことで、割と政治家としては2人は気が合ったというふうに言われるんですけれど、首脳レベルでも話し合っていただき、それから川口さんと向こうの閣僚レベルという、ハイレベル協議というのもやると。ボンの会合に行く前に、ワシントンにも行きまして、アメリカ政府の閣僚級の方と話合いをして、ぜひボンの会合にも積極的に参加をして、アメリカの主張はあるでしょうから言ってくださいということも言って、それでボンに行って交渉したということなんですけれどね。 ボンではEUが日本を抱き込みに入っていましたので、日本が一番欲しいのは吸収源の吸収量(ある条件を満たす森林が吸収した二酸化炭素量を、温室効果ガス排出量の削減とみなす。その分量)でしょうということで、EUの中もいろいろあったようなんですが、最終結果は日本の要求満額認めると、こういうことですね。ただEUは日本に吸収源を認めればOKかなと思っていたら、そうではなくて、遵守制度(数値目標が達成できなかった場合、何らかの制裁措置を加える制度)をどうするかっていうこともあったものですから、その調整はちょっとあったんですけれど。川口さんは非常に粘り強く交渉されて、日本の交渉条件をだいたい損なわない形で国際合意が出来たと。国際社会から見れば、もうアメリカが実質的に存在感がほとんど無くなっちゃったもんですから、EU以外だとやっぱり日本になるんですね。だから日本が片方の旗頭になって、それが具体的に人間で言うと誰になるかというと、代表になる川口さんということになるものですから。交渉がだいたいまとまった時に、オランダの大臣が議長で、結果を報告されたという時にだいたい全部が終わったあとっていうのは各国の代表がみんな立ち上がって一言ずつ言うんです。川口さんもやったんですね。いろいろあったけれど、合意が何とか成立して、日本としても喜ばしいというようなことを言ったんですけれど、その時は本当に万雷の拍手でしたね。日本の代表の発言がこんなにみんなから歓迎される、評価されるっていうのは非常に印象深かったですね。ある意味で京都会議を主催して、いろいろあったけれど、何とかまとめたっていうのが最後そういう形で仕事をだいたい一通り仕上げることができたというか、かなりそれに近づいたという瞬間なんでしょうかね。その前になかなかボンの会合はブッシュさんもやめると言ったし、合意は難しいんじゃないかっていう見方も結構ありましたね。EUの中でもそういうことを言う人もいて、確かにそう簡単ではない、かなりむずかしいという感じもありました。もしボンで合意が成立しないと、アメリカは出て行くと言っているし、EUと日本もまとまらないということになると、京都議定書はどうなるか分からなかったと思うんですけれどね。多くの途上国の方も含めて、多くの関係の方々がそういう危機感を持っておられたと思うので、でも結局やってみたら何とか合意が出来たということで、救われたというような意識があったんだと思うんですけれど、その立役者という意味だったんでしょうね川口さんの発言に対して皆さん立ち上がってスタンディングオベーションっていうんですかね。そういうことがありましたね。

Q:京都議定書、京都会議でいろいろ各国が話し合ったということは今顧みて一定の意義があると、当然思ってらっしゃると思いますが、いちばんそこらへんのポイント、今日的にも通ずる意味合いはどの辺だと思われていらっしゃいますか?

二つ大きく言うとあると思うんですね。やはりこの気候変動といいますか、温暖化に対する国際的に協調した取り組み、こういうのも一つの枠組みとか制度っていうふうに考えれば、そういうものが進化をしていく、その中で非常に重要な役割を果たしたっていうのが一点だと思います。もう一点は先進国、特に日本とかEUですが京都議定書が動き出したことによって、国内で省エネ、それから再生可能エネルギーの推進であるとか、そういうところを中心にした温暖化対策の法制度とかあるいはいろいろな仕組みですね、経済的な仕組み、税とか排出権取引とかも含めてですが、そういう取り組みが進んだということ、この2点だと思うんです。前者については少し具体的に言いますと、京都議定書が結局ロシアも入って発効して(2004年にロシアが批准。翌年議定書は発効した)動き出した、そのことがバリ会議(2007年COP13)のバリ合意につながる重要なきっかけになったわけです。バリ会議では先進国だけじゃなくて途上国も含めて対策を強化をするということが初めて途上国も受け入れたんですね。京都会議に向けては全然途上国は先進国がまず先に行く必要があるんだと、自分たちは今まで決まったことをやるんですということで、自分たちの取り組み強化は一切受け付けなかったんですけども、初めてそこで受け入れたと、なぜそういうことになったかと言えば、やはり京都議定書でみんな先進国はアメリカを例外にすれば、対策強化に乗り出したということが明らかだったわけですので、もう途上国としてもそれ以上自分たちはこうだ、嫌だという理屈が無くなったということだと思うんですね。だからそういう役割があったと。逆に言えば京都議定書が無かったら途上国はその段階でも自分たちも強化をするというふうには合意しなかったと思うんですね。それからさらにその先コペンハーゲン(2009年COP15)でもうまくいかなかったんですが、カンクン(2010年COP16)で少し立て直して、最後ダーバン(2011年COP17)で今度のパリ会議(2015年11~12月COP21)につながる、2020年のあとの、ポスト2020年のすべての国が参加する枠組みに向けての検討開始、ここにもつながった、これも京都議定書が無ければあり得なかったことだと思うんですね。ですからそういう意味で非常に重要な役割を果たしたというふうに思います。それから日本の対策について言えば、やっぱり省エネ法改正をしてトップランナー方式(省エネルギー基準を、現在製品化されている最も効率のよい製品以上の水準に決める方式)で自動車、家電商品、これの厳しい省エネ基準を設定をした。こんなことは法的な国際法上の拘束力のある目標を決めた京都議定書が無かったらですね、なぜそんなことを厳しい規制をかけるのかという産業界からの反対があって、なかなか国会でも成立しなかったと思うんですね。でも実際にそういう法改正が(京都会議を受けて1998年に)なされ、厳しい基準が導入され、例えば自動車については2010年基準というのがあったんですけれど、それを5年ぐらい前倒しでメーカーは全部達成をしてしまいまして、結果日本の運輸部門の排出量っていうのは2000年代の半ばぐらいですかね、はじめ頃かな、だいたい頭打ちをして、それからずっとそのあと減っているんですよね。これもそういう強い規制が導入されなかったら実現しなかったでしょうし、さらに言えば京都議定書が無かったらそういうことも無かったろうと思うんですね。それは一つの例ですが、その他に温暖化対策税が導入された(2012年)とかいうこともありましたし、EUではいろんな炭素税であるとか、排出権取引であるとか再生可能エネルギーを大規模に増やしているとか、そういう政策もやっぱり京都議定書があって初めて推進されていると思うんですよね。ですからそういう意味で非常に私は意義があったというふうに思います。ただ、もちろんそれだけで温暖化問題解決するわけではないことは初めから分かっていましたので、これはもう条約の究極的な目的に向かった最初の第一歩ということで必要だと。次の一歩は当然なければいけない。それはもう中国やインドなども入る。もちろんアメリカも入る、そういう仕組みを作らなきゃいけないということは明らかですから、これで全てということは極端に言えば誰も考えていなかったということだったと思うんです。でも最初の第一歩としては大変意味があったものだと思います。

だんだんだんだんいろんな科学の進歩があって、温暖化防止をするために何が必要かということがはっきりしてきたと思うんですけれど、最近の最新のレポート[気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書(2014年)]によれば、今回のドイツでのサミット(2015年/エルマウ・サミット)でも一部ありましたけれど、世界全体で排出量を40から70%減らす必要がある、それは中国やインドも含めてですよね。今世紀半ば以降、後半は排出量をもっと下げてほとんど0かマイナスにまでしなきゃいけないという、そこまで出てきていると。従ってもうこれまでは二酸化炭素のなるべく少ない低炭素社会と言ってきたんですが、最近はもうそれでは十分ではないと、脱炭素と、炭素、つまり化石燃料からもう完全に人類はおさらばをすると、そういうことが必要なんだということにすらなりつつあると、根本的な大転換ですよね。極端に言えば産業革命以来の人類のあり方っていうものを根本的に変えないといけないということになってくるわけです。これは大変なことで、1つはやはり政治家の皆さんはじめ、リーダーの皆さんはもうそういう先行きはそこしか無いんだという腹をくくるということが必要だと思うんですけれど、じゃあそれを現実の問題としてどうやったら実現できるかということになると、政府はもちろん率先して役割を果たす必要はもちろんありますけれども、そこにはやっぱり企業と言いますか、産業界とか市民、それから自治体のようなところもすべてがやはりあるいは地域社会とか、そういうところがこれはもうまったく自分の問題なんだというふうに認識して取り組んでいかないとなかなかできないことだと思うんですよね。それをどうやるかっていうことで大変難しいんですけれど、ただ今年(2015年)私は環境白書見て、一ついい例を出したのかなと思うんですけれど、地域の資源を使ってエネルギーの地産地消をして、例えば地域社会から化石燃料を使うことによって、地域社会の経済のGDPみたいなものですけれど、地域のGNPみたいなね、それの1割ぐらいが流出してしまっていると。最後はそれは例えば化石燃料輸入元、中東とかそういう所に流れていっている。そうではなくて、地域資源を使って地産地消をやればそのお金が地域で回るのではないかということですよね。そういう地方創生のやり方もあるのではないかというのは大変重要な問題提起だと思うんですけれど、そういうことで自分たちの将来、地域社会の将来にも自分たち自身の将来にも大きく関わってくる問題であるという認識をしていただく、あるいはそういうことが温暖化に進んだ場合にいろんなリスクが出てくる影響という形で、それも自分たちに降りかかってくることなんですけれど、それはやはり困るということであれば、それはやっぱり自分のことですけれど、それを避けるためには思い切った行動を取る必要があるんですけれど、そのやり方が今のようなエネルギーの地産地消とか、そういうことを通じて可能かもしれないということになると、自分の問題であり、あるいは自分たちにできることがあるんだということが理解されてくる。そういうことが地域にとって1つあるような気がしますし、企業にとっても同じだと思うんですね。これからのグローバル経済のなかで企業が生き延びていく上で、温暖化というのはどういうリスクをもたらすのかって具体的に理解していただく必要がありますし、政府のみならず、私たちのような研究所もそういう点でちゃんと意味のある情報を提供しないといけないと思うんですね。やはり自分の問題なんだという認識をしていただく、その上でどうしたらいいんだろうかということですよね。そういうことをどんどん進めていかないとこういう根本的な転換というのはなかなか難しいんじゃないかというふうに思いますね。ですからそういう意味でも環境行政にとっても非常に大きな新しい段階に入らないといけない、そういう時期に来ているんじゃないかと思います。

プロフィール

1990年代、世界の大きな課題となったのが地球温暖化。
これに立ち向かうため、1997年に採択された京都議定書は、
経済活動に枠をはめる前例のない取り決めとなった。
京都会議前後の交渉を、当時環境庁の浜中さんは一貫して担当。
ガラス細工のようだった国内調整、想定外続きの会議本番、
会議後も続いた国際交渉の、厳しさを語る。

1944年
東京に生まれる
1967年
東京大学工学部都市工学科卒業
1969年
厚生省入省 環境衛生局公害部公害課に配属される
1971年
発足した環境庁へ
1979年
環境庁企画調整局環境管理課課長補佐など
1986年
環境庁大気保全局企画課交通公害対策室長など
1990年
環境庁企画調整局地球環境部企画課長
1992年
リオの地球サミットに参加
1995年
環境庁企画調整局地球環境部長。以後、COPなど外交交渉を担当官として指揮
1997年
COP3=京都会議 京都議定書採択
2000年
11月 アメリカ大統領選
 
COP6交渉不調で中断
2001年
1月 省庁再編。環境省地球環境局長
 
3月 ブッシュ新大統領、京都議定書不参加表明
 
7月 環境省地球環境審議官
 
COP6再開会合、京都議定書米抜き発効へ向け合意
2002年
日本が京都議定書批准
2004年
退官
 
慶應義塾大学環境情報学部教授
2007年
地球環境戦略研究機関(2012年から公益財団法人)理事長

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