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証言

タイトル 「四日市公害を記録し続け」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 澤井 余志郎さん 収録年月日 2015年5月15日

チャプター

[1] 公害の始まりから裁判まで  06:14
[2] 「公害」という言葉  06:07
[3] 三島市・清水町・沼津市から学ぶ  09:14
[4] 公害裁判で四日市はきれいになった  03:51

再生テキスト

四日市というのは臭い魚の問題がいちばん騒がれましてね。油臭くて売れない。伊勢湾の魚というのは高級魚だってことで、結構東京の魚市場なんかに出荷してたんですよ。それが油臭いから値引きする、戻されるというようなことがあって、それで臭い魚の問題が一躍大変問題になって。それから

ぜんそく、とにかくいちばん、漁業組合のある磯津という町(川を挟んでコンビナートと隣接する地区。漁業を生業とする人々が住む)の中で、何か原因が分からんけどとにかくぜんそくがあると。大体ああいう集落というのはぜんそく持ちの家というのはあそことあそこって大体3軒ぐらい分かってるんですよね。 同じような時刻に、あそこに一軒だけご夫婦でやってる町医者がありましてね、そこにどっと同じ時間帯、夜が多かったですけど、そこへ寄って来るんですよ。変な発作起こした人が。それでお互いに「どうもこれはぜんそくみたいだけれども、お前のところも俺のところもぜんそく持ちの家じゃないのに、なんでこんなぜんそくになったのかなあ」なんていう話がいちばん最初で。 どうも考えてみたら川向こうの化学工場が出来た時からこんな病気が出来たって言うんで、コンビナートへ(抗議に)行くわけですよ。ぜんそくの発作起こした人たちが。そうすると工場のほうは「いやそんな悪い物は出しとらん」と言って。例えば昭和石油に行くと、まず。「ひょっとして隣の発電所かもしれん」と。また三重火力発電所行くんです。 そんなことで(コンビナートの中核企業)6社堂々巡りなんです。お互いに責任は。そんなことでずいぶんその間に、さすがに自殺まではする人はいなかったですけども、ずいぶんひどいぜんそく発作を起こしたので昭和38年に通産省と厚生省の合同調査班が来て。

その調査団がやっぱりこれは公害だということで認定してくれたって言うんですかね。それで勧告をしてくれたんですけども、亜硫酸ガスについては0.25%とかっていうことで依然としてそのままでいいって言うわけですよ。120mの煙突作ればいいって。でも一向に変わらなくて。 結局は、その勧告で良かったのは県立塩浜病院ていうのが磯津のすぐ近くにあるんです。そこにぜんそく患者が多く入院してまして、その塩浜病院に空気清浄病室っていう、二重窓にして天井から活性炭でろ過してきれいな空気を送り込んで、いわば四日市の別世界の病室を作ってくれたんです。そこに重症の患者が、特に磯津の人が多かったんですけれども、そこに入院をするようになったんですがそれでもね、やっぱり夜中すぎ明け方になると発作を起こすんですよ。どうしようもなくて、きれいな、四日市とは別世界の病室なんだけど、それでもやっぱり発作起こしてのたうちまわる、ということで発作止めの注射を打ってもらうという。そんなことがずっと続いておって。 そんなことの中でこれは明らかに工場が来てから。化学工場が来てからこんな病気になったんだから。工場のほうは確かに亜硫酸ガス濃度なんかでも守っておったんですよ規制は。つまりそれだけ規制が緩やかだったってことがあって、これはやっぱり、弁護士さんたちも来るようになりまして、これは裁判で黒白をつけるしかないということで。公害裁判が始まったという。そんな経過だったんですね。

裁判の始まる頃(1967(昭和42)年)でもあんまり「公害」っていうことは言わなかったような気がするんですよ。とにかく工場が原因のなんか悪い物質を出している、そのために病気になったっていう。

Q:それをやがて「公害」って言うようになった。

そうです。だからそうね、裁判が始まった頃にはやっぱり「公害裁判」て言うようになりましたね。

Q:初期には「公害」っていう言葉はまだ。

そうですね。一部では言われていたと思いますけど。市民の間では何かおかしな・・。臭いがいちばん敏感なんですよね。臭いにおいがすると、「これはおかしいおかしい」って言う。当時は音、それから排水、空気の汚れなんかはSO2(二酸化硫黄=亜硫酸ガス)というのは分かりませんから。臭いもないし。早いうちからね、煙突が高くなる、100m以上になる段階で、これで「公害」はなくなったなというふうに市民は思うようになりましたよね。ただね、悪臭がすると、まだ「公害」があると。肝心の亜硫酸ガスについては分かりませんのでね、いちいち行政に問い合わせるわけにもいかないし、そのかわりにある2か所の測定点で、ある一定の濃度を超えると警報、予備(警報)だとか、もっときつい警報だとか、そんなのが出るようになりましてね。やっぱり亜硫酸ガスというのは見えない、臭わないというのでね、大変困りましたよね、そういう意味では。

Q:澤井さんご自身が「公害」という言葉を意識したのは?

やっぱり磯津がいちばん四日市公害の原点の地だと思うんですけども。磯津へ通うようになりましてね、ずいぶん子どもが発作起こしたりなんかしている状況を目の当たりにして、これが「公害」なんだなっていう。それともちろん魚が油臭くて取れなくなったっていうのはもちろんありました。なんでこんな油臭い魚しか取れんのだというそういう思いはあったけど、やっぱり「公害」というのはぜんそくになった人たちを目の前にしてこれが「公害」なんだなと、実感的にはそうでした。数字なんかでは結構ね、いろいろ、でも数字では分からんです。

Q:最初「公害」という言葉はなかったんですか?

変な臭いがする、変な魚が取れる、という言い表し方ですよね。宮本さん(宮本憲一さん。社会科学者(環境経済学))なんかが四日市調査(1962年が最初)で来るようになってからですよね。『恐るべき公害』(1964年刊)とかああいう本が出るようになって、ああ、このことを「公害」って言うんだなっていう。

Q:だんだんそれが浸透して。

ええ。さすがに行政の方はあまり「公害」という言葉を使うのはどうも控えていたみたいね。だから昭和40(1965)年の5月から公害病認定制度を作ったんですけど、四日市が国に先駆けて。その時でも一応「公害」という名前は使ってましたけど、「いや、公害かどうか分からん」なんて言ってね、市役所の担当者なんかは言ってましたんでね。やっぱり「公害」というのは嫌ってましたね。

Q:それは何で?

やっぱり「公害」イコール「△(さんかく)」、「×(ばつ)」という、直結するじゃないですか。だから、四日市が繁栄するのは工場が来たから繁栄するんで。工場悪く言うようなことはあまり控えた方がいいというような姿勢ですよね。そうは言っても現にぜんそく患者が出るわけですから。小学生でも出て来るので。特異体質だとかなんかそんなことも一方で言ってましたけども、やっぱり「公害」ということが隠せなくなった。そんなことじゃなかったですかね。

(三島市・清水町・沼津市の人々が四日市へ視察に)来られた頃にはね、バスでね、来られるんですよ。夜なんか来られて朝から見てね、一日見て帰るってことでね、ずいぶん熱心な人たちだなぁなんて。その頃はまだね、三島の工業高等学校の先生たち(四日市視察は工業高校の教師が中心になって行われた)は知らなかったんですよ。こちらの四日市の工業高等学校の先生たちが知り合いになって、一緒に行こうって言うから、それで沼津まで行ったっていう。

これですね。西岡さん(西岡昭夫さん。当時沼津工業高校教諭。視察した四日市の実情を「学習会」を繰り返して伝えるなど、地元の三島市・清水町・沼津市の住民運動の中心となった)のお家に行った時の写真です。沼津工業高校で一緒に運動された、もう一人の先生も呼んで来ていただいて、2人に当時の写真なんかを見ながら説明をしてもらったっていう。これがその頃三島・沼津で出した文章ですね。

Q:三島のこと教えていただきたいんですけど、ここに行くっていうことになったのは向こうの運動のことを?

そうです。あれだけ市民を動員して、何千人ていうね。ああいう運動をどうやってできたのかなんていう。もうすぐ、その頃すでに(昭和)42年の7月に提訴するわけですけども、ずいぶん四日市ではね、そういう運動がなかなか起きて来なかったんですよ。だからやっぱりもう一度逆なんですけどね、三島・沼津は四日市に来てあまりにもひどさに驚いて、あんなことになったら大変だってことで運動が栄えたんですけど。四日市の場合はすでに大変な公害患者も出たりして苦しんでる時だったんですよね。だからどうやったらいいかっていうのをもう一度原点に戻って、三島・沼津の先生たちに逆に教えてもらいに行こうっていうことで、四日市の高校の先生と2人で行ったわけで、一晩泊めてもらって2日間びっちりいろいろ当時の写真なんかを見せてもらいながら運動の話を聞いたんです。

Q:それは参考になった?

ええもちろんそうです。そういうのが先ほども言ったように、磯津へ行ってね、磯津の人たちと直接会って。やっぱりこういうのは無くさないかんということを、三島・沼津でこういうことだったって例を言いながら、運動を進めたという。

三島・沼津へ行って大変感激しましたのでね、ただ単に反対反対なんて手上げて言うとったって公害なくなるわけではないということを学んだものですから。何が問題かってことを皆で考えて、そういうのを無くそうという、それを考えようという。

四日市というのは一向に、あんなにたくさん人が集まるということがまあなくてね。あとは労働組合の動員で千人くらいあつまったらもうほやほやで。それが運動になるかって言ったら運動にならなくて。いわゆる集会を消化するってことにはなるけれども、そこで運動を作り出すってことには四日市の場合にはなってなかった。三島・沼津の場合には集会を通してお互いに交流して運動を作っていったっていう、そのことを2人の先生に話を聞きながら、やっぱりそういうことだったのかなって思ったんですけど、四日市はそれがなかったですね。

あの頃は労働組合とか何とかじゃないんですよね、三島・沼津の場合は。それこそ農民の人が農機具を運転しながら来るとかね。何か生活そのものの、生活者の集会っていうんですかね、そんなふうに感じましてね。四日市でそれがあるのかって言ったらまったくない。結局は労働組合とか何かが行事としてやる。運動じゃなくて行事としてやるような。こんなことしてて本当に運動の成果が出るのかなっていうのは、三島・沼津に行っただけにね、逆にそんなことを強く思いましたね。

やっぱりやる気で、たとえ少人数でもいいから本当にやる気のある人がやればそれなりの運動の成果はあるという、そんな思いがあったもんですからね。だから組合の動員とかじゃなくて、己の意志で来てもらうということを心がけた。その頃は磯津の運動まで考えてなかったんですけども、磯津の人たちがそれに気づいてくれて。四日市本土の人たちよりは磯津の人たちのほうが「公害市民学校」(1969年、澤井さんが代表の「公害を記録する会」が開催。磯津の公民館に住民が集った)を利用して、お互いの親近感を深めて、その後「母の会」(1970年に発足した「公害から子どもを守る塩浜母の会」)を作ったり、任意訴訟をやろうという運動を作ってくれたり、ずいぶんいろんな運動を作ってくれましたのでね。それはそれで市民学校やったっていうのはよかったなっていう。

やっぱり母親はね、子どもがかわいいじゃないですか。こんなことでぜんそくで亡くなるっていう事態が起きて来た、それで塩浜小学校ではなかったけども、同じ第二コンビナートの近くの小学校で2人公害病で亡くなってるんですよ。それもショックでね。母親たちが中心で集会を持って、それで公害は絶対なくさないかんというようなことを集会をやってくれたっていう。その頃はもう母親たちが自主的に運動してくれた。それ以前は大体労働組合なんかが中心で、いわゆる動員でやってたけども、そういう子どもが亡くなった時なんかはそうね、母親が進んで自分たちでやってくれて。第二コンビナートの近くの子どもが亡くなった時には雨の日でしたけども、この近くの諏訪公園ていうところで集まって集会をよくやったりなんか、そんなこともありましたね。

公害裁判で勝ったからよくなったんですけども、さすがに判決、昭和47(1972)年の7月ですけども、47年度に三重県が、その頃は四日市は権限ないんですよね、公害発生の。結局三重県がそれ持ってましたから、三重県知事(田中覚)が何とかしなきゃいけない。県は市とか行政は被告にはなってないけれども同じように裁かれていたというふうに思わなきゃ責任を果たせないということで、総量規制、つまりそれまでは各工場の煙突ごとに何パーセントなんていうことで、でもそれが集合して集まればもっとひどくなるわけで。だから総量、四日市の上空に排出される亜硫酸ガスの量をさしあたって三分の一以下にするとかっていう総量規制方式っていうのをやってくれたんです(1972(昭和47)年、三重県公害防止条例で総量規制を導入)。ずいぶん抵抗があったんですけども、三重県知事は断固としてやるということになって、企業のほうもこれだけ行政が、それまではどっちかって言うと行政っていうのはコンビナートのいいなりっていうのかな、そんなのがやっぱりあったと思うんですよ。さすがに三重県知事がね、被告にはなってないけれどもやっぱり我々も裁かれてるんだから、それなりの対策をしなきゃいけないって言って、しかも地方自治体が国の法律以上のことをやったらそれは無効だってことを当時通産大臣の宮沢喜一さん、あの人が国会でそういう答弁してんです。でももうその時はその時だってことで三重県知事と三重県立大学の吉田(克己)教授が2人で、その時は2人で犠牲になろうということで、まあそれは後になって三重県知事から話聞いたんですけどね、そこまで決意をしてやりました。そんなこともあったもんですから、そうね、5年の裁判と判決後3年か4年ぐらいたってから急速に亜硫酸ガスが減ったと。そういう意味であの公害裁判があったから四日市もきれいになった。同じように大気汚染地域で苦しんでるのが日本の中で41地域あったんです。そこもやっぱり公害防止条例を施行するようになって、そこの患者さんたちも救われるようになったっていう、そういう意味で四日市というのは発生も原点だし、救済についても結果的に四日市が原点になったっていう、そんなことがあったんじゃないかなというふうに。これまでの歴史を見るとそんなことが言えるんだろうなって。

プロフィール

四日市の石油科学コンビナートによる公害発生の当初から、
被害者の実状を記録する活動、救済のための活動を続けてきた。
公害を子どもたちに語り継ぐ「語り部」ともなった。
2015年開館の「四日市公害と環境未来館」の設立に携わり、
多くの資料を寄贈した。同年12月に没。

1928年
静岡県に生まれる
1945年
三重県四日市市の紡績工場に勤務
1954年
四日市の地区労働組合協議会に勤務
1962年頃
四日市公害の被害者たちの聞き書きを始める
1968年
「公害を記録する会」を設立
2015年
12月没 享年87

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