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証言

タイトル 「「学習」と「調査」で公害を防いだ」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 西岡 昭夫さん 収録年月日 2015年5月16日

チャプター

[1] この目で見た四日市  07:38
[2] 「学習会」で住民は手をつないだ  09:59
[3] 「鯉のぼり調査」で被害を予測  12:35
[4] 二つの調査団 東京で対面する  07:33

再生テキスト

四日市へ行くっていうのはですね。僕は名古屋大学の教員もやったりしてたもんで、それで名古屋大学の先生たちが四日市の報告書を書いてます。それを見て名古屋大学の先生たちと一緒にね、あちこちへやっぱり歩いてもらった。それで大学の先生たちをまず名古屋で調査隊にして、それでとにかく一晩中車に乗って温度を測ったり、ガスの濃度測ったり、そういうことをやるっていうことをいたしました。

Q:初めて行ってこれを写真機を持ってこの四日市のこれはっていう感じだったんですか?予想通りだったのか、これは思った以上か。

いやその、予想っていうのはね、しちゃいけないですよね、まずね。予想っていうか、想像ができないですから、そんなものはね。ところが行ってみて、次々と現れる現象、例えば

磯津(コンビナートと川をはさんで隣接する地区)っていう漁港がありますね。そこへ行っていろいろ聞いた時に、驚くことを見せてもらったり聞かしてもらった、それは漁船のスクリューがみんな落っこっちゃうって、さびて。それを知らずに漁船を出してって、伊勢湾のどっかに行った時にポロンとあれが落ちちゃって、船が動かなくなって、それこそ死ぬ思いをするっていう、そういう話をね、漁協の漁業長から、組合長からね、お話を聞きました。その組合長はさっそく沼津の方へもお呼びしてね、いろいろな話をしてくれましたけど、よくその辺の事情を話してくれて、沼津もそうなったらそれこそ(大変)だという気が皆さん、特に漁業者のほうではね、もう本当に巻き起こったですね。湧き上がったっていうかな。だから、四日市のああいう、いわば公害の実績っていうことは、四日市の人たちが体悪くしたり死ぬまで、僕がよく四日市行くと、お葬式をやってるところへ出くわすんだけど、みんな「公害でやられました。それで死にました」っていうことを言ってました。その当時ね。それでいかにすさまじいものかっていうことが分かりますね。

(ぜんそくの)子どものために家を、新築したってですよ、磯津の話。で、そこでね、そこの家を訪ねたの、漁業の組合長と一緒に、組合長が連れてってくれたわけ。それで僕はとってもこれはいい機会だと思って行ったら、子どもさんがね、酷いぜんそくを起こしてしまうのは、家の建てつけが悪いからだということですね。それでそこの家で新しい家に建て替えて、戸締りもしっかりする、夜はそれを閉めて寝たと。ところが子どものぜんそくは治るどころかますます悪くなる、言ってました。そういう家だったんですよ。で、そこ行ったら子どももそこにいて、お母さんと子どもといて、僕らをあれしてくれ、迎えてくれたんだけども。その時にですね、これはこちらのミステイクですよね、あの、そこへね、僕と一緒に行った友達で、タバコをのむんですよね。で、家に着いたもんでタバコをピョっと出したの。そうしたら素早くそれを子どもが見つけて、「おじちゃん」って言って・・、「おじちゃんタバコは駄目だ、僕のそばでタバコをのんだら僕死んじゃうよ」って言ってね、大声を出したんですよ。で、これはね、本当にやっぱぜんそくの時の苦しさを表してますよね。ほいでね、お母さんがね、その時になんて言ったかっていうと、「この子は苦しい時には自分の枕を取って、枕をこう抱えて、それで苦しい苦しいって言って、その寝てる布団のとこでね、動き回る」っていうんですよ。それで、「まだ、家を良くしても、そういうことは治らないようで、どうしたらいいでしょうね」って、まあ我々に問いかけてきた。それはタバコをピョッと見せただけでその子が、パアーっと大きな声で言ったこと、いかに子どもさんがね、苦しんでるかっていうことが分かりますね。それで、慌ててタバコそれからも引っ込めたし、その時につくづく感じたんですけども、この、経験っていうのをね、やっぱりもっともっとしなきゃいけないって思った。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

西岡さんは四日市で見聞きしたことを、地域の人を集めて伝えた。 四日市で撮影した写真をスライド上映し、石油化学コンビナートによる公害の実情を話した。

「1万枚、2万枚ぐらい撮ったかな、そのくらい撮りました。目で皆さんに訴えようと。そのことが僕のいちばんの・・お話ししてもね、僕らも見当が付かないんですよ。130メートルの高さの煙突から煙が出るとこうなりますというのは写真撮って見せるしかない。そういうことをやってダーッと学習会というものをやってきたわけですね。」

”学習会”は、三島市・沼津市・清水町の各地で数多く開かれた。 それが、住民による反対運動へとつながっていく。

*****

なかなか住民にね言葉を理解してもらうの難しい。例えばね、“学習会”の中で、僕がね亜硫酸ガスの話をしたんですけど、そしたらすぐに質問が出て、おばあちゃんからね。そして「アリューシャン列島のガスかね」っていう質問が出たと。そういうわけなんですよね。それでみんな誰も笑うわけでもない。それで誰もがやっぱそうしてみるとみんな知らなかったと思います、亜硫酸ガスを。僕ら自身、亜硫酸ガスなんてそう普段ね出てくるもんじゃないし。だからそういう状況で、初めての石油化学コンビナートのなんか国へでも行ったみたいなね。そういう印象をどうしたらいれていくか。例えば工場の中に煙突が40~50本建って。そんなとこありゃしないわけですよ、まだね。50年前っていうのは、日本の国でも。それで見てる人もない。ところがおもしろいことに、おもしろいことって言うかな。そういう話しをしてると中にね、四日市でこうだって僕が言うと、「そうだ、そうだ。」っていうことで、四日市のことを裏付けてくれる人がある。それで「俺は運転手だけどな」って言うんですよ。いろんなもの運んで歩いてるわけね。そうすると運んで歩いてるような物を四日市から持って来たり、持ってったりっていうようなことをやる。「四日市を知ってる」って言うわけだよね。そうしたらもう、その知ってる人が講師になるのがいちばんいいわけね。だからすぐにお部屋の中でそういう人を先生にして、「アンタこれからアンタの番だ」って言って、「四日市の話をして欲しい」。こういうのが”学習会”の雰囲気なんですよね。だから誰でもがしゃべる、あるいはしゃべり出せる。僕の知らないことはどんどんみんなに聞くっていう。そういうことですね。それでだから「”学習会”は、変な話、おもしろいぞ」っていうことになって。今度は”学習会”を次のとこでやろうっていうことに対して、そのうち、聞いた人たちが。その頃電話は結構ボツボツ出て来て。電話をかけてくれたり連絡して、「お前っちもあれを聞きに来なよって。あれはなかなかいいぞ」っていう話しがバーッと広がった。ですからそれがあったから、あっという間にですね、一晩に3回ぐらいそういう“学習会”をやるというね。我々は”学習会”って言ってましたけども。”学習会”をやる。そういうことが起きて来て。これを持って飛び歩いて、飛び歩いていたですね。それでみんな、しかもこんなものでよく写るなっていうことなんですけども。

もうみんな寄り集まってのぞきこむようにこのスライドを。これ模造紙っていう紙に、皆さんも知ってるかもしれません模造紙というね。その模造紙という紙を2枚貼り合わせて。そんなに大きなところボケちゃいますから、こんな小さな。そうするとみんなそこへ集まって来て、みんな溜息が聞こえるぐらいのね距離で勉強会っていうのはやったんですよ。だから勉強会っていうかな。その時に皆さんはどんどんどんどん、これはやんなきゃいけないっていう雰囲気を皆さん自身が、他の人からも受け取るし、みんながもう手をつなぎ出したことは間違いないんですね、こういう”学習会”をやってね。それが僕にはね、3回ぐらいやって家に帰って来てクタクタになって帰って来た時に、ああ、よかったなぁって気持ちになった。

漁師の”学習会”やってる真っ最中に漁師がポーンと立ってね、漁師のとこでやってる”学習会”の時に、その漁師が、「先生質問があるぞ」ってパンと立って、「はいどうぞ」って言ったらですね、彼は何と言うかっていうと、「先生はさっき、夜になると煙は海の方へいっちまうから少しはいいけどなっていうことを言ったな」、って言うから、いや、陸風と海風っていうのがあって、なんていう話の中で、めんどくさい話の中でそれが出たんですよね。そうしたらですね、その漁師は、それで、「先生あんた牛臥に住んでるじゃ」、って言うから、「牛臥だよ」って言ったら、「海岸で夜、海を見たことあるかね」って言うからね、ほらいい気持ちで見てるなっていう話をしてる間に、ハッと思いついた。夜海で仕事してるのは漁師なんです。で、僕はそのことを考えずに、考えずにですよ、「夜はね、風が向こうへガスを持ってっちゃうから、少しはいいですけども」と言ったことが、漁師の人にはたまんなく、「おらあ働いてる夜はガスをこう、帰ってきて寝ようと思えば今度は昼間の風でガスを来る」と。そしたら一日中亜硫酸ガス漬けっていう言葉を使っておった。「おらあ一日中亜硫酸ガス漬けだよ、そんなものに賛成ができるか!」ってね、後ろの方で言うわけですよ。ほいで、やっぱりね、なんていうかな、ちょっとした間ではね、自分たちの経験っていうのはやっぱりそんな自分本位になりますから、そういうことを平気で言っちゃうんですよね。そういうことをだんだんだんだん、自分を改良してくっていうか、これが大事だと思いましたね。で、だから”学習会”の第一歩っていうのは、まず自分をそうやって、どういうふうにしてその現地の人に近づけるかっていうね、そのあれでしたね、行為をね、のように思いました。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

危機感を抱いた政府は、調査団を派遣。ヘリコプターによる気流調査や、模型を使った実験などを実施した。 工場のガスは風によって拡散し、四日市のような被害が発生することは無い、と発表した。

本当に被害は出ないのか。地元にも調査団がつくられた。西岡さんは、地域の気流を自分たちの力で調べることにした。

ひらめいたのは、こいのぼり調査。西岡さんは、教え子に呼びかけ、各地のこいのぼりで、風向と風量を記録してもらった。

この人海戦術が、沼津と三島特有の気流を捉えた。朝夕で複雑に変わる風が、工場のガスを住宅地にとどまらせ、被害を与える可能性が高い、と結論を出した。

*******

生徒に渡した調査票。懐かしいですよね。特にこのシーズンはね。よく書いてくれてある。これをね、何百枚か集まってきて、それをやって地図の上に落とすと、5月の5日の12時にはこいのぼりはどっちの方向むいてたかとかきれいに出て来るんですよ。ちゃんと観察してありましたね。

これはね、数字がありますでしょ、この数字はこことここ見て、北からこうなってて、どっち向きにしっぽが向いてるかっていう数字ね。だから風向ですね。

風向がここに書いてあるでしょ。こいのぼりのなびき方によって風速はどのくらい、風力って言いますがね、それは別に調査票があるんでそれと合わせて見て、このくらいの風力でこのくらいの風向で、それで今風が風速何メートルくらいか分かってくる。だってそれでね、変な話があるんです、裁判にも使うわけですよこういうものをね。そうするとね、そんな風向の、吹き流しで計ったものなんて信用できないなんて言われたことがある。だけどみんな、飛行場もそうですよ。ヘリコプターなんか必ず吹き流しをつけること、それから高速道路もそう。そうでしょう。それはみんな信用できないものかってちゃんと聞いたあと言ったらね、「間違えましたね」って。どうしようもないですよね、そういうことはね、思いつきのようなこと言ってたってだめ。

これはこれの何百枚かある資料の中、この中で5月の5日じゃなかったかな。45年(正しくは昭和39年)の5月5日の12時、ちょうどまさにこいのぼりの真っ最中。その時の風向がこの地域では海から入ってきますね、ほら、海から入ってきた風がここでこう曲がってますね、そしてこう曲がってこっち入って来る、御殿場の方に。だからちゃんと地形の通りに風って動いて。実にこんな広々した範囲をいっぺんに、こういうこと計るっていうのはとても気象庁なんかじゃできないし、これはもうお手の物ですよね、こういうことはね。

工場はこっちの方に作る、海岸じゃなくて。そうすると、ここは箱根山でしょ、この前に山があって、山ですっかり囲まれたこの地域、そのど真ん中に実際製油所が初めは建つ予定だった。だからそういうことですね。煙はたまってくださいって言わんばかり。そこの製油所の煙はもちろんですけど、海岸から吹いてくる風のために海岸に作られた大煙源ていいますね、煙のみなもと、煙源である発電所の煙突からの煙がね、ボーッとガスが全部こう来るわけです。これはね、たまらないし。

Q:そういうことがすごくはっきり。

そうです。これ一枚だけじゃね。これ何枚か、じゃあ5月5日の3時のやつはどうなってるとか、ずーっと時系列的に追ってくとね、追った図だととてもよく分かるんですけどね、その時の変化がね。夕方こっち向きに吹いて海の方へずっとこっちから吹いてくるものもあるわけ。

Q:ガスはたまっちゃうんですか、人の住んでいるところに。

そうですそうです。だから昼間はこっちに来るでしょ、ガスはみんなこう行って、夜はそのガスが一部戻って来て、今度は海風にのって、あるいは陸風で海の方に出て、こんどはこっちの駿河湾の・・さっきの漁師の話はそれですよ・・そこに昼間たまったやつが夜になってダーッとこっちに流れて俺らのとこ来て、俺ら仕事中ずっとそれ吸ってまた家帰ったらこれだってことになる。そういうことがとんと分かって。

こんなすごい調査なんで思い出したかっていうとね、思い出すっていうんじゃないんですよ、天の啓示っていうかな、天が味方してくれたんだよな。非常に5月のこいのぼりがそこに立ってる頃、ひょっとこいのぼり見た時に、お前こんないい風向風速計がここにあるよっていうことを、バッと僕に教えてくれたと思いますね。誰から教わったわけでもないし。自分で苦労して考え出したわけで。やろうという気持ちさえあったから、たちまちそれを現実に、膨大な人件ですね、人の手をわずらわせながら、その膨大な人の手をわずらわせながら、こういうものが出来てくっていうのは一つの住民運動にとっては大変重要なこと。大勢の人に。

Q:高校生がこんな書いてくれた。

そうです、これは高校生ですね。機械科の何年の何組の誰だってこういうことですね。ちょうどこの期間ていうのは、昔休みがありましたからね、50年前、家にいることが多かったから、それでみんなこれをやってくれた。自分がいない時には家のおじいちゃんおばあちゃんにお願いしてくれた。じいちゃんばあちゃんが家にいたですね。いろんな条件が恵まれてたことは事実。

Q:よくやってくれましたね。

実に集まって来た時、これがね、うれしかったですよ、それは。ものすごくうれしかったな、僕は。

400部調査票持ってって生徒に配ってね。

俺もやる俺もやるっていうことで400部で足りなくなったぐらいだったからね。やっぱ生徒たちはやる気あったと思います。元々は工業地帯になってくると、工業高校、特に私が行ったのは、化学工業科っていう、応用化学工業科っていうそういうところでやってましたけどね。だけどそういう子たちは自分たちの就職先がたくさん出来る。にもかかわらず、これやっぱり、という気持ちになったんでしょうね。だから僕はそこがうれしくてね。先生何かあったら俺らに言って来いっていうふうな調子だった。

Q:自分たちの就職先より自分たちの環境を守るっていうことですね。

だったと思います。その気持ちはね。彼らの気持ちはね。それが非常に強かったと。それに。

Q:どんな気持ちだったんですかね。彼らの気持ち。

気持ちはね。それにね、そういう子たちは授業中に勉強したでしょ。いろんな亜硫酸ガスのことについても何にしても。だからそういうものが出来たら今の状態じゃこの辺が大変なことになっちゃうってことを知ってるわけですよ。普通の市民よりはね。だから余計一生懸命。それは彼らは分かってきただけに反対運動を。反対運動って言うよりもね、学校の中ですから、なになに反対っていうわけにいかないんだけども。気持ちの上でそういう協力をやってくれました。うれしかったですね、それがね。それで学校の中でもそうだし、街の中でもそうやってバーッと広がって行くっていう段階で、私は自分の”学習会”の仕事が無限に広がってくようなことになっちゃって。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

政府と地元、二つの調査団は、東京で直に向き合った。この会見の克明な記録が残されている。 模型による実験の信頼度について、地元調査団が質問すると、政府調査団はこう答えた。

「短い期間の調査でですね、信頼度をチェックというふうな実験はできなかったわけでございます」 「現地での実験とのですね、つきあわせが欲しいわけなんです。それは実はないわけなんです」

政府調査団の弁明に、地元調査団は不審を抱いていく。

「あなた方は、あそこの『土地の風』というものをだね、どこからどう吹くということを知らない。」

*****

あれはねえ、何て言うかなあ。会場の中で話がおかしくなっちゃってね。話がおかしくなったっていうのは、相手側の国の調査団の説明する黒川団長(黒川真武)にしてもね、3~4人来てました。それから通産省のお役人。通産省のお役人が時間つぶしの長ったらしいわけの分からないような話をし始めるんで、みんなから叱られるわけですよ、それこそ。「お前と話に来たんじゃない」と、今日は。「先生方を出せ」と。やっと先生方をひっぱり出して。だからそんなことがね、やっぱりあの雰囲気で最初からあったですね。だから相手も誰もそれを説明してくれる人がいない。だから例えばいちばん典型的だったのは、この中郷っていうところから、三島が拒否したために(市民の反対を受け三島市は一早く1964年5月にコンビナート計画撤退を表明)、製油所を沼津に持ってくることになった。その時なんかもね、何て言うかっていうと、簡単なこと言うんですよ。沼津持ってけば海のそばにそれが行くと、それで夜になると風はどうせ陸から吹くんだから、だからそれを、煙を海に持って行ってしまうから、だからいちばん安心だって、たったそんなことを言うんですね。それで聞いてる人たちは怒っちゃって。その海側に集落があるわけ。その集落がみんなかぶることになる、そういうこと言ったら一も二もなく答えもない。

市民として普通の判断で勉強した結果を、どんどん向こうへ申し出れば、絶対に勝てる。そういう気持ちがだんだん僕にも起きて来た。

会場の中でも、さっきそこまでは言わなかったけど、相手の方からね、「これはおかしいですね、私はこんなこと書いた経験もなきゃ、何もこんな覚えはない」ってこと言い出しちゃった、相手の学者が正直にね。そうすると誰が書いたんだこの調査書は。通産省の役人しかないわけですよ。それで、改めてね、書き直したやつをよこすってことになったの。ところがこういう厳しい計画の中で国が調査報告書を間違えてて、また新しい調査員を選んでやらなきゃならないでしょ、そんなことってね、全く意味のないことですよね。でもうそれはチャラになっちゃいましたね。

「あれで学者がつとまるなら学者ほど楽な商売はないな」って話を、いちばん最初に電車に乗って帰ってきたんですけど、そのとき電車の中で大きな声で話をした方がいました。学者ほど楽な商売はない、これで分かると思うんです。

いちばんショックを受けたですね、というのは、ショックを受けた中に大きな言葉っていうのはね、「もう一回新しい報告書を作って出します」ってことを言った時ですよ。報告書で勝負してるわけではないわけですよね。もう何万人何十万人何百万人て人の命がかかってる仕事でしょ。それをね、そういうもう一回報告書をじゃあ作り直しますで済まされてたまるかいってことなんですね、本当にそうです。帰りはにぎやかにそういう話もして来て、もう今日の話、その日はたまたま携帯録音機っていうのを持ってったんです。当時の携帯録音機っていうのは今のパソコンぐらいでっかい、ぐるぐるテープが回って、それを僕がぶら下げて行ったんですけど、それをね、全部一言のあれもないように全部書き出しました。その仕事は大変だったけど、やらなきゃいかんと。いろんなことがあって忙しくて忙しくて、でもやりがいがあった日々ですよね。

プロフィール

三島市・清水町・沼津市にもちあがった石油化学コンビナート計画
(1963年末発表)を受けて、四日市を視察。
見聞きした公害の実態を地域の人に伝える「学習会」を300回以上開く。
また、三島市長の委嘱による調査団の一員として
独自の「鯉のぼり調査」などを実施、工場のガスによる被害を予測した。
幅広い住民運動が展開された結果、コンビナート計画は1964年断念された。
「静岡県の昭和史 反公害の歴史」など共著多数。

1927年
静岡県三島市に生まれる
 
県立沼津中学校卒業 陸軍予科士官学校終戦により中退
1950年
中央気象台付属気象技術官養成所(現気象大学)卒業
1953年
沼津学園に勤務
1955年
県立下田北高校に勤務
1964年
県立沼津工業高校在職中に石油化学コンビナート反対運動に参加
1966年
県立三島北高校に勤務
1987年
県立韮山高校退職
 
この間、名古屋大学医学部、宮城教育大学教育学部、静岡県立厚生保育専門学校の講師として環境・公害・住民運動について講義
 
各地の公害問題についての住民運動に参加
1992年
田尻賞受賞
2004年
日本水大賞環境大臣賞受賞
2015年
10月没 享年88

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