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証言

タイトル 「コンビナートに反対する 住民のエネルギーに驚いた」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 八木 政一さん 収録年月日 2015年5月27日

チャプター

[1] 「良いことずくめの計画」に 待ったがかかった  04:43
[2] 住民の運動が市を動かした  05:28

再生テキスト

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

1963年、静岡県は、三島市・清水町・沼津市にまたがる石油化学コンビナート計画を発表。 それは四日市を上回る規模だった。

静岡県の広報「県民便り」。計画を推奨する言葉が並んだ。 「中小企業も繁栄する」 「人体、農作物に影響はない」 「公害は全く考えられない」 当時、三島市役所につとめていた八木政一さん。 県からおりてきた計画に、三島市も大きな魅力を感じていた。

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県からはもちろんいいことずくめの話があって。

県の話ですと、コンビナートが進出して来てから3年後にはですね、三島・清水町・沼津で2市1町で、人によって言うこと違ったんですけどね、担当部長と知事の言うことと違って、12億から20億ぐらいの税収が入って来ると。2市1町でね。それは魅力ですよね。自治体にとってはね

貧乏な町で、工業地域でありませんから税収少ないですよね。ですから交付税はずっと受けてましたし、地方交付税はね。やっぱりほしいですよね、財源は。

企業が来て固定資産税が、税収が増えるってことはいいことだなあと思ってましたね。ところが市民の中にもなかなか学識のある方がいらっしゃって、ちょっと待ってよ、あんまり喜んでばっかりいられない、何か公害の話なんかを知ってる人もいましてね。その人たちが自費で三重県の四日市の方へバスを仕立ててね。調査に行ったりなんかしましてね。それからその進出予定の三島の南部、ここもそうなんですけど旧中郷地区って

その土地を持ってる人たちが、もう離農、後継者が少ないもんですから、農業やめて土地を売ってお金が入ってくりゃいいなって初め思ってたんですね。だけど、その人たちの中にも有識者っていうか横浜国大のですね、石油化学なんか勉強された方なんかあってね、大きな地主の一人で。「そんな喜んでばっかりいられないよ」って。「みんなで視察に行ってその結果これはえらいことだ」って、「あんなのが来たらえらいことだ」って、そういうことなどが毎日仕事してると情報で入ってくるんですよね。だから市が税収より何より市民のためにならないことじゃないかなって感じ始めたんですね。私だけじゃなくて職員はみんなそうだったと思います。

市町村役場というのは国なんかよりずっと市民のこと考えてますんでね。市民のために仕事するっていう基本姿勢は一番末端にいた我々まで持ってましたからね。これはお金じゃない、何とかやってければですね、市民が亜硫酸ガスで苦しんだり四日市ぜんそくみたいになったり、てのは大変なことだと思いましたね。

むしろ旗立てて、トラクターの小型の、耕運機ってやつですけど、小型のトラクターに皆乗りつけてね。目抜き通りを走ったり、市の庁舎前の広場で反対大会を開いたり。

市民のエネルギーっていうのはすごいと思いましたよその頃。ごく静かな町でしょ。我々も職員でね、なんにも、とにかく市の言うことに反対をする市民なんかなかったですしね。行政って大変やり良いし、住みいい町でしたね。私もここで生まれて育ったもんですから三島人の気風というのは分かりますけどね。穏やかな土地柄だし人柄の住んでる町なんですよ。だからこんな農民がですね、むしろ旗おっ立ててトラクターでもって大騒ぎをするなんてことは、かつてないことですからね、驚きました。

庁舎の2階の窓から見てましたよ。これはえらい勢いだなって。そしたら農民だけでなくて、最終的には医師会も歯科医師会も商工会議所まで独自に、商工会議所は五井(千葉県市原市/石油化学工場などが集中していた)の方に視察に行ったのかな。反対の立場でしたね、見に行ってから。初めはやっぱり商工業の振興を役目とするんだから、賛成のようだったですけどね。

市民が反対運動をしだして、それが全市的な運動になったってことは市の方向を方向づける決定的なことだと思います。

市長が決断するまでがけっこう悩んだと思いますけどね。でも市民のあの動きを見ては、反対せざるを得ないって思いますよ。

(昭和)39年5月23日ですね。その時の反対集会。今文化会館てなってますけど、その当時公会堂って。そこに最後に市長(当時・長谷川泰三市長)来ましてね、反対宣言したんですよね。まとまって反対ということで、その後、企業も進出を断念したんですね。

青年市長なんてケネディさんとあれかな、同い年に市長になったのかな。若くて張りきってましたけどね。やっぱり市の将来的なもちろん財政問題もいろんな将来のこと考えたんでしょうね。5月23日に市長は反対宣言をして。それまではね、一切市長は態度を明らかにしなかったんですよ。職員もそれぞれは勉強してましたけどね、反対だとか賛成だとかっていうのは大っぴらに言えませんでしたよね。

Q:それだけ繊細な問題。

そうですね。市にとっては重大な問題ですもんね。

なんか5月23日前後にはですね、あっ前か。20回ぐらい県から電話が市長のところにあったとかって噂(うわさ)ですけどね。そんなこともありましたね。圧力ですね。

Q:圧力に屈しなかったと。

そういうことですね。それは市長が立派だったってことだと思います。一部には市長初めは賛成だったじゃないかなんて言う人もあるけどね、そんなことはないですよ。職員とすれば市長の動向分かりますんでね。下の者でも。一切賛否を明らかにしてなかったです。報道関係なんか毎日たくさん押しかけて来てましたけどね。小さな庁舎ですから分かるんです動きがね。

Q:それだけ全国から注目も浴びていたということですね。

そうだったんですね。その頃は分かりませんでしたけど。その後、いろんなこんな本みると、静岡県東部とか静岡県の問題じゃなくて全国レベルでもって、いい学習例になったというようなことがいろいろ書かれてますものね。あの(昭和)30年代に市民運動でこれだけまとまったって言うのはあまりなかったんじゃないでしょうか。いろいろ学習しても、あんまり出て来ないですもんね。

Q:市長の判断は正しかった。

そう思います。その当時も思いましたし今もそう思ってます。良かったなあと思ってます。もし四日市のようになってたらここにはずっと住み続けていられなかったかもしれない。

プロフィール

三島市・清水町・沼津市にまたがる石油化学コンビナート計画が静岡県によって発表されたのは1963年末。住民による反対運動が前例の無い規模で盛り上がり、ついに市長が計画反対を表明したのは翌年5月。三島市が大きく揺れた半年間を、行政の内側から見てきた。

1933年
三島市に生まれる
1952年
三島市役所に就職
1954年
日本大学短期大学部商経科卒業
1965年
三島市教育委員会庶務課に所属
 
前年末に発表された石油化学コンビナート計画への住民による反対運動に直面する
1994年
三島市役所を下水道部長として退職
 
シルバー人材センターの事務局長をつとめる

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