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証言

タイトル 「母たちの住民運動」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 山本 保子さん 収録年月日 2015年5月15日

チャプター

[1] 最初は分からなかった「コンビナート」  04:23
[2] 四日市公害の実状を伝え合った  03:53
[3] 草の根の運動が広がった  04:36
[4] 最後の市民大会で演説  01:44
[5] コンビナート反対運動を語り継ぐ  03:09

再生テキスト

Q:(コンビナートの)予定地はどこだったんですか?

ここまで?

Q:ここ。

ここの中郷小学校ギリギリのところまで。予定地。沼津からね、駿河湾からずうーっと。清水町通って。

コンビナートって言われても分かんなかったですからね、だから、パイプラインの大きなものがね、駿河湾に大きな船が着いて、ナフサ(原油の意)を降ろして、そしてここまで予定地で会社がいくつか建って、石油にすると。精製してね。

Q:当時、公害って言葉は知ってたんですか?

公害なんて、使いませんでしたね。あんまりね。公害、公害はね、公害規制基準ができてから、この運動が成功して、公害、国の方ではこれではもう、どこへ持っていってもみんなが反対するということで、国でもって規制基準っていうものを作ったんですよね。公害の規制基準。そのときに初めて公害って言葉を知りました。

Q:どんな気持ちだったんですか。コンビナートが来るっていうのは。

どんな気持ちにもこんな気持ちにも、分からないから、ああそうかねえ、そういうものが来るのかねえ、ただそれだけです。

Q:じゃあ、あんまり不安とか。

そういうのもなかったですねえ。別に、そういうものが来るのかなっていうだけの話でね。で、予定地が、ここ、駿河湾はどっち?こっち?

そっちかな。予定地はここまでですよね。ここまでが予定地でね。それでパイプでつながってね。で、富士石油やなんか、会社が、大きな会社が来て、人材雇用っていうか、働くところが増えるのかなあ、ただそんな具合でした。

Q:じゃあ、地元がにぎやかになるなあー、ぐらいな。

そうですねー、結局ねえ。

Q:決してマイナスなものとは特に思わなかった?

思いませんでしたねえ。分からないから。

Q:ここら辺はどんな景色の場所だったんですか?

細い道路が一本あるだけでね、細い道路。で、うちの主人もお酒が好きだったもんですからね、私ら、前に市営住宅どこ、どの辺が市営住宅なのかしら?私のいた。

Q:あの辺?

あそこだね。こんな細い田んぼ道でね、酔っ払い専用道路なんて。車も通らない、田んぼ道でした。

もう50年も昔ですからね。それこそ、50年も昔は、国の政策に反対するなんてね。とんでもないことだった。なんですよね、結局はね。でやっぱりそうですね、四日市の(公害の)実態が分かってからですね。みなさんが団結したのはね。

実際に、自分たちの目で、(四日市まで視察に)実費で行った人たちは、いわゆる、ここら辺でいう「おったまげちゃった」んです。たまげたんです。あんな会社が来られたら困るという話。気持ちで帰ってきた。私はねえ、子どもが小さかったから、行かなかったです。あの頃、四日市までバスで行くにはね、やっぱり何時間か、何十時間かかったんですよね。だから。行かなかったんですけどね。やっぱ、スライド、撮ってきたスライド見せていただいてね。うわー、大変なものがくるーっていうふうに思いましたねえ。

(四日市に視察に行った人たちが)撮ってきたスライドはね、梅名(山本さんが住んでいた地区)の有志、お母さんたちが自分の親戚やなんかに電話をしてね、「何人でもいいから近所の人集めてくれ」って言って、「分かりました」って言って、5人でも6人でも人が集まるとこ、持って歩いて映して歩きました。三島市内を。

Q:最初関心なかった人もどんどん関心を持っていったんですか?

そうですね、皆スライドみてね。こんなものが来られたら大変だってことで。

四日市へ行って来た方たちのスライドみせていただいてね、これは大変なものが来ると。これは私たちも考えなくちゃならない。(住民説明会に)会社の方がみえて、説明なすった時に、議長がね、(コンビナート建設の)賛成派だったです。議長やった方が。だから反対をする人指さなかったんですよね。自分のこと言うのもおかしいですけどね、「私今お話伺っててね、四日市は機械が古いからああいう公害が起きてる、公害って・・ああいうことが起きてるけれども、今は新しい機械だからね、(三島市・清水町・沼津市の新しいコンビナートに公害の心配は)ないって言うんだったら、四日市の人たちの悩みを救うために機械を入れ替えなさい、四日市の。あれだけのものがこれだけになりましたと、私たちに見せて下さい、そうすれば私たちもまた考えます」と言ったですよ。そしたら会社の人たち3人ばかりいましたね。そしたら、バタバタと寄り集まってね、その「四日市の公害をなくす、公害っていうか四日市のぜんそくやなんかの人たちをなくすには、四日市全体をどっかに持っていかなけりゃならないと。到底そんなことはできません」。そういう答えでした。それで私たちもいくら新しい機械だって言ったって一度できたものはどうかなと、私はそう思いましたね。なかなかこの道路だって一方通行に一度なったら、もう永久的な面があるでしょ。そういうふうに一度出来たものはなかなかやめたって言ったってね、そういうわけにいかないと。私も50年も昔の話ですからね、あれですけど、そのことだけはやっぱり覚えてます。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

三島や沼津では農民、漁師、商店主、主婦らが立場を越えて集結。コンビナート反対を訴えて、市内を行進した。

時には、国会やコンビナート進出企業へ、陳情に出向いた。

*****

Q:ここの小学校にはお子さんが通ってた?

ええ。そうですそうです。ただ、(コンビナート建設計画の時は)娘は幼稚園でしたね。まだね。幼稚園。

Q:学校のすぐ脇だってのは気になりました?

なりましたねえ。子どもたちがねえ、マスクをしてねえ、学校通わなきゃなんないとかねえ。小児ぜんそくになるとかねえ。そういうようなことがあってはならないっていう、ほんとに親心でしたねえ。

Q:敷地内の、ほんとにここは隣接ですねえ。この小学校は。

そうですね。ええ。

Q:やっぱり運動の時には、いつも子どものことが頭に?

そうです。お母さんたち、みんなそうでしたと思いますよ。自分の、私利私欲じゃなくてね。私利私欲だったら、そういう会社が来て、働けるーって喜びますよね。別にそうじゃなくてねえー、やっぱり。四日市ぜんそくみたいなことが繰り返されてはならないということで、子どもたちを守ろうと、そういう気持ちが強かったと思います。

お金はもちろんどこからも出ないもんですからね、街頭へ立って募金運動。たすき掛けで。昔、かっぽう着ってご存知ですか。かっぽう着を着てたすき掛けをして。街頭へ立って募金運動してね。一軒一軒あれしたら、なかには「あんたたちはばかだよ」って言われたなんて店もありましてね。「あそこの店で物を買うな」なんて言うような話もね、今考えれば笑い話ですけどね、ありました。

亡くなられた赤地さんとか。梅名の美容院やってらした。中島の青木梅子さん、あの方たちが非常に現地見て来て熱心でね。赤地さんなんて本当に「大変だ大変だ」って言ってもう、私のところなんて何回自転車で飛んで来て、「山本さん!」なんて引っ張り出されたか分からないですよ。というのはお客さん来ていろんな話聞くでしょ。「清水町の人は土地売ったってよ」とかね。そんなことをね、情報が入ると大変だ、清水町の町長の家まで押しかけてきました、歩いて。梅名から。そしたら奥さんが出て来ましてね、「町長今不在です」って。出て来たんですけどそれが(町長夫人が)私の小学校の時の教わった先生でしてね。私は先生に顔見られないように一番後ろの方にいたんですよ、そしたらね、警察が来ましてね、何人か。私後ろの方にいたら、警察の方がね、私にそっと「頑張って下さい」って、そう言われたこといまだに忘れません。だからやっぱりね、そういうものが来られちゃ困ると思う方もいっぱいいたじゃないですか。

だから結局原点は、政治家が先頭に立って旗を振らなかったこと、運動の成功はね。やっぱり草の根、住民、本当にお母さんたちの子どもを守ろうっていう熱い気持ちの住民運動だったじゃないかと私は思います。それで成功しただと思います。

Q:組織とかじゃなくて普通の。

お母さんたち。組織なんてなかったですね。さっきも言ったように組織とか政治家が先頭に立って旗を振ればみんなついて行かなかったと思います。自然にわき上がった、お母さんたちの思いがね、やっぱり大きな力だったんじゃないですか。

私、最後の市民大会ね、公会堂でね、やった時に、私なんか嫌だって言ったんですけどね。地元代表でもってどなたかっていうことで、婦人会代表だなんだっていろんな代表者ね、その時に即席でね、原稿を書いてね、私たちが花壇を整備してね、それで学校の清掃をしたりなんかしている学校のすぐ脇にこういう企業が来る、と。ここに通う子どもたちが、ぜんそくや何かにならないようにマスクをかけて学校へ通ったり、授業を受けたりすることには耐えられないと。そういう演説をやった覚えがあります。

Q:それは自分の気持ちですね。

そうそうそうそう。それで、即席でしたからねえ。大して長い演説、話はできなかったですけどね。みんなお母さんたち、田舎の人なもんで、やだやだって言って引っこんじゃってね。結局私が立つことになって。それで降りて来たら、お母さんたちがみんな泣いてました。やっぱ母親ですねえ。

Q:これが予定地の、計画の?

そうです、一応計画。富士石油、住友化学、東京電力。パイプラインでずっと

運んできて。駿河湾ていうのは日本の周りの海でもいちばん深いですね。

だから大きな船が入るのに天然の良港です。

Q:この紙は何に使ったんですか?

コンビナート問題が一段落して、あちこちで来てくれっていう話がありましてね。もう一緒にやった方もだいぶ亡くなりましたけどね。こういうもの作ってあればいちばん説明しいいじゃないかと。皆さんも一目瞭然でね、分かるじゃないかと思いましてね。もう亡くなったですけどね、学校の先生をやってた方に書いてもらったです。相当使いました、これ。

小学校にも呼ばれてね、子どもさんにも説明したりね。学校関係ね。あと何て言うのかしら、いろんな場所でこれを広げてね、これがいちばん分かりやすいんです。住友化学、富士石油ね、東京電力、パイプラインて言っても、コンビナートと言っても、どういうものか知らないんです。私たちも最初分からなくて。だけどこういうパイプでもってこうして運んで、土地を縦断して。

そういうものだっていうことの、これだったら割合に説明がつくじゃないかと思いますしね。

親の思いは、皆さんもね、親御さんがいらっしゃるでしょうからね。親っていうものは強いですね。子どものためなら。そういうことです。でも今になって考えてみたら、50年も昔の話でね。反対運動が成功してよかったと思います。私たちがやったことも無駄にはならないと。で、国も立ち上がって、ねえ。公害規制基準を作ってくれましたからねえ。今はそういう問題が起きませんでした。起きなくなりましたけどね。それは私たちがやっぱり闘ったおかげだと、自負しています。

プロフィール

1963(昭和38)年に静岡県が発表した三島市・清水町・沼津市
にまたがる石油化学コンビナートの建設計画。
三島市の主婦山本さんの家は、予定地に隣接していた。
当時コンビナートによる公害が発生し始めていた四日市を、
住民たちは視察。見聞きしたものを共有するところから計画反対の
住民運動が始まる。5歳の娘をかかえながら運動した山本さん。
現在もその体験を若い世代に語り継いでいる。

1933年
静岡県沼津市に生まれる
1956年
結婚して三島市に住む
1959年
長女を出産
1963年
三島市・清水町・沼津市にまたがる石油化学コンビナート計画が発表される
1964年
長女を育てながら母親たちによる反対運動を展開 計画は断念された

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