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証言

タイトル 「日本は「公害先進国」から 「環境先進国」になった」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 古川 貞二郎さん 収録年月日 2015年6月8日

チャプター

[1] 14省庁が激しく議論  05:15
[2] 「(経済)調和条項」は妥協の産物だった  04:43
[3] 転機となった1970年5月、6月  06:52
[4] 青天のへきれきだった「公害対策本部」出向  07:05
[5] 「調和条項」外しは政治的判断  02:36
[6] 「公害先進国」から「公害規制先進国」へ  06:19
[7] 「大車輪の仕事」で発足した環境庁  05:52
[8] 「月光仮面」と呼ばれた環境庁長官  04:23
[9] 京都会議(気候変動枠組条約第3回締約国会議)を支える  05:25
[10] 日本は環境先進国になった  03:51
[11] 日本は環境行政のリーダー国をめざせ  03:11

再生テキスト

(警察庁と北海道警察本部に2年間出向したのち)私昭和43(1968)年の3月に北海道の警察の防犯少年課長から厚生省の公害課の補佐で帰ってきたんですね。その当時は公害問題っていうのが日本の行政にそって、最大だと言ってもいいくらいの大きな問題で昭和30年代からの工場立地とか大規模の工場立地、あるいは工業地帯と住居地域の混在みたいな中で健康被害っていうのかトラブルが非常に全国的に出現していた。こういう時代であって、厚生省は健康被害、それから大気についての指導は通産省とかね、そういうふうに各省庁がバラバラ、私の記憶する限りでは公害関係法の関係省庁が14省庁あって14省庁連絡会議っていうのがよく開いておりましたが、そういうふうに各行政もバラバラ、経済力もまだ国際競争力も弱い、一方では健康被害、そういう狭間の中でまだ模索している。その段階で。その当時としては象徴的な言葉としては当時は「公害の先進国」、今は「公害規制の先進国」、全く違ったんですが、その頃は「公害の先進国」ということで大きないろいろな各地でコンビナートとかそういったところで起きていましたね、そういう問題。それに対してどういうふうに取り組むのかっていうのが諤々(がくがく)の議論をしていた。その最中に僕は北海道の課長から、防犯少年課長から公害課の補佐に帰ってきたと、そういうことですね。 ちょっと誤解があってはいけないけれども、経済官庁、通産省はじめとしてそういうことだって健康とか環境とかそういったことについて配慮がないわけではない、しかしながら国際競争力が非常に昭和40年代のはじめ、39年代から40年代高度経済成長とは言いながら、まだ日本の国際競争力が非常に弱いのでやはり公害の健康被害っていうことばっかりを言っていたら、蓄積した資本が再投資できないと。後ろ向きの大気汚染とか、水質汚濁ということにふりむける、これを『外部不経済』と言っていましたけれども、そういうことばっかり言っていたのでは、日本が経済の成長に立ち後れると。それのことはひいてはですね、社会保障とか社会福祉とかそういう面にも影響するんではないかと。私は言われたことがありますよ。「古川さんは、その公害公害っていうことで頑張るけれども、日本から浮浪者がいなくなったじゃありませんか」とかそういう全く無理解で対立していたわけではない。どっちも理解はしているけれども、どっちをより重視していくのかという立場立場ですからね、そういうことでの諤々(がくがく)の議論だったと思いますね。

(公害課課長で「ミスター公害」と呼ばれた)橋本道夫さんは、阪大の医学部を出たドクターでしてね、私は一言で言うと日本の公害行政のほんとに草分けであり大きな発展の原動力になった人だと思いますね。あの頃は朝役所に来ますとね、橋本さんは一番先に課長が来て、タイプを打っていましたね。そして私たちの机の上には、そのテーマね、今日やるべきテーマみたいなものが、ずっとのっているとかね、そういう状況があったり、あるいは鉄鋼連盟とか経団連とかいろいろ疑問、排ガス問題でいろいろ亜硫酸ガスとかで、そういったことで議論している疑問があるというならばということで、どこででも出かけて行って、1人で、時には私が付いて行くこともありましたけれど、そういったことでひるまず頑張っていましたね。ですから公害行政の私はやっぱり行政の先駆者だと思いますね。功労者だと思いますね。上司でしたけどそう思います。ものすごいエネルギーの塊みたいな人でしたね。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

深刻な公害問題に対応を迫られた国は、1966年の末に、公害対策基本法に取り組むことになった。

厚生省が作った試案。 法案の目的を、次のように記した。 「国民の健康、生活環境及び財産を公害から保護」

しかし、この厚生省案に、反対意見が出されていく。 経済企画庁、通産省、運輸省からの意見には、「経済発展との調和の考え方を取り入れるべき」とあった。経済の発展を阻害しないことを重視していた。

経団連も、通産省などと歩調を合わせた。要望書で、厚生省試案を、「産業界として多大の不安を禁じ得ない」と批判。 経済の発展との調和を、強調した。

1967年、公害対策基本法が成立した。

第一条に、厚生省の試案にあった「国民の健康を保護する」ことがうたわれた。

しかし、通産省・経団連などが主張した「経済の健全な発展との調和が図られるようにする」という文言、いわゆる「経済調和条項」が付け加えられた。

*****

私は公害対策基本法の制定は、私が赴任する1年前(1967年)ですから関わっておりませんけれども、やはり公害対策基本法の中のやはり経済との調和という国民生活健康そういったものと経済の健全な発展との調和をはかれという条項があってですね、そのことについては制定の時もかなり議論があったように聞きますけれども、その後もそれはくすぶっていましたね。経済との調和条項っていうのはおかしいと、外すべきだという議論はありましたね。

Q:調和条項を外そうっていう声は主にどの辺りから?

それはもう当初から厚生省関係もそうだし、それから政党の中にもそういった健康というのかそういったことを重視する政党、あるいは与党の中にもそういう声があったと思いますね。ただそれはやはり日本がまだ本当に経済発展の緒についたばかりですので、あまりにも経済の発展を無視して議論されるのは困ると。川崎とか四日市とかそういったところ、コンビナート、あるいは水島とか、いろいろなコンビナートがありましたからね。そういった声があったと思います。しかしそれに対してはやはり厚生省あるいはそういった被害といったらおかしいけど国民の、私から言わせれば良識があるような立場の人からはそういった調和条項というのはやはりおかしいのではないかと。やはり健康とかそういったものは第一義的に考えるべきではないかと。こういう筋論みたいなものがあったと思いますね。あるいは妥協だと思います。基本法の時の調和条項が設けられたのは。

Q:妥協っていうのは成立させるためにどこかで?

と思いますね。ですから、後で話が出てくると思うんだけれども公害対策、私も公害対策本部(1970年設置。内閣直属の組織)に出向するわけですが、公害対策本部の大きな仕事のひとつが公害対策基本法の調和条項を削除するということで、そこで公害国会(1970年11月から12月の特別国会)でそれが実現すると、こういうことになるんですね。

非常に公害問題が、問題として議論されたのが確か昭和45(1970)年の5月、6月頃だと思います。これは衆参、衆議院参議院で公害特別委員会っていうのがあってそこで激しい議論があって、特に衆議院では公害の特別決議がなされる(5月の衆議院産業公害対策特別委員会で、「公害対策の一層の推進を図る」とする決議を採択した)ということで、やっぱり公害の弊害っていうのが国民の間にだんだん浸透していきましてね、やっぱり内閣としてもそれを無視できないと。こういうふうなことになって、これは佐藤さん(佐藤栄作首相。1964~72年在任)の肝いりで公害対策本部も(同年7月に)できるんですけれども、本当にそれのいわば転機になったのは昭和45年の春だと思いますね、5月6月かな。そこのし烈な公害国会での議論、それは国民の世論というか、そういったものを背景とした激しい議論の中から佐藤さんの頭の中には、やはり公害をきちっと対応しなければこれは国の本当の健全な発展はないんだと、こういう強い気持ちと、それともうひとつは公害行政が非常に各省バラバラでしょう。バラバラっていうのはよくないと。これを一元化しなきゃいかんと。なかんずく、いろいろな記録を見ていますと、っていうか記憶でたどれば、佐藤さんは研究所というのを数値が各省庁から出てくる数値がいろいろ違うと。これはおかしいと。その研究の部門を公害というのは科学的な対応が必要だということで、研究部門を統一した機関が必要じゃないかと。そんな気持ちが非常に佐藤さんの頭の中には私は強くなっていったと思います。

本当に強く意識されたのは45年になってからじゃないでしょうか。これは推測ですけれども。45年の5月、6月の国会が非常にし烈な議論あるいは特別決議などが行なわれていると思いますよ。

(5月6月の)国会で衆参両院の公害対策委員会を中心として、野党が政府与党を追い込んで行くわけですね。これは佐藤内閣の末期で、この佐藤たたき、7年おやりになったから政治的に佐藤たたきということで公害が非常に激しくなってくる、それは無策じゃないかみたいに、佐藤たたきにも使われてくる。そういう状況があるわけなんですよね。その頂点が昭和45年の5月から6月頃にかけての衆参両院、特に衆議院の、産公特、産業公害特別委員会、それの質疑と委員会決議ということになってくるわけだと、こう言ってるわけですね。この決議の中では5月のほうの決議だったと思うけど、従来の公害規制の強化ということだけではどうしても事態がおさまらないと。規制では。そこで税制とか、金融等の特別措置をこうじて設備投資を許可していく。そういうことが必要ではないか。そういう整備ということが必要ではないかというような意見が出て、併せてここに政府に対して行政機関の整備ということを、正式に決議の中で迫ってくるそういう状況がでてきた。これが公害対策本部を設置する直接のきっかけになっているのではないかということで、それを受けて昭和45年の7月31日に急きょ総理の決断ということで、公害対策本部の設置が閣議決定をされたと、こういうことですよね。ですから、突き詰めて言えば、5月、6月の公害のいろいろな問題を背景とした野党からの激しい攻撃、それは佐藤内閣を揺さぶる攻撃にもなる。政治的な意味のね、公害だけでない。そういうことの中で佐藤さんは非常に危機感を感じたと思うんですね。そういう意味で急きょ規制だけではない。今までは規制を中心にやっていた。規制をすることによって公害を防除。そうじゃなくて、もっと税制とか何かひっくるめて産業投資、公害投資なんかの面も、公害投資なんてことはないんだけど、産業投資が公害にどういうふうに影響するか、そういったことを含めた対応をする。あるいは公害投資に対して税制上の優遇措置をやるとか思い切った措置をやるみたいな総合的な公害対策を打ち出すと。合わせて公害行政を一元化するような行政機関を作らなければ、やっぱりもぐらたたきみたいな話になってくる。そういうふうな意識に佐藤さんがかわって、急きょ公害対策法も作るというふうな話になったんじゃないかという当時の関係者の意見なんです。私も何が佐藤さん変わったかというのは、よく分からない面もあったけれどもたぶんそういうことの、政治家ですから。状況じゃないですか。

ポイントだと思うのはそういう国会の攻勢ですよ。国会の攻勢、その国会の攻勢っていうのは、世論のバックアップに支えられた国会の攻勢。それが公害に対する攻め手だけじゃなくて、佐藤内閣自体をゆさぶる。どうしても政権の末期というのはいろいろな問題おきますから(佐藤政権は1964年から1972年まで)。揺さぶることになってそれに対する大きな危機感で、佐藤さんが急きょ一元的な公害行政やるっちゅういわば大胆な当時としては大胆な政策を打ち出すことになったのではないかとそう思いますけどね。

Q:このままだと内閣がもたない?

内閣ももたないしね。そういうことです。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

駿河湾の田子の浦。万葉の歌にも詠まれたこの海も、今はヘドロが浮かぶ汚れた海になっています。海の自然までも破壊してしまいました。 漁民のひく網からは背びれや尾びれのとけた魚がとれました。

一方都会では、激増する交通事故と共に、自動車の排気ガスが自動車の排気ガスが恐ろしい公害としてクローズアップされました。すり鉢の底のような東京新宿の柳町交差点。車の排気ガスを吸い続 けている地元の人たちの血液に、普通より鉛が多く含まれているという検診の結果が5月下旬、民間の医師団から発表され、都会に住む人に不安を与えました。

公害問題が大きく報道される中、ときの佐藤栄作首相は、その対策に本腰を入れて取り組むことになる。

この年の7月。佐藤は、内閣に直属する「公害対策本部」を設置した。本部長は首相自身がつとめた。 公害対策本部に各省庁から24人のメンバーが集められた。 厚生省の古川貞二郎さんもそのひとりだった。

*****

青天の霹靂(へきれき)で私は公害を2年ほどやってそれから国民健康保険の標準保険料をやれっていうので、そこから引っ張られてそっちに行ってたんですが(公害課から保険局の国民健康保険課へ異動)、急きょまた公害対策本部に行けという話なんですね。それで私は当時の課長に標準保険料をやるということだったんじゃないかと食ってかかったくらいだったけども、これはもう天の声だと。要するに、各省庁から内閣に佐藤総理の肝いりで公害対策本部、一元的に公害行政をするいわば基盤のようなものをやるのだと、こういうことですから厚生省もおそらく公害の一番の先人、一番の責任だと思っていた厚生省ですから、やはりそれには力を入れていかなきゃいかんというんで、当時の公害部長だった城戸(謙次)さん、それから課長級では須田(秀雄)さんっていう方と、それから課長補佐級では私と、五十嵐(衛)というドクターと、4人が公害対策本部に行くと。こういうことになったんですよね。ほんとの急きょ、青天の霹靂(へきれき)でしたね。 ただ公害対策本部は私は振り返ってみると7月31日かに発足して半年くらいの間に14法案を仕上げた(11月~12月の「公害国会」で、公害関連14法案可決)、もちろんこれは公害対策本部自身がというよりも、各省庁のはっぱ役みたいなこととか、あるいは私自身は事業費事業者負担法、公害(防止)事業費事業者負担法みたいな新規立法を担当しましたから、新規にもやりましたけれども、各省庁の司令塔みたいなあるいははっぱ役、推進役みたいな役割で公害対策は夜も日もなく頑張りましたね。だいたい帰るのは1時2時でしたね。

Q:本部は官邸の中に作られた?

官邸というか、総理府の講堂にありましたね。佐藤栄作総理が本部長ですが、副本部長として山中貞則(総務長官)この方は素晴らしい政策通の方で法律にも詳しい方で、やっぱりこの人が副本部長でいわば国会の公害国会の先頭に立ったことはよかったと思いますがね。そこの下に厚生省から出身の城戸謙次という人が事務局長、それから大蔵省から植松(守雄)さんという審議官、それから農水省から米の技術官の遠藤(寛二)さんっていう方この人が審議官、この後に課長級が12~13人、それから課長補佐級が12~13人。あと主務ということで24~25人の体制だったと思いますけれども、総理府の講堂におりましたよ。だから夏でも涼しいどころか寒いくらい、冷房がききすぎちゃってね。人数が少ないから。講堂ですから。非常に今考えると懐かしいですね。

Q:急ごしらえだからいろいろ・・

これはね、もうほんとに鉛筆削りもない鉛筆もないような状況で鉛筆をいちいち僕が国会答弁を書くときは、女の子に鉛筆を削ってもらったりね、よその課に行って。答弁用紙もないからもらってきたり、それからいちばん困ったのは夜1時2時まで仕事をするとタクシー代がないんですよ。新しいところですから。それですから、私の部下のもう結婚している丸山君なんていうのは埼玉県から通っていましたから、そこまで行かれるとタクシー代がいっぺんになくなるから私の家にそれを連れて行ったりして、うちで泊めたりしてそんな苦労話はありましたね。ただ非常に意気盛んでチームワークは良かったですね。それと私は後々官房副長官になったとき(1995年~2003年)に参考にしたんだけれども、縦割り的な壁がない。光化学スモッグだったらスモッグを中心とする人がばっと集まる。田子の浦のヘドロだったらそれ集まるというふうな、項目項目によって、そこの得手の人たちが集まったチームを作って対応するという極めて小さな組織だったかもしれませんが、機動的な、非常に私はそういう行政の見本みたいな機能をもった部署だったとこう思いますね。今振り返って。今でも当時の人たちと仲良くしていますけれども、それくらい同じ釜の飯を食ったという、全然省庁違うんですけれどもね、そんな感じがいたしますね。

それはもう総理というか総理の姿勢じゃないでしょうか。つまり基本法の中に調和条項(環境保全と経済発展の調和を図るとする条項)が入ったときから、その時から議論がされてて、その後もずっと蒸し返されてきているわけなんで。やはり公害を世界にでも向かってでも、きちっとした日本が公害対策やるという以上は、そういう条項があったら支障になるというやっぱり政治的な判断があったんじゃないでしょうか。ですから外すか外さないかという諤々(がくがく)の議論を公害対策本部の中でするというよりも、私の記憶だともうそういう方向に走っていたような気がしますね。それは総理の姿勢、あるいは山中さんの姿勢ということじゃないでしょうか。

Q:そこら辺ははっきり?

私はそう思いますね。というのはあまり事務局の中で、もちろん議論はしましたけれども、本当に、例えば議論するときは、私北海道から帰ってきた時にね、5日目くらいにもう厚生省の担当補佐として説明をしろと言われて説明をしかけたら、ある省の補佐が立ち上がって、「厚生省そんな説明するなら俺は帰る」とか言ってね。私も立ち上がって、「何言うか」みたいな、私のような温厚な人間でもさ、それくらいに、いわば、し烈な議論を、それは個人の問題じゃないですよ。それぞれの立場の議論でしていたわけですから、そういうことから考えると調和条項の外す外さないっていうのは大問題ですから諤々(がくがく)の議論があったはずなんだけれども、もう方向としては私はそういう方向であったんじゃないかと、私も補佐でしたからあまり深部のことは分かりませんけれども、たぶん総理の強い姿勢というのがそこに各省庁のいわばリーダーシップというのか、リードをしていったと思いますし、世の中がそういう方向できていましたから、経済官庁といえども産業界といえども、もうそれはそれでということじゃなかったんだろうか、これちょっと私の推測ですが。

「日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」 第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

1970年11月、臨時国会が召集された。のちに「公害国会」と呼ばれるようになる。

「私は今後の政策の基調を 福祉なくして成長なし という理念に求めたいと考えております。国民生活優先の見地から、公害対策基本法の改正を提案することといたしました。」

このとき、佐藤は、公害対策基本法の中の、「経済調和条項」を削除することを決断した。

「公害国会」で成立した法律。騒音の規制、大気・水質・海洋・土壌の汚染の防止など14もの公害対策法が制定された。

人の健康を害する物質を排出した企業などを公害犯罪として処罰する法律もつくられた。

*****

(公害対策本部には)24~25人いましたけれども、やっぱり最初の段階ではみんな各省庁で公害でやっていたベテランばっかりではないんですよ。公害(公害対策本部に)初めて来る、優秀な人たちが来たんだろうとは思うんだけれども、だから公害の経験者っていうのは数えるほどしかいなかったんです。私はその中の一人でしたから、あらゆることで、最初の頃は国会質問とってくるとほとんど、そう言うと手柄話になるからいけないけれども、ほんとにみんな答弁を書くくらいな役割で、他の分野にも関わりかつ、事業者負担法(公害防止事業費事業者負担法)を所管するみたいな、そういうような感じでしたね。非常に忙しかったですよ。 だから家族がよく言うんだけど、私の子どもがまだ2歳か3歳で、私がうちを出る時に家内が朝起きて、「いってらっしゃい」って。息子に言えば、めったにおらん人が行くのに「いってらっしゃい」って言うのはおかしいと息子は思ったらしくて、「また来てね」って言って。私の足が止まるぐらい。家族も顧みないような。これはひとつの例なんですが、これは私だけでなくて当時の公害対策本部の各みんなもそうだっと思うんですが、そんなくらいに忙しかった。しかしながらものすごく意気盛んだった。それは国家の大きな、日本の方向性を決める公害の諸立法に携わるんだっていう意識が強かったからだろうと思いますね。意識が高かったですよ。

Q:周りの国会の議員の方々も熱気はあった?

その時にやっぱりこれも誤解されてはならないんだけれども、公害国会で公害対策本部の役割はどのくらい評価しても私は評価していいと思うんだけれども、その公害対策本部の二十数人で公害国会がやれるわけではないんで、その公害対策本部、佐藤総理あるいは山中さんのリーダーシップのもとで各省庁にさっきから申し上げているはっぱをかける。作業はこういう方向でやれって疑問があればすぐ公害対策本部に各省庁の幹部を来ていただいて議論をする、そしてその議論を詰めてやる、またそれで議論が非常に対立するような時には上の方にも山中さんなんかにも意見を聞くというようなことをしながら、各省庁が一生懸命やってくれた。良かったことは公害対策本部と各省庁が大きな公害のたくさんのいろいろな立法の関係を一緒になってやろうじゃないかっていうことにもっていったという。これはやっぱり佐藤総理、山中さんの政治のリーダーシップが私は非常に強かったと。私どもはやりやすかったですよ。公害対策本部が来てね、いろいろ意見があったら来てくれって言ったら、すぐ飛んでこられるの、各省庁が。それでそこで議論すると、そういう方向で戻って作業される、というようなそういうことでたった半年ぐらいの間で14という、その中には道交法(道路交通法の一部改正。道路の交通に起因する大気汚染、騒音、振動を規制した)とかいろいろありますけれども、14立法が全部成立したと。そのことで私は振り返ってみると公害国会というのはさっき申し上げた、「公害発生の先進国」から「公害規制の国」に180度転換する最初の基盤じゃなかったかなと思います。ただしまだ環境の議論というのは、まだあんまりなかったですよね。公害ということでの「公害先進国」から「公害規制先進国」に変わる転機だったということは言えるんじゃないかと思いますね。それだけ、それは公害対策本部だけじゃなくて、各省庁も佐藤総理の元で、大方針の元で一緒に取り組んだと。細かい議論はいろいろありましたよ。しかしそういうことじゃないでしょうか。

Q:そうした中、この年(1970年)の国会終わった直後なんでしょうか、佐藤総理が環境庁の設立へ向けてはっぱというか号令をかけたというのはこの年の終わり・・

そうそう、(1970年)12月のたしか30日か、31日。私当時の事務局長だった城戸さん、公害部長でもあったから、昔、厚生省時代。あいさつに行ったら、というのもこれで厚生省に帰ると思ったんですよ。それであいさつに行ったら、「これから今度は新しい組織作りをやるから君も頑張ってくれないか」っていう話がありましたからね。これはこういう公害対策本部というのがあったでしょ。それに最初公害対策室という公害対策本部の事務局を作るようなことを我々事務方は考えて検討していたんですね。組織をね。ところがそれでは持たないということで、佐藤さんがさっきの研究所の話とか一元的にもっと総指揮を、本部とか本部の庶務をやる事務局という体制でなく、もっと一元的にやる体制を作るべきだという判断で環境保護庁という環境庁っていう名前じゃなかったですよね。組織をそういった環境行政を一元的に所管する役所作りをやってくれというのが山中さんに指示があって、それで城戸さんにきて、それで環境庁作りが始まるから、そしたらそこから公害対策本部は、これだいたい解散ムードだったのがね、あとは庶務を残して解散ムードだったのがものすごい今度は大車輪の仕事に入るわけですよね。しかもあれは何月、8月、(昭和)46年(1971年)の7月かな。7月にもう発足するというね、先に発足する期限が切られたような感じだったから、しゃかりきの仕事でしたね。折衝から何から、組織例から場所から。あるいは公害健康被害補償協会の私はじゅうたんの色まで決めた記憶があるけれども。

Q:そうした中できあがったのは最初は500人くらいの?

ちょうど500人を最低限超そうとそれが狙いだった。大臣も入れてだったかな。500人という。

組織を作るにしても本当に駆け足でしたね。500人を積み上げるのに、相当苦労しました。それから定員を確保するのも苦労したと思いますよ。あれは農水省からね、厚生省から二百八十何人か出すんですが、あとは農水省が大幅に出してくれて、ところが経済産業省っていうのは今考えると、当然かもしれませんが、業界を指導するための公害部というか、そこの窓口は通産省の中に残さないといけないということで、環境庁が規制庁になってしまう、そういうわけにはいかないということで、通産省はあまり人が来なかったりね。組織も来なかったりしたんですよね。そういう意味で非常にどうやって組織を・・将来大きくなるということを我々は予測していましたから、予測するための仕事をどういうふうに組織規定の中に書いたりして、ポストを増やし、かつ人をある程度積み上げるかということに苦労しました。 もうひとつ特筆すべきことは自然保護の関係ですよね。自然保護の関係。今の環境につながってくるわけだけど、これがひとつの問題でしたよ。というのは文部省が、天然記念物は文部省とか、野生の鳥獣は農林省とか、それから国立公園は厚生省、都市公園は建設省というふうにそういうのがたくさん散らばっていましたよね。それをこれは最終的には僕は橋本さんといろいろな曲折あったけれども、橋本龍太郎当時の厚生政務次官とそれから梅本純正という事務次官がやっぱり決断をして厚生省は自然保護の関係は国立公園関係は全部出すと。環境庁に移すと。これが今日の環境行政、あれがひとつの大きな転機だったと思いますよ。自然保護の関係の方々は喜んだと思いますけれども、やはり広がりをもった。つまり公害ということ、それから自然を保護するという狭い領域の議論から環境保全というもっと広い概念に広がって、そしてそれが今の宇宙環境とか、地球環境とかそういうものにつながった要因だろうと私は思いますから、これはひとつの英断だったというふうに思いますね。

大石さんが2代目ということで実質は初代みたいなものですね。それで、それはいろいろな決断をされましたけれども世の中が非常に環境行政に対して後押しをしていましたよね。よく大石さんはマスコミでは月光仮面みたいなことを言われて、我々は迷惑したんです。迷惑というのは、環境行政は月光仮面ではないんです。やっぱり必要なものを国民の理解を得ながらやれるので、ところが我々はしかしありがたかった、マスコミは我々のマイナスになるようなことは書かないでどちらかと言えば、各省庁に押せ押せ的な後ろからバックアップしてくれたような気がします。 ただひとつだけ大石さんのことで言うと、私ちょうど環境庁発足したら、今度は環境庁へ行けと。それで公害保健課の補佐というので、筆頭補佐になるんですね。そこは水俣病なんかも担当する役所で、そこで水俣病の不服審査が厚生省時代に不服審査が上がってきて、厚生省時代はその結果が出なくて、環境庁のいわば初仕事として不服審査の採決をするということ。私それの担当補佐。そこでいろいろ苦労して裁決書を書いて、みんなと一緒に書いて、大石さんが説明をされる時に、つまりそこに長年水俣に住んでいて、魚も沢山食べてそういうことをふまえた上で、否定し得ないと手がこう震えるとか、それが他に否定し得なければ認めるみたいなことがあったんですよ。それはそこまでいかないと、熊本水俣病の病像が変わらないから、そこまで踏み込んだわけですね。それを説明されるのに、なかなか記者さん難しいんですね説明が。そこである記者さんが「要すれば疑わしきは救済ということですか」というお話をされたら大石さんが「まあそうだね」とおっしゃった。ところがそれが大問題になって。社会的にも手が震えたら疑わしいじゃないかみたいな話になって熊本審査会の徳臣(晴比古)教授かなんかが大反発されて、環境庁がそんなアバウトなこと言うなら俺たちは審査会から降りるという話になってそれは大石さんはお医者さんだから、すぐれて医学的な見地から疑わしきは救済という意味だったんだけど、それが一般社会概念的に疑わしきは救済ととられた、そこを私は飛行機で熊本まで山本宣正という課長と2人で飛んで行って、審査会の先生方に散々怒られながら、あと公害保健課長通知をすぐれて医学的な見地からそういう意味だという説明をするということで、ご了解をいただいたことがものすごく鮮明にありますね。だから大石さんは非常にいい前向きな仕事をされましたけれども、まあ月光仮面という言葉で何でもかんでももう環境庁が言えばなんでもいいみたいな、そういうムードが一時期漂ったことは私は長い目で見るとこれはいいことではないなと中にいながら思いました。もっと科学的な理屈の議論をしないと各省庁にも各業界にも不信感だけが芽生えて、環境庁は時流にのって言いたいことを言うみたいなそういうことであっては、長い目で見るといいことではないなと私はそんなことを思ったことを思い出しますね。よくやられたんですよ、よくやられたことは否定しませんけど、ややそんなムードがありましたね。

当時橋本総理(1996~1998年在任)はご承知のように環境問題あるいは水問題とか、そういった環境問題には非常に熱心なリーダーでしたよ。ですから、できるだけ前向きにということですよね。前向きに対応しようと。ただそうは言ったって、外国との関係もありますけれども、日本だけが突出するわけにはいかない、それからいっぺん決めればそれは実現しないといけない。実現しないような絵に描いたような数値を出すわけにはいかないという気持ちもあって苦労したんですが、橋本総理は終始環境問題に非常に前向きな気持ちでした。ただしあの人は政策通ですから、前向きだからといってアバウトにえいやっていうふうな論理も理論もなくてえいやっていう人ではありませんでしたから、やっぱり苦労しましたが、方向としてはとにかく前向きなことでやろうと、それは強かったと思います、官邸時代は。

橋本さんは特に、あの人おそらく自然保護とかそういうものも含めて環境庁にそれを丸ごと持って行って(橋本龍太郎は1970年の環境庁発足までの1年余り厚生政務次官だった)、いわば地球環境、宇宙環境のつまり公害行政公害問題から環境という広がりを持った、その転機が自然保護を環境庁に持って行ったこと。名前も環境保護庁ということになってそれが環境庁になっていくわけだけど、やっぱりそういう環境に関するひとつの思い入れというかあの人は自負があったんじゃないですか。自ら政務次官というまだ若い時だったけれども、そういう大きな転換の舞台回しの役割をあの人は果たされたわけですから、そういう自負は総理になられてからもあったんだと思うし。特に辞められてから水問題なんかは権威的に世界的にリードしてましたよね。水の問題とかは。関心があられた。もともと根っこからあるんですよ。健康とか。お父さんが橋本龍伍さん、厚生大臣やられた方だしさ、そういう関係に関しては環境問題も含めて、あったと思いますよ。だから我々もそういう総理のできるならば、無理で理論もないのにえいやはできないけれども、できるなら総理のそういったことの環境シフトで、重視でもっていくと。そのかわり、産業を潰しちゃいかんわけですから。それから各国との関係もありますから。バランスもある。そういうことの中で環境重視という方向は変わらなかったと私は思いますけどね。それは橋本総理のひとつの大きな姿勢でもあったし、我々の気持ちでもあった。こういう感じはします。

(京都会議前の国内調整で)あれは全日空ホテルだったかな。経済産業省とか資源エネルギー庁とか、環境庁とか各省庁がはげしい議論をしてまとまらないから、私のところで行って、朝の3時くらいまで議論してまとめて、それで橋本さんに報告したらこれでいいって言われた記憶がありますよ。

Q:やっぱり相当、侃々諤々(かんかんがくがく)?

やりました。ものすごく諤々の。特に資源エネルギー庁と環境庁の間ではありましたけれども、しかしそこは解決しましたね。一応の前進がありました。だから京都議定書はまとまったんですよ。

環境庁が厳しい規制をと、こう言ってるわけでね、通産省っていうのか資源エネルギー庁側もかなり厳しく言ってるわけですよ。それに対して承服しないわけですよ。環境庁が。それで僕が確か浜中君(当時環境庁地球環境部長の浜中裕徳さん。京都会議の担当責任者)に言った記憶があるのは、データを出せと。そこまで主張するなら、明確な、みんなを説得できるデーターを出せと言った記憶がある。ないんですよね。理論値とかはありますよね。だけどデーターがないんですよ。だから非常にきつかったんだと思う。浜中くんは良心的な男ですから、僕は高く評価していますけれども、その時最終的には結局いくらか環境庁が突出した議論をしていましたから、そこを若干おさえてまとめた。その理由、私が彼に言った理由は、データーをもうちょっと納得いくデーターを出してやらないと説得できないじゃないかと。「データー持ってこい」と言ったらなかったよね。それは記憶にある。

たぶんデーターが不足していたと思うね。まだ十分研究所なんかの体制も整っていませんから。その中でよくやっていたと思うけれども。

水質汚濁とか、大気汚染防止とかいうのは「外部不経済」つまり不経済と言われている、つまり自分が生産した資本でそういうものにあてると前に産業が進まないということで反対があった。そこに私はそういう議論の中から知恵が出てきているのがひとつは当時公害防止事業団、つまり今は環境事業団、これはそういった外部不経済的な後ろ向きの水質汚濁防止の装置とか大気汚染防止装置とか、そういう外部不経済的なものは長期低利の融資をして、そこで対応する。もうけた物は再投資にして経済がその企業が発展していくというようなそういう面もある。それから税制上そういった公害防除とか、そういったことにいろいろ力をいれる場合には税制上少し優遇するよとかそういったことですから、全く経済と環境が対立したまま今日にいたっているわけではない。やっぱりそういうふうな進歩が、人間の知恵が、行政の知恵、政治の知恵、そういうものがあって、進歩してきていると思いますから、対立する議論というのはかなり違ってきているとは思いますよ。ただしこの問題はグレーゾーンもありますからね、ずっとこれからもそういう大なり小なりそういう議論は残ると思います。しかし残るけれども全然それが変わってないんじゃないかではなくて、大いに環境重視の世の中になりつつある。しかし更に経済発展する過程の中で、時にそういった議論はこれからも起こる可能性はある。可能性はあるけれども、そういう問題が全然解決されていないわけではない。やっぱり人類というか日本はそういった意味で大いに前進していると。産業界もそういったことをよく考えておられる。トヨタなんかそうでしょ。あれマスキー法というのがアメリカにあってね(アメリカの1970年大気清浄法改正案。日本に影響を与え、厳しい排出ガス規制へとつながった)、トヨタはなんとかトヨタの進出を食い止めたいとき、中央公害対策委員会で厳しい自動車の排ガス規制があってそれをトヨタはクリアされた。個別の企業だから言っちゃいけないかもしれませんけれども、そういったことですからみんな産業界も私は厚生省の出身ですけど、厚生省がどうだとか、産業界はけしからんとは思っていない。みんなが一緒に知恵を出しながら前進しているのは日本の今環境大国でしょ、環境先進国ですよ、いま。そういう評価を得た、証左じゃないですか。そうじゃなかったら環境先進国なんて言われませんよ、いまはね。やっぱりそういう行政もですけれども産業界も経済界も含めてそういう環境を大事にしようというムードがずっと進んできているということ。それが環境大国と言われる日本。しかしそれでもなお部分部分では今申されたようなことが今後も起こりうるけど、その起こったからまだ常に経済との調和条項が議論されているというのとはちょっと違う。大きな流れはもうきているけれども、そういう局面局面でそういう問題は今後とも起こりえる、しかしそれは解決して行く、必ず。そう思っていますけどね。

私はもう意識を変えなきゃいかんと。つまり環境というのは、あの頃環境という行政がなかったくらいのことでしょ。我々が公害やっていた頃。それが転換してきた。今はですね、環境保全とか環境なしの人間の生活はありえないと。地球がもう全体が例えば中国の大気汚染が日本に影響してくるみたいなね。それから水質汚濁が各国に影響するみたいな。そういう環境というのは人類にとって、人類だけじゃないと思いますよ、自然動物とか自然体系全体にとってね、これはもう180度意識を変えて環境保全ということを考えない限り人類は生きて行けないんじゃないかというくらいのものになったということですよね。それからその、もうひとつは、環境の問題というのは公害と言っていた頃はまだ個々の国の日本の公害行政はどうだっていう議論だったけど、環境ということはもう国際的な共通のテーマになっているという意識を忘れてはならない。したがって一国がどうだとかじゃなくて、環境は国際的に第一の話と同じ、人類がどうやって生きて行くか、これから快適に生きるかという、あるいは影響を受けないで生きるかということと同義語なんですけど、政策的にも各国が協力する、自分の国だけがどうだという議論でない、協力していくという、それはもう各国とも自分の国が生きて行く基盤だというくらいに意識を変えていかなきゃならん。そういう働きかけを日本はしなきゃいかんし、日本はそれのまさに先進国リーダーになると、私は日本の生き方は安全保障だけじゃないですよ。日本の生き方というのは食糧とか環境とかいろいろな食品の安全とかそういう世界のリーダー、あるいはけん引者になれる。特に僕は安全とか環境とかっていうのはまさに日本が世界に貢献する大きな役割であるし、そのためには自らがそういう気持ちを失わずに先頭に立つという気概が私は必要だと思いますよ。だから環境行政というのは、もう小さな行政じゃない。もう全ての行政の基盤だと。人間が生きて行く基盤だと。それも日本人だけじゃない世界の人々が生きて行く基盤なんだという意識の中で日本がどういう国際社会で役割を果たすのかと、役割を果たすためには自らがそれの先頭に立つという気概が必要だと思いますね。

プロフィール

深刻化する公害への抜本的対策が迫られた1960年代後半に
厚生省公害課に配属されて以来、公害問題に携わる。
1970年、内閣直属の公害対策本部で
同年の「公害国会」、翌年の環境庁発足に力を尽くす。
1995年からは内閣官房副長官として、
村山・橋本・小渕・森・小泉内閣を支えた。在任8年7か月は歴代最長。

1934年
佐賀県に生まれる
1958年
九州大学法学部卒業 長崎県庁入庁
1960年
厚生省入省
1968年
厚生省公害課長補佐
1970年
新設された内閣直属の公害対策本部へ
 
公害国会(1970年)・環境庁発足(1971年)に尽力
1971年
環境庁発足とともに、同庁公害保健課へ
1986年
内閣官房首席内閣参事官
1993年
厚生事務次官
1994年
厚生省退官、同省顧問
1995年
内閣官房副長官
2003年
退官
 
現在、恩賜財団 母子愛育会会長。その他役職多数

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