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証言

タイトル 「「公害」の始まりから半世紀」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」
第3回 公害先進国から環境保護へ
氏名 宮本 憲一さん 収録年月日 2015年5月14日

チャプター

[1] 四日市は「公害対策の原点」  06:54
[2] 四日市は「公害研究の原点」ともなった  04:07
[3] 「公害」概念を明確にした-研究委員会発足  07:43
[4] 急速に広がった「公害」という言葉-『恐るべき公害』  04:48
[5] 初めて開発をとめた -三島・沼津の住民運動  07:23
[6] 初めて開発をとめた -三島・沼津の住民運動(2)  08:41
[7] 初めて開発をとめた -三島・沼津の住民運動(3)  06:46
[8] 三島・沼津は公害裁判に影響を与えた  03:35
[9] 「調和条項」が論争に-世界初の公害対策基本法  06:41
[10] 「調和条項」が論争に-世界初の公害対策基本法(2)  06:01
[11] 「公害先進国」に世界の研究者がやって来た  06:58
[12] 「環境権」提唱される  12:40
[13] 「環境保全」の時代へ  08:03
[14] 次の世代のために、私たちは何をすべきなのか  05:28

再生テキスト

もうだいぶ工場自身もね、整理をされているから、昔のように(昔と比べて)、少し状況が違っていますけれどね。ここの最初に出来たこの三重火力の発電所(中部電力三重火力発電所)の煙が一番直接的に裁判の原告になった磯津の地域(コンビナートと川をはさんで隣接。代々漁業をなりわいとする人達が暮らす)に落ちてきたわけですね。普通はスモッグだとかあるいは大気汚染っていうのは、晴天時の風の穏やかな時におこるって言われていたんですけれどね、そうじゃなくて、ここは冬場に伊吹おろしというのが向こうからものすごい強い風が落ちてくるんですね。その風がちょうど磯津に直撃するんですね。汚い煙がですね、それで磯津の(亜硫酸ガスの)値が非常に高くなったわけです。もちろんこんなに(発電所に)近いですから、別にそれだけの影響ではなくて、始終汚れていたんでしょうけれども。ここは特にダウンロードって言って、冬場の非常に風速の強い煙が直撃したんだというふうにですね(考えられる)。それでここは漁港ですから。野田さん(磯津の漁師・野田之一さん)をはじめとして原告になった人たちがこの海で魚を取っていたわけですね。この海が汚れはじめたのが1958年9年頃で、コンビナートを作りはじめられた頃に始まって、それで1960年から62~63年頃にはものすごく汚くなったわけですね。魚が取れなくなって。臭い魚と言われて。ここの魚が築地では売らないと言われるようになってですね。それで最初は漁民の騒動が起こるんですね。なかなかコンビナートがここがちゃんとした施設をしないっていうので、漁民が排水溝ふさぐとかですね、非常に大きな騒動が起こったんですが。ところがそれはお金でいったん解決をしはじめた60年頃から、62~63年にかけて大変たくさんの数のぜんそく患者が発生するんですね。それは60年から本格的にコンビナート操業が始まったからなんですね。その結果として当時でも800人以上の大気汚染患者が発生すると。なかなか最初は市のほうはその対策を十分にしなかったから。今日も話が出たんですが、自殺者が出たり、いろいろありましてね。行政が解決できない、これは裁判以外にないっていう事になって、それで原告を募ったんですが、なかなかやっぱり当時は裁判で勝てるかどうか分からない。そういう事もあって、原告がなかなか出なかったんですね。それでいちばん確実に非常に汚染度がひどくて、患者が多数発生していた磯津で原告が選ばれたんですけれどね。 しかし本当はこのコンビナートの向こう側にある塩浜の小学校のあたりなんかがもう、フェンスの隣がコンビナートでしたからね。子どもの中にもずいぶんたくさん被害者が出ていたので。本当はもっともっと多くの原告が出てもいい事だったんですが、これは四大公害裁判(イタイイタイ病訴訟、新潟水俣病訴訟、四日市公害訴訟、水俣病訴訟)通じて全部そうですけれど、企業城下町で企業の力が強いところではなかなか裁判をするという勇気というか。市民がそれを支持するっていう事はなかなかできなかったんで。磯津の原告たちが批判をされながらも裁判に立って、それで問題が解決するほうに向かったんだというふうに思いますね。 そういう意味では、この磯津は1つの聖地というかな。四日市公害のね。ここのそういう勇気のある人のおかげで、この四日市市全域の患者が救済される事になったわけですからね。まぁ、私は水俣は“戦後公害の原点”と言いますけれど、四日市は“戦後公害対策の原点”だと私は思っています。というのは四日市型の公害が全国に広がっていったわけで、水俣やイタイイタイ病の場合には、その地域だけの公害でしたけれど、ここの石油公害というのは全国いたるところに発展していく、しかも四日市のようなコンビナートがいっぱい出来ていきますのでね。政府としてもここが高度成長の原点だったわけですから。そういう意味では進行形の公害で、他のところは(生産が)もう終わっていた公害に対して、進行形の公害でしたから。そういう意味では、ここでどうしても公害対策をせざるを得ない政府も追い詰められていくわけですから。そういう意味ではここが“公害対策の原点”だったというふうに言っていいと思いますね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

コンビナートと川を挟んで隣接する磯津地区。野田さんをはじめ、代々漁業をなりわいとする人たちが暮らしている。

1960年、ここで取れる魚が、異臭がするとして返品されるようになった。

魚の異臭騒ぎの翌年、四日市の市民の中に、変な咳をする人たちが続出、次々と病院に駆け込むようになった。コンビナートの煤煙に含まれる亜硫酸ガスが原因だった。 四日市ぜんそくの始まりである。

*****

僕は最初にここに来たのは1962年なんですが、初頭ぐらいですかね。その頃はね、空気が青色をしていましたね。それから(メルカプタンや)硫化水素が入っていたんでしょうか、いろんな汚染物質が入っているからものすごく臭くてですね。ですから住民の訴えは悪臭とそれからぜんそくと両方ですよね。悪臭がひどいっていうのは、これが特徴で、僕がはじめて来た時も泊まった海員会館が近くにあったものですから。寝られなかったですね。あまりにもひどくてですね。悪臭が。塩浜の病院に患者さんがその頃おりまして。子どもや老人が多かったですね。第1コンビナートで公害が発生しているにもかかわらず、第2コンビナート作っていましてね。白砂青松の美しい砂浜があった所を埋め立てて第2コンビナートが出来て。そのすぐそばに市営住宅があるんですね。びっくりしましたね。そういう乱暴な事を。それでもう、第2コンビナート周辺も公害で悩んでいて。私は地域開発っていうのはその地域のね、福祉を向上させるために地域開発するんだけれど、そうじゃなくてその事によって多くの被害者が出たりね、それから白砂青松の美しかった海岸を埋め立ててしまって、それで公害を出すっていう、これに衝撃を受けたんですね。それが公害研究の始まりだったんですけれどね。

Q:先生にしても原点っていう事ですか?

ここが原点ですね。私は『世界』の12月号に、1962年に「しのびよる公害」っていうのを書いたんですが、それが戦後における社会科学者が書いた公害の最初の論文なんですけどね。ですからその頃公害っていうのをどういうふうに規定するかっていう事から始めなければならなかったわけですけれどね。あっという間にしかしこの四日市の公害の問題が深刻だっていうのが伝わっていくと、全国的に公害反対の世論や運動が起こっていったというふうに思いますね。そういう意味では四日市というのはあの水俣以上にその時期における公害の世論や反対運動を強めるきっかけになったところだというふうに思いますね。

その当時、経済政策の中心であった地域開発というものが行われていて、各自治体はとにかく経済成長しよう、そのために地域開発しなければならない、でもどうやったらいいかって言ったら、そのいちばん分かりやすい例が、四日市だと。 つまり、いちばん最新鋭の石油コンビナート。鉄鋼・石油コンビナート、誘致すればその地域が開発されて、所得が成長すると考えていたので、各自治体がみんな政府が言うように地域開発していたわけですね。 ところが、その(1961年)自治体の研究集会で、初めて、三重県と四日市が隠していた伊勢湾の水汚染、それからすでに、四日市ぜんそくっていう、名前まで出ていたような、ぜんそくが始まっていた。それを暴露したんですね。

これは地元にとってみても国にとってみても、公表すると成長や開発に障害があると思って伏せたんでしょうね。それを勇気をもってとにかくこれはやっぱり地域の住民に知らせたほうがいいと言って提示したんでしょうね。 それが非常に大きなショックを与えたわけで、新聞も雑誌なども“四日市に公害あり”という話になってきたんです。 僕も、それで衝撃を受けましてね。私は当時、地域開発の財政とか行政を調べていたんですが、そういう、福祉を向上させるために行われてるはずの開発政策が、そういう深刻な障害を受けるというのはおかしいと思って。

で、現場に行って、例えば北九州市の八幡に行ってみると、朝から、窒息するぐらいの汚い煙が出ている状況なんですね。これをどういうふうに考えたらいいのか。経済の発展によって福祉が向上しなければならないのに、それによって人間の健康が障害が出ると。で、しかも対策が行われていない。逆にその、公害が出ると医療費の所得が上がったりですね、あるいは、コンビナートで海面を埋め立てると、国富が増えるという、つまり今までの経済の常識から言うと、公害を発生させる、あるいは環境を破壊した方がね、今で言うGDP、昔はGNPって言ってたんですが、GNPが増えると。これはおかしいんじゃないかと。それが経済学者としてね、その、今までの経済学の範ちゅうの外にね、問題があって、こういうのは「社会的費用」と我々は後から考えたんですけど、そういう社会がコストを負担するような状況が起こってるというのはおかしいんじゃないか。で、これをどういうふうに名づけたらいいかと考えたんですね。で、こういう問題は公衆衛生の人たちはその頃ももうすでに気がついて、研究ずっと進めてる。戦前からも歴史があるわけですね。で、経済学者は知らなかったわけでね、それでその人たちと議論をし始めたわけですね。で、これはやはりその、新しい現象でしかも経済学だけで解けない、あるいは公衆衛生の人たちに言わせれば、ほとんどの原因が経済にあるんだと。だから、経済学者が入ってくれなきゃね、この問題は片付かない。あるいはそれを片付けようと思ったら法律が要るっていうんでね、それで最初一橋大学の、後に学長になられた都留重人さん(経済学者)が呼びかけて。

学際的な研究委員会を作ろうと。これが1963年の夏なんですけどね。で、当時もう既に僕はあの、庄司光さん(1905-1994 環境衛生学者。1963年に宮本さんらと学際的研究グループ「公害研究委員会」を結成した)という京都大学の衛生工学の教授と2人で、岩波書店に頼まれて、『恐るべき公害』っていう本を書き始めていたんですけど、その委員会に入って、初めて日本で7人で学際的な委員会を発足することになったんですね。で、その時に「公害」という概念を明確にしようじゃないかと。他の概念をいろいろ考えてみたんですけど、「公害」という概念は、戦前からあるんですね。で、それは公衆衛生の害悪であると。つまり環境が汚染されて、あるいはそれによって食物が汚染されて、で、それによって健康障害が起こる。あるいは生活環境が悪化する。こういう現象を戦前も「公害」と考えていたんですね。ただ、戦前の場合には、公益に対する「公害」という概念でしたから非常に広く考えていたのが、だんだんだんだん工業化・都市化が進んでいくと、公害現象っていうのが日常的になってきて、必ずしも一般的なその、公益に対する漠然とした「公害」じゃなくて、むしろ明確に環境を汚染してそれが人間や生活環境に与える害悪を「公害」と呼ぶというふうに収れんしてきてるわけですね。だんだん。で、研究者としてもそこへ向かって概念を正確に作り直したほうがいいと考えて、それで私たちは1963年に「公害研究委員会」っていうのを作ったんですが。

環境が汚染されてですね、それが人間の健康障害や生活環境に害悪を与えるもの、これを「公害」と呼ぼうということにしたんですね。

そういう意味じゃ公害って言葉を私たちは環境の汚染と結びつけて、ですから英語で言えばエンバイラメンタル・ポリューション(環境汚染)だと。単なるポリューション(汚染)じゃないというふうにしたんですね。で、同時にこれはもう少し正確に言えばやっぱり、企業活動から来る社会的費用であるし、その社会的費用を防止しなきゃならない政府・自治体という公共団体の、公共の責務が果たされていないと、この二つがね、やっぱり公害を規定する非常に重要な概念だというふうにしたわけですね。

1964年に私と庄司光さんとで『恐るべき公害』っていう本を出しました。で、岩波新書だったもんですから、これが非常にたくさん売れましてね、40数万部売れたんじゃないかと思うんですけど。それで一般的に「公害現象」と、つまり大気汚染や水汚染や地盤沈下や(騒音振動)ですね、日常的に自分たちが健康に障害を受けていたり、あるいはもう汚い環境になってですね、これでいいのかと。美しいきれいな環境に住みたいと、そう願う人たちの気持ちが、この「公害」っていう言葉でひとつにまとまってきたわけですね。「公害」は困ると。成長も良いが、成長は福祉のためにあるなら、まず「公害」を防止できるような政治じゃなきゃならない、「公害」っていう言葉が次第に普及していったんだと思うんですね。『恐るべき公害』もですね、最初今までにない、「公害」なんて言葉でね、本を出したって売れないじゃないかって言われてたのが、たちまちみんなが飛びついて(売れて)くるんですね。

全国の地方紙を、46、(当時)沖縄がまだ占領中でしたから、46の地方紙を選びましてね、これを毎日、そういう大気汚染や水汚染や公害現象を記録しまして公害日誌っていうの作ったんです。そしてそれを地図に、公害地図っていう形でプロットしたんですね。そうすると、それを見ただけでね、ものすごいたくさんの問題があると。

都市化に伴う大気汚染・水汚染に悩まされてるっていうのは分かったんですね。だから、1960年代の前半にですね、もうその日常の生活の中におけるもっとも分かりやすくて、これでいいのかというね、恐怖心を持つ状況が生まれていたんだと思いますね。

Q:これですね、先生この。

そう、これです。とにかく一般の人に分からせて、分かってもらいたいと「公害地図」なんですね。で、これ、公害現象を地図に、1年間だけなんですが、プロットしたらこんなふうになったのね。

Q:そういう1960年代の初頭に、新しい「公害」という概念が新たに見直されて、日本の環境問題は新たなステージに入った?

そうですね。他の国はね、個別の大気汚染、水汚染、とかいうふうにしてきたのですね。ところが日本ではそれがひとつの社会現象であるというふうに、総合概念にしたんですね。これが日本の特徴で、したがって、後で話しになりますが、1970年の最初の国際シンポジウムで、外国の人たちが、これは“TSUNAMI(津波)”と同じようにね、“KOGAI(公害)”っていうのを流行(はや)らせようと。他の国の言葉でポリューションっていうとね、どうしても公害現象と違って、限定されたものになっちゃうから、「公害」っていうのは「津波」と同じようにね、日本人が作ったんだけれども、これを世界中でね、使える総合概念じゃないかっていうふうに言いましたね。僕は残念ながらその、公害先進国ってその頃言われたんだけど、日本は近代化に伴うあらゆる環境破壊、公害現象が60年代出てきたんでね、どうしても総合してね、対策を採らなきゃならない、個別に片付けることはもう不可能になってきたっていうことだと思いますね。それが公害っていう概念が日本で使われただけでなくて、他の国もですね、やっぱり総合化していきたいというふうになったんだろうと思いますね。

四日市の公害はどこででも起こる、つまり石油燃焼に伴って、石油やそれに連なる化学物質によって水汚染や大気汚染がどこででも起こる現象なんです。特に亜硫酸ガスの問題っていうのは、非常に分かりやすい問題で。しかもそれが高度成長を進めるための鍵を握ってたわけですね。ちょうどエネルギーの転換で、石炭から石油に移ると。それから化学も石炭化学や電気化学から石油化学に移っていく。あらゆるものが転換をしていく時の、その一番の先端を行っていたのが四日市のコンビナートで、しかも誰もがですね、これまでの北九州のようなね、コンビナートじゃなく、(石炭・)製鉄コンビナートじゃなくて、四日市のコンビナートは最新の技術なんだからね、ここで北九州で起こったような大気汚染や公害問題は起こらないだろうと思っていたのが、今まで以上にね、深刻な問題が起こってくると。しかもそれにも関わらず政府が四日市型のコンビナートを全国に普及しようとしたわけですね。次々とですね、京葉工業地帯とか堺泉北工業地帯とかね、鹿島とかですね、あるいは苫小牧とかあらゆるところへこうそういうコンビナートの配置をして、その経済成長をしようと。そこで公害が起こっているっていうことは、つまり全国に共通の公害現象が起こる可能性がみんなに見えたわけですね。そういう意味では三島・沼津の人たちが自分のところが今度は開発の対象になって、四日市のコンビナートよりもはるかに大きなコンビナートがね、出来ると(どうなるか)。富士山麓のあの非常に美しい静浦湾のところが、そんな大きなコンビナートが出来たら、どうなるだろうかっていうふうに思ったわけですね。

そういう意味じゃ僕は四日市は公害対策の原点になったと思うんですね。その原点だってことを思い知らせたのが三島・沼津のね、住民運動だったと思うんですね。で、それは地域開発とは何かと、自分のところの地域をどうしたらいいのかという場合に、政府側が持ってきた、あるいは静岡県が持ってきたのは、四日市と同じ、それ以上のね、大きなコンビナートを作りたい。これがその三島・沼津地域を発展させるんだといって持ってきたんだけど、果たしてそうか。つまり地域っていうものを開発するために、何が必要なのかっを問いかけようとしたわけでしょう。三島・沼津の問題がその後の公害対策に決定的な影響を与えたのは、科学的な調査を(したことである)、つまり単に怖いと、四日市みたいになったら怖いというんじゃなくて、本当にその四日市と同じようになるのかどうかを確かめたいので(す)。地元の研究者が中心になって、日本で初めて環境影響事前評価をやったということでしょうね。これは公害対策の基本なんですよ。つまり予防っていうのはね。で、予防をするためにはその計画が果たして地元の経済を本当に発展させるのかという社会的なアセスメントをした。最も重要なのは健康や、生活環境の悪化にならないかどうかっていう、環境のアセスメント(をした)。これがやっぱり地域を発展させる基本なんでしょうね。それを三島・沼津は初めてやったわけですよね。これは大変な英知だと思うんですよね。嫌だって断るのは、簡単でもないけれども、すぐ言えるんだけど、本当にそうかってね、本当にその、この地域が今考えられてる政府のコンビナートで発展するのかどうかっていうのを確かめたってことでしょうね。このために幸いしたのは地元に国際的に実力のある国立遺伝研究所があったこと。そこに、遺伝っていうのはもういちばん、環境と(関係する)、環境を考えるいちばん基本の科学者がいたと。それから、沼津工業高等学校にね、東京工大を出た連中、あるいはちゃんと気象観測の技官がいたとかね、本当にそういう意味じゃ天が人を選んだっていう感じなんだけど、研究ができるスタッフがそろってた。その人たちがまじめに本当に調査をやり、研究した結果として大気汚染や水汚染が起こるということをね、報告書で発表したっていうことだと思いますね。それを学習して、つまり初めて市民運動っていうものをね、日本における市民運動っていうものをやったんだと思うんですね。労働運動ではない、何にも経済的な利益はないわけですよね。コンビナート止めたって何もプラスになるわけじゃなくて、マイナスが防げるわけなんだけども、しかし自分のところの美しい郷土を維持するということを考えて、従来の社会運動の中ではない新しいね、つまり経済的利益を求めるんじゃなくて、地元の環境、地元の文化ってものを維持するっていうね、その愛郷心っていうか、あるいは郷土愛って言ったらいいのか、そういうもので団結して運動したっていうことでしょうね。

ただこれ、なぜ重要だったかって言うと、政府にしてみればこの地域は工業整備特別地域(昭和39年の工業整備特別地域整備促進法で全国6地域を指定)で、まあ東京に近いしですね、水は富士山麓(さんろく)の水で豊富で、開発の絶好の地点だと彼らは考えてたわけね。だからここで挫折するっていうことは、他の当時新産業都市促進法(昭和37年)とか、工業整備特別措置法(昭和39年)とか、たくさんの重要な法律でやろうと思っているところで挫折をするっていうことは、成長政策にとっては大変なマイナスになる。それで政府の方も非常に力が入ってですね、(地元調査団に対抗して)政府としては初めて環境影響事前評価を政府の調査団が行ったわけです。丁度四日市の調査をやっていたメンバーをそのまま三島・沼津に派遣して、それで公害の事前調査をやらせるわけですね。これは自衛隊機を飛ばしたりもう大変なお金をかけて。特に風洞実験やったんですよね。これは初めて風洞実験っていう、模型でもってその調査をする、その後の公害大気汚染を調べるモデルなんですけど、それまでやってですね、結局彼らは公害の恐れはないって言ったわけです。ところが短期間で、しかもそのモデル自身が非常にお粗末だったもんですからね、(この報告書を見た)現地の科学者が政府の科学者と論争したいと。自分たちはまあ“ある”と言ったのにかたっぽは“ない”というのはおかしいというんでね。で、通産省で論争した結果、地元の研究者や地元の住民は政府の調査は間違ってると。これでは納得がいかない(となった)。それで運動を非常に拡大して300回くらいその学習をして、大きな集会やデモを繰り返して遂に地元の自治体は止めたということになるわけです。これは市民運動として初めてその(政府と企業の)開発を止めたと。しかもそれは、その環境や公害問題を調べてね、みんなが納得して自生的にやっぱりこれは駄目という納得をして、それで今までのような社共両党、労働運動である社会運動ではなくて、市民運動でそれをね、その結論を出したと。これは大きな影響があるわけですね。これを受けて全国的に市民運動が広がっていくわけです。そういう形で予防のための研究や運動をするっていうのは非常に必要だというのが分かってきて全国であちこちの地域開発が市民運動で止められたり紛争を起こすようになっていくわけですね。 この結果を見て橋本道夫さんは当時の環境省の公害担当の責任者ですよね(1964年、厚生省の初代公害課長に就任)、それで彼が環境私史(『私史環境行政』)というのを書いてますけれどもね、その中でこの三島の運動がいちばん衝撃を受けたと。どうしてもやっぱり公害対策基本法のようなものを作らないとね、これは国民は納得しないと、行政にですね。これは当時の通産(省)の連中もそう思ったんですね。このままでは駄目だと。このまま(開発で)押し切ろうとしてもね、やっぱり公害対策がない状況ではね、動かないだろうと。それから企業も、経団連の会報を僕はざーっと見て、ずっと見ているんですけれども、(この頃)座談会を開いていましてね、この三島・沼津運動の衝撃が大きくてですね、その時阻止された富士石油の社長が、経団連の公害対策の委員長になるんですけどね、彼はこのままでは企業がその公害問題なんていうのは大したことないという形(認識)ではもう進めないっていうことをね、企業自体が自覚をするわけですね。そういう意味では、四日市の二の舞をするなという形の三島・沼津の運動が、政策担当者の意識を変えたと言えると思いますね。それからまた、研究者から見ると、なるほどその予防っていうのはいかに重要かと。今まで環境影響評価をあんまり考えてなかったんだけど、これからそれがいちばん(重要である)。環境政策というのはいったん死者や健康障害が起こったらもうおしまいなんでね、それを起こさないための予防こそがね、必要だってことを分からせたと思うんです。 ここがおもしろいんだけど、歴史というのはね、今言ったように1963年から64年の段階で、それだけの先進的な事例があるんだけれども、その段階でまだ水俣では有機水銀中毒が認められない、政府も認めない、政府は68年まで認めないんだからね。そういうすごい社会的に見れば公害反対、公害対策へ向かってぐーっと動いてるのにね、結局水俣病はその時点からまだ5年たたないとね、政府は認めないとかね。それからまた、他の地域でも、それだけその、三島・沼津の問題が大きな成果を残しているにも関わらずね、もういたるところで新産業都市誘致運動みたいのが起こっている。なかなかその教訓が伝わらなかったっていうのが、おもしろいと思うね。僕はそれはひとつは今と違ってテレビ(の文化)がなかったからかなと思うんだけどね。僕は、あの三島・沼津のその最後のものすごい大集会は絶対に記録にNHKは残してほしいと思ったから、NHKの名古屋総局にね、あれ(全国版で)撮っといた方がいいよって言ったんだけど。なんか東京の方から反対されて撮ってないんですよ。だから地方ニュースだけで出てるのよね。それは全体としてマスメディアの方も分からなかったんだろうね。これはもう後で国際的に評価されるんだけど、そういう下からの、政策提起で運動が行われたっていう、立派な業績があっても、その記録がね、映像では残ってないし、実際には本当に全国でそれに学ぶ、政治をね、学ぶというふうになってなかったっていうのは非常に残念なことだけどね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

市民たちの強い声に、三島市長は、1964年5月、コンビナート受け入れ反対を表明した。

4か月後、沼津では、市民大会に2万5千人が集まった。反対の声が強まったことを理由に、沼津市長も受け入れ拒否を表明。 コンビナート計画は、断念された。

「これは三島・沼津、1964年9月13日。すごいですよ、感動しましたね。」

*****

Q:これは先生も行った(参加された)んですか?

そうそう行った(参加した)。段の上に乗せられて困ったんだよ。

Q:段の上で?

見てたんだよ。途中ずっと何かに書いたように朝早くから銀行の支店長の奥さんの車でこういうの見て歩いたんですよ。ぞくぞく高揚しながらここへ集まって来るわけね。漁船(の海上デモ)もあったしこういう形で皆プラカードつけた車がぞくぞく。それであの中に書いてあるように「絶対反対」って書いてあるでしょう。銀行の支店長がプラカード(をかついでデモをしている)

Q:絶対、何て書いてあるんですか?

「石油コンビナート絶対反対」

1964年の4月に僕たちの『恐るべき公害』という本が出て、それが三島・沼津の人たちのテキストになったんですね。そういう事もあって、いちばん大きい最後の集会が沼津である事になりましてね。

その時に最後の学習会、大学習会をやりたいっていうので、京都大学の庄司光さんと、共著者ですが、私と、もう1人大気汚染の専門家で大阪市の研究員だった中野(道雄)さんの3人が呼ばれましてね。これは2000人の大集会でしたけれどね、その研究集会というんですが、公会堂に入れないで、外に人が立つぐらいの集会で講演しました。 そのあと次の日にそれぞれの分科会に分かれてまた学習会をね。実際に公害っていうのはどういうもので、このコンビナートでどういう事が予測されるか。それから僕はあとで感心したのは結局コンビナート呼ばなくてもね、三島・沼津という地域では資源が豊富で、そしてまた農漁業や地場の工業が盛んなんでね、そういう大企業を呼ばなくたって私たちの町を作れるという、そういう次の町づくりをどうしたらいいか。そういうような分科会まで議論しましてね、これは大変僕も参考になったんですが、つまり単に反対と言うだけじゃなくて、次の町づくりについて自信を非常に持っていた。これが三島・沼津・清水の運動の成功の鍵だったというふうに思いますね。そういう役割をいたしまして、次の日の大集会の時には朝からずっと見学をさせてもらいましたね。それで集会の会場の台の上に乗せられて、それで皆さんがどういう議論をするか、どういう決議をするか聞かせていただきましたけれど。 その後この三島・沼津の問題というのは全国に非常に大きな影響を持っていたし、これをまとめるっていうような必要があったので、その後何回も三島や沼津に行きましたね。NHK出版から『沼津住民運動のあゆみ』(1979年)っていうのを出版いたしましたね。そういう形の長い付き合いですね、この間もコンビナート勝利50周年の記念集会もありまして、それも呼ばれて、記念講演したんですが、まだまだ生きて頑張っていらっしゃる方がいて、感心したのはそういう古い大変な運動でね、生き残っている人が少なくなっているのに、沢山の人が集まってね、やっぱりコンビナート誘致しなかったのはよかったとあの時みんな頑張ったのはよかったなっていう話をしたので、大変感動しましたけれどね。 今から思えばあそこにコンビナート出来なかったのは当たり前の事で、いい事だったと思うけれど、あの時期には何かコンビナート持ってこなければね、地域が発展しないような雰囲気の時にあれだけの勇気を持ってね、政府のいろんな施策を断ったっていうのはね、大変な成果だったんじゃないかというふうに思いますね。

Q:その後の日本の公害行政に与える影響も当然。

そうですね、非常に大きかったですね、政府のほうも初めて環境アセスメントの調査団を送ったぐらいです。自衛隊機飛ばしたり、大変なお金をかけて風洞実験初めてやったんですから、政府も力が入っていましたからね。それほどやってやっぱり公害が起こるという事がね、はっきり分かって、拒否をしたというのは、他の所に与えた影響は非常に大きいと思いますね。『三島・沼津型』ってその後言われたんですけれど、ちゃんと調査をして報告書を出して、学習会をして、それで本当に自分の地域はどういう発展をすればいいかっていう事をね、考えるという事を他の地域も学んだという意味ではね、大変大きかったし、政府にとってみれば大変な事業をつぶされたわけですから。そういう意味じゃ公害対策をしないとね、もはや成長や開発は出来ないという事が分かって、公害対策基本法(昭和42年)を作らなければならなかったわけですから。政府に対する影響も大変大きかったし、企業に対する影響も大きかったと思いますね。

Q:三島・沼津の戦いがあったからこそ、まあ他のいわゆる四大公害病の闘争、闘争そのものっていうのはその後どんどん発展していくわけですよね。やっぱりそれが与えた影響っていうのはあるんですか、因果関係。

(その影響は)ゆっくりしてましたけどね。もっと早くいってもよかったんだけど、例えば私たち公害研究委員会は、それを本当に重要視したんですよ。これは新しい、市民社会っていうのはそういうものだと。市民が自分の権利っていうのね、そして自分の地域を愛して、それでちゃんと科学的な調査をやって、結論を出すっていうのは、これからの公害対策の正道だというね、そういうふうに評価をして、『現代資本主義と公害』っていうのを岩波書店から出すんですけど(1968年都留重人編)、その中でもこれからの市民が取るべき公害問題に対する態度はこうでなきゃならないっていうのを評価してるんですけどね。

他のところで紹介する講演してたんですけどね、たまたま広島で僕のその三島・沼津の講演を聞いたのが、水俣の日吉フミコさんで、日吉フミコさんはご承知のように学校の先生だったのを市会議員になったりして、胎児性水俣病にぶつかったために、何とか水俣病の救済をやりたいと始めた(方)ですよね。1968年にその政府が(水俣病を公害として)認める少し前に、初めて水俣(市)にその水俣病の患者を救済するための市民会議が出来るわけですね。これは日吉さんが作ったんですが、日吉さんがその後書いてるんですけど、僕の講義を聞いて三島・沼津でこういう市民運動があるのにね、どうして水俣でね、これほどの被害が起こりながらね、市民運動が起こらないのか、恥ずかしいと。だから三島・沼津のようにね、市民が立ち上がらなきゃ駄目だと思ったって書いてるんですけどね、言ってるんですけど。だから三島の影響っていうのはその全く閉ざされて差別されて身動き取れなくなった水俣に火をともしたと思うんですね。で、だから水俣の運動が始まるのは1968年からなんですけどね、そしてそれは裁判、すぐに裁判を提起するわけですね。ですからそういう意味じゃその、三島・沼津の運動は同時に公害裁判へにも影響を与えたというふうに見ていいと思いますね。

1967年に公害対策基本法が出来るんですね。これは他の国は大気汚染防止法とか水汚染防止法はあるんですけれども、環境とか公害っていう形で総体的に対策を考えたのは初めてなんですね。これは、やはり三島・沼津の影響を受けて、政府のほうで委員会作るんですが、(経済界の圧力があって)なかなかできないんですよね。 時間がかかったんだけど、67年に世界で最初の公害対策基本法が出来て、アメリカは国家環境政策法っていうのを69年に作るんですけどね。それからイギリスも続いて。だからそういう意味じゃやっぱり(日本は)公害がひどかっただけに、そしてそういうふうに市民の突き上げがあったために、最初の基本法が出来たんだと思いますね。ただ非常に残念なことにその、基本法の出来る過程で何度ももめましてね、目的が経済成長と生活環境の保全をどう考えるかっていうところで、財界が非常に強くですね、きれいな環境なんてのは望むのが無理だと。経済成長がなきゃならないっていうので、経済成長と環境保全の調和を図ると。この文言だけは絶対に目的に入れてほしいと。その経済成長という文句を入れてくれって言うわけですね。これはだけどおかしい話でね、公害対策基本法なのにね、なんで経済成長までうたわなきゃならないか、誰が考えてもこれはいかにも妥協的なものになるだろうという、そういう恐れがあったわけですよね。途中ではずいぶん論争もあったし、私たちもそれは反対で、生活環境保全を目的とするでいいんでね、いいのであってね、公害対策基本法なんだから。何も経済成長と生活環境保全の調和を図る、とまで書いてしまうとね、企業の力が強いんだから、経済成長を優先で、成長の過程でまあできるだけやった方がいいと、公害対策をね、その程度に妥協してしまうんじゃないかということを、一般の研究者も、その頃ようやく公害の研究者が育ってきましたんでね、環境の。それで、研究者もだんだんだんだんそういう「調和論」に反対の意見が強くなってきていた。それで、実際に公害対策基本法が具体的になってきたのが、大気汚染の環境基準だったんです。

これはみんなが期待してたら、結局はその、いちばん最初にやったのが亜硫酸ガスなんですね。当然なんだけど。四日市で困ってるわけだから。ところがその、亜硫酸ガスの環境基準は、専門家の会議を開いたら専門家(専門委員会)は1日平均0.05ppm以下にしなきゃならないと。これはいろんな従来の世界中の亜硫酸ガスの人体への影響の研究報告書を集めてみると、そこで切るのがいちばん安全だというね、そういうものだったんですね。それで、それが出たからまあいけるんじゃないかと思ってたら、どこでどうすり替えたのか分からないんだけど、最後に政府が決めたのが、1年平均0.05ppmなんですよ。

1日平均と1年平均と違うのはもう誰でも分かるわけですよね。365日で平均するのと、1日の24時間で平均するのと、全く違うわけよね。だから、実際にまあ大体3倍くらい緩んじゃったわけですよね。それじゃあ防げないわけよね。1年平均0.05ppmっていうのは、ちょうど67~68年段階で見ると、北九州(市)のね、戸畑区。製鉄所のあるね。それから東京(都)のね、新宿なんですよ。だから東京の新宿とかさ、その北九州の戸畑区くらい汚してもいいっていうことになるわけね。こんなものね、法律で決めると(規制とは)逆になっちゃうわけね。今までは、もうきれいにしなさいって言えたのに、いやもう私のところは環境基準合格してます、と言って、行政のほうがその、批判を退けることができるわけね。だから、法治国家ですから法律っていうのは重要で、67年に公害対策基本法出来たっていうのは非常に立派なことなんですけどね、早くね。だけど法律が出来たからいいっていいことにならないわね。法律がルーズであるとね、かえってね、全体のその基準まで汚してしまうっていうね、それは我々にとって非常によい教訓でね、やっぱり法律を作ればいいと思ってたけど、法律作ったからね、うまくいくとは思えないっていうのがこれで分かったわけね。それで、そこから後ね、この「調和論」っていうのは止めてほしいと。公害対策基本法を全面改正してほしいと。そうしない限り、もう出てくる政策は全部ルーズなもんになっちゃうからね。

そういう問題があった時に、東京都が美濃部都知事になって、美濃部都知事が登場するその背景にはやっぱり公害対策の問題があったわけですよね。それで、公害研究所っていうのが出来て、これは自治体の中では非常に優れた、それで最初の、政府のほうが持っている以上の力を持った研究所が出来たわけですね。で、その所長が戒能通孝さんって民法の先生で、我々の公害研究委員会の委員だったんですけど、彼が草案を作って、それで企業に公害防止を最大の義務にする、そして「調和論」を捨てると。したがってそれにのっとって、亜硫酸ガスの環境基準をね、1日平均(0.05ppm)に戻すと。もとの研究者が出したね。それから、もうすでに被害が出始めていた、二酸化窒素の、NO2の環境基準を決めると。そういう画期的なね、条例を出すんですよ。で、政府は驚いちゃってね、違法だと、これは。つまり公害対策基本法よりもね、厳しい条例を作るっていうのは法律違反だ。

だけどその、やっぱり1968年から69年なんですけど、世論がもう公害反対の世論になってきているから、東京都を支持する世論の方が強いんですよね。世論調査なんかでもやっぱり東京都公害防止条例の方が正しいっていう、それが多くもあるし、それで1970年の段階になると、NHKがやった公害の世論調査でははっきり経済成長よりも公害防止の方がね、優先すべきだという世論調査の結果が出るわけですね。で、佐藤首相はその頃まだね、やっぱり「調和論」でなきゃ駄目だと言ってた。万博に来た時に佐藤さんの演説では、「経済成長をしなければね、生活がよくならない。だから公害をその範囲内で考えてもいい」というようなことを言ったのね。これはまた新聞いろんなのでたたかれるわけよ、おかしいんじゃないかと、今どきね。で、世論調査の結果を見て、ここは当時のまだ自民党のいいとこなんじゃないかな。変わるわけよ。70年の段階でガァーッとね。やっぱり「調和論」は下ろすべきであると。全面的にね、環境政策の体系を作らなきゃならない。これはだから日本の政治史の中ではひとつのエポックなんじゃないですかね。

そのそれで急きょ1970年の12月にね、「公害国会」(公害関連14法案を集中的に審議し、可決した)が開かれるんですね。国会の名前に「公害国会」なんてついたのは、これは前代未聞なんだけど、やっぱりそれだけ深刻な状況が出ていたということで、70年は本当にもう新聞は毎日、毎日公害の記事が載ってました。犯罪の記事が載らなくても公害の記事は載ってるって言われたんだけど。新聞もNHKももちろん「公害地図」なんていう本を出したりしてね。 ひとつは70年に、世界最初の環境破壊に関する国際シンポジウムを東京で開いた。そこで「環境権」がね、提唱されるような、日本の公害というのはね、どうしても克服しなければならないんで、今まで経済学の中に公害を扱わなかったのは間違いだと。公害というものをきちっと経済的に評価をしてね、それを経済の流通の中でどうコストとして消化していくかっていうふうにしなければならない、そういうようなことがそういう国際シンポジウムの中ではっきり出されるようなね、そういうシンポジウムもあったし、「アースデー」っていうのはこの年に起こるんですよ。世界中で「アースデー」、4月1日にね、1970年4月1日に「アースデー」が起こりまして、そこでノーモア東京、ノーモア四日市になるんですよね。世界中がね、そういう標語がニューヨークで掲げられたりするもんだから、国際的な圧力もかかってくるわけね。さっき言ったように69年国家環境政策法が出来て、ニクソンが1970年には公害白書を出すというふうになってくるもんだから、まあ日本もね、そういう国内の世論、国際的な世論を恐れて、それで「公害国会」になるんですね。これがやっぱり、公害対策を初めてね、政策化できることになった国会だったというふうに思いますね。

国連がですね、1972年に国連人間環境会議っていうのを開きたいというね、そういう動向が出始めたんですね。その中心になってた人たちが都留(重人)さんにですね、日本の状況などを聞きたかったようですね。たまたま都留さんが国際社会科学評議会の環境破壊分科会の委員長をしていて、それでそういう国際的に国連が会議を開くようなね、動向が出始めて、アースデーだとかアメリカのその積極的な公害対策が出そうだという、そういうことを受けて、社会科学の総合的な会議をね、日本で最初に開いてみたいと考えられて、もうこれは大変なお金がかかるんだけど、募金を募りましてね。公害研究委員会が事務局を引き受けて、それで70年に開いたんですね。

まあ第一線の研究者が二十数名世界から来まして、日本のほうもちょうど同じ数の研究者をね、それから行政官で橋本道夫さん(厚生省で初代公害課課長を務めるなど、ミスター公害と呼ばれた)なんかも入って、我々公害研究委員会のメンバーを入れまして二十数名、両方で50人くらいの大きなシンポジウムになったんですね。

Q:熱気があふれたんですね。

すごかったですよ。彼らも日本の最初に都留(重人)さんが(から)日本の公害史みたいな話をした(聞いた)のね。足尾事件からはじめて四日市までのね。それはそれで非常に盛り上がりましたね。日本でいかに歴史的にみて公害が、問題が起こっていて、それにどう取り組んできた、いかにうまくいかないかっていう話をね。それでみんな三島・沼津にも行きたいし、四日市にも行きたいしっていう話になったんですね。70年当時いまだに覚えているけど、みんなで一台のバスに乗って歩いたんですけど、四日市に近づいて行くと真っ暗、スモッグでね。 こちら側(から市に対して)偉い先生をたくさん連れて行くっていってないから平気で(煙を)出していたんでしょうね。みんなうわーって感じで、やっぱり汚ねえなって感じで。あれは忘れられませんね。なんかね、雷雨になるためにこんなに暗くなってるのかなと思ったらそうでなくてね、それだけまだ四日市ひどかったですね。70年ね。

Q:みんないろんな国から来た人たちも日本の公害の実態とかひどさっていうのは実体験して・・

「公害」っていう言葉を盛んに使っていた。それからの議論はもう英語がみんな「KOGAI(コウガイ)」って言うんですよ。

Q:公害っていう日本語がそのまま英語に。

そうしたいっていう希望まで出てね。さっき言ったように「TSUNAMI(津波)と同じようにどうや、これを世界語にしたら」。今の中国なんかにピッタリなんだけどね。確かに。

Q:それだけみんなにショックを与えた

与えましたね。それで富士山麓行ったときもなかなかいい事をレオンチェフ(1905-1999 ソ連出身で米国で活躍した経済学者。1973年にノーベル経済学賞)が言いましてね。レオンチェフは経済学者なんだけれども、「あなたたちをこれだけ汚している張本人のパルプ会社の社長どこに住んでいるんだ」って。「熱海に住んでます」と。「そうだろ」と。「汚い所には住んでないんだ」と。皆なるほどと思ったんだけど。やっぱり企業家自身は汚している所にはいなくてね。いい所に住んでいるんだっていう、そういう差別がね、公害の原点にあるんだっていうのをね、なかなかレオンチェフはうまく、「マネージャーはどこに住んでいるんだ」ってひとつひとつ聞いていた。

Q:やっぱりそうやって諸外国の人にショックを与えたっていう事は東京というか日本でそういう環境の会議をやったっていう意味はあったと。

そうです。これはだけど都留さんが委員長であったっていうだけじゃなくて都留さんに対して東京でやってくれっていう要望が強かったんだと思いますね。

Q:それはやっぱり皆さん実態に興味があったっていう事?

そうです。行きたいっていう。自分たちの目でやっぱり四日市とか水俣を見たいっていう。だから希望を募ったらかなりの人が水俣行きましたからね。

Q:当時やはり日本は公害先進国っていう言われ方だったんですか?

そうですね。公害先進国っていう意味は近代化に伴うあらゆる公害が日本で発生しているっていう意味でね、公害先進国って言いたいってね。だからそれをどう解決するかっていうのは日本にとってみれば重要な責務だっていうか、あるいはそれこそ今の中国に対するサジェスションじゃないけど、近代化を進めていく国に対して今後どうしたらいいかっていうことが日本の経験の中から分かるんじゃないかっていうね。そういうものだったと思いますね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

転機の年となった1970年。「公害先進国・日本」に強い関心を抱いた世界の研究者44人が集まった。 東京シンポジウム。 進む環境破壊をどうするか、4日間、最新の研究成果を伝え合い、討議を続けた。

最終日に提唱された、新たな権利、「環境権」に、社会科学者・宮本憲一さんは注目した。

東京シンポジウムは、「環境権」を次のように決議した。            「人たるもの誰もが、健康や福祉を侵す(おかす)要因にわざわいされない環境を享受する権利を、 基本的人権の一種としてもつ」。

公害対策から環境保護へと、時代は大きく転換していく。

*****

それぞれの分野で非常に重要な決議をいたしました。これは、その後のそれぞれの学会に大きな影響を与えるもので、例えばレオンチェフが産業連関表の中に環境を初めて入れるっていうね、モデルを示したんで、まあ以後その産業のその構造をどうするかっていう場合には必ず環境を入れることもね、始まったわけで、まあいわば環境と産業との関係が非常にはっきりしてきたわけですね。そういうたくさんのそれぞれの分科会の成果があったんですが、最後にその、東京リゾリューション、東京決議っていうのを出したんですが、その、個別のそういう成果でなくて今の状況の下で社会にね、研究者として宣言する、何がいいかっていうことで議論になって、「エンバイルメントル・ライト(Environmental right)」、「環境権」っていうのを提唱しようと。つまりこれは基本的人権としてのね、「環境権」っていうのがあるべきであると。従来生活権とか健康権とかいろいろありますけれども、よき環境を享受する権利っていうのはね、人類が持つべきであると。まあこれは日本の深刻な環境破壊などを見ればね、やっぱりその、健康障害が出てから対策を立てては遅いんでね、よき環境を保持する、維持するという、その権利がね、明示された方がいいというので、最後に「環境権」が提唱されたんですね。これは日本の法律、特に法律家に大きな影響を与えましたね。特に公害裁判が当時、公共事業の公害裁判が起こっていたわけですね。空港だとか新幹線、それから道路ですね。そういうその公共事業の公害問題っていうのは、一人一人捉えるとそんな深刻な健康障害じゃないんですよね。何ももう熱が出るとか動けないというものじゃないんだけれども、ものすごい騒音でとにかく普通の生活できないと。もうテレビも映らないとかさ、とにかく日常の生活ができなくなってるわけですね。つまりそれは環境なんですよ。環境がもうむちゃくちゃになってるわけですね。で、そういうことから言うと、今までのこの人格権っていうか、一人一人の人格が侵されてるというのを超えてね、その地域の環境が駄目になってしまって、そのために生活困難になってるという、そういう現象が多くなってきていたので、「環境権」っていうのは非常にそれは目が覚めるようにね、そういう騒音だとかそういうもので悩んでいた人たちには、これだっていうことになったんですね。まあこれは良かったか悪かったかっていうのは今から見ると問題はあるんだけど、いちばん先にこれを何とかものにしたいと、これを実現したいと考えたのは弁護士なんですよね。公害裁判をやってる弁護士はね、今までの公害裁判だとどうしてもその、この汚染物でこういう健康障害が起こったっていうね、それを証明しなきゃならないわけですよね。で、それでまあ四大公害裁判(イタイイタイ病訴訟、新潟水俣病訴訟、四日市公害訴訟、水俣病訴訟)は勝ってきたんだけど、そうではなくて、環境そのものをね、もう駄目になってるんだということが明確にしたら、もうそれで例えば航空機が10時以降飛んでいけないとかね、9時以降飛んでいけないとか、あるいは新幹線の場合もうちょっと速度を落とせとかね、そういうことが言えるというので、最初に日弁連の中の公害をやっている弁護士たちが、「環境権」をね、具体的に権利にしたいと。で、例えば「入浜権」なんていう言葉も出て来るんだけど、自分たちがこの海岸と海を、きれいな海を保持しようと考えてるのに、開発によって汚されてしまったと。で、それを止めたいという場合に、それを止める権利として「環境権」っていうのを主張するというふうになったんですね。で、全国で埋め立てだとかあるいは工場の廃液だとかいろんな問題が起こっていても、健康障害がなければね、それを止められないわけですよね。そういう意味で、この「環境権」が影響を与えましてね、環境保全をやっている、今までのような公害反対ではなくて、もっと広くね、例えばブナの木を残したいとか、あるいはその、この海浜を、海岸を残したいとかね、そういう環境保全したいっていう人たちにとってみれば、この「環境権」こそね、新しいやっぱり自分たちの権利だということで、ぱーっと広がったのね。まず弁護士。弁護士は裁判に勝ちたかったからね、この「環境権」っていうのを権利として法的に確立できないか。それから住民から言うとね、「環境権」こそ自分が言いたかったことだと思ったんでしょうね。このよき環境っていうのを守る、守れない、このままではね。だからそこで権利が主張できるならね、この「環境権」こそひとつの大きな武器になると考えたんだと思いますね。ところがなかなかうまくいかないわけですよ。「環境権」を主張してたくさん裁判起こるんですけどね。例えば愛媛県で、埋め立てを止めようとしても、それが一体個人の権利なのか、(裁判所は)そうじゃないと。海岸っていうのは、これはその国家のものでね、「反射的利益(国などの行為を規制することで私人にもたらされる利益。法的には個人は請求権を持たないとされる)」っていう言葉を使うんですけどね、裁判ではね。「反射的利益」なんだと。何もその個人の権利が侵害されてるんじゃないんだと、こうなっちゃうわけですね。それで、原告不適格で裁判に取り上げてくれない状況が続くんですね。「環境権」っていうのが、なかなかその民事裁判の中で地に付かない状況で来るんですね。裁判のほうは人格権が認められるようになってきて、それで公共事業の場合も四大公害裁判のようにひどい健康障害でなくても、日常の生活の権利が失われるというのは人格を侵害されてるんだっていうんで、それで公共事業の裁判も人格権が認められて損害賠償がですね、国はしなきゃならない。それから、大阪空港の場合最高裁で差し止めは認められませんでしたけれども、これだけひどい環境侵害が起こっているのでは9時以降止めたほうがいいっていうのがね、もう環境省も政府も考えざるを得なくなって、裁判では認めなかったけれども結局止まっちゃったわけですね。9時以降はですね。という形で、まあ環境は守られていくんですけれども、「環境権」そのものはいまだに認められていないわけですね。私たちはね、日本国憲法との関係で言えば、13条と25条で「環境権」は認められていると。ただそれが個人の権利としてね、どうかっていうことになると、いろいろ議論があるかもしれないけども、国家が環境を維持しなきゃならないっていうのはひとつの住民の権利として認めうると考えていまして、1993年だったかな、環境基本法。公害対策基本法をやめて、環境基本法が出来る時に、私たちは環境基本法の中に「環境権」を入れてほしいと。他の国は大体その、憲法には入れてなくて、環境法の中に入れているんでね、環境基本法の中に入れてほしいと。で、その権利っていうのをどうするかってんで、個人に権利を持たせるっていうのは確かにいろいろ難しいんですよね。例えば東京都の都民が北海道の環境をね、守りたいと言って、「環境権」主張できるかっていうと、なかなか難しい。だから、「環境権」を国法として認め、憲法として認めなくても、環境基本法の中でその権利を認めうる環境団体が「環境権」を持つということを認めればね、政府が環境保全について何もしないと、不作為である場合に環境保全団体が政府を訴えるっていうことは可能になるというので、私たちはその、これはドイツやフランス、フランスではもうそれは(環境憲章として)実現したんですけどね、そういう形の「環境権」っていうのを、環境基本法に入れてほしいと言ってきたんですけれども、いまだにまだ入ってないんですよね。で、まあ今度憲法の中で加憲っていう形で問題になってますけど、憲法に入れるっていうのはなかなか難しい問題が出てくるんで、たぶん議論があるでしょうね。

私たちは公害の問題に取り組んだ時から、環境が破壊される、例えば生態系が駄目になっちゃうと、でね、魚が死んだりですね、樹木がもう枯れてしまうというのが進んでいった最後の段階にね、人間の健康障害、そして死亡というような公害が起こってくるんでね、環境、環境の悪化、これはなかなか日本ではアメニティ(生活環境の快適さ)ってことは難しいんですけど。アメニティがなくなってしまう。それが放っておけば最後には公害に行くんだというふうに思ってるんですね。ですから、公害問題の最終的な解決は、環境保全にあるんでね、アメニティを回復してみんながその住み心地のいい環境の中で暮らすと。これが理想なんでね。その公害が出て健康障害があってそれをどう防ぐかっていうのはもう本当に土壇場の話だと思うんですね。そういう意味じゃその、私は、私たちは初めからその、公害問題の最終的な解決は環境にあると、環境再生にあるんだと、環境保全にあるんだと言ってきたんですけど、実際にそれがはっきりしてきたのは70年代の後半だと思いますね。もう目に見える公害問題が解決が始まってきたら、やはり町並みをどうするかとか、景観をどうするかとかですね、あるいは自然保護する、したいという、そういう空気が当然だけど起こってきたわけで。ただそれが本当に実現するっていうのはなかなかね、すぐにはいかなかったわけですね。だから、最初の景観訴訟っていうのは和歌浦の訴訟(1989年~)なんですね。

和歌浦の、和歌浦っていうのは万葉に詠われてる非常に有名な景観のあるところで、そこ、和歌浦のまん前に県が開発のために橋をかけて道路を作っちゃおう。と、和歌浦の景観が見られなくなっちゃうんですね。それで、これはもう万葉の犬飼さん(万葉学者の犬飼孝氏)だとかね、作家だとかもういろんな人が「おかしい」と。和歌浦の景観っていうのはやっぱり日本の誇る景観なんでね。それを開発でもって駄目にしてしまうっていうのは許せないっていうんで、景観訴訟が最初に起こるわけね。だいたいこれが80年代の終わりくらいから具体的に訴訟になるくらいみんな環境が大切だっていう事を言い始めるんですね。 だから80年代の終わりくらいから、変わってきたんじゃないかなと思うんですが運動としてはもっと前なんですね。町並み保全の全国協議会(町並みゼミ)ができたのが70年、73年か74年じゃないでしょうかね。 それから1977年に琵琶湖が汚れたんですね。これは合成洗剤なんかで琵琶湖に赤潮が出て、臭くてそれで関西全域に1200万人に供給している水源ですから、非常に大きい社会問題になるわけですね。それで滋賀県は考えて合成洗剤を禁止すると。これは非常に大胆な事なんですね。それで「石けん運動」っていうのが起こってきて、みんなが石けん、天ぷら油を石けんにして、それで合成洗剤をやめようと。それが湖沼法、水や沼をきれいにする湖沼法になるわけですけれどもね。ですから行政的にそれが取り上げられるようになったのは70年代の後半からでしょうね。環境省もアメニティ研究会なんていうのを作るんですけれども、初めはなかなかそれが具体化しないんですよね。やっぱりまだまだ環境についてうまくいかないし、さっきの和歌浦の訴訟も負けるんです。裁判所としては、人々が和歌浦の景観を守りたいって言う、そしてまた県の行政が景観の保全という事をやる必要性というのは認めると。しかしその、この開発について今、開発行政をとめるということはできないというあいまいな形で景観訴訟最初負けるんですね。それでその後有名な国立(市)の景観訴訟につながるんですけれどもね。最近は景観法ができたように、景観法はついこの間出来たわけだけれども、やっともう2000年代になるとね、環境というものについて景観を守る必要性だとか出て来るんですけれども、運動は70年代の半ばくらいからダーッと水郷・水都の運動っていうのがあって。例えば、小樽の運河を守らないとならない、小樽の運河を埋めて道路にするっていうことに対して住民が反対して、半分ですけれども守ったんですけれども、運河を。そういう形であちこちでだいたい70年代の半ば頃から、景観保全あるいはその自然保全の運動がずっと起こるんです。だけど具体的にそれがその法律として、ひとつの行政的な義務として行なわれるようになるのは今世紀入ってからですね。だから長い事時間はかかって、いまだに必ずしも市民運動が要求しているような環境保全にいたっているかっていうと、それはそうは言えないですね。

「日本人は何をめざしてきたのか

2015年度「未来への選択」

第3回 公害先進国から環境保護へ」 より

社会科学者の宮本憲一さんは、今も、公害の被害があった地域を歩き、調査を続けている。

宮本さんは、日本の公害体験を各地で語り続けている。

*****

公害というのは無くそうと思えば無くせる、決して自然災害じゃないわけですよ。自然災害だったらね、しょうがないっていうか。こういう社会的災害は無くそうと思えば無くせるっていう事ですよね。ただまだ(汚染物は)少し出ているようですね。僕は割と敏感だから。まったく無くなったというわけじゃないけれどね。そんな人に害をするほどもう出ていない事は間違いない。 できればもう、石油化学はオーバーになっているから、今小さくなろうとしているんですよ。だからすいぶん空いている(空き地がある)。昔に比べたらずいぶんね。だから抜けた所をもうちょっと緑を増やしてね。緑の中の工場ぐらいにするぐらいの気持ちになってほしいと思いますね。昔ほど大きな面積もいらなくなってきているんだから。それをどうするかっていう事はこれからの課題でしょうし。

本当はここは港町だったんだから、海が市民とともにね、生きるような町にしてほしいと思うんですね。それが我々が環境再生でずっと提案してきたところで。大変いい町なんですよね。海があり山があり、温泉がありね、だからそれだけの自然に恵まれた所なので、海のほうをもうちょっとね。きれいな海に戻して、人々が海岸で遊んだり、あるいは海辺の所で、函館にしてもあるいは長崎にしても海岸縁の所を商業地帯にしてね、市民が海とふれあいながらね、生活できる、これが港町のいいところなんでね。そういう意味じゃここの環境再生は今山側に向かって動いていますし、工場も山側の方にいい工場が出来ているんですけれどね、僕は海の方をきれいにして、海で町が発展するような形を取るのが今後の環境再生の行く道だというふうに思っていますけれどね。それはあと半世紀の間にできるのかどうか。あと半世紀の間にここがどうなっているかというのは非常に考えさせられますけれどね。

かつてに比べればね、環境問題を無視する事はもうできなくなっているから、それからかつてに比べれば環境のために資源を節約するとかエネルギーを節約するとか、技術もね、大変進んでいますし、それに関連していわゆる環境産業っていうのがね、非常に大きな発展をしていて、これは廃棄物の循環ね、リサイクリングの問題もあって、非常に大きな産業になりはじめていますからね。そういう意味ではかつてとは違って環境産業というものの持っている意味がね、非常に大きくなっているっていうのはいい事だと思うんですね。しかし、どうしてもやっぱり環境問題というのは必ずしも企業にとってね、生産性をあげるわけじゃない。いわば後始末みたいなものですからね。そのために景気が悪くなると手は抜く、そういう傾向がどうしても避けられないんですね。だからその意味ではやっぱり環境を優先するっていう思想は引っ込めてもらったら困るし、それからまた今原発の問題だとか、あるいはアスベストみたいな化学物質がストックされているわけで、そういうものの公害問題はまだまだこれから解決しなければならない。そういう意味ではやっぱり高度成長時代の教訓っていうものを忘れないようにね、それからやっぱりあの時の教訓というのはもうちょっと若い世代にも伝えていかないとならないと思っています。

プロフィール

環境経済学の第一人者。
四日市公害を初めて紹介するなど、公害・環境問題の現場に立ち続けてきた。
『恐るべき公害(共著)』『日本の環境問題-その政治経済学的考察』『「公害」の同時代史』『日本の環境政策』『環境経済学』『環境政策の国際化』『戦後日本公害史論』など著書多数。

1930年
台北市に生まれる
1950年
第四高等学校卒業
1953年
名古屋大学経済学部卒業
1960年
金沢大学法文学部助教授
1965年
大阪市立大学商学部助教授
1972年
大阪市立大学商学部教授
1991年
大阪市立大学商学部長
1993年
大阪市立大学名誉教授、立命館大学産業社会学部教授
1994年
立命館大学政策科学部教授
1997年
立命館大学大学院政策科学研究科長(~1998年3月)
2001年
滋賀大学学長(~2004年7月)

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