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証言

タイトル 「武谷三男の科学主義を批判する」 番組名など 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
第1回 原子力 科学者は発言する~湯川秀樹と武谷三男~
氏名 山口 幸夫さん 収録年月日 2014年6月11日

チャプター

[1] 科学のあり方に疑問を抱く  07:51
[2] 武谷三男たち物理学の先達を批判する  06:34
[3] 原発への疑問を深める  06:28
[4] 武谷三男の原発への考えを批判する  14:20
[5] 科学者の社会的責任について 今思うこと  10:41

再生テキスト

Q:これはどういうことの、ここに・・

-科学、技術、そして人間の解放にこだわる人々の場-と。

Q:これはどういう意味なんですか?

今までは人間という概念がほとんど欠落していて科学や技術の世界が論じられたと思いますね。人間はいわば添え物、科学や技術の結果が生み出されるものを受け止めるという、そういう考え方が一般的で、そうすると科学や技術にこだわった人たちの中で、それではまずいぞと、やはり私たちは人間なんだから、科学者や技術者を含めて人間がどう解放されるかということをきちんと論じましょうと、こういうかなり大仰な表現ですよね。

60年代、僕は65年に大学院、ドクターを出てアメリカに行っちゃったんですが、東大に帰ってきて東大闘争、そういう時代なんですけど、そもそもは60年安保のときに高名な先生方が発言をほとんどできないような状況(でした)。しょっちゅう、しょっちゅう大学院生と先生方の、小人数、20人ぐらいの会議をやっていましたけど、専門家として非常に有名で、われわれが尊敬していた先生方がことばを失った。これってどういうことなんだろうかと思ったのがきっかけだと思いますね。 つまり、科学者というのはどこまで全体的な世界に対して目配りできるか、できないんじゃないかと、ごく狭い範囲の中で。そういう疑問があって、いちばん親しいのは梅林宏道君といって、学年が一緒で教養学部の2年の後半からずっと同じクラス、しょっちゅう議論するようになって、アメリカは行っていた時期が一緒ですけど、別々のところへですね。先端の物性物理の世界を見て経験してきて、日本へ帰ってみた当時の状況としては公害が非常に露骨に出てきているんですね、水俣病、それは1956年、公になったわけですけど。それから、ベトナム戦争の泥沼化ですかね。 それから、もう1つは、開発に名を借りて新しい国際空港を造ると、東京国際空港、現在の成田空港ですけれども。

Q:やっぱりこの時代というのは、科学というもののとらえ方、科学ってどうあるべきかという、そういうことがある種、目の前に現れてきたと、そういうことなんですか?

そうだと思います。それが非常にはっきりしてきたのがやっぱり50年代から、水俣病、それは僕が大学1年に入って。(1956年)

それは技術の極めて恣意(しい)的な、資本家にとって経済成長にとって都合のいい使われ方であった、漁民は切り捨てられたわけですね、水俣の人はね。そうすると、技術者にどこまで責任があるかと、技術がよって立つ科学はどこまで責任があるかと、そういう問題意識がいろいろなところに出てきたと思うんですね。

Q:これに実際に山口さんはどういう論を書かれたんですか?

僕はもっぱら大学のあり方、大学人のあり方、つまり科学者と称する人たちの、いわば従来から言うとそれがごくあたりまえだったわけですけど、東大闘争というのが起こりつつあって、それは学問の府、良識の府と言われるところで、東大の場合は学生処分が問題として出たわけですね、はっきりしない事実に対して教育界が決定を下して処分を下したというわけでしょ。そういうやり方と学問をする人の姿勢、人間としてのそれはすごいギャップがありすぎるじゃないかと。

Q:大学の研究者の立場で、いろいろ何か問題点を見いだしたというか、現実の問題に何か直面していたということなんですか?

ええ、もう『ぷろじぇ』は始まっていて、科学者としてだけ生きるというのはわれわれは捨てたわけです、『ぷろじぇ』の人(たち)は。

非常に分かりにくいかもしれないんですけれども、科学というのは1つのイデオロギー性を持っていると、党派性と言ってもいいんですが、決して価値中立ではないんだというふうに『ぷろじぇ』の人たちは思っていた、今でも思っているわけですね。それはそれまでの科学に対する考え方と相当違うわけですね、価値中立の真理を探究するか。武谷先生の考え方は価値中立説だと思います、科学そのものに価値があると、今現在でもそういうことを考えている人たちは割と多いと思いますけど。

でも、基本的に技術というものはそういうものではないだろうと、ほんとにこれは科学、技術、人間の解放の場にこだわる人々、こだわる人々の場というときに、技術というものの人間にとっての意味合いというのが

そう楽観的なものじゃないだろうというところがあったんですね。

科学というのはね。それはたぶん直接的な原因は原爆製造のマンハッタン計画だと思いますけど、科学者が国家と一緒になって、国家に働きかけをした。国家がそれに応えて、核物理学者、化学者、数学者を含めて原子爆弾をつくっていった、そういう歴史的事実に対して、それはやっぱり間違いではないかと、口先だけではなくて行動を伴って自分の信念を吐露して生きるべきだというのが『ぷろじぇ』の人たちの考え方、われわれの住んでいるところのすぐそばで起こった事件なんですね。

Q:日本でも原爆開発をしていた科学者っていたわけですよね?

はい。

Q:そういう人たちに対してもやっぱりある種、批判的な考え方を持たれたということですか?

ええ。特に日本でいうと仁科芳雄という偉い先生がおられて、僕は修士コースの2年間、仁科先生のいちばん若い弟子の研究室にいた、理科研究所にいたんですが、仁科先生とつながりは、もちろんじかには知りませんけど、つながりがあるんですけど、やはり科学者側の、ときに最先端の物理学者たちが核物理学の研究者であると同時に国策に協力して核兵器の開発をやったというのは間違いだろうと思っていましたね。

Q:湯川とか武谷とか、そういう人がいますよね。彼らに対してはどういうふうな思いがあったんですか?

それはね、雲の上の人的な存在なわけですよね。物理を学んで、僕らは物性物理の世界に入ったんですけど、物性物理の世界にいますと、湯川さんや朝永さん、武谷さんよりちょっと若いですけど、小谷正雄という偉い先生がいらして、じかに教わったことがありますが、そういう先生たちが戦争中にやったことはやはりあれでよかったのかねという、やっぱり違うんじゃないのというぐらいの意識だったと思いますよ、大学院生の頃はですね。研究者になりたて、なってしまうと、もっとはっきりとやはり違うだろうと、国の政策、国策ですね、国策に対して割と純真に従ったと思うんですね、あの当時の研究者、学者たちはね。

だから、朝永先生が晩年に言われたように、科学の中に原罪があると、あるいはオッペンハイマーが原爆、広島、長崎の後ですけれども、物理学者は罪を知ってしまった、しかしそれはもう失うことができない知識だと、こういうことを言った。それは本心から言ったかどうか分かりませんよ、それは、1つのそのときの解釈だろうと思いますけど、武谷さんにはそういう考えはなかったんじゃないでしょうかね、科学の原罪性があるとは思わなかったんだと思いますね。罪を知ってしまったというような問題意識は武谷さんにはなかったんだと思いますね。

原子力を始める時期にあたってね、非常に的確な注意をした人。それは評価されるべきだと思いますね。当然武谷さんも、時代的制約を受けてるわけですから、万能の人であったわけでなくて、多くの人が自主・民主・公開(日本が原子力平和利用を始めるにあたり、武谷三男が中心になり日本学術会議が掲げた三原則)という、そういう思いに及ばなかった時代にそれをまとめて、特に民主ですね。三原則を掲げた。そういう点では、評価すべき人なんじゃないでしょうか。その中身は、僕はさっき言ったように批判いろいろありますけど、そういう指摘をして、安全性に気を付けてやれよという忠告をした人として、評価すべき人だったんだと思いますね。

『ぷろじぇ』の世代はそれより10年遅れているわけですから、その10年間のいろんな蓄積がわれわれにもありましたから、あの人たちはあまり厳しく言えませんけど。そういう意味ではあの人たちがやったことはそれ、まぁ、評価はしますけど、それを正しく今総括する必要があるというふうに思うんですね。

Q:どういったことを総括するようなことなんですか?

やっぱり科学や技術はとにかくそうですけど、社会の中の存在なんですよ。

社会と切り離れているわけじゃないですからね。そういう認識を強く持つ必要があるんじゃないですかね。

ワインバーグの論文は、1972年に出た論文で、それはサイエンティストが読む雑誌じゃないんですよ。ですから、多くのね、サイエンティストたちは、その存在を知らなかったと思うんですが、ごくごくわずか日本でも、多分日本では柴谷(篤弘)さんだと思いますけど、オーストラリアにおられて、世界中の論文に目を通していた。分子生物学の人ですね。が、紹介して、我々のところに伝わって来ましたけど、『ぷろじぇ』が表現したかったことを、非常に上手に言ったかなと思いましたね。

Q:それはどういうことですか?

ワインバーグはね、昔々のね、科学者たちが幸福であったと言いますか、政治や経済の世界と離れて、自然の謎を追いかけた科学者たちの時代と、多分ね、産業革命以後だと思いますが、科学が政治だとか、国力だとか、経済だとか、工業力だとか、そういうことと無縁じゃなくなって、むしろ非常に密接になって来たのが現代だと。 そういうふうに現代を見るときにですね、科学上の問題として提起はできて、科学者が議論に参加せざるを得ないが、あるいは積極的に参加するが、科学者は結論を導くことはできない領域が増えたと、こういうわけでしょう。それをトランス、超、科学を超える、超科学、トランス サイエンスという表現をしている。それは住民や市民の問題意識と、ある種政策選択、そういうことに深く関わるんだというわけですね。 ですから、もうちょっと別の言い方をしますと、ワインバーグの科学に対する捉え方は、専門家では閉じることができない全体像というものがあると。科学者だけの世界で生きられない世界が現代だという、そういう見方だと思うんですよね。 で、『ぷろじぇ』がね、人間として生きるとき、科学者として生きる生き方にあるかい離、ギャップが、非常に明らかになってきていて、安穏とした研究室だとか、実験室の中で、科学を進めて行くということは、間違いだと考えてね、自分の生き方全体をそれに投げかけないといけない、と考えた。それとよく似ているんじゃないかと。

やはりね、原発問題は、基本的には、超科学の分野なんだと思いますね。ワインバーグが出した超科学の世界の例の中にね、低線量被ばくの例が挙がっているんですがね、リスクをどれだけ減らすためには、どれだけの実験的根拠が必要かっていう議論の中で、数十億匹のネズミを使って実験して、ようやくある信頼のおけるデータが出るだろうが、それは到底実験できないと。今、低線量被ばく、非常に問題になってますけど、そういう世界、それはトランス サイエンスだと、彼、これで引いてますね。 放射能のゴミの後始末の問題、それから事故時の、元に戻ることできない問題ですね。そういうことを考えたときに、まさに原子力発電、原発問題はね、科学者の世界で閉じない。技術者の世界でも閉じない。技術者は、エンジニアリング・ジャッジメントとか言いますが、ある技術の訓練を経て来た中で身についた、ある種の、何て言うか、相場観って言うんですかね。それで判断をして、これならまあ安全でしょうと、こういうわけでしょう。 そういうことが通用しない例が、いろいろ出て来たわけです。ですから、科学者でも技術者でも決めることができない、原子力の平和利用と称した原発をですね。 で、そういう認識が、これは僕の願望なんですけど、科学者や技術者サイドから、もっとはっきりする必要、そういう認識をする必要があると。

高木さん、原子力資料情報室、75年の9月に立ち上がったことになっているわけですね。75年という年を考えますと、『ぷろじぇ』の10号が出たのが74年なんですね。75年の当初、サロン的な原子力に関する批判派側の専門家たちが集まっていた場所があったわけですね。高木さんは当然といいますか、その1人になっていたわけですけど、高木さんの考え方は『ぷろじぇ』でずっと議論していた、それ以前に議論していた、専門的科学者であるということを否定する立場ですよ。武谷さんは専門家は専門家としてと言うわけですね、それが“時計”、運動家は“金づち”と言ったわけですね、兼ね備えることは非常に困難だろうと、だから金づちになった途端に時計の機能を失うようではいけないと忠告をしたわけですね、高木さんに。 たぶんあの集まった人の顔ぶれ、大体、分かりますけど、高木さん的な考えをした人はほかにはいなかったと思いますね。ですから、そのことについて『ぷろじぇ』の中で、そのことというのは「時計と金づち」論争について、高木さんから報告を受けて議論したということはありません。ありませんけど、極めて当然、自然な高木さんの態度だったというふうに思います。

『ぷろじぇ』が武谷さん的な、湯川さん的な、あるいは朝永さん的な科学者を、否定というと大げさですけど、そういう見方をしなかったという基本的な姿勢がありましたから。

Q:つまり70年代の科学者であった高木さんや山口さんたちから見ると、武谷たちのどういうところがやっぱり相容れない、どういうところが批判の対象だったんですか?

『ぷろじぇ』の創刊のことばにもありますけど、人間としてどう生きるかということと、武谷さんの科学至上主義といいますか、物理学帝国主義に近いと思いますけど、それと相容れないと思ったわけですね、僕たちはね。だから、敷延していくと、想像しますと、武谷さんにとっては理想的な原子力活躍というのはありえたんじゃないでしょうかね。

Q:これ、『原子力発電』(1976年出版)を武谷が書いてますけど、ちょうど岩波で連載してた、あの「原子力安全問題研究会」(1972年に武谷三男が立ち上げた研究会で雑誌『科学』に連載された)の議論。あれは当時、同時代的にご存知でいらっしゃいましたか?

ええ、知ってました。

どういう中身が議論されてて、どう展開しているか、非常に気にしてましたね。原子力の問題。

それはね、少し物理の中身に立ち入りますけど、物性物理では、基本的に、原子核は壊さないですよ。原子核が安定している上での、物質の、基本的に元素の性質に戻りますけど、あるいは元素の組み合わせの化合物。そういうものの性質に戻りますけど、原子核は壊さないという建前なんですね。でも核物理の、基本的に、壊すっていう作業を伴うでしょ。 で、これは、ですから、物性、物性物理の立場からすると、ちょっと危険な芽が必ず含まれているだろうと、こう思って、気にするわけですね。で、そもそも僕らは原爆以後の世代ですから。原子核を壊すことによって解放されたエネルギー、これを最初に使ったことを知って、どちらも学んだわけですから、原子力の、原発の、原子力発電の安全性に関する研究会でしたかね。岩波でやられていたのは。非常に気になってましたね。

その後、その本になって出ましたので、その本は非常に大事な本で、座右の本ですね。座右の本。繰り返し読みましたけど、それを読んでも、安全性、地震だとかですね、それから放射能、漏れたときのこととかね。そういうことについては、なるほどそうだと思いましたけど、いちばん大元から原子力のエネルギーを平和的に利用するということについての疑念っていうものは、ない立場だと思いましたね。それは何度読んでも、基本的には原子力のエネルギー平和利用可能なんだと。それを、まあ上手にやれよ、という立場だと思いましたね。

Q:その原子力安全問題研究会で議論されたことについて・・

ついてはね。

Q:どういう、例えば山口さんは、受け止め方を・・・

疑問がありましたよ、ずっと。その当時も。当時からあった疑問は、本当に平和利用ってあるかって。

原子力の平和利用と言いつつも、原子力発電の初期に、たくさん事故を起こしているでしょう。本当にコントロールできるかと。原子爆弾の技術の方がもっと易しいと思いますよね。技術的にコントロールできるという保証があるかっていうのは、ずーっと初めから疑問でしたね。

Q:70年代のあの当時の、原子力安全問題研究会で、当時のアメリカの軽水炉批判をね、していたのは、基本的にはそこではまだ、技術的に達してないから、今、現状の計画は止めるべきだし、これから新しいものは導入するべきじゃないっていうスタンスなんですけど。それはどういう考えなんですか?

技術的成熟という点で、未成熟だという武谷さんの考え方。それはそうだと思いますけど、じゃあ成熟するということがあるかっていうのは、願望だったでしょう。技術制御可能性と、それから今の言葉で言うと、誰かを犠牲にしないで済むシステムたり得るかと。その点で武谷さんが、まあ当時は未成熟だというのはそのとおりだけど、やがては成熟して行くんだというのはね、願望に過ぎなかったんじゃないですかね。

Q:それはやっぱり科学っていうものに対する、何かとらまえ方の違いがあるっていうことなんですか?

そうですね。

Q:ああ。それはどういうことなんですか?

科学はね、価値中立であるという1つの仮説でしょう。仮説だと思いますね。だから、本当に純粋にある好奇心、真理探究したいという気持ちが仮に、仮にですよ、科学者になり立て、あるいは科学者の中にあったとしても、それが、その研究が進められるかどうかというのは保証がないわけですね。巨額な研究費が必要だったり、研究メンバーが必要だったり、研究場所が必要だったりですね。そういう芽は早くから割とあったわけで。

必ず国策と言いますかね、国がどういう方針を取るかによって、まるで様相変わって来るでしょう。 武谷さんは、立派な科学があるんだという立場だから、国が間違っているんだという考え方だと、だったと思いますけど、それはそうなんだけど、国が、そういうときに、武谷さんの言う正しいやり方を採用するっていう保証はないわけでしょう。原子力は特にそうだったわけですよね。中曽根予算で、1950年代半ばからですね、日本の理系、工学系の大学、旧帝国大学ですね。大変研究資金が豊富になりましたし、物性物理もその一環として盛んになって、我々はその世界に行ったわけですけど、そういうことと無縁に、科学は存在し得ないと思うんですね。

Q:やっぱり高木さんも、先ほどの時計金槌論の中には、武谷さんのその原子力安全問題研究会における考え方っていうものは、ある種バックボーンとして認識された上での、ああいう発言だったっていうことなんですかね?

ええとね、それはそうだとは思いますよ。あの研究会っていうのは、唯一って言っていいぐらい、あの頃、原子力の安全問題を議論してた、そうそうたるメンバーですよね。その議論の中身は、高木さんは充分に咀嚼(そしゃく)した上で、なお、日本の各地で住民運動が起こって来ているプルトニウムの問題に取りかかっていったわけですね、高木さんはね。

ですからね、他のメンバーと、サロンの他のメンバーと重なる領域がたくさんあったと思いますけど、基本的には高木さん1人が、思想的に違ってたと思いますね。

運動も同時にやると。金槌であると同時に、時計であるという、そういう選択を自分はするんだ、ということを言わないといけなかったわけですよね。

Q:武谷さんはそうじゃないっていうことなんですか?運動。

ええ。武谷さんは、運動は運動家にやらせろと。任せろと。まあせいぜい知恵袋でいいっていうわけでしょう。それはね、その後の日本の反原発運動、今は脱原発と言いますけど、非常に根深くそこにある問題だと思いますよ。専門家がね、知恵袋として関わるのか、あるいは同時に自分も1人の運動家であり続けるかと。

平和利用っていうのは基本的に疑わしいわけですよ。もうわれわれが60年代の終りですね、「ぷろじぇ」を始めた頃。科学をどんなに使ったって、それは無理な話だと。でも、武谷さんは、その頃でも「正しく科学を運用すれば、原子力は夢のエネルギー源になると。安全性に気を付けなさいよ」と。それから被ばく線量ね、「これにも気を付けなさい」、まぁ、「地震にも気を付けなさいよ」という考え方でしょう。 お題目としてはそれはそうなんですけど、そのお題目は基本的には立派な科学が中にあって、旗が立っててね、この旗で押していくという、そういう構造に世界はもうなってないという。

『ぷろじぇ』の見方はですね、そういう明確な絶対的ないい科学なんていうのはないんだ。もうごちゃごちゃの中であるんだと。そこが違うんだと思いますね。

Q:科学者の社会的責任っていうのは、今日においては、どういう意味を持つものなのかっていうふうに、山口さんお考えになりますか?

少なくともね、僕はそれまで、科学者がやってきたことと矛盾するようなことが起こったときに、その足跡にあることは、やめるべきだと思うんです。

僕はね、先人たちが経験してきたことは非常に貴重な財産だったと思うんですね。それはですから財産としてわれわれは受け継がないといけないと。これからどうするかというときに、その財産を生かすためにはですね、特に原発の問題に関わって言うと、原発の技術がですよ、誰かを犠牲に、「犠牲のシステム」という言葉ありますけど、犠牲のシステムではないシステムで可能かどうかですよ。僕は不可能だと思うんですね。 既にたくさんの寿命の長い放射性廃棄物のゴミを持っちゃっているでしょう。だから湯川、武谷、まぁ、仁科さんに始まる原子核物理学の生み出した科学的な成果、それからその技術に応用している、まぁ、電力は作りました。差し当たっての電力は作った。だけどそこで蓄積されてきた失敗の事実というのはきちんと総括をしてですね、その1つの表現法は、犠牲を伴わないシステムはどうあるべきかと。それ、原子力では僕は無理だと思うんですね。

Q:武谷さんは「可能であるんじゃないか」っていうことを言いつづけたと思いますけど、その辺りは今どういうふうに思われますか?

可能でなかったのが福島だと思うんですよね。それから高レベルの放射能のゴミですよ。もっと作ろうというわけですよ、国は。やめないんですからね。 ですからね、結局、技術や科学というものが社会的な存在なんだと。国の政策だとかですね、社会の選択に依存しているんだということは、もう十分はっきりしたでしょうと。「これだけは共通理解にしませんか」ということを人々に問いかけて、これからどうするかという問題、後始末の問題だと思いますけど。

今3.11以後僕は、全国を回り、頼まれれば出かけて、いろんな人たちですね。各界、各層といいますか、の意見に耳を傾けて、僕も意見を言い、そういう会話をずっとそれ以来やってますけど、それは1つの自分としてのやり方、責任の取り方であるかなというふうに思うんですね。

3.11以降ね、僕は全国を歩いて、多くの人の意見を聞きましたけど、やはり多くの人は、今までのようにね、専門家に任せておくと、気がついたらどこへ連れて行かれるか分からんということが、あの福島の事故だと。こういう受け止め方をしていると思いますね。それはもう動かし難い、大きな潮の流れが起こっているというふうに、感じているんですね。

ようやく明らかになったと言うべきなんでしょうかね。そういう気がしていて、それはそれで、そうだろうという気持ちと、それに対してね、何だかんだ言ったって、結局は引き起こされちゃったでしょう。そういう悔しさって言いますか、それは非常に重いものがありますよね。個人的な、あるいは小人数的なね、努力で、どうなるっていう問題でもないと思うんですけど、そうするとね、問題提起をするっていうことに、どれだけの意味があったかなと。その敗北感ですよね。

ですからトランス サイエンスの領域の公衆側。公衆側の目を鋭くさせるという、あれは科学者だけで成り立たない世界なわけですから、科学者の今でもそうですけど、割と専門家として、高い目線で言うじゃないですか。そうでないんですよという構造を、認識してもらうということじゃないかと思うんですね。

Q:つまり市民科学者という。

それはね、高木さん、(フランク・)フォンヒッペルが言い出した、シチズン・サイエンティストっていう、市民科学者っていう表現が、割といい表現だと思いますけど、市民科学って特別な科学があるわけじゃないわけですよね。それは。アカデミックの科学に対して、それなりに通暁して、なおかつ批判的に見ると。公衆の目で、市民の目で見るというやり方ですからね。だからつらいことは、つらいんですけど、一般の人は、自分たちは、市民科学や、市民科学者とは違うし、そんなことできないよと言うかもしれないですけれども、ワインバーグが言ったトランス サイエンスという見方はですね、一般公衆、パブリックが、きちんとかむと。パブリックが判断する。そういう仕組みを考えてるわけで。 3.11後の最も大きな、私たちが取り組むべき問題は、日本のパブリックがですね、専門家の意見聞きますよ。でも判断は、私たちが判断するという領域があるでしょっていうことを、きちんと言うことだと思うんですね。

特に福島は、そう思いますね。日本のパブリックがですね、市民が、やはり原発いるよっていう判断をするんであれば、その判断に従うしかないなあと。やはりそれは違うでしょと言い続けますけど、判断は市民がするんだというふうに思うんですよね。

Q:つまり科学をどういうふうに見てほしいってことなんですか?

ひと言でいうと、相対的に見なさい、見てください、見てほしい。科学というものを。絶対視しないで。

Q:今までやはり絶対視しすぎてたんじゃないかっていう、そういう部分があるんですかね。

はい。ですからね、市民にとって非常につらい、厳しい時代が始まったんだと思いますね。人任せにもできませんよと。

学問の体系っていうか、システムというか、成り立ちというものを、もういっぺん元に戻って考え直すこと。近代現代社会は、国の方針によって中身、カリキュラム含めて決まってきたわけですね。だから多くの市民、パブリックが、専門家にお任せしてきた。それもそういう背景があっての話だから。知の体系のあり方っていうものに対する基本的な見直し。これ必要だと思うんですね。 どういう知がですね、人々にとって、一般のパブリックにとって必要なのか。あるいは、それと絡んだ専門家というものの好奇心が、どうあるかっていうことの、非常に大きな再検討が、必要なんだと思いますよね。そういうことをやらない限りは、ある部分は、元のもくあみになるだろうと思いますけど、難しいですね、それね。

プロフィール

平成10(1998)年、原子力資料情報室の共同代表となり、反原発を訴えている物理学者の山口幸夫さん。学生時代に水俣病などの公害問題に直面、ベトナム反戦運動や成田空港の建設反対闘争を通じて、開発優先の時代における科学技術のあり方に疑問を抱いた。東京大学の講師時代に創刊した雑誌『ぷろじぇ』の同人・高木仁三郎たちと共に、武谷三男の考えを「科学至上主義」だと批判するなど、市民科学者の立場から発言を続けている。

1937年
新潟県に生まれる
1965年
東京大学大学院博士課程修了 物性物理学専攻
1968年
東京大学工学部(物理工学科)講師
1969年
同人誌『ぷろじぇ』創刊
 
梅林宏道、高木仁三郎らと共に科学のあり方を問う
1972年
武谷三男 原子力安全問題研究会結成
 
岩波書店の雑誌『科学』で研究会の議論を連載
1975年
原子力資料情報室 発足
 
武谷代表・高木の「時計金槌論争」
1976年
武谷三男編 『原子力発電』(岩波新書)出版
1998年
山口氏 原子力資料情報室共同代表に就任

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